2011年11月24日木曜日

説教(2011年11月6日) ■宋 総会長 原理大復興会 ■説教内容

説教(11月6日)


■宋 総会長 原理大復興会

■説教内容

最初に、文鮮明先生ご夫妻に敬礼を捧げました。今日、初めて教会に来られた方々に、敬礼を捧げたその意味をお伝えしようと思います。

神様が、宇宙を創造し、最後に人間、アダムとエバを創造されました。人間が神様の息子娘になり、そして、神様は、人間の父母になることを願われていました。このように神様は、宇宙を創造された目的を持っていました。

しかし、アダムとエバが堕落することにより、可哀そうな神様になりました。そうして、宗教を通して、人間が本来の位置に戻ってくることを願われました。根本を求め、親孝行をすること、これを教えているのが宗教です。

神様を中心に、四位基台をなすために、父母となり、無形の神様が臨在できる家となることを願われたのがアダムとエバでしたが、神様の家が無くなってしまいました。その家を取り戻すために、2000年前に、イエス様が来られました。

しかし、十字架により、神様の家を再び失いました。そうして、三番目に、再臨のメシヤによって、責任分担が果たされ、父母を迎えることができるようになったのです。人類史上初めて、神様の願いである四位基台を果たしてくださり、夜の神様と昼の神様が一つになり、神様を解放し、神様が臨在することができる聖殿になりました。このような意味がありますので、はじめに敬礼を捧げました。人類史上初めての神様の家なのです。

次に、敬拝後、家庭盟誓を、韓国語で唱和しました。本来、神様は、イエスキリストと、第一イスラエル民族を通して神のみ旨を果たすことを願いました。しかし、それが成されず、第二イスラエルとして、キリスト教を立て、そして、韓国の地に、再臨主を送る準備をし、天国の言葉を創りたいと思いました。そこで、朝鮮王朝時代、世宗王によりハングルはつくられ、天国の言葉がつくられます。

今日の説教に入ります。
尊敬する全国の教会員の皆様、生きること死ぬこと、罰を受けること、人が、その興亡盛衰に干渉することができるでしょうか?全てのことは、神様が主管者であられます。

創造原理では、神様の責任分担は95%で、人間の責任分担は5%とされています。無形の神様の実体になり、永遠の神様の息子であり、相続者となるはずでした。地上生活は、神様の愛、父母の愛、夫婦の愛、子女の愛を合わせた愛を体恤する場です。

心情的に、神様の愛を体恤することが人生の目的です。お母さんのお腹の中で、10か月生活し、その後、胎盤を切り捨てて地上に出てきます。産まれて30才位までに、子女の愛を30才-40才位までに夫婦の愛を40才-50才位で、父母の愛を確立していきます。

水中生活が母の腹中時代であり、その後、空気の生活が地上生活になり、最後に愛の訓練を受けて、完成すれば、愛中時代、愛の中で生きるのが天国生活です。そうして、完成した霊人体と肉体が分離され死を迎えます。

この地上にあることは、霊界、天国にはすべて存在します。地上生活は霊界の影のような存在です。例えば、私が、パソコンでサンフランスコを見たいと思えば、サンフランシスコが出てきます。これは、霊界の在り様を現しています。

全て、地上にあるものは霊界に存在します。しかし、これは天国に行った時の話です。地獄ではだめです。なぜ、我々はそれを知らないのでしょうか?霊界、神様を知らないまま生活しているからです。神様を信じない人に聞いてみたいのですが、もし、全て自然にできたとするなら、とても大変です。例えば、世界70億人類の中で、目が4つある人がいますか?完全に、神様の設計によって創られているのです。

地上での愛の訓練が終わり、生霊体になれば、天国の良いところに行きます。まだ、実っていない栗は不良品です。ゴミ箱に捨てられます。結婚していない人は、お父さん、お母さんに成れません。

昇華は、きれいな花を準備します。昇華は、最高のお祝いです。結婚式のお祝いには行かなくても、亡くなった時には行ったほうが良いです。全部、霊界から見ています。後に霊界で、なぜ来なかったかと叱られてしまいます。

何も持たないで生まれ、何も無いまま死にます。何も持って行けないのです。実った霊人体だけが霊界へ行くのです。人間の生死は神様だけが主管することができます。ですから、自殺する人は、罪の中で一番重い罪になります。

神様に忠孝烈の精誠を果たせば喜びをお返しできます。神様を喜ばせることは、神様の愛を占領し、神様の聖殿になるのです。神様の願われることをしなければいけません。反対の道を行けば滅びます。神様が主管され天地人真の父母定着実体み言葉宣布をされたことにより、2000年前のイエス様が十字架で、果たすことができなかったことを、文先生ご夫妻によって完成されました。

日本ほど、先祖に侍る国はありません。しかし、本当の先祖は神様です。先祖の先祖は神様です。そのことが判り、神様に誰よりも侍れば、母の国、女王の国として勝利します。日本ほど美しい国はないのです。

これからの我々の歩む姿勢は、1億5千万全ての日本人が、神様を先祖の中の先祖として侍ることです。神様に、ありがとうございますと感謝いたしましょう。顔に目があり鼻があることに、神様、ありがとうございます。ご苦労様です、おめでとうございます。と感謝しましょう。

興亡盛衰を主管される神様に、関心を持てば天運がきます。感謝の言葉を、神様に伝えれば通じます。日本の運命が変わるでしょう。神様が、皆さんに惚れると思います。ご苦労様でした。おめでとうございます。これを聞いてくれないでしょうか?よろしくお願いすれば、神様は、ちゃんと願いを叶えてくれるので、この内容を説明しました。

これが、母の国として、行くべき道なのです。全ての教会員、伝道の前線に出ていくことを期待しています。一日を千年のごとくに過ごして下さい。前進、発展する道は、天の神様を信じることです。全国民をそのように導いてくれるように願います。
私の話を理解していただいたことに感謝して、説教を終わります。ありがとうございました。

☆http://www.uc-shibuya.com/
渋谷教会 ブログのコピーです。
説教(2011年11月6日)
■宋 総会長 原理大復興会
これは、統一教会初のインターネットによる 原理大復興会であった。
と教会長が話されました。

新しい事にチャレンジ!
神様を伝えて行く、みことばを伝えて行く!

☀これからの我々の歩む姿勢は、1億5千万全ての日本人が、神様を先祖の中の先祖として侍ることです。神様に、ありがとうございますと感謝いたしましょう。顔に目があり鼻があることに、神様、ありがとうございます。ご苦労様です、おめでとうございます。と感謝しましょう。

興亡盛衰を主管される神様に、関心を持てば天運がきます。感謝の言葉を、神様に伝えれば通じます。日本の運命が変わるでしょう。神様が、皆さんに惚れると思います。ご苦労様でした。おめでとうございます。これを聞いてくれないでしょうか?よろしくお願いすれば、神様は、ちゃんと願いを叶えてくれるので、この内容を説明しました。

ここの所の神様に、ご苦労様でした。おめでとうございます。これを聞いてくれないでしょうか?(お願いします)
神様との会話が大切だと感じます。
(毎日の祈りの中で、神様との会話)
その為にも、神様の事を、正しく知らないといけないと思います。
感謝します。

出来る事からチャレンジしましよう!
ありがとうございます。

2011年9月11日日曜日

天国を開く門

家庭は天国の中心モデル
第一節 家庭はすべての存在の中心モデル
第二節 家庭は宇宙の愛に接することができる愛の教材
第三節 愛の王国に入籍するための愛の訓練場
第四節 家庭は天国のモデル教科書
第五節 家庭は三時代の愛が結集した核心体
第六節 家庭は心情的な訓練場所
第七節 人間の永遠の本郷は家庭
第八節 家庭は天宙主義を完結させる最終基準
愛を中心とした人生行路
第一節 人間はなぜ生まれたのか
第二節 愛を中心とした創造本然の人生
第三節 人間の永遠なる生命の要素は愛
第四節 神様の愛はどのようなものか
第五節 愛と喜びの相続のための神様の祝福
第六節 愛の中心を求めていく人生行路
第七節 三時代を行く人生路程
第八節 地上生活は霊界の拍子に合わせるための訓練場所
創造本然の男女の愛
第一節 創造本然の男女の愛
第二節 男性と女性が生まれた理由
第三節 男性と女性は互いに絶対的に必要な存在
第四節 愛は相対から来るもの
第五節 異性間で愛の調和を成せば
第六節 真の愛に酔った本然の人間
第七節 愛は極めて自然なところで成される
人生路程
第一節 人が願う目的
第二節 生まれた理由
第三節 瞬間(一日)と一生の関係
第四節 胎中期間と三段階秩序
第五節 我々の人生の道
第六節 我々が訪ねるべき本郷
第七節 人生最高の行くべき道
有形実体世界と無形実体世界
第一節 人生路程についての祈祷文
第二節 死に対する理解
第三節 三段階の人生行路
第四節 霊界、肉界の中心
第五節 明らかに実存する霊界
第六節 霊界の創造

2011年7月30日土曜日

平和を愛する世界人として 第一章 ご飯が愛である-幼少時代 3

牛を愛せば牛が見える 42

*目に入るものはすべてを知り尽くして初めて満足する性格だったので、何でも大まかに知ってそれで終わりということはありませんでした。「あの山の名前は?あの山には何があるのだろう?」という疑問が浮かぶと、必ず行ってみたものです。幼い頃、二十里 (約八キロメートル) 四方にある村々の山の頂という頂には全部登ってみました。その山に行く途中も行かない所がありませんでした。そうやってこそ朝日が照らすあそこに何があるかを心に思い浮かべ、心置きなく眺めることができるのであって、分からないと眺めるのも嫌になります。目に入るものは、その向こう側にあるものまですべて知らなければ気が済まず、我慢できませんでした。
*ですから、山に行って触ってみなかった花や木がありません。目で見るだけでは物足りず、花も木も触ってみたり、匂いを嗅いでみたり、口に入れてみたりしました。その香りと食感があまりに心地良くて、一日中草木の匂いを嗅いでいなさいと言われても嫌ではありませんでした。良き自然に魅了されて、外に行けば家に帰るのも忘れてしまい、野山を歩き回りました。太陽が沈んで薄暗くなっても恐ろしいとは思いませんでした。
*姉たちが山菜採りに行く時は、私が先頭になって山に登って、山菜をもぎ取りました。おかげで、味が良くて栄養価のある青菜も種類別に全部分かるようになりました。その中で、好物と言えば苦菜です。薬味を加えた醤油で和えて、ビビンバに入れてコチュジャンと混ぜて食べると、味が一級品でした。苦菜は、食べるとき口に含んでちょっと息を止めます。そうやって一呼吸置いてよく蒸らすうちに、苦菜の苦味が消えて、口の中に甘味が染み出してきます。そのコツがうまくつかめると、非常に美味しく苦菜を食べることができます。
*木登りも好きで、わが家にあった樹齢二百年の大きな栗の木を登り降りしました。村の入り口の外まで大きく広がった展望がどれだけ素晴らしいことか。木のてっぺんまで上がって、いつまでも降りようとしませんでした。
*ある時、夜中まで登っていたら、すぐ上の姉が眠らずに私を捜しに来て、危険だと大騒ぎしたことがあります。
「龍明、お願いだから降りてきなさい。夜遅いから、早く戻って寝なければ」
「眠くなったらここで寝ればいいよ」
姉に何を言われようと、私は栗の木の枝に座ってびくともしません。すると、腹を立てた姉が怒鳴りました。
「こら、猿!早く降りてこい!」
私が木登りを好んだのは申年生まれだったせいかもしれません。
*栗の木に毬栗が鈴生りに垂れ下がるようになると、あっちの木こっちの木と、折れた木の枝を使って毬栗をゆらゆら動かして回りました。毬栗がぽとぽと地面に落ちていくので、この遊びも本当に面白いものでした。都会暮らしの最近の子供たちがこういう面白さを知らないのは実に残念なことです。
*自由に空を飛び回る鳥も私の関心の対象でした。なかなかきれいな鳥が飛んでくると、雄はどうなっているのか、雌はどうなっているのかと、実地にいろいろ調べて研究しました。その頃は木や草や鳥の種類を教えてくれる本がなくて、自分で詳しく調べてみる以外方法はなかったのです。渡り鳥の後を追って山をあちこち捜し回ろうとし、おなかが空いても気になりませんでした。
*ある時、カササギがどうやって産卵するのかひどく気になって、朝な夕なカササギの巣がある木を登り降りしました。毎日のように木登りして観察したので、実際に卵を産む場面も見たし、カササギとも友達になりました。
「カッカッカッカッ」
カササギも初めは私を見ると、しきりに鳴いてやたらと騒いだのですが、後になるとじっとしていました。
*周辺の草むらの虫も私の友達でした。毎年夏の終わり頃になると、私の部屋の前にある柿の木のてっぺんでヒグラシが鳴きました。夏の間中ミンミンミンと耳痛く鳴いていたセミの声がぱったり途絶えて、ヒグラシが鳴き始めると、どれだけほっとするかしれません。もうすぐ蒸し暑い夏が去り、涼しい秋が来るという季節の変わり目を告げる鳴き声だったからです。
「カナ、カナカナカナカナ」
そうやってヒグラシが鳴くたびに、私は栗の木に登って考えました。
「そうだな。穴に入って鳴いたって誰も気がつかないさ。やっぱり、どうせ鳴くなら、ああいう高い所で鳴いたら村の人みんなに聞こえていいよなあ」
*ところで、分かってみると、ミンミンゼミもヒグラシもすべて(人に聞かせるためではなく)
愛のために鳴くのでした。ミンミンミンもカナカナカナも鳴き声は皆、連れ合いを呼ぶ信号だと知ってからは、虫の声が聞こえるたびに笑いが込み上げました。
「そうか、愛が恋しいというのか。熱心に鳴いて、素敵な連れ合いを見つけろよ」
このように自然界の生き物と友達になって、彼らと心を通わせる方法を少しずつ悟っていきました。
*故郷の家から十里(約四キロメートル)西に行くと黄海です。少し高い所に登るだけで広々とした海が見えるほど、海は近くにありました。溜め池がいくつもあって、そこに小川の水が流れ込んでいました。下水のにおいがする池に入り、中をあさって、ウナギとカニを上手に捕まえたものです。池の中のあらゆる場所を探って魚を捕まえてみると、どこにどんな魚が棲んでいるのかよく分かりました。ウナギはもともと広い所に腹ばいでじっとしているのが嫌いで、穴に隠れます。頭を穴に押し込んでも、長い体を全部は入れることができず、尻尾がちょこっと出ているのが普通です。その尻尾らしきものを口で噛んで捕まえれば間違いないのです。カニの棲む穴のような所に、ウナギは尻尾を出してじっと潜んでいました。わが家に来客があって、お客様がウナギの煮詰めたものを所望されたときは、十五里(約六キロメートル)の道をぶっ通しで走っていってウナギを五匹ほど捕まえてくるのは訳もないことでした。夏休みになれば一日に四十匹以上、いつも捕ってきたからです。46
*私が唯一嫌だったのは、牛に牧草を食べさせることでした。父から牛に食べさせてこいと言われると、向こう側の村の野原に牛をつないでおいて、その場から逃げてしまいました。しばらくの時間逃げて、心配になって戻ってみると、牛は相変わらずその場所につながれていました。半日近く過ぎても自分に食べさせてくれる人が来なければ、牛はモーと鳴きます。遠くで牛の鳴き声が聞こえてくると、私はいたたまれなくなって、「牛の奴め。あいつめ、あいつめ……」と言って苛立ちました。おなかが空いたと私を捜して鳴く声を、気にしないようにしても気になって仕方がなく、胸がつぶれる思いをしました。それでも、夕方遅くに行ってみると、怒って角で私を追い返そうとすることもなく喜んでいました。そんな牛を見るたびに、人間も大きな志の前では牛と同じでなければならないと考えました。愚直に時を待てば良いことに出会うようになるものです。
*わが家には、私がとてもかわいがっていた犬がいました。利口な犬で、学校から戻ってくると家の外の遠くまで迎えに来ました。私を見つけるとうれしそうにするので、いつも右手で触ってやりました。そのせいか、犬がたまたま私の左側に来ても、さっと回って右側に来て、私に顔をすりつけてきます。そのときは右手で顔を触って顔や頭をごしごししてやり、背中を撫でてやりました。そうしないと、キャンキャン吠えては付いてきて、私の周りをぐるぐる回るのです。
「こいつ、愛が何であるのか分かるのか。それほど愛がいいのか」
*動物も愛を知っています。雌鶏が雛をかえすために卵を抱いている姿を見たことがあるでしょうか。卵を抱いた雌鶏は、深刻そうな目をして、誰も近くに来ないように足を踏みならして、一日中座っています。雌鶏が嫌がるのは承知の上で、私は鶏小屋を随時出たり入ったりしました。入っていくと、雌鶏は怒って、首を真っすぐに立てて私を睨みつけます。私も負けじと睨み返します。あまり頻繁に出入りしたので、後になると、最初から私を相手にしなくなりました。しかし一度だけ、神経が高ぶったのか、卵を守ろうと足の爪を長く伸ばして、ピューンと飛んで私をつつこうとしたことがあります。結局、卵が気になってその場を離れられず、徒労に終わりましたが。47
*卵を抱いた雌鶏は、私がわざと近くに行って羽を触ってもぴくりともしませんでした。おなかの羽毛が抜けてしまうほど卵を守って座り続け、やがて雛を誕生させます。そうやって母子が愛でしっかりと一つになっているので、卵を抱いた雌鶏の権威の前では雄鶏も好き勝手なことはできません。「誰であろうと、ちょっとでも触ってみろ。黙っちゃいないぞ!」という天下の大王の権威を持っているのです。
*雌鶏が卵を抱いて守ることが愛であるように、豚が子を産むことも愛です。豚が出産する様子も見守りました。親豚がウーンと稔って力むと子豚がつるっと落ち、またウーンと捻って力むとつるっと出てきました。猫も犬も同様です。目も開けられない動物の子供たちが、ウーンと力むたびにこの世界に出てくるのを見ると、うれしくて自然と笑みがこぼれます。しかしながら、動物の死を見るのは実に悲しいことです。
*村から少し離れた所に屠畜場がありました。牛が屠畜場に足を踏み入れると、白丁(屠畜などに従事する当時の被差別民)が出てきて、腕ほどの太さの金槌で牛をドーンと一撃します。大きな牛がばたりと倒れて、すぐに皮を剥ぎ、足を取り外します。足を取り外した後でも、切られた箇所がずっとぴくぴくしているのです。生命が死にきれなくて生きているのです。それを見ると涙があふれて、わんわん泣きました。48
*私は幼い時から人並み外れているところがありました。神通力があるかのように、人々が知り得ないことをかなりよく言い当てました。幼い頃から、「雨が降る」と言えば間違いなく雨が降ったし、家の中に座って「あの上の村の誰々お爺さんが危ないだろう」と言えば、そのとおりになりました。そんな能力があったので、七歳の時から村々で見合いをしてあげるチャンピオンになりました。新郎と花嫁の写真を二枚だけ持ってくればすべて分かりました。「この結婚は良くない」と言ったのに結婚すれば、全部壊れてしまいました。そのように良縁を結んであげることを九十歳になるまでしたのですから、その人が座ったり、笑ったりするのをさっと見ただけで、すべて分かるようになりました。
*姉が今何をしているのかも、集中して思念してみるとすべて知ることができました。精神を統一し、集中して思念すれば、全部分かりました。ですから、姉たちは私を好きでありながらも、一方で私を恐れました。私が彼女たちの秘密を何でも知っていたからです。凄い神通力のように見えますが、実際のところ、これは別段驚くようなことではありません。取るに足りない蟻でさえも、梅雨の始まりを知って前もって避難するではありませんか。人間も自分の行く道を先んじて知らなければなりません。それを知るのはそれほど難しいことでもありません。カササギの巣を詳しく観察すれば、風がどこから吹いてくるかを知ることができます。どこからか風が吹いてくれば、カササギはその反対側に入口をさっと作っておきます。木の枝をくわえてごちゃごちゃと絡み合わせた後、雨水が入らないように巣の下と上に赤土をくわえてきて塗ります。そうしてから木の枝の端をすべて一つの方向に揃えます。家の軒のように雨水が一箇所にだけ流れるようにするのです。カササギにもこれだけの生きる知恵があるのに、人間に
なぜそういう能力がないのでしょうか。
*父と一緒に牛の市場に行って、「お父さん、あの牛は良くないから買っては駄目です。良い牛はうなじがしっかりして、前足が立派で、後ろと腰ががっしりしていなければならないのに、あの牛は全然そうじゃない」と言えば、必ずその牛は売れませんでした。父に「おまえはそんなことをどうやって知ったのか」と言われたので、私は「お母さんのおなかの中で学んで生まれました」と答えました。もちろんそれは、そんなふうに言ってみただけです。
*牛を愛すれば牛が見えるのです。この世で最も力強いのが愛であり、一番恐ろしいのは精神統一です。心を落ち着かせ静めていくと、心の奥深い所に心が安らぐ場があります。その場所まで私の心が入っていかなければなりません。心がそこに入って眠って目覚めるときには、精神がとても鋭敏になります。まさにその時、雑多な考えを排除して精神を集中すればすべてのことに通じます。疑問に思ったら、今すぐにでもやってみたらよいでしょう。この世のすべての生命は、自分たちを最も愛してくれるところに帰属しようとします。ですから、真に愛さないのに所有し支配することは偽りなので、いつかは吐き出すようになっているのです。

草むらの虫と交わす宇宙の話 50

*森の中にいれば心が澄んできます。木の葉がしきりにカサカサする音、風が葦を揺らす音、水場で鳴くカエルの鳴き声といった自然の音だけが聞こえ、何の雑念も生じません。そこで、心をがらんと開け、自然を全身で受け入れれば、自然と私は別々のものではなくなります。自然が私の中に入ってきて、私と完全に一つになるのです。自然と私の問の境界がなくなる瞬間、奥妙な喜びに包まれます。自然が私になり、私が自然になるのです。
*私はそのような経験を生涯大事にしまって生きてきました。今も目を閉じれば、いつでも自然と一つになる状態が訪れます。ある人は無我の状態だとも言いますが、私を完全に開放したところに自然が入ってきてとどまるのですから、事実は無我を超えた状態です。その状態で、自然が話しかける音を聞くのです。松の木が出す音、草むらの虫が発する音……。そうやって私たちは友達になります。
*私は、その村にどんな心性を持った人が住んでいるか、会ってみなくても知ることができます。村の野原に出て一晩過ごし、田畑で育つ穀物の言葉に耳を傾ければ、おのずと分かるようになります。穀物が嘆息するのか喜ぶのかを見れば、村人の人となりを知ることができるのです。
*韓国と米国、さらには北朝鮮で何度か監獄に入っても、他の人のように寂しいとかつらいとか思わなかったのも、すべてその場所で風の音を聞くことができ、共に暮らす虫たちと会話を交わすことができたからです。
「虫たちと一体どんな話をするんだ!」と疑うこともできますが、ちっぽけな砂粒一つにも世の中の道理が入っており、空気中に浮かぶ埃一つにも広大無辺な宇宙の調和が入っています。私たちの周りに存在するすべてのものは、想像もできないほどの複合的な力が結びついて生まれているのです。また、その力は密接に連関して相互につながっています。大宇宙のあらゆる存在物は、一つとして神の心情の外で生まれたものはありません。木の葉一枚揺れることにも宇宙の息遣いが宿っています。
*私は幼い頃から山や野原を飛び回って、自然の音と交感する貴重な能力を与えられました。自然はあらゆる要素が つのハーモニーをなして、偉大で美しい音を作り出します。誰一人として排除したり無視したりせず、どんな人でも受け入れて調和をもたらします。自然は、私が困難にぶつかるたびに私を慰めてくれたし、絶望して倒れるたびに私を奮い立たせました。大都市に生きる最近の子供たちは自然と親しむ機会すらありませんが、感性を教え育むことは知識を養うことより重要です。自然を感じる心がなく、感性が乾いた子供であるならば、誰が教育したところで何が変わるでしょうか。せいぜい世間に広まった知識を積み上げて個人主義者になるだけです。そんな教育では、物質を崇拝する唯物論者ばかりを作り出すことになってしまいます。
*春の雨はぽつぽつ降り、秋の雨はぱらぱら降る、その違いを感じることができなければなりません。自然との交感を楽しめる人であってこそ正しい人格が身に付くと言えます。道端に咲いたタンポポ一本が天下の黄金よりも貴いのです。自然を愛し、人を愛することのできる心を備えておくべきです。自然も、人も愛せない人は、神を愛することはできません。神が創造された万物は神ご自身を表す象徴的な存在であり、人は神に似た実体的な存在です。万物を愛することのできる人だけが神を愛することができます。

「日本人はどうぞ日本に帰りなさい」 53

*誤解のないように付け加えておくと、私は野山を歩き回って四六時中遊んでいたわけではありません。兄を助けて野良仕事も熱心にやりました。農村には、季節ごとにやらなければならない仕事がたくさんあります。田や畑を耕し、田植えをし、田畑の草取りもしなければなりません。草取りの中で最もつらいのが、粟の畑で雑草を取る作業です。種を蒔いた後、畝間の除草を三回はしないといけないのに、粟畑の除草は重労働で、一回やり終えるごとに腰が曲がるほどでした。サッマイモは赤土に植えて育てると味がなく、砂土に赤土を三分の一ほど混ぜた土壌で育てると甘いサツマイモを収穫できます。トウモロコシを育てるには、人糞の堆肥が最も良いため、手で糞をこねまわして粉末を作ることもしました。野良仕事を手伝ってみて、どうやれば良い豆や良いトウモロコシができるのか、どんな土に豆や小豆を植えればいいのか、自然と分かるようになりました。ですから、私は農夫の中の農夫です。
*平安道はキリスト教文物が早くから入ってきた所で、一九三〇年代、四〇年代にすでに農地が真っすぐに整理されていました。田植えをするときは、一竿を十二間に分けて一間 (普通、一間は六尺で約一・八ニメートル) ごとに目印を付けておき、この長い竿を少しずつ移動させて、二人で六列ずつ動きながら整然と苗を植えていきます。後に韓国に来てみると、竿もなく、ただ列の線を引いただけで、一列に数十人ずつ入って、じゃぶじゃぶと行ったり来たりして植えるやり方で、実にもどかしく見えました。足を指尺二つ分の幅に開けて立ち、素早く植えるのがコツです。私が農繁期に田植えを手伝っただけでも学費程度は十分稼ぐことができたのです。
*九歳になると、父は私を近所の書堂に送りました。書堂では、一日に本一ページだけ覚えればよいとされていました。三十分だけ集中して覚えて、訓長(先生)の前に立ってすらすら詠ずれば、その日の勉強は終わりです。
*年老いた訓長が昼食の前後三時間ほど昼寝に入ると、私は書堂を出て、野山を歩き回りました。山に行く日が増えれば増えるほど、草や実など食べ物の在り処にも精通するようになり、そうなると次第に食べる量が増えて、それだけで食の問題を解決しました。ですから、昼食や夕食は必要ないのです。その時から、私は家で昼食を取らずに山に行くようになりました。
*書堂に通って『論語』『孟子』を読み、漢字を学びましたが、文字はかなり上手に書きました。おかげで十一歳の時から、訓長に代わって、子供たちが手本にする書を書くようになりました。ところで、実を言うと私は書堂より学校に通いたかったのです。世の中は飛行機を造っているのに、「孔子曰く」「孟子曰く」でもないだろうと思ったからです。その時が四月で、父がすでに一年分の授業料を全額払った後でした。それを知りながら書堂をやめると決心して、父を説得しました。祖父も説得し、叔父までも説得しました。当時、普通学校に移ろうとすれば編入試験を受ける必要があり、試験に合格するには塾に入って勉強しなければなりませんでした。私はいとこまでけしかけて、圓峰の塾に入って、普通学校編入のための勉強を始めました。
*十四歳になった一九三四年、編入試験を受けて私立五山普通学校の三学年に入りました。入った時は人より遅れていましたが、勉強ができて五学年に飛び級しました。五山学校は家から二十里(約八キロメートル)も離れた所にあります。しかし、私は一日も休まず、毎日決まった時間に歩いて行きました。峠を越えると他の子供たちが待っていて、私が先に立ってサッサッサッと早足で歩いていくと、彼らは付いてくるのが大変そうでした。平安道の虎が出てくる恐ろしい山道を、そうやって歩いて通いました。
*五山学校は独立運動家である李昇薫先生が建てた民族学校です。日本語を教えないだけでなく、初めから日本語を使えないようにしました。しかし、私の考えは少し違っていて、敵を知ってこそ敵に勝つことができると考えました。それで、再び編入試験を受けて、今度は定州公立普通学校四学年に入りました。公立学校の授業はすべて日本語です。初登校の前夜、辛うじて片仮名と平仮名だけを覚えて登校しました。それでも、日本語が全然できなくて困り、一学年から四学年までの教科書を十五日以内に全部覚えました。そうやって初めて耳が通じたのです。
*おかげで、普通学校を卒業する頃には、日本語を流暢に話せるようになっていました。卒業式の日、定州邑 (邑は面の中で人口が多く商工業が盛んな地域を指し、日本では町にあたる) の主立った名士が皆、学校に集まってきました。私は志願して、彼らを前にして演説をしました。感謝の言葉を述べたのではありません。この先生はどうであり、あの先生はどうであり、学校制度にはこのような問題があって、この時代の指導者はこういう覚悟で臨むべきだ等々、批判的な演説を日本語で続けざまにやりました。
「日本人は一日も早く荷物をまとめて日本に帰りなさい。この地は、わが国の者たちが子々孫々にわたって生きていかなければならない先祖から受け継いだ遺産です!」
*そういう演説を、警察署長、郡守、面長すべてが集まった前でやりました。潤國大叔父の魂を受け継いで、あえて誰も言えない言葉をぶつけたのです。聴衆がどんなに驚いたかしれません。演壇を降りる時に見てみたら、彼らの顔は灰色に曇り、呆然としていました。
*問題はその後です。日本の警察は、その日から私を要注意人物としてマークし、私の行動をあれこれと監視し、うるさく付きまといました。後には、日本に留学しようとした際、警察署長が書類に判を押してくれなくて、ひどく苦労しました。日本に送るわけにはいかない要注意の青年として拒絶したのです。結局、警察署長と激しく争って、強く訴えた後になって、ようやく日本に渡って行くことができるようになりました。

2011年7月29日金曜日

平和を愛する世界人として 第一章 ご飯が愛である-幼少時代

第一章 ご飯が愛である-幼少時代



誰とでも友達になる 24

*私は心に決めたことがあれば、すぐに実行に移さなければ気が済まない性格です。そうしないと夜も眠れませんでした。やむなく夜が明けるのを待たなければならないときは、 晩中まんじりともしないで壁をしきりに掻きました。掻きすぎて壁がすっかりぼろぼろになり、夜の間に土の屑がうずたかく積もるほどでした。悔しいことがあれば夜遅くでも外に飛び出して、相手を呼んでひとしきり喧嘩もしたので、そんな息子を育てる両親の心労は重なるばかりでした。
*特に、間違った行動は見過ごしにできず、子供たちの喧嘩があると、まるで近所の相談役にでもなったかのように、必ず間に入って裁定し、非のある方を大声で怒鳴ったりしました。ある時は、近所で勝手気ままに横暴を働く子供のお祖父さんを訪ねて、「お祖父さん、お宅の孫がこんなひどいことをしたので、ちゃんと指導してください」とはっきり忠告したこともあります。
*行動は荒っぽく見えても、本当は情が深い子供でした。遅くまで祖母のしぼんだおっぱいを触って寝入るのを好みましたが、祖母も孫の甘えをはねつけはしませんでした。嫁に行った姉の家に遊びに行き、姑をつかまえて、餅を作ってほしい、鶏を屠ってほしいとねだっても嫌われなかったのは、私の中に温かい情があると大人たちが知っていたからです。
*とりわけ私は、動物を世話することにかけては並外れていました。家の前の木に巣を作った鳥が水を飲めるように水たまりを作ってやったり、物置から粟を持ってきて庭にサーッと撒いたりしました。初めは人が近づくと逃げていった鳥たちも、餌をくれるのは愛情の表れだと分かったのか、いつの間にか私を見ても逃げなくなりました。魚を飼ってみようと思って、魚を捕って水たまりを作って入れておいたことがあります。餌も一つまみ入れてやりましたが、次の日、起きてみると皆死んでいました。きちんと育てたかったのに、力なく水に浮かぶ姿を見ると、ひどく胸がふさがって一日中泣きました。
*父は数百筒もの養蜂を手がけていました。大きな蜂筒に蜂の巣の基礎になる原板の小草を折り目細かくはめ込んでおくと、そこにミッバチが花の蜜を運んできて、蜜蝋を分泌し、巣を作って蜜を貯蔵します。好奇心旺盛だった私は、ミツバチが巣を作る様子を見ようと蜂筒の真ん中に顔を押し込んで刺されてしまい、顔が挽き臼の下に敷く筵みたいに腫れ上がったことがあります。
*蜂筒の原板をこっそり引き抜いて隠し、きつ叱られれたこともありました。ミツバチが巣を作り終えると、父は原板を集めて何層にも積んでおくのですが、その原板にはミッバチが分泌した蜜蝋が付いていて、油の代わりに火を付けることもできました。ところが、私はその高価な原板をカランコロンとひっくり返しては、石油がなくて火を灯せない家々に、蝋燭に使ってくださいと分け与えたのです。そんなふうに自分勝手に人情を施して、父からこっぴどく叱られました。
*十二歳の時のことでした。その頃は娯楽といえるようなものがなくて、せいぜいユンノリ(朝鮮半島に伝わるすごろくに似た遊び)か将棋、そうでなければ闘牋(花札が普及する前に行われていた賭博の一種)があったぐらいです。
*私は大勢で交わって遊ぶのが好きで、昼はユンノリや凧揚げなどをし、夕方から近所の闘牋場に頻繁に出入りしました。闘牋場で一晩過ごせば百二十ウォンほどのまとまったお金は稼げます。私は三ゲームもやればそれだけ稼ぎました。陰暦の大みそかや正月十五日頃が闘牋場の最盛期です。そういう日は、巡査が来ても大目に見て、捕まえることはしません。私は大人たちが興じている闘牋場に行って、一休みしてから、明け方頃にぴたっと三ゲームだけやりました。そうやって稼いだお金で水飴を丸ごと買って、「おまえも食べていけよ。おまえもどうだ」と言って、近所中の子供たちに分け与えました。そのお金を絶対に、自分のために使うとか、悪事を働くのに使ったりはしませんでした。
*義理の兄が家に来れば、財布のお金を自由に出して使いました。そうしていいとあらかじめ許可をもらっていたからです。義理の兄のお金で、かわいそうな子供たちに飴玉も買ってあげ、水飴も買ってあげました。
*どの村でも、暮らし向きがいい人もいれば悪い人もいました。貧しい友達が弁当に粟飯を包んでくるのを見ると、やるせなくて自分のご飯が食べられず、友達の粟飯と交換して食べました。私は、裕福で大きな家に住む子供よりは、生活が苦しくてご飯を食べられない子供とより親しかったし、何としてでもその子の空腹の問題を解決しようとしました。それこそが私の一番好きな遊びだったからです。年齢は幼くても、すべての人の友達に、いや、友達以上にもっと心の奥深くでつながった人にならなければならないと思いました。
*村人の中に欲の深い男性が一人いました。村の真ん中にそのおじさんのマクワウリ畑があって、夏になると甘い匂いが漂い、畑の近くを通る村の子供たちは食べたくてうずうずします。それなのに、おじさんは道端の番小屋に座って、マクワウリを一つも分け与えようとしません。ある日、「おじさん、いつか一度、マクワウリを思いっ切り取って食べてもいいでしょ」と私が尋ねると、おじさんは「いいとも」と快く答えました。そこで私は、「マクワウリを食べたい者は袋を一つずつ持って、夜中の十二時にわが家の前にみんな集まれ!」と子供たちを呼び集めました。それからマクワウリ畑に群れをなして行き、「みんな、心配要らないから、好きなように一畝ずつ全部取れ!」と号令をかけました。子供たちは歓声を上げて畑に走って入っていきあっという間に数畝分を取ってしまいました。その晩、おなかの空いた村の子供たちは、萩畑に座って、マクワウリをおなかが破裂しそうになるくらい食べました。
*次の日は大騒ぎです。おじさんの家を訪ねていくと、蜂の巣をつついたようでした。おじさんは私を見るやいなや、「この野郎、おまえがやったのか。マクワウリの農作業を台無しにしたのはおまえか!」と言って、顔を真っ赤にしてつかみかからんばかりの勢いでした。私は何を言われても動じないで、「おじさん、思い切り食べてもいいと言ったじゃないですか。食べたくてたまらないみんなの気持ちが僕にはよく分かるんです。食べたい食べたいと思っている子供たちに、マクワウリを一つずつ分けてやるのと、絶対に一つもやらないのと、どっちがいいんですか!」と問い詰めました。すると、かんかんになって怒っていたおじさんも、「そうだ、おまえが正しい」と言って引き下がりました。

私の人生の明確な羅針盤 29

*私たちの本貫は全羅道羅州の東にある南平です。曾祖父文禎紘は高祖父文成学の息子で、三兄弟の末弟でした。曾祖父にも致國、信國、潤國の三兄弟の息子がおり、私たちの祖父は長兄に当たります。
*祖父の致國は学校にも通わず書堂 (日本の寺子屋に似た私塾)にも行ったことがないため、字は一つも知りませんでしたが、聞いただけで『三国志』をすべて暗記するほど集中力がずば抜けていました。『三国志』だけではありません。誰かが面白い話をすると、それを全部頭に入れてすらすらと暗唱しました。何でも一度だけ聞くと全部覚えてしまいます。祖父に似て、父も四百ページ以上ある「讃美歌』をすべて暗記して歌いました。
*祖父は「無条件に与えて生きなさい」という曾祖父の遺言によく従いましたが、財産を守ることはできませんでした。末弟の潤國大叔父が一族の財産を抵当に取られて、すっかりなくしてしまったからです。それからというもの、家族、親族の苦労は並大抵ではありませんでした。しかし、祖父も父も、潤國大叔父を一度も怨みませんでした。なぜなら、賭博に手を出して財産を失ったわけではなかったからです。大叔父が家の財産を担保にして借りたお金は、すべて上海臨時政府(一九一九年四月に上海で組織された亡命政府。正式には大韓民国臨時政府)に送られました。当時、七万円といえば大金でしたが、大叔父はその大金を独立運動の資金に使い果たしてしまったのです。
*潤國大叔父は朝鮮耶蘇教長老会神学校を卒業した牧師です。英語と漢学に秀でたインテリでした。徳彦面 (面は日本の村に相当する行政区分で、郡の下、里の上に位置する) の徳興教会をはじめとして三つの教会の担当牧師を務め、崔南善先生などと共に一九一九年の三・一独立宣言文を起案しました。独立宣言文に署名するキリスト教代表十六人のうち徳興教会の関係者が三人になると、大叔父は民族代表の立場を自ら降りました。すると、五山学校(民族意識の高揚と人材育成を目的とした初等。中等教育機関) の設立に志を同じくした南岡・李昇薫先生は、潤國大叔父の両手を握って涙を流し、万一、事に失敗したならば、後を引き受けてほしいと頼んだといいます。
*故郷に戻ってきた大叔父は、万歳を叫んで街路にあふれ出てきた人々に太極旗 (現在の大韓民国の国旗で、元は一八八三年に朝鮮国の国旗として公布されたもの) 数万枚を印刷して配りました。そして同年三月八日、定州郡の五山学校の校長と教員、学生二千人以上、各教会信徒三千人以上、住民四千人以上と会合し、阿耳浦面事務所の裏山で独立万歳のデモを率いて逮捕されました。大叔父は二年の懲役刑を宣告され、義州の監獄でつらい獄中生活を送りました。翌年、特赦で出監したものの、日本の警察の迫害が激しくて一箇所に留まることができず、あちこちに身を隠していました。
*警察の拷問を受けた大叔父の体には、竹槍で刺されて、ぼこっとへこんだ大きな傷跡がありました。鋭くとがった竹槍で両足と脇腹を刺す拷問を受けても、大叔父はついに屈しなかったといいます。激しい拷問にもまるで言うことを聞かないので、警察が、独立運動さえしなければ郡守(郡の首長)の職でもやろうと懐柔してきたりもしました。すると、かえって「私がおまえら泥棒の下で郡守の職に飛びつくとでも思ったのか」とすさまじい剣幕で、大声で怒鳴りつけたといいます。
*私が十七歳頃のことです。潤國大叔父がわが家にしばらく滞在していると知って、独立軍の関係者が訪ねてきたことがありました。独立運動の資金が不足して援助を乞いに、雪が降り注ぐ夜道を歩いてきたのでした。父は寝ている私たち兄弟が目を覚まさないように掛け布団で顔を覆いました。すでに眠気が吹っ飛んでいた私は、掛け布団を被って両目を大きく見開いたまま、横になって大人たちの話し声に聞き耳を立てました。母はその夜、鶏を屠り、スープを煮て、彼らをもてなしました。
*父がかけた掛け布団の下で息を殺して聞いた大叔父の言葉は、今も耳の奥に生き生きと残っています。大叔父は「死んでも国のために死ぬなら福になる」と話していました。また、「いま目の前に見えるのは暗黒であるが、必ず光明の朝が来る」とも話していました。拷問の後遺症から体はいつも不自由でしたが、声だけは朗々としていました。
「あんなに偉大な大叔父がなぜ監獄に行かなければならなかったのだろう。われわれが日本よりもっと力が強ければ、そうはならなかったのに……」と、もどかしく思った気持ちもよく覚えています。
*迫害を避けて他郷を転々とし、連絡が途絶えた潤國大叔父の消息を再び聞くようになったのは、一九六八年、ソウルにおいてでした。従弟の夢に現れて、「私は江原道の施善の地に埋められている」と言ったそうです。従弟が夢で教えられた住所を訪ねていってみると、大叔父はすでに十年前に亡くなっていて、その地には、雑草が生い茂った墓だけが堂々と残っていました。私は潤國大叔父の遺骨を京畿道披州に移葬しました。
*一九四五年八月十五日の光復以後、共産党が牧師や独立運動家をむやみやたらと殺害する事件が起きました。大叔父は幸いにも難を逃れ、家族に迷惑をかけないように共産党を避けて、三八度線を越えて南の旌善に向かいました。しかし、家族も親族もその事実を全く知らずにいました。旌善の深い山奥で書を売って生計を立て、後には書堂を建てて学問を教えたといいます。大叔父に学問を学んだ弟子たちの言葉によれば、平素は即興で漢詩を作って楽しんだそうです。そうして書いた詩を弟子たちが集めておいて、全部で百三十首以上になりました。

「南北平和」

在前十載越南州
流水光陰催白頭
故園欲去安能去
別界薄遊為久游
袗稀長着知當夏
闘紈扇動揺畏及秋
南北平和今不遠
候簷児女莫深愁

*十年前、北の故郷を離れて南に越えてきた
流水のように歳月が経ち、私の頭は白くなった
北の故郷に帰りたいが、どうして帰ることができようか
しばし他郷に留まるつもりが、長い間留まることになった
葛布の衣を着ると、暑さで夏が来たことを感じ
扇子をあおぎながら、もうすぐ秋が訪れると思う
南北の平和は遠からずやって来るので
軒下で待つ人々よ、あまり心配するな

*家族から離れて、見知らぬ旌善の地に生活しながらも、潤國大叔父の心は憂国の真情に満ちていました。大叔父はまた、「蕨初立志自期高 私慾未嘗容一毫(初め志を立てるときは自ら進んで高い目標を掲げ、私欲は体に生えた黒くて太い毛の先程度でも許してはならない)」という詩句も残しました。独立運動に従事した功績が韓国政府から認められたのは非常に遅く、一九七七年に大統領表彰、一九九〇年に建国勲章が追叙されました。
*数多い試練に直面しながらも、一心不乱に国を愛してきた大叔父の心が見事に表現された詩句を、私は今も時々口ずさみます。最近になって、年を取れば取るほど潤國大叔父のことを思い出すのです。国の行く末を心配したその人の心が、切々と私の心深くに入り込んできます。私は大叔父自作の「大韓地理歌」をわが信徒たちにすべて教えました。北は自頭山から南は漢ラ山まで、一つの曲調で歌い通すと、心の中がすっきりする味わいがあって、今も彼らと楽しく歌ったりします。

「大韓地理歌」

東半球に突出した大韓半島は、東洋三国の要地に位置し、
北は広漠たる満州平野であり、東は深く青い東海だ。

南は島の多い大韓の海があり、西は深く黄金の黄海だ。
三面の海の水中に積まれた海産物、魚類貝類数万種は水中の宝だ。

北端に鎮座する民族の基、白頭山は、鴨緑江と豆満江の二大河の水源となり、
東西に分流して両海に注がれ、中国とソ連との境界がはっきりと見える。

半島中央の江原道に輝く金剛山、世界的な高原の名は大韓の誇り、
南方の広大な海に聳え立つ済州の漢ラ山、往来する漁船の標識ではないか。

大同、漢江、錦江、全州の四大平野は、三千万民同胞の衣食の宝庫であり、
雲山、順安、扮川、載寧の四大鉱山は、私たち大韓の光彩ある地中の宝だ。

京城、平壌、大邸、開城の四大都市は、私たち大韓の光彩ある中央の都市だ。
釜山、元山、木浦、仁川の四大港口は、内外の貿易船の集中地だ。

大京城を中心として延びた鉄道線、京義と京釜の二大幹線を連結し、
京元と湖南の両支線が南北に伸び、三千里江山を周遊するのに十分だ。

歴代朝廷の繁栄を物語る古跡は、檀君、箕子二千年の建都地平壌。
高麗始祖太祖王建の松都開城、李朝朝鮮五百年の始王地京城。

一千年の文明を輝かせた新羅、朴赫居世始祖の村、名勝地慶州。
山水の風景、絶景の忠清扶余は、百済初代温 王の創造古跡地。

未来を開拓する統一の群れよ、文明の波は四海を打つ。
寒村、山邑の平民は古い頭を拭い去り、未来の世界に猛進しよう。

やると言えばやる「一日泣き」の強情っばり 36

*父はお金を貸して踏み倒されることはあっても、返してもらうことには無頓着な人でした。しかし、自分がお金の入り用があって借金したときは、返済の約束は、牛を売り、家の柱を抜いてでも必ず守る人でした。父はいつも、「小手先の企みで真理を曲げることはできない。真というものは、そんな企みに屈するものではない。小手先の企みで何をしようと、数年も経たずにぼろが出るものだ」と言っていました。父は風采が良かったばかりか、米俵を背負って階段をのっしのっしと上がっていくほど逞しい体の持ち主でした。私が九十歳(数え)になっても世界を股に掛けて活動できるのは、父から譲り受けた体力のおかげです。
*讃美歌「あの高い所に向かって」を好んで歌った母も、並の女性ではありませんでした。真っすぐで、豪胆で、荒っぽいのが母の性格でした。額や頭のつるりとしたところに加えて、性格もそのまま受け継いだ私は、我が強く、この母にしてこの息子ありと言えそうです。
*幼い頃、私のあだ名は一日泣き」でした。一度泣き始めると、一日中泣いてようやく泣き止むところから付いたあだ名です。泣くときは、一大事でも起こったかのようにわんわん泣いて、寝ている者が皆起き出してくるほどだったといいます。じっと座って泣いたのではありません。部屋の中で、ひっくり返って、跳ね回りながら騒ぎを起こして、体のあちこちに傷ができ、皮膚が切れて、部屋のそこらじゅうが血だらけになるほど泣いたそうです。幼い時からとても気性の激しいところがありました。
*一度決心すると絶対に譲歩しませんでした。どんなことがあっても譲歩しませんでした。もちろん物心がつく前のことです。過ちを犯したのは私だと分かっていても、母が何か指摘すると、「違う。絶対違う1」と言ってぶつかりました。「間違っていました」と一言で済むのに、死んでもその言葉を口にしませんでした。しかし母も負けてはいません。「さあ、親が答えなさいというのに答えないのか!」と言って叩くのです。ある時などは、何回叩かれたか分からないほど叩かれて気絶してしまいました。それでも私は降伏しませんでした。すると今度は、目の前でおいおい泣き始めるではありませんか。その姿を見ても、まだ間違っていたとは言いませんでした。
*我が強いだけに勝負欲も強くて、どんなことでも、死んでも負けるものかという気持ちでいました。大げさではなくて、「五山の家の小さな目。あいつは一度やると言ったら必ずやる奴だ」と村の大人の誰もが認めるほどでした。何歳の時だったか、私に鼻血を出させて逃げていった子供の家に一月も通い詰めたあげく、その子と会って、親からは謝罪を受け、餅まで一抱えもらってきたのを見て、大人たちも舌を巻きました。
*だからといって、気力だけで勝とうとしたのではありません。同じ年頃の子供たちよりもはるかに体も大きく、力も強かったので、村には腕相撲で私にかなう者がいませんでした。ところが、三歳年上の子に相撲で負けたことがあり、その時はひどく腹が立って我慢がなりませんでした。そこで、毎日山に登り、アカシアの木の皮が剥がれるほど木にぶつかって稽古し、力を付けて、六カ月後にはその子に勝ってしまいました。
わが家は子供が多い家系です。私の上に兄が一人、姉が三人、下に弟と妹が八人いました。幼い頃は兄弟が多くいて、本当に良かったと思います。兄弟姉妹、いとこ、またいとこ、全員呼び集めたら何でもできました。それでも歳月が過ぎてみると、広い世界に私一人が残った気分です。
*一九九一年末、北朝鮮に八日間ほど行く機会がありました。四十六年ぶりに故郷に行ってみると、大勢いた兄弟と母はすでに亡くなり、姉一人と妹一人だけが生きていました。子供の頃、母のように私の世話をしてくれた姉は七十を過ぎたお婆さんになっていたし、あれほどかわいかった妹もすでに六十を過ぎて、顔は雛だらけでした。
*あの頃は、この妹をなんだかんだとよくからかったものです。「孝善、おまえの新郎になる奴は目が一つしかないそ!」と言って逃げると、「何ですって!そんなこと、お兄さんがどうして分かるの?」と言いながら追いかけてきて、小さな拳で私の背中をパンパン叩きました。十七歳になった年に、孝善が叔母の紹介で見合いをしました。その日、朝早くから起きて、髪をきれいに整え、美しく化粧した孝善は、家の内外を掃除して新郎となるかもしれない人を待っていました。「孝善、おまえそんなに嫁に行きたいのか?」とからかうと、化粧した顔が赤く染まって、その姿が何とも言えずかわいらしかったです。
*北朝鮮を訪問して十数年が過ぎた今は、あの時私と会って、胸が痛くなるほど泣いた姉も亡くなり、妹一人が残っているだけというのですから、切なくて、心がすっかり萎れてしまうようです。
*手先が器用だった私は、靴下や服の類は自分で編んで着ていました。寒くなれば帽子もすいすい編んで被りました。編み物の腕前は女たちよりも上で、姉にも教えてあげたし、孝善の襟巻きも私が編んでやりました。針仕事も好きでした。熊の足裏のように大きく分厚い手で、下着も自分で作って着たのです。「荒織りの木綿」を置いて、それをさっと半分に折って、型を取って寸法に合わせて裁断した後、裁縫をすると、自分の体にぴったりのものができました。母の足袋もそうやって作って差し上げたところ、母は「おやおや、二番目の子が遊びでしていると思ったら、母さんの足にぴたっと合ってるね」と言って、喜んでくれました。
*孝善の下には妹が四人もいました。母は十三人の子供を産んで、五人の子供に先立たれています。母が憔悸したのは言うまでもありません。生活に余裕がない上、子供がそんなにも多くて、母は言葉で言い尽くせないほどの苦労をしました。
*その当時、娘を嫁に出すとか嫁をもらうときには、木綿を織らなければなりませんでした。綿花から取り出した綿を糸車に入れて糸を紡ぎますが、糸車に入れる際のほぐした綿の固まりを平安道の言葉で「トケンイ」と言います。子供たちが一人、二人と結婚するたびに、「荒織りの木綿」のように柔らかく美しい木綿が、母の厚ぼったい手を通して作られました。人1 倍手際が良くて、普通の人が一日に三、四枚織る布を、母は十枚も二十枚も織り出しました。姉を嫁に出すというので、速いときは一日に一疋(二反)織ることもありました。決意すれば何でもさっとやってしまう母の性急な性格によく似て、私も何でもさっとやってしまう性分です。
*今もそうですが、私は幼い頃からどんな食べ物でもよく食べました。トウモロコシもよく食べ、生のキュウリもよく食べ、生のジャガイモや空豆もよく食べました。二十里(約八キロメートル) 離れている母の実家の畑に蔓が伸びているのがあって、何かと尋ねてみたら「チクァ」という返事でした。その村ではサツマイモを「チクァ」と言ったのです。掘って食べてみると、後味が素晴らしく良くて、籠に入れて持ってきて一人で全部食べました。翌年からは、サツマイモの季節になると、しばしば母の実家に走って行きました。「お母さん、しばらくの問どこそこに行ってきますよ」と言って、二十里の道を一息で走って行き、サツマイモを食べたのです。
*故郷では、五月はジャガイモの蓄えが底を尽きかける一番大変な時期です。冬の間はずっとジャガイモばかり食べて、春になって六月頃に麦を収穫するとジャガイモ暮らしは終わりを告げます。麦は最近のように食べやすくした平麦ではなく、丸麦でしたが、それなりに美味しく食べました。丸麦を二日ほど水でふやかしてご飯を炊くと、スプーンでぎゅうぎゅう押さえたとき、飯粒が弾けて散らばります。それにコチュジャン(唐辛子みそ)をさっと混ぜて一口食べると、麦が口の端からしきりに飛び出してきます。そこで、口をむっと閉じて、もぐもぐと食べた覚えがあります。
*アマガエルもたくさん捕って食べました。昔の田舎では、子供たちが麻疹にかかるか病気になるかして顔がやつれていれば、アマガエルを食べさせました。太ももがぱんぱんに張った大きなアマガエルを三、四匹捕まえて、カボチャの葉に包んで焼くと、蒸し器で蒸したようにふかふかしてとても美味しいのです。味からすればスズメの肉、キジの肉にも劣りません。広い野原を飛び回っていたクイナはもちろん、まだらでかわいい山鳥の卵もたくさん焼いて食べました。このように、自然界には神様が下さった食べ物があふれていることを、山や野原を歩き回って知っていきました。

2011年7月28日木曜日

平和を愛する世界人として

平和を愛する世界人として

第一章 ご飯が愛である-幼少時代
第二章 涙で満たした心の川―神の召命と艱難
第三章 世界で最も中傷を浴びた人-教会創立と受難
第四章 私たちの舞台が世界である理由-アメリカへ雄飛
第五章 真の家庭が真の人間を完成する-結婚と愛
第六章 愛は統一を導く-冷戦終焉・宗教融和
第七章 韓国の未来、世界の未来-理想郷に向かって


第一章 ご飯が愛である-幼少時代
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第一章 ご飯が愛である―幼少時代

父の背におぶさって学んだ平和

私は生涯一つのことだけを考えて生きてきました。戦争と争いがなく世界中の人たちが愛を分かち合う世界、一言で言えば、平和な世界をつくることが私の幼い頃からの夢でした。そのように言うと、「幼い時から平和を考えていたなんて、どうしてそんなことが?」と反問する人がいるかもしれません。しかし、平和な世界を夢見ることがそんなに途方もないことでしょうか。
*私が生まれた一九二〇年は、日本がわが国を強制的に占領していた時代でした。一九四五年の解放以後も、朝鮮戦争やアジア通貨危機をはじめ、手に負えないほどの混乱を何度も経験し、この地は平和から程遠い歳月を送らなければなりませんでした。このような痛みと混乱はわが国だけが経験したことではありません。二度の世界大戦やベトナム戦争、中東戦争などに明らかなように、人々は絶えず互いに憎み合って、同じ人間だというのに“敵”に銃の照準を合わせ、彼らに向けて爆弾を爆発させました。肉が裂かれ、骨が砕ける凄惨な戦場を体験した者にとって、平和というのは空想に等しい荒唐無稽なことであったかもしれません。しかし、平和を実現することは決して難しいことではありません。私を取り巻く空気、自然環境、そして人々から、私たちは容易に平和を学ぶことができます。
野原をわが家のように思って暮らした幼い頃、私は朝ご飯一杯をさっと平らげては外に飛び出して、一日中、山に分け入り、川辺を歩き回って過ごしました。鳥や動植物の宝庫である森の中を駆けずり回り、草や実を取って食べてみると、それだけで一日おなかが空くのも忘れるほどでした。幼い心にも、森の中にさえ入っていけば体と心が平安になると感じていました。
山で跳び回っているうちに、そのまま眠ってしまったこともよくあります。そんな時は、父が森の中まで私を捜しに来ました。「ヨンミョン!ヨンミョン!」という父の声が遠くから聞こえてくると、眠りながらも自然と笑みがこぼれ、心が弾みました。幼少の頃の私の名前は龍明(ヨンミョン)です。私を呼ぶ声ですぐに目が覚めても、寝ているふりをして父に背負われていった気分、何の心配もなく心がすっと安心できる気分、それこそがまさしく平和でした。そのように父の背中に負われて平和を学びました。
私が森を愛したのも、その中に世界のすべての平和に通じるものが宿っていたからです。森の中の生命は争いません。もちろん互いに食ったり食われたりですが、それは空腹で仕方なくそうしているのであって、憎しみからではありません。鳥は鳥どうし、獣は獣どうし、木は木どうし、互いに憎むことはありません。憎しみがなくなれば平和がやって来ます。同じ種どうしで互いに憎しみ合うのは人間だけです。国が違うといっては憎み、宗教が違うといっては憎み、考えが違うといってはまた憎むのです。
私はこれまで二百ヵ国近い国々を回りましたが、空港に降りた時、「ここは実に平和で穏やかだなあ」と感じた国は多くはありませんでした。内戦のさなかで、銃剣を高く上げた軍人たちが空港を監視し、道路を閉鎖し、銃弾の音が昼も夜もなく聞こえる所もたくさんありました。平和を説きに行った場所で、銃のために命を失いそうになったことも一度や二度ではありません。今日、私たちが生きる世界では、相も変わらず大小の紛争と葛藤が絶え間なく続いています。食べ物がなくて飢餓に陥った人々が数億人もいるのに、軍事費に使われるお金は数百兆円に上ります。銃や爆弾の製造に使うお金だけでも節約すれば、多くの人が飢えの苦しみから救われることでしょう。

私は理念と宗教の違いのゆえに相手を憎み、互いに敵となった国どうしの問に、平和の橋を架ける仕事に生涯を捧げました。イスラーム(イスラム教)とキリスト教が融和するように交流の場を設けたり、イラクをめぐって対立する米ソの意見を調整したり、北朝鮮と韓国の和解に尽力したりしました。名誉や金欲しさでしたのではありません。物心がついて以来、今に至るまでの私の人生のテーマはただ一つ、世界が一つになって平和に暮らすことです。他のことは眼中にありません。昼夜を問わず平和のために生きることは容易ではありませんが、ただひたすらその仕事をする時、私は幸福でした。

東西冷戦時代、私たちは理念によって世界が真っ二つになる経験をしました。当時は共産主義さえなくなれば平和がやって来ると思っていましたが、そうはならず、冷戦が終わった後に多くの争いが生じました。世界は人種と宗教によってばらばらになってしまいました。国境を接した国どうしが反目するにとどまらず、同じ国の中でも人種間、宗教間で反目し、出身地域の違いでも反目しています。このように分裂した人々は、互いに敵対感情が甚だしく、全く心を開こうとしません。

人間の歴史を振り返ってみると、最も残忍かつ惨たらしい戦争は、国家間の戦争ではなくて人種間の戦争でした。それも宗教を前面に出した人種間の戦争が最も残酷です。二十世紀最悪の民族紛争といわれるボスニアの内戦では、いわゆる民族浄化の一環でイスラーム信者を一掃する政策が採られ、ある地域では子供を含む七千数百人以上のイスラーム信者が虐殺されました。ニューヨークの百十階建て世界貿易センタービルに飛行機が突っ込み、二棟を倒壊させた九・一一テロも記憶に新しい大惨事です。これらはみな民族・宗教問の紛争がもたらした惨憺たる結果です。今もパレスチナのガザ地区では、イスラエルが敢行したミサイル攻撃によって数百人が命を失い、人々は寒さと空腹、死の恐怖の中で身震いしています。

一体何のためにそうまでして互いを憎み、殺し合うのでしょうか。表面的な理由はさまざまでしょうが、その内幕を詳しく調べてみると、間違いなく宗教が関与しています。石油をめぐって繰り広げられた湾岸戦争がそうだったし、エルサレムを占有しようとするイスラーム勢力とイスラエルの紛争がそうです。このように人種対立が宗教という衣を身にまとうと、問題は本当に複雑になります。中世で終わったと思っていた宗教戦争の悪夢が、二十一世紀にも相変わらず私たちを苦しめています。

宗教紛争が頻繁に起こるのは、多くの政治家が自らの利己的な欲望を満たそうとして、宗教間に潜む反感を利用するからです。政治的な目的を前に、宗教は方向性を見失ってよろめき、本来の目的を喪失してしまうのです。宗教は本来、平和のために存在するものです。すべての宗教が世界平和に責任を負っています。それなのに、反対に宗教が紛争の原因となったのですから慨嘆するほかありません。その醜悪な様相の背後には、権力と資本を握ったどす黒い政治が隠れています。指導者の本分はすべからく平和を守ることであるのに、かえって逆のことをして、世界を対立と暴力へと追い立てているのです。

指導者の心が正しく立たなければ、国と民族は行き場を失って彷徨うことになるでしょう。悪しき指導者は、自らの腹黒い野心を満たすために宗教と民族主義を利用します。宗教と民族主義の本質は悪いものではありませんが、それらは世界共同体に貢献してこそ価値があるのです。私の民族、私の宗教だけを絶対視して、他の民族と他の宗教を無視して非難するとすれば、その価値を失ってしまいます。自分の宗教を押し立てて人を踏みにじり、人の宗教を大したことないと見下して、憎悪の火を燃やして紛争を起こすとすれば、そうした行為はすでに善ではないからです。私の民族だけ、私の国だけが正しいと主張することも同様です。

お互いを認め合い助け合って生きるーこれが宇宙の真理です。取るに足りない動物もそのことを知っています。犬と猫は仲が悪いといわれていますが、一つの家で一緒に育ててみると、お互いの子を抱きかかえ合って親しくなります。植物を見ても分かることです。木に絡まって上に伸びていく葛は、木の幹に寄り掛かって育ちます。だからといって、木が「おまえはなぜ私に巻き付いて上がっていくのか」と葛を責めたりはしません。お互いに為に生きながら、共に生きることがまさに宇宙の原理です。この原理を離れれば、必ず滅亡するようになります。今のように民族どうし、宗教どうしが相互に罵り合って、争うことが続くとすれば、人類に未来はありません。絶え間のないテロと戦争によって、ある日、吹けば飛ぶ埃のように消滅してしまうでしょう。しかし希望が全くないのではありません。もちろん希望はあるのです。

私はその希望の紐をつかんで放さず、生涯、平和を夢見て生きてきました。私の願いは、世の中を幾重にも囲んできた塀と垣根をきれいさっぱり壊して、一つになる世の中をつくることです。宗教の塀を壊し、人種の垣根を取っ払い、富む者と貧しい者の格差を埋めた後、太古に神様がつくられた平和な世の中を復元するのです。飢えた人もなく涙を流す人もない世の中ということです。希望のない世界、愛のない世の中を治療しようとしたら、私たちはもう一度、幼い頃の純粋な心に戻るしかありません。際限のない欲望から離脱して、人類の美しい本性を回復するためには、幼い頃、父の背におぶさって学んだ平和の原理と愛の息遣いを生かすことが必要なのです。

*上思里には曾祖父の代に引っ越してきたそうです。数千石の農業に直接従事して、独力で暮らしを立てて家門を起こした曾祖父は、酒もたばこも口にせず、そのお金でよその人にご飯一杯でも多く食、べさせようとし、そうすることに生き甲斐を感じる人でした。「八道江山(全国)の人に食事を振る舞えば、八道江山から祝福が集まる」1これが亡くなる際に遺した言葉です。そんなわけで、わが家の奥の間はいつもたくさんの人でごった返していました。「どこそこの村の文氏の家に行けば、ただでご飯を食べさせてくれる」と村の外にまで知れ渡っていたのです。母はやって来る人たちのつらい世話をてきぱきとしながら、不平を一度も言いませんでした。
*休む間もなく熱心に働いた曾祖父は、暇ができると草鮭を編んで市場に出して売ったり、年を取ってからは「後代にわが子孫が良くなるようにしてください」と祈りながら、アヒルを数匹買っては放してやったりしました。また、奥の間に漢文の先生を招いて、近所の若者たちに文字を無料で教えるようにしました。そこで村人たちは、曾祖父に「善玉」という号を付けて、わが家を「福を受ける家」と呼びました。
*しかしながら、曾祖父が亡くなって私が成長する頃には、豊かだった財産はすべてなくなり、ただ幾匙かのわずかなご飯を食べて暮らす程度になりました。それでも、人に食事を振る舞う家風だけは相変わらずで、家族が食べる分がなくても人を先に食べさせました。おかげで、私がよちよち歩きを始めて最初に学んだことが、まさしく人にご飯を食べさせるということでした。
*日本占領期の頃、満州に避難する人々が通った町が平安北道の宣川です。わが家はちょうど宣川に行く一級道路(幹線道路)の近くにありました。家も土地も日本人に奪われて、生きる手立てを求めて満州に向かった避難民が、わが家の前を通り過ぎていきました。母は八道(李氏朝鮮時代、全国を威鏡道、平安道、江原道、黄海道、京畿道、忠清道、慶尚道、全羅道の八道に区分したことに由来する言葉)の各地からやって来て家の前を通る人のために、いつでもご飯を作って食べさせました。乞食がご飯を恵んでくれと言ってきて、すぐにご飯を出さなければ、祖父がまず自分のお膳をさっと持って行きました..そのような家庭に生まれたせいか、私も生涯ご飯を食べさせる仕事に力を注いできました。私には、おなかを空かした人たちにご飯を食べさせる仕事が他のどんなことよりも貴く重要です。ご飯を食べる時、ご飯を食べられない人がそこにいれば、胸が痛く、喉が詰まって、スプーンを持つ手がそのまま止まってしまいます。
*十歳の時でした。大みそかの日になって、村じゅう餅を作るのに大忙しだったのに、暮らし向きが困難で食べる物にも事欠く村民がいました。私はその人たちの顔が目に焼き付いて離れず、一日中、家の中をぐるぐる回ってどうしようかと悩んだあげく、米一斗(一斗は十升、約十八リットル)を担いで家を飛び出しました。家族に気づかれないように米袋を持ち出そうとして、袋に縄を「本結んでおく余裕もありませんでした。それでも、米袋を肩に担いだまま、つらさも忘れて、勾配が険しい崖道を二十里(約八キロメートル。十朝鮮里は日本の一里、約四キロメートルに相当する)も跳ねるように駆けていきました。おなかを空かした人たちを腹いっぱい食べさせることができると思うと、気分が良くて、胸がわくわくしました。
*わが家の横には石臼を使った精米所がありました。中の小米が外に漏れないように精米所の四方をしっかり囲むと、冬にも吹き抜ける風がなくて、とても暖かでした。家のかまどから炭火を分けてきて火を起こすと、オンドルの部屋よりも暖かくなります。そんなわが家の横の石臼の精米所に居場所を定めて、冬の季節を過ごす者たちが何人かいました。八道を転々として物乞いして歩く乞食たちです。彼らが聞かせてくれる世の中の話が面白くて、ちょくちょく石臼の精米所に足を運んだものです。母は息子の友達となった乞食の食事まで一緒に作って、精米所にお膳を持ってきてくれました。分け隔てなく同じ皿をつつき、同じご飯を食べ、毛布一枚に一緒にくるまって、共に冬を過ごしました。真冬が去って春になり、彼らが遠くへ行ってしまうと、また戻ってくる次の冬が待ち遠しくてなりませんでした。
*体がぼろをまとっているからといって、心までぼろをまとっているわけではありません。彼らには、明らかに温かい愛がありました。私は彼らにご飯をあげ、彼らは私に愛を施してくれました。彼らが教えてくれた深い友情と温かい愛は、今に至るも私の大きな力になっています。
*世界を回って、貧しさとひもじさで苦痛を味わう子供たちを見るたびに、人々にご飯を食べさせて少しも惜しむことがなかった祖父の姿が脳裏に浮かびます。

2011年6月4日土曜日

原理講論 「総 序」赤色(核心的内容)

「総 序」赤色(核心的内容)より!

人間は、何人といえども、不幸を退けて幸福を追い求め、それを得ようともがいている。

幸福はいかにしたら得られるのであろうか。人間はだれでも、自己の欲望が満たされるとき、幸福を感ずるのである。

ここにおいて、我々は、善の欲望を成就しようとする本心の指向性と、これに反する悪の欲望を達成させようとする邪心の指向性とが、同一の個体の中でそれぞれ相反する目的を指向して、互いに熾烈な闘争を展開するという、人間の矛盾性を発見するのである。存在するものが、いかなるものであっても、それ自体の内部に矛盾性をもつようになれば、破壊されざるを得ない。

人間のこのような破滅状態のことを、キリスト教では、堕落と呼ぶのである。

人間の堕落を知的な面から見れば、それはとりもなおさず、我々人間が無知に陥ったということを意味するのである。しかるに、人間は、心と体との内外両面からなっているので、知的な面においても、内外両面の知をもっているわけである。したがって、無知にも、内的な無知と外的な無知との二種類がある。

内的無知を克服して内的知に至る道を見いだすべく内的真理を探求してきたのがすなわち宗教であり、外的無知を克服して外的知への道を見いだすべく外的真理を探求してきたのが科学なのである。

このように、宗教と科学とは、人生の両面の無知を打開するための使命を、各々分担して出発したがゆえに、その過程においては、それらが互いに衝突して、妥協し難い様相を呈したのであるが、人間がこの両面の無知を完全に克服して、本心の要求する善の目的を完全に成就するためには、いつかは、科学を探し求めてきた宗教と、宗教を探し求めてきた科学とを、統一された一つの課題として解決することのできる、新しい真理が現れなければならないのである。

その新しい真理は、いかなる使命を果たさなければならないのであろうか。

神の救いの摂理が完全になされるためには、この新しい真理は今まで民主主義世界において主唱されてきた唯心論を新しい次元にまで昇華させ、唯物論を吸収することによって、全人類を新しい世界に導き得るものでなければならない。同時にまた、この真理は、有史以来のすべての主義や思想はもちろんのこと、あらゆる宗教までも、一つの道へと、完全に統一し得る真理でなければならないのである。

その新しい真理は、堕落人間が、その創造本然の人間へと帰っていくことができるように、神が人間をはじめとして、この被造世界を創造されたその目的はいったい何であったかということを教え、復帰過程の途上にある堕落人間の究極的な目的が、いったい何であるかということを知らしめるものでなければならない。

神は、既にこの地上に、このような人生と宇宙の根本問題を解決されるために、一人のお方を遣わし給うたのである。そのお方こそ、すなわち、文鮮明先生である。

2011年6月2日木曜日

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原理講論  
総序

前編

第一章 創 造 原 理

第一節 神の二性性相と被造世界
第二節 万有原力と授受作用および四位基台
第三節 創造目的
第四節 創造本然の価値
第五節 被造世界の創造過程とその成長期間
第六節 人間を中心とする無形実体世界と有形実体世界


第二章 堕  落  論

第一節 罪の根
第二節 堕落の動機と経路
第三節 愛の力と原理の力および信仰のための戒め
第四節 人間堕落の結果
第五節 自由と堕落
第六節 神が人間始祖の堕落行為を干渉し給わなかった理由


第三章 人類歴史の終末論

第一節 神の創造目的完成と人間の堕落
第二節 救いの摂理
第三節 終末
第四節 終末と現世
第五節 終末と新しいみ言と我々の姿勢


第四章 メシヤの降臨とその再臨の目的

第一節  十字架による救いの摂理
第二節  エリヤの再臨と洗礼ヨハネ


第五章 復  活  論

第一節  復活
第二節  復活摂理
第三節  再臨復活による宗教統一


第六章 予 定 論

第一節  み旨に対する予定
第二節  万有原力と授受作用および四位基台
第三節  人間に対する予定
第四節  予定説の根拠となる聖句の解明


第七章 キリスト論

第一節 創造目的を完成した人間の価値
第二節 創造目的を完成した人間とイエス
第三節 堕落人間とイエス
第四節 重生論と三位一体論

後編
緒論
(一)蕩減復帰原理
(二)復帰摂理路程
(三)復帰摂理歴史と「私」


第一章 復帰基台摂理時代

第一節 アダムの家庭を中心とする復帰摂理
第二節 ノアの家庭を中心とする復帰摂理
第三節 アブラハムの家庭を中心とする復帰摂理


第二章 モーセとイエスを中心とする復帰摂理

第一節 サタン屈伏の典型的路程
第二節 モーセを中心とする復帰摂理
第三節 イエスを中心とする復帰摂理


第三章 摂理歴史の各時代とその年数の形成

第一節 摂理的同時性の時代
第二節 復帰基台摂理時代の代数とその年数の形成
第三節 復帰摂理時代を形成する各時代とその年数
第四節 復帰摂理延長時代を形成する各時代とその年数


第四章 摂理的同時性から見た復帰摂理時代と
復帰摂理延長時代

第一節 エジプト苦役時代とローマ帝国迫害時代
第二節 士師時代と教区長制キリスト教会時代
第三節 統一王国時代とキリスト王国時代
第四節 南北王朝分立時代と東西王朝分立時代
第五節 ユダヤ民族捕虜および帰還時代と法王捕虜および帰還時代
第六節 メシヤ降臨準備時代とメシヤ再降臨準備時代
第七節 復帰摂理から見た歴史発展


第五章 メシヤ再降臨準備時代

第一節 宗教改革期
第二節 宗教および思想の闘争期
第三節 政治、経済および思想の成熟期
第四節 世界大戦


第六章 再 臨 論

第一節 イエスはいつ再臨されるか
第二節 イエスはいかに再臨されるか
第三節 イエスはどこに再臨されるか
第四節 同時性から見たイエス当時と今日
第五節 言語混乱の原因とその統一の必然性

2011年4月20日水曜日

第六章 再 臨 論 第四節から・赤色(核心的内容)より

第四節 同時性から見たイエス当時と今日

イエスの初臨のときと彼の再臨のときとは、摂理的な同時性の時代である。それゆえに、今日のキリスト教を中心として起こっているすべての事情は、イエス当時のユダヤ教を中心として起こったあらゆる事情にごく似かよっている。

このような実例を挙げてみるならば、第一は、今日のキリスト教はユダヤ教と同じく、教権と教会儀式にとらわれている一方、その内容が腐敗しているという点である。

今日のキリスト教信徒たちも、イエスの初臨のときのユダヤ教徒と同じく、イエスが再臨されるならば、彼らが真っ先に主を迫害するようになる可能性があるということについては、前のところで既に詳しく論じたとおりである。

また、イエスの再臨に関する啓示と、再臨されてから下さるみ言を受け入れる場合の様子に関しても、初臨のときと同じ現象が現れるようになるのである。

再臨のときにおいても、初臨のときと同様、天国を望んで歩みだした道でありながら、かえって地獄に行くようになる、そのような信徒たちが大勢いることであろう。

このような現象が、終末においてもそのとおりに起こるということを知るにつけ、我々はだれしも、もう一度自分自身を深く反省せざるを得ないのである。


第五節 言語混乱の原因とその統一の必然性

人間が堕落しないで完成し、神をかしらに頂き、みながその肢体となって一つの体のような大家族の世界をつくったならば、この地球上で互いに通じあわない言語が生ずるはずはなかった。

一つの父母のもとにある同じ子孫として、同一の喜怒哀楽の感情をもっていながら、これを表現する言語が異なるために、互いに通じあうことができないということほど不幸なことはないであろう。それゆえに、再臨の主を父母として頂く、一つの大家族による理想世界がつくられるとするならば、当然言語は統一されなければならないのである。

人類の父母となられたイエスが韓国に再臨されることが事実であるならば、その方は間違いなく韓国語を使われるであろうから、韓国語はすなわち、祖国語(信仰の母国語)となるであろう。したがって、あらゆる民族はこの祖国語を使用せざるを得なくなるであろう。このようにして、すべての人類は、一つの言語を用いる一つの民族となって、一つの世界をつくりあげるようになるのである。

2011年4月17日日曜日

第六章 再 臨 論 第三節

第三節 イエスはどこに再臨されるか
(一)イエスはユダヤ民族の内に再臨されるか
(二)イエスは東の国に再臨される
(三)東方のその国は、すなわち韓国である

イエスが霊体をもって再臨されるのでなく、地上から肉身をもった人間として、誕生されるとするならば、彼は神が予定されたところの、そしてある選ばれた民族の内に誕生されるはずである。

(一)イエスはユダヤ民族の内に再臨されるか
黙示録七章4節に、イエスが再臨されるとき、イスラエルの子孫のあらゆる部族の中から、一番先に救いの印を押される者が、十四万四千人であると記録されているみ言、また弟子たちがイスラエルの町々を回り終わらないうちに人の子が来るであろう(マタイ一〇・23)と言われたみ言、そしてまたイエスのみ言を聞いている人々の中で、人の子がその王権をもってこられるのを、生き残って見る者がいる(マタイ一六・28)と言われたみ言などを根拠として、イエスがユダヤ民族の内に再臨されるのだと信じている信徒たちが随分多い。しかしそれらはみな、神の根本摂理を知らないために、そのように考えるのである。
マタイ福音書二一章33節から43節によると、イエスはぶどう園の主人と農夫およびその息子と僕の例えをもって、自分を殺害する民族には再臨されないばかりでなく、その民族にゆだねた遺業までも奪いとって、彼の再臨のために実を結ぶ他の国と民族にそれを与えると、明らかに言われたのである。

イエスが十字架で亡くなられてからのちのイスラエル選民は、いったいだれなのであろうか。それは、とりもなおさず、アブラハムの信仰を受け継ぎ、その子孫が完遂できなかったみ旨を継承してきた、キリスト教信徒たちなのである。

「再臨されるメシヤのための基台」を造成しなければならないイスラエル選民とは、アブラハムの血統的な子孫をいうのではなく、あくまでもアブラハムの信仰を継承したキリスト教信徒たちをいうのだということが分かるのである。

(二)イエスは東の国に再臨される
ユダヤ人たちから奪った神の遺業を相続して実を結ぶ国はどの国なのであろうか。聖書はその国が「日の出づる方」すなわち東の方にあると教えているのである。
七章2節から3節を見ると、日の出る方、すなわち東の方から天使が上ってきて、最後の審判において選ばれた者に印を押したが、その印を押された者の数が十四万四千だと言った。そして黙示録一四章1節には、その十四万四千人の群れと共に小羊、すなわちイエスがおられたと書かれている。我々はこれらの聖句から推測して、イエスは日の出る方、すなわち東方の国に誕生なさって、そこでまず選ばれた十四万四千の群れの額に、小羊と父の印を押されるということを(黙一四・1)知ることができる。したがって、神の遺業を受け継いで、イエスの再臨のための実を結ぶ国は(マタイ二一・43)東方にあるということが分かってくる。

(三)東方のその国は、すなわち韓国である

古くから、東方の国とは韓国、日本、中国の東洋三国をいう。ところがそのうちの日本は代々、天照大神を崇拝してきた国として、更に、全体主義国家として、再臨期に当たっており、また、以下に論述するようにその当時、韓国のキリスト教を過酷に迫害した国であった(後編第五章第四節(三)(3)参照)。そして中国は共産化した国であるため、この二つの国はいずれもサタン側の国家なのである。したがって端的にいって、イエスが再臨される東方のその国は、すなわち韓国以外にない。

(1) この国は蕩減復帰の民族的な基台を立てなければならない

韓国がメシヤを迎え得る国となるためには、原理的に見て、天宙的なカナン復帰のための「四十日サタン分立の民族的な基台」を立てなければならないのである。

第一イスラエルは、民族的カナン復帰路程を出発するための「四十日サタン分立基台」を立てるために、当時サタン世界であったエジプトで、四〇〇年間を苦役したのであった。これと同じく、第二イスラエルも、世界的カナン復帰路程を出発するための「四十日サタン分立基台」を立てるために、当時、サタンの世界であったローマ帝国で、四〇〇年間迫害を受けながら闘い勝利したのである。したがって、韓国民族も、第三イスラエル選民となり、天宙的なカナン復帰路程を出発するための「四十日サタン分立基台」を立てるためには、サタン側のある国家で、四十数に該当する年数の苦役を受けなければならないのであり、これがすなわち、日本帝国に属国とされ、迫害を受けた四十年期間であったのである。

韓国民族は、一九〇五年の乙巳保護条約以後一九四五年解放されるときまで四十年間、第一、第二イスラエル選民が、エジプトやローマ帝国で受けたそれに劣らない迫害を受けたのである。そして、この独立運動が主に国内外のキリスト教信徒たちを中心として起こったので、迫害を受けたのが主としてキリスト教信徒たちであったことはいうまでもない。

(2) この国は神の一線であると同時にサタンの一線でなければならない

人間始祖が堕落するときに、天の側とサタンの側が一点において互いに分かれるようになったので、

これらが、アベルとカインの二つの型の世界として、各々分離されることにより、民主と共産の二つの世界として結実したのであり、それらが再び韓国を中心として、世界的な規模で衝突するようになったのである。それゆえ、宗教と思想、政治と経済など、あらゆるものが、韓国において摩擦しあい、衝突して、大きな混乱を巻き起こしては、これが世界へと波及していくのである。

(3) この国は神の心情の対象とならなければならない

神の心情の対象となるためには、まず、血と汗と涙の道を歩まなければならない。

神のみ旨を代表してサタン世界と戦う個人と家庭と民族とは、常に血と汗と涙の道を免れることがなかったのである。悲しまれる父母の心情の対象となって、忠孝の道を歩んでいく子女が、どうして安逸な立場でその道を歩むことができるであろうか。それゆえ、メシヤを迎え得る民族は、神の心情の対象として立つ孝子、孝女でなくてはならないので、当然血と汗と涙の路程を歩まなければならないのである。

韓国民族が歩んできた悲惨な歴史路程は、このように神の選民として歩まなければならない当然の道であったので、実際には、その苦難の道が結果的に韓国民族をどれほど大きな幸福へ導くものとなったかもしれないのである。
つぎに、神の心情の対象となる民族は、あくまでも善なる民族でなければならない。韓国民族は単一血統の民族として、四〇〇〇年間悠久なる歴史を続け、高句麗、新羅時代など強大な国勢を誇っていたときにも侵攻してきた外国勢力を押しだすにとどまり、一度も他の国を侵略したことはなかった。

韓国民族は先天的に宗教的天稟をもっている。

韓国民族は民度が非常に低かった古代から今日に至るまで敬天思想が強く、いたずらに自然を神格化することによって、そこから現実的な幸福を求めるたぐいの宗教は崇敬しなかった。そうして、韓国民族は古くから、忠、孝、烈を崇敬する民族性をもっているのである。この民族が「沈清伝」や「春香伝」を民族を挙げて好むのは、忠、孝、烈を崇敬する民族性の力強い底流からきた性向なのである。

(4) この国には預言者の証拠がなければならない

韓国民族に下された明白な預言者の証拠として、第一に、この民族は啓示によって、メシヤ思想をもっているという事実である。

第三イスラエル選民たる韓国民族も李朝五〇〇年以来、この地に義の王が現れて千年王国を建設し、世界万邦の朝貢を受けるようになるという預言を信じる中で、そのときを待ち望みつつ苦難の歴史路程を歩んできたのであるが、これがすなわち、 鄭鑑録信仰による韓国民族のメシヤ思想である。

第二に、この民族が信じている各宗教の開祖が、すべてこの国に再臨するという啓示をその信徒たちが受けているという事実である。

第三に、イエスの韓国再臨に関する霊通人たちの神霊の働きが雨後の竹の子のように起こっているという事実である。使徒行伝二章17節に、終末においては神の霊をすべての人に注ぐと約束されたみ言があるが、このみ言どおりの現象が韓国民族の中で起きているのである。それゆえに、数多くの修道者たちが雑霊界から楽園級霊界に至るまでの様々の層の霊人たちと接触するなかで、それぞれ、主の韓国再臨に関する明確な啓示を受けているのである。

(5) この国であらゆる文明が結実されなければならない

有史以来、全世界にわたって発達してきた宗教と科学、すなわち、精神文明と物質文明とは、韓国を中心として、みな一つの真理によって吸収融合され、神が望まれる理想世界のものとして結実しなければならないのである。

第一に、陸地で発達した文明も韓国で結実しなければならない。

第二に、河川と海岸を中心とした文明も韓国が面する太平洋文明として結実しなければならない。

第三に、気候を中心とした文明も韓国で結実しなければならない。

2011年4月12日火曜日

第六章 再 臨 論

第六章 再 臨 論
第一節 イエスはいつ再臨されるか
第二節 イエスはいかに再臨されるか
第三節 イエスはどこに再臨されるか
第四節 同時性から見たイエス当時と今日
第五節 言語混乱の原因とその統一の必然性

イエスは、再臨するということを明確に言われた(マタイ一六・27)。しかし、その日とそのときは、天使もイエスもだれも知らないと言われた(マタイ二四・36)。それゆえ、今までイエスがいつ、どのようにして、どこに来られるかということに関しては、それについて知ろうとすることそれ自体が無謀なことのように考えられてきた。
しかしながら、イエスが繰り返し、「ただ父だけが知っておられる」と言われた事実や、アモス書三章7節において、「まことに主なる神はそのしもべである預言者にその隠れた事を示さないでは、何事をもなされない」と言われたみ言などを総合して考えると、その日、そのときを知っておられる神は、イエスの再臨に関するあらゆる秘密を、必ず、ある預言者に知らせてから摂理されるであろうということを、知ることができる。

神は、イエスの再臨に関しても、終末のときには神の霊をすべての人に注ぐと約束されたように(使徒二・17)、光の中にいるすべての信徒たちを通じて、耳と目とをもっている人たちには、必ず見ることができ、聞くことができるように、啓示してくださることは明らかである。

第一節 イエスはいつ再臨されるか

イエスが再臨されるときのことを、我々は終末という。ところで、現代がすなわち終末であるということに関しては、既に前編の人類歴史の終末論において明らかにした。したがって、我々は、現代がとりもなおさず、イエスの再臨なさるときであるということを知ることができるのである。

蕩減復帰の原則から見れば、前時代を実体的な同時性をもって蕩減復帰する再蕩減復帰摂理時代(新約時代)の二〇〇〇年が終わるころに、イエスが再臨されるであろうということを、我々は知ることができるのである。

我々は、第一次世界大戦が終了したあとから再臨期が始まったと見なければならないのである。


第二節 イエスはいかに再臨されるか
(一)聖書を見る観点
(二)イエスの再臨は地上誕生をもってなされる
(三)雲に乗って来られるという聖句は何を意味するのか
(四)イエスはなぜ雲に乗って再臨されると言われたのか

(一)聖書を見る観点
神は、時ならぬ時に、時のことを暗示して、いかなる時代のいかなる環境にある人でも、自由にその知能と心霊の程度に応じて、神の摂理に対応する時代的な要求を悟るようにさせるため、すべての天倫に関する重要な問題を、象徴と比喩とをもって教示してこられたのである(ヨハネ一六・25)。
聖書を解釈するに当たっては、その観点をどこにおくかということが、最も重要な問題であるといわなければならない。

(二)イエスの再臨は地上誕生をもってなされる

ルカ福音書一七章24節から25節を見ると、イエスは将来、彼が再臨されるときに起こる事柄を予想されながら、「人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない」と言われたのであった。

イエスは、このような御自身を顧みられるとき、再臨なさるときにもまた、初臨のときと同様、天だけを仰ぎ見ながらメシヤを待ち焦がれるであろうところのキリスト教信徒たちの前に、地上から誕生された身をもって、盗人のように現れるなら(黙三・3)、再び彼らに異端者として追われ、苦しみを受けることが予想されたので、そのようにこの時代の人々から捨てられなければならないと言われたのであった。

ルカ福音書一八章8節を見ると、イエスが、「あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさばいてくださるであろう。しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」と言われたみ言がある。

将来再臨されるときにおいても、すべての信徒たちが、イエスが雲に乗って再臨されるものと信じ、天だけを眺めるであろうから、御自分が再び地上に肉身をもって現れるなら、彼らも必ずこのユダヤ人たちと同じく、信仰という言葉さえも見られないほどに不信仰に陥るであろうということを予想されて、そのように嘆かれたのであった。

再び我々は、イエスが、マタイ福音書七章22節から23節にかけて、「その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』」と言われたみ言のあるのを見いだす。

創造原理において詳しく述べたように、神は無形、有形の二つの世界を創造されたのち、その祝福のみ言のとおりに、二つの世界を主管させるために、人間を霊人体と肉身との二つの部分をもって創造されたのであった。しかしながら、アダムが堕落し、

今まで地上において霊肉共に完成し、無形、有形二つの世界を主管することによって、それらを一つに和動し得た人間は、一人もいなかったのである。したがって、このような基準の完成実体として再臨されるイエスは、霊体であってはならないのである。初臨のときと同様、霊肉共に完成した存在として来られ、全人類を霊肉併せて彼に接がせて、一つの肢体となるようにすることによって(ロマ一一・17)、彼らが霊肉共に完成し、無形、有形二つの世界を主管するようになさしめなくてはならないのである。

彼が再臨されても、初臨のときと同様、地上天国をつくられ、そこで全人類の真の親となられ、また王とならなければならないのである。それゆえに、イエスは再臨されるときにも、初臨のときと同様、肉身をもって地上に誕生されなければならないのである。
また、人間の贖罪は、彼が地上で肉身をつけている場合にのみ可能なのである(前編第一章第六節(三)(3))。それゆえに、イエスは、この目的を達成するため、肉身をもって降臨されなければならなかったのである。

今まで調べてきた、あらゆる論証に立脚してみるとき、イエスの再臨が、地上に肉身をもって誕生されることによってなされるということは、だれも疑う余地のないものといわなければならない。

2011年4月10日日曜日

第五章 メシヤ再降臨準備時代 第四節より

第四節 世 界 大 戦

(一)蕩減復帰摂理から見た世界大戦の原因
(二)第一次世界大戦
(三)第二次世界大戦
(四)第三次世界大戦

(一)蕩減復帰摂理から見た世界大戦の原因
戦争は、いつでも政治、経済、思想などが原因となって起こるようになる。しかし、このようなことはあくまでも外的な原因にすぎないのであって、そこには必ず内的な原因があるということを知らなければならない。

蕩減復帰摂理から見た世界大戦の内的な原因は何なのだろうか。第一に、主権を奪われまいとするサタンの最後の発悪によって、世界大戦が起こるようになるのである。

第二に、神の三大祝福を成就した型の世界を、サタンが先に非原理的につくってきたので、これを復帰する世界的な蕩減条件を立てるために世界大戦が起こるのである。

第三に、イエスの三大試練を世界的に越えるために世界大戦が起こるようになる。

第四に、主権復帰のための世界的な蕩減条件を立てるために、世界大戦が起こるようになる。

(二)第一次世界大戦
(1) 第一次世界大戦に対する摂理的概要

第一次世界大戦は、政治的な面から見れば、アベル型の民主主義により復帰摂理の目的を指向する民主主義政体と、カイン型の民主主義により復帰摂理の目的に反する全体主義政体との戦争であった。また、経済的な面から見れば、これは、天の側の帝国主義とサタン側の帝国主義との戦争であった。

第一次世界大戦を思想的な面から見れば、当時のキリスト教を迫害した回教国家であるトルコ、および、これを支持したドイツやオーストリアなどカイン型の国家群と、主にキリスト教を信奉した米、英、仏などアベル型の国家群との間に展開された戦争であったのである。結論的にいうと、第一次大戦は、アベル型の人生観の目的を実現すべき民主主義が、蘇生的な勝利の基盤を造成する戦争であったのである。

(2) 天の側とサタンの側との区別は何によって決定されるか
天(神)の側とサタンの側との区別は神の復帰摂理の方向を基準として決定される。神の復帰摂理の方向と同じ方向を取るか、あるいは間接的でもこの方向に同調する立場をとるときこれを天の側といい、これと反対になる立場をサタンの側という。

第一次世界大戦において、米、英、仏、露など、連合国側の主動国家はキリスト教国家であるばかりでなく、回教国であるトルコ内で迫害を受けていたキリスト教徒を解放させようとした国家であるので、みな天の側になり、ドイツやオーストリアなど同盟国側の主動国家は、キリスト教を迫害する回教国家であったトルコを支持したので、それらの国家はみなトルコと共にサタン側となったのである。

(3) 復帰摂理から見た第一次世界大戦の原因

復帰摂理から見て、第一次世界大戦が起こるようになった内的な原因の第一は、神の三大祝福を復帰する蘇生的な蕩減条件を世界的に立てようとするところにあった。

第二に、イエスに対するサタンの第一次試練を、天の側の地上人をして世界的に越えさせるために、第一次世界大戦がなければならない。ゆえに、イエスが受けた試練を中心として見れば、天の側では第一次大戦に勝利し神の第一祝福を世界的に復帰できる蕩減条件を立てなければならなかった。なぜならば、イエスが荒野で第一次試練に勝利して、石で表示されたイエス自身を取り戻して個性復帰の基台を造成したように、天の側では第一次世界大戦に勝利することによって、サタン側の世界とその中心を滅ぼし、その反面、天の側の世界を立てて、その中心たる再臨主の誕生を迎え、個性復帰のための基台をつくらなければならなかったからである。

第三に、主権復帰の蘇生的な基台を造成するために第一次世界大戦がなければならない

結果として現れた事実が物語っているように、第一次大戦で天の側の国家が勝利し、政治版図を拡大させて、世界をキリスト教化した。また、天の側の、広範囲で確固とした政治および経済の基台を造成して、民主主義の蘇生的な基台を確立すると同時に、天の側の主権復帰の蘇生的な基台をつくらなければならなかったのである。

(4) 復帰摂理から見た第一次大戦の結果

第一次世界大戦で天の側が勝利することにより、神の三大祝福を世界的に復帰するための蘇生的な蕩減条件を立てるようになった。イエスに対するサタンの試練を世界的に越える立場から見れば、神の第一祝福を世界的に復帰できる蕩減条件を立て、ここで民主主義が蘇生的な勝利を得るようになり、天の側の主権復帰の蘇生的な基台を造成したのである。

天の側の世界の王として来られる再臨主の誕生される基台が造成されたのである。

第一次世界大戦においては、天の側の勝利によってメシヤ再降臨の基台が造成され、そのときから再臨摂理の蘇生期が始まったのである。

(三)第二次世界大戦
(1) 第二次世界大戦に対する摂理的概要
第二次世界大戦は、第一次大戦によって得た蘇生的な勝利の基台の上に立つ民主主義が、人間本性の指向する道をふさぐ全体主義と戦って、長成的な勝利の基盤を造成する戦争であったのである。

(2) 全体主義とは何か

(3) 第二次世界大戦における天の側国家とサタン側国家

第二次世界大戦は、民主主義によって結託した米、英、仏の天の側国家と、全体主義によって結託した独、日、伊のサタン側国家との対戦であった。

(4) 天の側とサタン側が各々三大国に対立した理由
元来神の三大祝福が完成されなかったのは、アダム、エバ、天使長の三存在が堕落してしまったからであった。

イエスを中心とする三大祝福を復帰するための、長成的な蕩減条件を、世界的に立てるべき第二次世界大戦も、アダム、エバ、天使を象徴する天の側の国家が中心となり、同一の型を備えたサタン側の国家と戦って勝利し、それを蕩減復帰する条件を立てなければならない。ゆえに、これを知っているサタンは、この摂理に先立って、サタン側のアダム、エバ、天使型の国家を先に団結させ、天の側のそのような型の国々に向かって攻勢をかけさせたのである。
アメリカは男性国家として天の側のアダムを、イギリスは女性国家として天の側のエバを、フランスは中間的な国家として天の側の天使長を各々象徴し、ドイツは男性国家としてサタン側のアダムを、日本は女性国家としてサタン側のエバを、イタリアは中間的な国家としてサタン側の天使長を各々象徴したのである。

(5) 復帰摂理から見た第二次世界大戦の原因
復帰摂理から見て、第二次世界大戦が起こるようになった内的な原因の第一は、神の三大祝福を復帰する長成的な蕩減条件を世界的に立てようとするところにあった。

第二に、イエスに対するサタンの第二の試練を、天の側の地上人をして世界的に越えさせるために第二次世界大戦がくるようになる。ゆえに、イエスが受けた試練を中心として見れば、天の側では第二次大戦で勝利して、神の第二祝福を世界的に復帰できる蕩減条件を立てなければならなかった。なぜならば、イエスが荒野で第二の試練に勝利して子女復帰の基台を造成されたように、天の側の世界が第二次大戦に勝利することによって、民主主義の長成的な基台を造成し、天の側の人間たちが天の世界的な基盤をつくらなければならなかったからである。
第三に、主権復帰の長成的な基台を造成するために第二次世界大戦が起こるようになったのである。

(6) 復帰摂理から見た第二次世界大戦の結果
第二次世界大戦が天の側の勝利に終わったので、神の三大祝福を世界的に復帰するための長成的な蕩減条件を立てることができた。イエスに対するサタンの試練を世界的に越える立場から見れば、神の第二祝福を世界的に復帰できる蕩減条件を立て、また民主主義世界が長成的な基盤をつくって、主権復帰の長成的な基台を造成するようになったのである。

(四)第三次世界大戦
(1) 第三次世界大戦は必然的に起こるのであろうか

人類歴史の終末には、サタン側も天の側もみな世界を主管するところまで行かなければならないので、民主と共産の二つの世界が両立するようになる。そして、この二つの世界の最終的な分立と統合のために世界大戦が起こるようになるのである。このように、第一次、第二次の大戦は、世界を民主と共産の二つの世界に分立するための戦いであり、このつぎには、この分立された二つの世界を統一するための戦いがなければならないが、これがすなわち第三次世界大戦なのである。第三次世界大戦は必ずなければならないが、その戦いには二つの道がある。

(2) 第三次世界大戦に対する摂理的概要
第三次大戦は、復帰摂理が始められてからこのかた最終的に、民主世界によって共産世界を屈伏させ、理想世界を復帰させようとする戦争である。

第三次大戦によっては、新しい真理により完全なアベル型の人生観を立てて民主世界の完成的な基台を造成しなければならず、この基台の上で全人類を一つの世界へと導いていかなければならないのである。

(3) 復帰摂理から見た第三次世界大戦の原因

とにかくどのような道であるにもせよ、世界的な戦いが必ずもう一度なければならないということだけは確かである。

内的な原因は何だろうか。第一に、神の三大祝福を復帰する完成的な蕩減条件を世界的に立てるためである。

第二に、イエスに対するサタンの第三次試練を、天の側の地上人をして世界的に越えさせるために第三次大戦がくるようになる。ゆえに、イエスが受けた試練を中心として見れば、天の側では第三次大戦で勝利することによって、神の第三祝福を世界的に復帰できる蕩減条件を立てなければならない。なぜなら、イエスが荒野で第三次試練に勝利して万物に対する主管性復帰の基台を造成したように、天の側が第三次大戦で勝利することによって、被造世界全体に対する人間の主管性を復帰しなければならないからである。
第三に、主権復帰の完成的な基台を造成するために第三次大戦が起こらなければならない。それは、天の側で第三次大戦に勝利して共産主義世界を壊滅させ、すべての主権を神の前に取り戻して天宙主義の理想世界を実現しなければならないからである。

(4) 復帰摂理から見た第三次世界大戦の結果

神は、復帰摂理の最終的摂理である三次の大戦に勝利することによって、三段階まで延長を繰り返してきた摂理路程の全体を蕩減復帰なさろうとするのである。

復帰摂理は、堕落人間が神の命のみ言により、神に対する心情を復帰して霊肉共に救いを受け、神の血統を再び受け継いで完成されるのである
三次にわたる世界大戦における天の側の勝利は、このような復帰摂理のすべての基台を完全に蕩減復帰して、人間が堕落してからのちの悠久なる歴史の期間を通じて、神が完成させようとされてきた創造本然の理想世界を実現していくようになるのである。

2011年3月25日金曜日

第五章 メシヤ再降臨準備時代 第三節より

第三節 政治、経済および思想の成熟期(一七八九~一九一八)
(一)民主主義
(二)三権分立の原理的意義
(三)産業革命の意義
(四)列国の強化と植民地の分割
(五)文芸復興に伴う宗教、政治および産業革命

この二つの人生観はそれぞれの方向に従って成熟するようになった。そして、それらの思想の成熟につれて、カイン、アベルの二つの世界が形成されていったのである。

フランス革命とイギリスの産業革命以後、第一次世界大戦が終わるころまでがこのような摂理期間であったのである。
(一)民主主義
いかなる思想の流れに乗って今日の民主主義が出てくるようになったのか、その内的な経緯を調べてみることにしよう。

十七世紀中葉に至ると、諸侯たちは民族を単位とする統一国家を立てて国王のもとに集中し、中央集権による絶対主義国家(専制主義国家)を形成するようになったのである。この時代は、王権神授説などの影響で、国王に絶対的な権限が賦与されていた専制君主時代であった。

この二つの型の人生観は共に、この社会を打破する方向に進み、ついには、カイン、アベル二つの型の民主主義に立脚した共産と民主の二つの型の社会を形成したのである。

(1) カイン型の民主主義
カイン型の民主主義は、フランス革命によって形成された。したがって、この問題を論ずるためには、まずフランス革命について論じなければならない。当時フランスは、カイン型の人生観の影響によって、無神論と唯物論の道へと流れこんだ啓蒙思想が、怒濤のように押し寄せた時代であった。したがって、このような啓蒙思想に染まっていた市民階級は、絶対主義に対する矛盾を自覚するようになり、それに従って、絶対主義社会内にまだ深く根を下ろしている旧制度の残骸を、打破しようとする意識が潮のように高まっていたのである。
そこで市民たちが、一七八九年、啓蒙思想の横溢により絶対主義社会の封建的支配階級を打破すると同時に、第三階級(市民)の自由平等と解放のために、民主主義を唱えながら起こった革命が、すなわち、フランス革命であった。この革命により、「人権宣言」が公表されることによって、フランスの民主主義は樹立されたのである。しかし、フランス革命による民主主義は、あくまでもカイン型の人生観を立てるために、唯物思想に流れこんだ啓蒙思想が、絶対主義社会を打破しながら出現したものであるから、これをカイン型の民主主義というのである。

このようにカイン型の人生観は啓蒙思想を立ててフランス革命を起こし、カイン型の民主主義を形成した。これが神の側に復帰しようとする人間本性の内的な追求の道を完全に遮り、外的にばかりますます発展し、ドイツでのマルクス主義とロシアでのレーニン主義として体系化されることにより、ついには共産主義世界を形成するに至ったのである。

(2) アベル型の民主主義
イギリスやアメリカで実現された民主主義は、フランス大革命によって実現された民主主義とはその発端から異なっている。

前者は、アベル型人生観の結実体である熱狂的なキリスト教信徒たちが信教の自由を求めるために絶対主義と戦い、勝利して実現したアベル型の民主主義であったのである。

イギリスの専制主義王制のもとで弾圧を受けていた清教徒たちが、信仰の自由を得るためにアメリカの新大陸へ行き、一七七六年に独立国家を設立してアメリカの民主主義を樹立したのであった。このように、英米で樹立された民主主義は、アベル型の人生観を中心として、信仰の自由を求めるために、絶対主義社会を改革しようとする革命によって樹立されたので、これをアベル型の民主主義という。このようにしてアベル型の民主主義は今日の民主主義世界を形成するようになったのである。

(二)三権分立の原理的意義
三権分立思想は、絶対主義の政治体制によって、国家の権力が特定の個人や機関に集中するのを分散させるために、啓蒙思想派の重鎮であったモンテスキュー(Montesquieu 1689~1755)によって提唱されたが、これはフランス革命のとき「人権宣言」の宣布によって実現された。しかし元来、この三権分立は、天の側で成し遂げようとした理想社会の構造であって、復帰摂理の全路程がそうであるように、これもまたサタン側で、先に非原理的な原理型として成し遂げたのである。

理想社会においても、あらゆる社会の人々が神と縦的な関係を結ぶことによって横的な関係をも結ぶようになるので、喜怒哀楽を共にする一つの有機体をつくるようになるのである。

今日の民主主義政体は、三権に分立され、また政党が組織されることによって、ついに人間一人の構造に相似するようになったが、それはあくまでも、復帰されていない堕落人間と同じように、創造本然の機能がまだ発揮されずにいるのである。すなわち、政党は神のみ旨を知っていないのであるから、それは頭脳の命令を伝達することができなくなった脊髄と、それを中心とする末梢神経と同様のものであるといえるのである。すなわち、憲法が神のみ言から成り立っていないので、立法、司法、行政の三機関は、あたかも神経系統が切れて、頭脳からくる命令に感応できなくなった三臓器のように、それらは相互間の調和と秩序を失って、常に対立し、衝突するほかはないのである。

(三)産業革命の意義
神の創造理想は、単に罪のない社会をつくることだけで成し遂げられるのではない。人間は、万物を主管せよと言われた神の祝福のみ言どおり(創一・28)、被造世界に秘められている原理を探求し、科学を発達させて、幸福な社会環境をつくっていかなければならないのである。

理想社会の経済機構も、完成された人体の構造と同様でなければならないのであるから、前にも述べたとおり、生産と分配と消費は、人体における胃腸と心臓と肺臓のように、有機的な授受の関係をもたなければならない。

(四)列国の強化と植民地の分割
文芸復興以後、カイン、アベルの二つの型に分かれて成熟してきた人生観は、各々二つの型の政治革命を起こし、二つの型の民主主義を樹立した。この二つの型の民主主義は、みなイギリスの産業革命の影響を受けながら急速度に強化され、民主と共産二つの系列の世界を形成していくようになった。

(五)文芸復興に伴う宗教、政治および産業革命
カイン型であるヘレニズムの反中世的復古運動は、人本主義(Humanism)を生み、文芸復興(Renaissance)を引き起こした。これが、更にサタンの側に発展して、第二の文芸復興思潮といえる啓蒙思想を起こすようになった。この啓蒙思想が一層サタンの側に成熟して、第三の文芸復興思潮といえる唯物史観を生み、共産主義思想を成熟させたのである。

2011年3月24日木曜日

第五章 メシヤ再降臨準備時代

第五章 メシヤ再降臨準備時代

第一節 宗教改革期
第二節 宗教および思想の闘争期
第三節 政治、経済および思想の成熟期
第四節 世界大戦

メシヤ再降臨準備時代とは、西暦一五一七年の宗教改革が始まったときから、一九一八年第一次世界大戦が終わるまでの四〇〇年間をいう。


第一節 宗教改革期(一五一七~一六四八)
(一)文芸復興
(二)宗教改革

西暦一五一七年、ドイツでルターが宗教改革の旗を揚げたときから、一六四八年、ウェストファリア条約によって新旧両教徒間の闘争が終わるまでの一三〇年の期間を、宗教改革期と称する。

神が中世社会を通して成し遂げようとされた摂理の目的を成就できなくなったとき、これを新しい摂理歴史の方向へ転換させて、「再臨のメシヤのための基台」を造成していくに当たって中枢的な使命を果たしたのが、正に文芸復興(Renaissance)と宗教改革(Reformation)であった。

中世は、封建制度とローマ・カトリックの世俗的な堕落からくる社会環境によって、人間の本性が抑圧され、自由な発展を期待することができない時代であった。

中世封建時代の社会環境は、人間の創造本性を復帰する道を遮っていた。ゆえに、このような環境の中に束縛されていた中世の人たちは、本性的にその環境を打ち破って、創造本性を復帰しようとする方向へ向かって動かざるを得なかったのである。

「信仰基台」を復帰する、内的な使命を果たすべきであった法王たちの淪落によって、侵入したサタンを分立して、創造本性を復帰しようとした中世の人々は、その本性の内外両面の追求によって、中世的指導精神をカインとアベルの二つの型の思想の復古運動として分立させたのであった。その第一は、カイン型思想であるヘレニズムの復古運動であり、第二は、アベル型思想であるヘブライズムの復古運動である。ヘレニズムの復古運動は、人本主義の発現である文芸復興を引き起こし、ヘブライズムの復古運動は、神本主義の復活のための宗教改革を引き起こしたのである。

神は、あたかもアダムに侵入したサタンを分立なさるために、アダムをカインとアベルに分立されたように、このときにもその指導精神を二つの思想に再分立する摂理をされたのである。それがすなわち、カイン型のヘレニズムの復古運動と、アベル型のヘブライズムの復古運動であった。そしてこれらはついに、各々文芸復興と宗教改革として現れたのである。

(一)文芸復興

中世社会の人々の本性から生ずる外的な追求は、ヘレニズムの復古運動を起こし、この運動によって文芸復興が勃興してきたことについては既に論述した。

このルネッサンスは、十四世紀ごろから、ヘレニズムに関する古典研究の本場であるイタリアにおいて胎動しはじめた。この人本主義運動は、初めは中世の人々をギリシャの古代に帰らせ、その精神を模倣させようとする運動から始まったが、それが進むにつれて、この運動は古典文化を再生し、中世的社会生活に対しての改革運動に変わり、また、これは単に文化の方面だけにとどまったのではなく、政治、経済、宗教など、社会全般にわたる革新運動へと拡大され、事実上、近代社会を形成する外的な原動力となったのである。このように、人間本性の外的な欲望を追求する時代的な思潮であった人本主義(あるいは人文主義)が、封建社会全般に対する外的な革新運動として展開された現象をルネッサンス(文芸復興)と呼ぶのである。

(二)宗教改革
中世の人々が人本主義を唱えるにつれて、人々は人間の自由を束縛する形式的な宗教儀式と規範とに反抗し、人間の自主性を蹂躙する封建階級制度と法王権に対抗するようになったのである。さらにまた、彼らは人間の理性と理知を無視して、何事でも法王に隷属させなければ解決できないと考える固陋な信仰生活に反発し、自然と現実と科学を無視する遁世的、他界的、禁欲的な信仰態度を排撃するようになった。こうしてついに、中世のキリスト教信徒は法王政治に反抗するようになったのである。
このようにして、中世社会の人々がその本性の外的な欲望を追求するにつれて、その反面、抑圧されていた本性の内的な欲望をも追求するようになり、ついには、使徒たちを中心として神のみ旨のみに従った熱烈な初代キリスト教精神への復古を唱えるようになった。これがすなわち、中世におけるヘブライズムの復古運動である。

一五一七年、法王レオ十世が、聖ペテロ寺院の建築基金を募集するために、死後に救いを受ける贖罪の札であると宣伝して免罪符を売るようになると、この弊害に対する反対運動が導火線となって、結局ドイツにおいてウィッテンベルク大学の神学教授であったマルティン・ルター(Martin Luther 1483~1546)を中心として宗教改革運動が爆発したのであった。この革命運動ののろしは次第に拡大され、フランスではカルヴィン(Calvin 1509~1564)、スイスではツウィングリ(Zwingli 1484~1531)を中心として活発に伸展し、イギリス、オランダなどの諸国へと拡大されていったのである。

新教運動を中心として起こった国際間の戦いは百余年間も継続してきたが、ドイツを中心として起こった三十年戦争が一六四八年ウェストファリア条約によってついに終結し、ここにおいて新旧両教徒間の戦いに一段落がついたのである。

第二節 宗教および思想の闘争期(一六四八~一七八九)
(一)カイン型の人生観
(二)アベル型の人生観

この期間は、西暦一六四八年ウェストファリア条約によって新教運動が成功して以後、一七八九年フランス革命が起こるまでの一四〇年期間をいう。文芸復興と宗教改革によって人間本性の内外両面の欲望を追求する道を開拓するようになった近世の人々は、信教と思想の自由から起こる神学および教理の分裂と、哲学の戦いを免れることができなくなっていた。

(一)カイン型の人生観
人間本性の外的な追求は、ヘレニズムの復古運動を起こして人本主義を生みだした。そして、この人本主義を基盤にして起こった反中世的な文芸復興運動は、神への帰依と宗教的な献身を軽んじ、すべてのことを自然と人間本位のものに代置させたのである。すなわち、神に偏りすぎて自然や人間の肉身を軽視し、それらを罪悪視するまでに至った中世的な人生観から、理性と経験による合理的な批判と実証的な分析を通じて人間と自然を認識することにより、彼らの価値を高める人生観を確立したのである。このような人生観は、自然科学の発達からくる刺激により、人生に対する認識と思惟の方法論において二つの形式をたどるようになった。そしてこれらが近世哲学の二大潮流をつくったのであるが、その一つは演繹法による理性論であり、もう一つは帰納法による経験論である。

文芸復興は、人文主義から流れてきた二つの思潮に乗って、人間がその内的な性相に従って神の国を復帰しようとするその道を遮り、外的な性向のみに従ってサタンの側に偏る道を開く人生観を生みだした。これが正にカイン型の人生観であった。

マルクス(Marx 1818~1883)とエンゲルス(Engels 1820~1895)は、シュトラウスやフォイエルバッハの影響を受けたが、それよりもフランスの社会主義思想から大きな影響を受けて弁証法的唯物論を提唱し、文芸復興以後に芽生えはじめて、啓蒙思潮として発展してきた無神論と唯物論とを集大成するに至った。その後、カイン型の人生観は一層成熟して、今日の共産主義世界をつくるようになったのである。

(二)アベル型の人生観

中世の人々の本性的な追求は、このような外的なものにばかりとどまったのではなく、より深く内的なものをも追求するようになったのである。彼らの本性の内的な追求が、ヘブライズムの復古運動を発生せしめることによって宗教改革運動を起こし、この運動によって哲学と宗教は創造本性を指向する立体的な人生観を樹立したのであった。これを我々は、アベル型の人生観という。したがって、カイン型の人生観は、中世の人々を神と信仰から分離、あるいは独立させる方向へ傾かせたが、このアベル型人生観は、彼らをして一層高次的に神の側へ指向するように導いてくれたのである。

アベル型の人生観は成熟して、今日の民主主義世界をつくるようになったのである。

2011年3月23日水曜日

第四章 摂理的同時性から見た復帰摂理時代と 復帰摂理延長時代 第六節

第六節 メシヤ降臨準備時代とメシヤ再降臨準備時代

イスラエル民族は、バビロンの捕虜の立場から、エルサレムに戻ってのち、メシヤ降臨準備時代の四〇〇年を経て、イエスを迎えたのであった。ゆえに、これを蕩減復帰するためには、キリスト教信徒たちも、法王がアヴィニョン捕虜生活からローマに帰還してのち、メシヤ再降臨準備時代の四〇〇年を経て、初めて再臨なさるイエスを迎え得るようになっているのである。

バビロンの捕虜生活から帰還してきたイスラエル民族は、ネブカデネザル王によって破壊された神殿を新築し、また、マラキ預言者の指導によって、邪神を崇拝してきた過去の罪を悔い改めながら、律法を研究し、信仰の刷新運動を起こすことによって「信仰基台」を復帰してきたのである。これと同じく、法王がローマに帰還したのちの中世におけるキリスト教信徒たちは、ルターなどを中心として、宗教の改革運動を起こし、中世暗黒時代の暗雲を貫いて、新しい福音の光に従い、信仰の新しい道を開拓することによって、「信仰基台」を復帰してきたのであった。

また、異邦人たちに対しては、これとほとんど同時代に、インドの釈迦牟尼(前五六五~四八五)によって印度教を発展せしめ、仏道の新しい土台を開拓するように道を運ばれたし、ギリシャでは、ソクラテス(前四七〇~三九九)の手でギリシャ文化時代を開拓せしめ、また、東洋においては、孔子(前五五二~四七九)によって儒教をもって人倫道徳を立てるようにされるなど、各々、その地方とその民族に適応する文化と宗教を立てられ、将来来られるメシヤを迎えるために必要な、心霊的準備をするように摂理されたのである。それゆえに、イエスはこのように準備された基台の上に来られ、キリスト教を中心としてユダヤ教(Hebraism)を整理し、ギリシャ文化(Hellenism)、および、仏教(Buddhism)と儒教(Confucianism)などの宗教を包摂することによって、その宗教と文化の全域を、一つのキリスト教文化圏内に統合しようとされたのである。

文芸復興時代は、メシヤ再降臨のためのその時代的な背景と環境とを造成するための時代であったのである。

イエスのときには、ローマ帝国の勃興により、地中海を中心として形成された広大な政治的版図と、四方八方に発達した交通の便、そして、ギリシャ語を中心として形成された広範なる文化的版図などによって、キリストを中心とするイスラエル、イスラエルを中心とするローマ、ローマを中心とする世界へと、メシヤ思想が急速に拡張し得る平面的な基台が、既に造成されていたのであった。これと同じく、彼の再臨のときに当たる今日においても、列強の興隆により、自由を基盤とした民主主義の政治的版図が全世界的に広められているのであり、交通および通信の飛躍的な発達によって、東西の距離は極度に短縮され、また、言語と文化とが世界的に交流しあい、メシヤ再降臨のための思潮が、自由にかつ迅速に、全人類の胸底に流れこむことができるように、既に、その平面的版図が完全に造成されているのである。

第七節 復帰摂理から見た歴史発展
(一)復帰摂理時代における歴史発展
(二)復帰摂理延長時代における歴史発展

創造原理で、既に論じたように、地上天国は、完成した人間一人の姿と同じ世界である。したがって、堕落した世界は、堕落した人間一人の姿に似ているということができる。ゆえに、我々は堕落した人間一人の生活を調べてみることによって、人類罪悪史の全体的な動向を、のぞき見ることができるといわなければならない。

それ自身の内部で闘争を行っている各個体が、横的に連結して生活を営んでいるのが社会なので、そこでもまた、闘争が起こらざるを得ないようになっているのである。さらに、このように闘争によってもつれあっている社会生活が、時間の流れとともに、縦的に変転してきたのが、人類の歴史なので、この歴史は、必然的に闘争と戦争とをもって連係されるものとならざるを得ないのである。

このような人間たちによってつくられてきた歴史は、善悪が交錯する渦の中にありながら、大局的には、悪を退け、善を指向してきたというのが事実なのである。それゆえに、歴史が指向する終局的な世界は、すなわち善の目的が成就された天国でなければならないのである。

人間がサタンと血縁関係を結んだことにより、サタンは、堕落した人間を中心として、将来、神がつくろうとなさるものと同じ型の世界を、先立ってつくってきたので、結果的に、人類歴史は、原理型の非原理世界を形成してきたのであった。したがって、人類歴史の終末においては、神が地上天国を復帰される前に、サタンを中心とする、それと同じ型の非原理世界が、先につくられるようになっているのである。これが、すなわち、共産主義世界なのである。

(一)復帰摂理時代における歴史発展

堕落した人間たちによって、最初につくられた社会は原始共同社会であった。

神の復帰摂理に対応しようとする人間の本心の作用によって、サタンを中心として造成された原始共同社会には、最初から闘いによる分裂が生じていたのであった。

事実上、神はこのような罪悪世界から、善を中心とするアブラハムを呼びだされて、彼を通じて、神のみ旨を信奉し得る子女を繁殖することによって、イスラエルの氏族社会を立てられたのであった。その後、アブラハムの子孫たちは、エジプトに入って、氏族から部族へと発展してきたのであり、彼らがカナンに戻ってきたのちには、士師時代をつくったのであるが、この士師時代を中心として形成された社会が、すなわち、イスラエルの封建社会であったのである。

氏族社会が封建社会に発展するようになったのは、サタンの所有を天の側に奪い返すことによって、天の側の主権に属するより大きい版図を形成し、サタンの侵入を防ぐためであったのである。

イスラエルの封建社会をもって、サタン側の侵入を防ぐことができる小単位の天の側の主権と、民と、経済的な版図とを形成したのち、再びこれらを統合して、より大きい主権と、民と、経済的な版図とを拡張し強化するために、イスラエルの君主社会がつくられたのであったが、これが、すなわち、サウル王をもって始まった統一王国時代であった。

既に、前にも言及したように、イエスはどこまでも王の王として来られた方であった(黙一一・15)。それゆえに、神がイスラエル民族の君主社会を形成されたのは、将来メシヤが来られて、王の王として君臨することができるその基台を造成なさるためであったのである。

神はユダヤ王国を滅ぼされたのち、メシヤが降臨されるときまで、ユダヤ民族を多くの異邦に属するようになさることによって、この民族の王位を空位にしておかれたのであった。特に、ユダヤ民族を、民主主義の礎であるギリシャ文明圏内の属国となるように道を運ばれて、将来、メシヤが降臨されたとき、もしユダヤ民族が彼を歓迎するならば、民意によっていつでもメシヤが王位を継ぐことができるように、民主主義型の社会をつくっておかれたのであった。ところが、ユダヤ人たちの民意はイエスに王位を継がせるという方向を取らず、かえって、彼を十字架で殺害してしまったので、これをもってアブラハムの血統的な子孫を中心として成就されようとした二〇〇〇年の復帰摂理の目的は、霊的にしか達成されないようになったのである。

(二)復帰摂理延長時代における歴史発展
(1) 復帰摂理と西洋史

ユダヤ民族がイエスをメシヤとして信じ、彼に仕えて彼と一つになっていたならば、ローマ帝国を中心として地中海を基盤として成立していた古代の統一世界は、当然生きておられるイエスによって感化され、彼を王として信奉し、エルサレムを中心とする王国を建設し得たはずであった。

神の復帰摂理は、恨みの地ユダヤより、西ローマの版図であった西欧に移されていったのである。したがって、イエス以後におけるキリスト教による霊的復帰摂理は、西欧を土台として成就されてきたので、この時代の復帰摂理歴史は、西欧においてのみ、典型路程に従って発展するようになったのである。

(2) 宗教史と経済史と政治史との相互関係

人間は、堕落することにより、霊肉両面の無知に陥るようになったのである。ここにおいて、人間の霊的無知は宗教によって、また、その肉的無知は科学によって啓発されてきたのであるが、

探求していく対象が、宗教においては目に見えない原因の世界であるので、超現実的なものであるのに反し、科学においては目に見える結果の世界、すなわち、物質世界であり、これは現実的なものであるがゆえに、今まで、宗教と科学は、理論的に妥協することのできないものとして、衝突を免れ得なかった。

神は元来、人間の外的な肉身を先に創造され、その次に、内的な霊人体を創造されたので(創二・7)、再創造の原則によって、復帰摂理も、外的なものから内的なものへと復帰していく過程を踏むようになるのである。このような摂理的な原則から見ても、科学と宗教とは互いに調和することのできない発展過程を事実上歩んできたのである。
このような不調和は、宗教と経済との関係においても同じである。それは、経済もまた科学と同じく現実世界に属するものであり、その上、科学の発達と密接な関係をもって発展するものだからである。このような関係により、神の内的な摂理による宗教史と、その外的な摂理による経済史とは、その発展においても、互いに、方向と進度を異にせざるを得なかったのである。ゆえに、かかる神の復帰摂理の典型路程を歩んできた西欧における歴史発展を、摂理的な面から把握するためには、キリスト教史と経済史とを各々別に分けて考察しなければならないのである。

宗教と科学とは、したがって、宗教と経済とは、その発展過程において、互いに対立しあう側面をもちながらも、我々の社会生活と関係を結んで、それぞれが、各々キリスト教史と経済史とを、形成してきたのであった。では、それらは、我々の社会生活と、いかにして結びつくことができたのであろうか。それは、とりもなおさず、政治によって結ばれたのである。

その政治史は、宗教と経済とを調和させていくいま一つの新しい方向に向かうようになったのである。したがって、復帰摂理のための歴史の発展を正確に把握するためには、政治史に対してもこれまた、別途に考察することが必要となってくるのである。

(3) 氏 族 社 会

イエスを殺害したユダヤ民族は、既に、サタン側の系列に転落してしまったので、神はこの社会をそのままに放置しては復帰摂理をなさることができなかったのである。したがって、神はこの社会を分裂させ、その中から、篤実なキリスト教信徒だけを呼びだされて、彼らを中心としてキリスト教氏族社会を立てられたのである。

キリスト教氏族社会は、地中海を基盤とした古代統一世界の中で、ローマ帝国の厳しい迫害を受けながら繁栄し、キリスト教部族社会を形成するに至ったのであった。そして、四世紀後半から始まった民族大移動により、西ローマ帝国は、ついに四七六年に滅亡してしまい、その版図内に移動してきたゲルマン民族にキリスト教が浸透することによって、彼らを中心とした広範なキリスト教社会がつくられたのである。

(4) 封 建 社 会

歴史の発展過程において、氏族社会の次にくるものは、封建社会である。このような原則によって、西ローマ帝国の滅亡と前後して王権が衰退してしまい、国家が無秩序な状態に陥ったとき、封建社会が形成されはじめたのである。

神は、ゲルマン民族を、新しい選民として教化され、封建社会を樹立されることにより、衰亡した西欧の土台の上に、宗教と政治と経済の三面にわたる、小単位の天の側の版図を強化し、将来、天の側の王国を建設するための基台を、準備することができたのである。

(5) 君主社会と帝国主義社会

歴史の発展過程において、封建社会の次にくるのは君主社会である。

(6) 民主主義と社会主義

君主主義のあとにきたものは民主主義時代であった。ところで、君主主義時代がくるようになった理由は、既に明らかにしたように、将来、メシヤを王として迎えることができる王国を建設するためであったのである。しかるに、この時代が、そのような使命を完遂することができなかったので、神は、この社会を打ち壊し、メシヤ王国を再建するための新しい摂理をされるために、民主主義を立てられたのである。

人間は、このような理想をもって創造されたので、その理想を復帰し得る摂理歴史の終末期に至り、民主主義的な自由を獲得し、人間の本性を探し求めていくならば、結局、だれもがこのような社会主義的な生活体制を要求せざるを得ないようになるのである。したがって、民意がこのようなものを要求するようになれば、民意による政治も、そのような方向に向かって進まざるを得ないようになるので、最後には、神を中心とする社会主義社会が現れなければならない。

(7) 共生共栄共義主義と共産主義
天の側の社会主義社会を指向する人間の本心は、結局、共生共栄共義主義を主唱し、神の創造目的を完成した理想世界をつくるところにまで行かなければならないのであるが、この世界が、すなわち、再臨されるイエスを中心とする地上天国なのである。
サタンは、神の摂理を先立って成就していくので、サタンの側からは、先に、唯物史観に立脚した、いわゆる科学的社会主義を叫びながら共産主義世界へと進んでいく。

我々は、既に、西欧を中心としてつくられた復帰摂理歴史が、宗教史と政治史と経済史の三面に分立され、各各が、公式的な路程を通じて発展してきたということを明らかにした。それでは、これらはいったいどのようにすれば、お互いが同一の歴史路程に導かれて融合される摂理歴史をもって終結し、再臨理想の基台を準備することができるであろうか。

2011年3月22日火曜日

第四章 摂理的同時性から見た復帰摂理時代と 復帰摂理延長時代 第三節

第三節 統一王国時代とキリスト王国時代

統一王国時代に入るに従って、士師が第一イスラエルを指導した時代は過ぎさり、神の命令を直接受ける預言者と、幕屋と神殿を信奉する祭司長と、そして、国民を統治する国王が鼎立して、復帰摂理の目的を中心とする、各自の指導的な使命を遂行しなければならなくなった。それゆえに、この時代を実体的な同時性をもって蕩減復帰するキリスト王国時代においても、教区長が第二イスラエルを指導してきた時代は過ぎさり、預言者に該当する修道院と、祭司長に該当する法王と、そして国民を統治する国王とが、復帰摂理の目的を中心として、第二イスラエルを指導していかなければならなくなったのである。

事実、アブラハムから八〇〇年が経過したときに、預言者サムエルは、神の命を受けてサウルに油を注いで祝福することにより、彼を第一イスラエル選民の最初の王として立てたのである(サムエル上八・19~22、同一〇・1~24)。サウル王が、士師四〇〇年の基台の上で、彼の在位四十年を、神のみ旨にかなうように立てられたならば、彼は、エジプト苦役四〇〇年とモーセのパロ宮中四十年とを、共に蕩減復帰した立場に立つことができ、したがって彼は、「四十日サタン分立基台」の上で、「信仰基台」を立てることができたはずであった。

サウル王は、預言者サムエルを通して与えられた、神の命令に逆らったので(サムエル上一五・1~23)、神殿を建設することができなかったのである。

サウル王を中心とする復帰摂理も、モーセのときと同じように、ダビデ王の四十年を経て、ソロモン王の四十年に至り、初めてその「信仰基台」が造成されて神殿を建設することができたのである。

ソロモン王は淫乱に溺れて、実体献祭のためのアベルの立場を離れたので、「実体基台」はつくることができなかったのである。したがって、統一王国時代に成就されるべきであった「メシヤのための基台」は造成されなかった。

国王が神のみ旨を信奉し得ず、「実体献祭」をするための位置を離れてしまったので、実体基台は造成されず、したがって、「再臨されるメシヤのための基台」もつくられなかったのである。

第四節 南北王朝分立時代と東西王朝分立時代

サウルによって始まった統一王国時代は、ダビデ王を経て、ソロモン王に至り、その際、彼が王妃たちの信じていた異邦人の神々に香を焚き犠牲をささげた結果(列王上一一・5~9)、この三代をもって、カインの立場であった十部族を中心とする北朝イスラエルと、アベルの立場であった二部族を中心とする南朝ユダに、分立されてしまった。そして、南北王朝分立時代がくるようになったのである。これと同じように、チャールズ大帝によって始まったキリスト王国も、三代目に至って、孫たち三人の間に紛争が起こり、そのためこの立場は東、西両フランクとイタリアに三分されたのである。しかし、イタリアは東フランクの支配を受けたので、実際においては、東、西フランク王国に両分されたのと同様であった。

東フランクは、西フランクに対してアベルの立場に立つようになったのである。

南北王朝分立時代において、イスラエル民族が、神殿理想に相反する立場に立つたびに、神は、継続して、四大預言者と十二小預言者を遣わされて、彼らを励まし、内的な刷新運動を起こされたのである。しかし、彼らは、預言者たちの勧告に耳を傾けず、悔い改めなかったので、神は、彼らをエジプト、カルデヤ、シリヤ、アッシリヤ、バビロニアなどの異邦人たちに引き渡して、外的な粛清の摂理をされたのであった。
この時代を、実体的な同時性をもって蕩減復帰する東西王朝分立時代においても、同じく、法王庁が腐敗して、トマス・アクィナス、聖フランシスなど、修道院の人物たちが彼らに勧告して、内的な刷新運動を起こしたのである。しかし、彼らもまた悔い改めず、堕落と腐敗に陥ったため、神は彼らを異邦人たちに引き渡して、外的な粛清の摂理をなさったのであり、これがすなわち、十字軍戦争であった。

南北王朝分立時代において、北朝イスラエル王国と南朝ユダ王国の国民たちが、みな、異邦人の捕虜となって連れていかれたので、イスラエルの君主社会は、崩壊してしまった。これと同じく、東西王朝分立時代においても、十字軍が異教徒に敗れ、法王権が、その権威と信望とを完全に失墜するにつれて、国民精神は、その中心を失ってしまったのである。それだけでなく、封建社会を維持していた領主と騎士たちが、多く戦死してしまったので、彼らは政治的な基盤を失ってしまい、また、度重なる敗戦により、莫大な戦費が消耗されたので、彼らは甚だしい経済的困窮に陥ってしまったのである。ここにおいてキリスト教君主社会は、ついに崩壊しはじめたのである。

第五節 ユダヤ民族捕虜および帰還時代と
法王捕虜および帰還時代

ユダヤ民族も、サタン世界であるバビロンに捕虜として連れていかれ、苦役をするように摂理されたのである。

ここにおいて、神は、この基台を復帰するための新しい摂理をされるために、法王が捕虜となって苦役を受けるようにされたのであった。
前に、エホヤキム王をはじめダニエルその他の王族、そして、政府の大臣たち、官吏と工匠など、数多くのユダヤ人たちが、バビロニア王ネブカデネザルによって、捕虜として捕らわれていった七十年の期間があり(エレミヤ三九・1~10、列王下二四、二五)、ペルシャが、バビロニアを滅ぼし、クロス王が詔書を発布して彼らを解放したのち、三次にわたって故郷に帰還し、預言者マラキを中心として、メシヤのために準備する民族として立てられるときまでの一四〇年の期間があったのである。

法王が一三〇九年から七十年間、南フランスのアヴィニョンに幽閉されたのち、三人の法王に分立される路程を経て、再び、ローマ教会を中心とする法王専制に復帰し、その後一五一七年にルターを中心として宗教改革が起こるときまでの約二一〇年間は、ユダヤ民族がバビロンに七十年間捕虜として連行されたのち、三次にわたってエルサレムに帰還し、その後マラキを中心として政教の刷新を起こすようになったときまでの二一〇年間を実体的な同時性をもって蕩減復帰する期間であったのである。

2011年3月21日月曜日

第四章 摂理的同時性から見た復帰摂理時代と 復帰摂理延長時代


第四章 摂理的同時性から見た復帰摂理時代と
復帰摂理延長時代 P465


第一節 エジプト苦役時代とローマ帝国迫害時代
第二節 士師時代と教区長制キリスト教会時代
第三節 統一王国時代とキリスト王国時代
第四節 南北王朝分立時代と東西王朝分立時代
第五節 ユダヤ民族捕虜および帰還時代と法王捕虜および帰還時代
第六節 メシヤ降臨準備時代とメシヤ再降臨準備時代
第七節 復帰摂理から見た歴史発展

既に論じたように、復帰摂理の目的は、「メシヤのための基台」を復帰しようとするところにあるので、その摂理が延長されるに従って、その基台を復帰しようとする摂理も反復されていくのである。

「メシヤのための基台」を復帰するために、摂理を反復してきたすべての復帰摂理の路程は、結局、「象徴献祭」と「実体献祭」を蕩減復帰しようとした摂理の反復にほかならなかったのである。

神の選民は、もともと、「メシヤのための家庭的な基台」を立てたアブラハムの子孫によってつくられたのである。それゆえに、アブラハムから始まったところの復帰摂理時代の摂理をなしてきた中心民族は、イスラエルの選民であった。したがって、イスラエル民族史は、この時代における復帰摂理時代の史料となるのである。

事実上、イエスから始まった復帰摂理延長時代の摂理をなしてきた中心民族は、イスラエル民族ではなく、彼らがなし得なかった復帰摂理を継承したキリスト教信徒たちであったのである。したがって、キリスト教史が、この時代の復帰摂理歴史の中心史料となるのである。

第一節 エジプト苦役時代とローマ帝国迫害時代

ノアからアブラハムまでの四〇〇年のサタン分立期間は、アブラハムの献祭の失敗によって、サタンの侵入を受けたので、この四〇〇年期間を再び蕩減復帰する役割を担ったエジプト苦役時代には、ヤコブとその十二子息を中心とした七十人家族がエジプトに入ってきて、それ以来、その子孫たちは四〇〇年間、エジプト人たちによって悲惨な虐待を受けたのであった。この時代を、実体的な同時性をもって蕩減復帰するローマ帝国迫害時代においても、イスラエルの選民たちが、イエスを生きた供え物としてささげる献祭に失敗し、彼を十字架に引き渡すことによって、サタンの侵入を受けるようになったので、メシヤ降臨準備時代四〇〇年のサタン分立期間を蕩減復帰するために、イエスを中心とする十二弟子と七十人の門徒、そうして、キリスト教信徒たちが、ローマ帝国において、四〇〇年の間、惨めな迫害を受けなければならなかったのである。

エジプト苦役時代における四〇〇年間の苦役が終わったのち、モーセは、三大奇跡と十災禍の権威をもって、パロを屈伏させ、第一イスラエルの選民を率いてエジプトを出発し、カナンの地に向かったのであった。同様に、ローマ帝国迫害時代においても、第二イスラエルの選民たちに対する四世紀間の迫害が終わったのち、イエスは、心霊的な奇跡と権威とをもって、数多くの信徒たちを呼び起こされ、また、コンスタンチヌス大帝を感化させて、三一三年には、キリスト教を公認せしめ、つづいて、三九二年、テオドシウス一世のときに至っては、かくも甚だしく迫害してきたキリスト教を、国教として制定せしめられたのである。このようにして、キリスト教信徒たちは、サタンの世界から、霊的にカナンに復帰するようになったのであった。

エジプト苦役時代が終わったのち、モーセは、シナイ山で十戒とみ言を受けることによって、旧約聖書の中心を立て、また、石板と幕屋と契約の箱を受けることによって、第一イスラエル選民たちが、メシヤを迎えるための神のみ旨を立てていくようになったのである。これと同じく、第二イスラエル選民たちは、ローマ帝国迫害時代が終わったのちに、旧約時代の十戒と幕屋理想とを霊的に成就するためのみ言をもって、使徒たちの記録を集め、新約聖書を決定し、そのみ言を中心とする教会をつくって、再臨主を迎えるための基台を広めていくようになったのである。

第二節 士師時代と教区長制キリスト教会時代

モーセの使命を継承したヨシュアが、イスラエルの選民を導いてカナンの地に入ったのち、オテニエル士師をはじめとした、十二士師のあとに引き続いて、サムソン、エリ、サムエルに至るまで、合わせて十五士師が、イスラエルを指導した四〇〇年間を、士師時代というのである。彼ら士師たちは、次の時代において分担された預言者と祭司長と国王の使命を、すべて兼任していたのであった。それゆえに、ユダヤ教の封建社会は、このときから始まったのである。このような士師時代を、実体的な同時性をもって蕩減復帰する時代である新約時代の教区長制のキリスト教会時代においても、教区長たちは、キリスト教信徒を指導するという面において、士師のそれに該当する職分を帯びていたのである。

教区長は、このような霊的な王国建設において、士師と同じ使命をもっていたので、ときには、預言者にもならなければならず、あるときには、祭司長の役割を、そして、またあるときには、教区を統治する国王のような使命をも果たさなければならなかったのである。このようなわけで、キリスト教の封建社会は、このときから始まったのであった。

2011年3月20日日曜日

第三章 摂理歴史の各時代とその年数の形成 第三節 p454~


第三節 復帰摂理時代を形成する各時代とその年数
(一)エジプト苦役時代四〇〇年
(二)士師時代四〇〇年
(三)統一王国時代一二〇年
(四)南北王朝分立時代四〇〇年
(五)ユダヤ民族捕虜および帰還時代二一〇年
(六)メシヤ降臨準備時代四〇〇年

赤色(核心的内容)より
第三節 復帰摂理時代を形成する各時代とその年数

復帰摂理時代は、象徴的同時性の時代である復帰基台摂理時代を、形象的な同時性で蕩減復帰する時代である。

(一)エジプト苦役時代四〇〇年第三節 復帰摂理時代を形成する各時代とその年数
アブラハムの献祭失敗により、その基台は、更にサタンの侵入を受けたのである。ここに及んで、神は、サタンに奪われたその四〇〇年の基台を再び立てるため、イスラエル民族をして、サタンを再分立するエジプト苦役期間四〇〇年間を歩ましめ給うたのである(創一五・13)。この時代を、エジプト苦役時代と称する

(二)士師時代四〇〇年

イスラエル民族が、エジプトからカナンの地に帰ってきたのち、サウル王が即位するまでは、約四〇〇年の期間であったことが分かるのである。この期間を士師時代と称する。

(三)統一王国時代一二〇年

イスラエル民族が、士師時代四〇〇年で、エジプト苦役の四〇〇年を蕩減復帰した基台の上に立ったのち、サウル王がユダヤ民族の最初の王として即位し、彼の在位四十年で、モーセのパロ宮中四十年を蕩減復帰することにより、「信仰基台」を立てて、神殿を建設しなければならなかったのである。しかし、サウル王の不信によって(サムエル上一五・11~23)、モーセのときと同様に、神殿建設の目的は、ダビデ王四十年、ソロモン王四十年に延長され、統一王国時代一二〇年をつくるようになったのである。

(四)南北王朝分立時代四〇〇年

統一王国時代が、北朝イスラエルと南朝ユダに分立されたのち、ユダヤ民族がバビロンへ捕虜として捕らわれていくまでの、四〇〇年の南北王朝分立時代であったのである。

(五)ユダヤ民族捕虜および帰還時代二一〇年

北朝イスラエルが、彼らの不信により、アッシリヤへ捕虜として捕らわれたのち、南朝ユダもまた不信に陥ったので、バビロニアの王ネブカデネザルによって捕虜として捕らえられた。このときから彼らは、バビロンで七十年間捕虜になっていたが、バビロニアがペルシャによって滅ぼされたのち、ペルシャ王クロスの詔書によって解放された。

彼らは預言者マラキを中心として彼の預言によって(マラキ四・5)、メシヤを迎えるための準備期に入った。このときが、彼らがバビロンに捕らえられてから二一〇年目に当たり、解放されはじめてから約一四〇年になるときであった。この時代を総合して、ユダヤ民族の捕虜および帰還時代というのである。

(六)メシヤ降臨準備時代四〇〇年

ユダヤ民族が、バビロンで解放され、カナンの地に帰郷したのち、神殿と城壁を再建して、預言者マラキの預言により、メシヤを迎えるべき民族として立ってから、イエスが誕生なさるまでの四〇〇年期間を、メシヤ降臨準備時代というのである。

第四節 復帰摂理延長時代を形成する各時代とその年数
(一)ローマ帝国迫害時代四〇〇年
(二)教区長制キリスト教会時代四〇〇年
(三)キリスト王国時代一二〇年
(四)東西王朝分立時代四〇〇年
(五)法王捕虜および帰還時代二一〇年
(六)メシヤ再降臨準備時代四〇〇年

復帰摂理延長時代は、形象的同時性の時代である復帰摂理時代を、実体的な同時性として蕩減復帰する時代である。ゆえに、この時代においては、復帰摂理時代を形成する各時代と、その年数を、そのまま蕩減復帰するようになるのである。

(一)ローマ帝国迫害時代四〇〇年

ユダヤ民族が、イエスを生きた供え物としてささげる献祭において、失敗したために成し遂げられなかった「信仰基台」を蕩減復帰するために、キリスト教信徒たちにも、エジプト苦役時代のような時代がくるようになったのである。この時代がすなわち、ローマ帝国迫害時代の四〇〇年であったのである。ローマ帝国の過酷な迫害が終わって、コンスタンチヌス大帝がキリスト教を公認したのが西暦三一三年であり、テオドシウス一世がキリスト教を国教として定めたのが西暦三九二年であった。

(二)教区長制キリスト教会時代四〇〇年

実体的同時性の時代である復帰摂理延長時代においても、この士師時代四〇〇年を蕩減復帰する時代がなければならない。これが、すなわち、キリスト教がローマ帝国の国教として公認されたのち、西暦八〇〇年チャールズ大帝が即位するまでの、士師に該当する教区長によって導かれた、教区長制キリスト教会時代四〇〇年期間なのである。

(三)キリスト王国時代一二〇年

この時代を蕩減復帰するために、西暦八〇〇年チャールズ大帝が即位したのち、後日、彼の王統が絶えて、選挙王制となり、九一九年ヘンリー一世がドイツ王位につくまで一二〇年間にわたるキリスト王国時代がくるようになったのである。

(四)東西王朝分立時代四〇〇年

復帰摂理延長時代においても、この時代を蕩減復帰する時代がなければならない。これが、すなわち、キリスト王国時代が過ぎたのち、西暦一三〇九年に、法王庁が南仏アヴィニョンへ移されるまでの、東西王朝分立時代四〇〇年であったのである。

(五)法王捕虜および帰還時代二一〇年

この時代を蕩減復帰するために、東西王朝分立時代において、不信仰によりみ旨に反した法王クレメンス五世が、西暦一三〇九年に、ローマから南仏アヴィニョンへ法王庁を移したのち、法王が捕虜と同様な生活をするようになり、その後、再びローマへ帰ったのち、一五一七年宗教改革が起こるまで、約二一〇年間にわたる法王捕虜および帰還時代が生ずるようになった。

(六)メシヤ再降臨準備時代四〇〇年

この時代を蕩減復帰するため、復帰摂理延長時代においても、南仏アヴィニョンに幽閉された法王がローマに帰還したのち、西暦一五一七年、ルターを中心とする宗教改革が起こったときから、四〇〇年を過ぎて、初めて、再臨主を迎えることができるのである。ゆえに、この時代が、すなわち、メシヤ再降臨準備時代なのである。

2011年3月17日木曜日

第三章 摂理歴史の各時代とその年数の形成 第二節(三)から

赤色(核心的内容)原理講論 442~

(三)縦からなる横的な蕩減復帰

アブラハムのときは、「メシヤのための家庭的な基台」を復帰するための摂理において、第三次に該当するときであった。したがって、そのときは、必ずそのみ旨を成し遂げなければならない原理的な条件のもとにあったので、アブラハムは、アダムの家庭とノアの家庭の過ちによって加重されてきたすべての縦的な蕩減条件を、一時に、横的に蕩減復帰しなければならなかったのである。

このように、アブラハムが、彼の「象徴献祭」の失敗により、彼自身を中心として横的な蕩減条件を立てられなくなったとき、縦的に、イサクとヤコブの三代に延長しながら立てた、縦的な蕩減条件を、結局、アブラハムを中心として、一代で横的に蕩減復帰したのと同じ立場に立たせたので、これを、縦からなる横的な蕩減復帰というのである。

(四)信仰基台を復帰するための数理的な蕩減期間
我々は既に、後編緒論で、信仰を立てる中心人物が、「信仰基台」を復帰するには、彼のための数理的な蕩減期間を復帰しなければならないということを論述したが、今、この理由を調べてみることにしよう。

創造された人間始祖は、数理的な成長期間を経たのちに、「信仰基台」を立てて、数理的な完成実体となるように創造されたのである。このような被造世界が、サタンの主管圏に落ちたので、これを復帰するためには、それを象徴するある条件物を立てて、サタンの侵入を受けた数を復帰する数理的な蕩減期間を立てることにより、「信仰基台」を蕩減復帰しなければならない。

アダムが、「信仰基台」を立てるべきであった成長期間は、すなわち、十二数完成期間である。それゆえに、第一には、未完成期にあった人間始祖は、十二数による「信仰基台」を立てて、十二対象目的を完成することによって、十二数完成実体とならなければならなかったのである。しかし、彼らが堕落することによってこれがサタンの侵入を受けたから、復帰摂理歴史路程において、これを蕩減復帰する中心人物は、十二数を復帰する蕩減期間を立てて、「信仰基台」を蕩減復帰しなければ、十二数完成実体の復帰のための「実体基台」を造成することができないのである。

彼らが「信仰基台」を立てる成長期間は、四数完成期間にもなる。それゆえに、第二には、未完成期にあった人間始祖は、四数による「信仰基台」を立てて、四位基台を完成し、四数完成実体にならなければならなかったのである。しかし、彼らが堕落によって、サタンの侵入を受けたので、復帰摂理歴史路程において、これを蕩減復帰する中心人物は、四数を復帰する蕩減期間を立ててから、「信仰基台」を蕩減復帰しなければ、四数完成実体の復帰のための「実体基台」をつくることができなくなっている。

成長期間は、二十一数完成期間にもなる。ゆえに、第三には、未完成期にあった人間始祖は、二十一数による「信仰基台」を立て、創造目的を完成し、二十一数完成実体とならなければならないのである。しかし、彼らが堕落することにより、これまた、サタンの侵入を受けたから、復帰摂理歴史路程において、これを蕩減復帰する中心人物は、二十一数を復帰する蕩減期間を立てて、「信仰基台」を蕩減復帰しなければ、二十一数完成実体の復帰のための「実体基台」を造成することができなくなっている。

成長期間は、これまた、四十数完成期間でもある。ゆえに、第四には、堕落前の未完成期にあった人間始祖は、四十数による「信仰基台」を立てて、創造目的を完成することにより、四十数完成実体とならなければならなかったのである。しかし、彼らの堕落により、これにサタンの侵入を受けたので、復帰摂理歴史路程において、これを蕩減復帰する中心人物は、四十数を復帰する蕩減期間を立てて、「信仰基台」を蕩減復帰しなければ四十数完成実体の復帰のための「実体基台」を造成することができなくなっている。

我々は、上述のことから、復帰摂理の中心人物が「信仰基台」を復帰するためには、いかなる数理的な蕩減期間を立てなければならないかを総合してみることにしよう。元来、人間始祖が堕落しないで、十二数、四数、二十一数、四十数などによる「信仰基台」を立てて、創造目的を完成し、このような数の完成実体にならなければならなかったのである。しかし、彼らの堕落によりこれらすべてのものが、サタンの侵入を受けたので、復帰摂理歴史路程において、これらを蕩減復帰する中心人物は、十二数、四数、二十一数、四十数などを復帰する数理的な蕩減期間を立てなければ、「信仰基台」を復帰して、このような数の完成実体復帰のために必 要な「実体基台」は造成することができなくなっているのである。

(五)代数を中心とする同時性の時代

神はアダムより十代、一六〇〇年目にノアを選ばれ、「信仰基台」を復帰するための中心人物を立たせられた。

神は、ノアの家庭を中心とする復帰摂理に失敗されたのち、十代と四〇〇年目に、更にアブラハムを選ばれ、復帰摂理の中心人物に立たせられたのである。したがって、ノアからアブラハムまでの時代は、アダムからノアまでの時代を、代数を中心として蕩減復帰する同時性の時代であった。

(六)縦からなる横的蕩減復帰摂理時代

アブラハムも、やはり「象徴献祭」で失敗したので、それらの期間を蕩減復帰することができなかった。それゆえに、これらの期間を更に、縦からなる横的蕩減期間として復帰するため、み旨成就を、イサクとヤコブへと延長させながら、十二、四、二十一、四十の各数に該当する蕩減期間を、再び、探し立てなければならなかったのである。

2011年3月16日水曜日

第三章 摂理歴史の各時代とその年数の形成

赤色(核心的内容)原理講論 436~

第三章 摂理歴史の各時代とその年数の形成

第一節 摂理的同時性の時代
第二節 復帰基台摂理時代の代数とその年数の形成
第三節 復帰摂理時代を形成する各時代とその年数
第四節 復帰摂理延長時代を形成する各時代とその年数

第一節 摂理的同時性の時代

このように、ある時代がその前の時代の歴史路程とほとんど同じ様相をもって反復されるとき、そのような時代を摂理的同時性の時代というのである。

この現象は本来、神の蕩減復帰摂理に起因して生ずるものなのである。

同時性の時代が反復される理由は、「メシヤのための基台」を復帰しようとする摂理が、反復されるからである。したがって、同時性の時代を形成する原因は、第一に、「信仰基台」を復帰するための三つの条件、すなわち、中心人物と、条件物と、数理的な期間などである。第二は、「実体基台」を復帰するための「堕落性を脱ぐための蕩減条件」である。
このような要因でつくられる摂理的同時性の時代には、次のような二つの性格がある。第一には、「信仰基台」を復帰するための数理的蕩減期間である代数とか、あるいは、年数を要因とする摂理的同時性が形成されるのである。

ここにおいて、必然的に数理的な信仰の期間を蕩減復帰する摂理もまた反復されるので、結局、摂理的同時性の時代は、ある年数とかあるいは代数の反復というかたちで、同じ型が重ねて形成されてきたのである。本章の目的は、すなわち、このことに関する問題を取り扱うことにある。

第二には、「信仰基台」を復帰する中心人物と、その条件物、そして「実体基台」を復帰するための「堕落性を脱ぐための蕩減条件」などの摂理的な史実を要因として、同時性が形成されるのである。

第二節 復帰基台摂理時代の代数とその年数の形成
(一)復帰摂理はなぜ延長されまたいかに延長されるか
(二)縦的な蕩減条件と横的な蕩減復帰
(三)縦からなる横的な蕩減復帰
(四)信仰基台を復帰するための数理的な蕩減期間
(五)代数を中心とする同時性の時代
(六)縦からなる横的蕩減復帰摂理時代

(一)復帰摂理はなぜ延長されまたいかに延長されるか

復帰摂理はなぜ延長されるのだろうか。これは予定論によってのみ解決される問題である。予定論によれば、神のみ旨は、絶対的なものとして予定され、摂理なさるので、一度立てられたみ旨は必ず成就されるのである。しかし、ある人物を中心とするみ旨成就の可否は、どこまでも相対的であって、それは神の責任分担とその人物の責任分担とが一体となって初めて成就されるのである。したがって、そのみ旨成就の使命を担当した人物が、責任分担を全部果たさないために、そのみ旨が達成されないときには、時代を変えて他の人物をその代わりに立てても、必ず、そのみ旨を成就する摂理をなさるのである。このようにして復帰摂理は延長されていくのである。また、我々は、復帰摂理がどのようにして延長されるかを知らなければならない。

(二)縦的な蕩減条件と横的な蕩減復帰
復帰摂理のみ旨を担当した中心人物は、自分が立たせられるまでの摂理路程において、自分と同じ使命を担当した人物たちが、立てようとしたすべての蕩減条件を、自分を中心として、一時に蕩減復帰しなければ、彼らの使命を継承し、完遂することができないのである。

復帰摂理路程において、その摂理を担当した人物たちがその責任を果たせなかったことから、歴史的に加重されてきた条件を、縦的な蕩減条件といい、このようなすべての条件を、ある特定の使命者を中心として一時に蕩減復帰することを、横的な蕩減復帰というのである。

2011年3月14日月曜日

第二章 モーセとイエスを中心とする復帰摂理 第三節(二)⑵から

赤色(核心的内容)原理講論426~

(2) 再臨主を中心とする実体的カナン復帰路程

モーセの霊的カナン復帰路程を、ヨシュアが代わって実体路程として歩み、民族的カナン復帰を完遂したのと同じく、イエスは、今までの霊的カナン復帰路程を、再臨されてから実体路程として歩まれ、世界的カナン復帰を完遂されることによって、地上天国をつくらなければならないのである。このように再臨主は、初臨のときに実体をもって成就されようとした地上天国を、そのごとくにつくらなければならないので、あくまでも実体の人間として、地上に生まれなければならないのである

再臨主はいくら険しい苦難の道を歩まれるといっても、初臨のときのように、復帰摂理の目的を完遂できないで、亡くなられるということはない。その理由は、神が人類の真の父母を立てることによって(前編第七章第四節(一)(1))、創造目的を完遂なさろうとする摂理は、アダムからイエスを経て再臨主に至るまで三度を数え、この三度目である再臨のときには、必ず、その摂理が成就されるようになっているからであり、その上、後編第四章第七節に論述されているように、イエス以後二〇〇〇年間の霊的な復帰摂理によって、彼が働き得る社会を造成するために、民主主義時代をつくっておかれたからである。

再臨主がいくら険しい苦難の道を歩まれるといっても、彼が立てられる実体的な「信仰基台」の上で、彼を絶対的に信じ、彼に従い、彼に侍る信徒たちが集まって、第三次世界的カナン復帰の実体路程のための「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立て、「実体基台」を造成することによって「メシヤのための実体的な基台」をつくるようになることは確かである。

神の創造目的を、心情の因縁を中心として見るならば、神は、霊的な父母として、人間を実体の子女として創造されたのである。

神は天の血統を継承した直系の子女によって、地上天国をつくろうと計画されたのであった。しかし、既に堕落論において詳しく述べたように、人間始祖が天使長と血縁関係を結ぶことによって、すべての人類はサタンの血統を継承して、みな悪魔の子女となってしまったのである(マタイ三・7、マタイ二三・33<、ヨハネ八・44)。それゆえ、人間始祖は神と血縁関係を断ちきられた立場に陥ってしまったのであるが、これがすなわち堕落である。
それゆえに、神の復帰摂理の目的は、このように神との血統関係が断たれてしまった堕落人間を復帰して、神の直系の血統的子女を立てようとするところにあるのである。我々は、このような神の復帰摂理の秘密を聖書から探してみることにしよう。

ノアのときに至って、その二番目の息子であり、アベルの立場におかれていたハムの、その失敗によって、神と直接的な関係を結ぶところにまでは行かれなかったが、それでもノアが忠誠を尽くした基台があったので、僕の僕(創九・25)としての立場に立つことができ、神と間接的な関係を結ぶことができたのである。これがすなわち、旧約前の時代における神と人間との関係であった。
信仰の父であるアブラハムのときに至り、彼は、「メシヤのための家庭的な基台」をつくって、神の選民を立てたので、彼らは初めて神の僕の立場に復帰することができた(レビ二五・55)。これがすなわち、旧約時代における神と人間との関係であった。イエスが来られてのち、洗礼ヨハネの立場でもって立てられた、その「信仰基台」の上に立っていた弟子たちは、初めて、旧約時代の僕の立場から、養子の立場にまで復帰されたのである。彼らが神の直系の血統的子女となるためには、イエスに絶対的に服従して「実体基台」をつくることにより、「メシヤのための基台」を造成し、その基台の上に立っているイエスに、霊肉併せて接がれることによって(ロマ一一・17)、彼と一体とならなければならなかったのである。

キリスト教信徒たちは、神と血統を異にする子女であるので、神の前では養子とならざるを得ないのである。

再臨のイエスは、み言を中心とする「出発のための摂理」によって、「メシヤのための基台」を実体的に造成し、その基台の上で、すべての人類を霊肉併せて接がせることにより、彼らが原罪を脱いで、神の血統を受けた直系の子女として復帰できるようにしなければならないのである。

彼は、再臨される場合においても、その「メシヤのための基台」を、実体的に家庭的なものから出発して、順次、氏族的、民族的、国家的、世界的、天宙的なものとして復帰され、その基台の上に、天国を成就するところまで行かなければならないのである。

2011年3月13日日曜日

第二章 モーセとイエスを中心とする復帰摂理 第三節(二)⑴③から

赤色(核心的内容)原理講論416~426

③ 四十日断食と三大試練とをもってサタンを分立した結果

第一に、イエスは洗礼ヨハネの立場で、第二次世界的カナン復帰のための「信仰基台」を蕩減復帰されたので、そのときまでの摂理路程において、「信仰基台」をつくるために立てようとされた、すべてのものを蕩減復帰することができたのである。

イエスは、アダム以後四〇〇〇年間の縦的な歴史路程を通じて「信仰基台」を復帰するに当たって、その中心人物たちの失敗によって失うに至ったすべての「四十日サタン分立基台」を、横的に一時に蕩減復帰することができたのである。

第二にイエスは、洗礼ヨハネの立場からメシヤの立場に立つための「信仰基台」を造成したので、神の三大祝福を成就して、四位基台を蕩減復帰することができる条件を立てられたのである。

(2) 実 体 基 台

イエスは、人類の真の親として来られ、洗礼ヨハネの立場で「四十日サタン分立基台」を蕩減復帰されたので、父母の立場に立って「信仰基台」を復帰すると同時に、子女の立場でもって「堕落性を脱ぐための世界的蕩減条件」を立てるに当たってのアベルの位置をも確立されたのであった。

イエスは、石板と幕屋と契約の箱との三大恩賜と十戒の実体であられるから、第二次世界的カナン復帰路程においては、イエス自身がみ言と奇跡とをもってその「出発のための摂理」をされたのであった。したがって、カインの立場におかれていたユダヤ民族が、この「出発のための摂理」によって洗礼ヨハネの使命を担い、アベルの立場に立っていたイエスを信じ、彼に仕え、彼に従ったならば、「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立てて「実体基台」を復帰するようになるので「メシヤのための基台」を造成することができるようになっていたのである。もしこのようになったならば、イエスは、この基台の上で、洗礼ヨハネの立場からメシヤとしての立場に上がるようになり、すべての人類は、彼に接がれて(ロマ一一・17)、重生し、原罪を脱いで神と心情的に一体となることによって、創造本性を復帰し、地上天国をつくることができたはずであったのである。

(3) 第二次世界的カナン復帰路程の失敗

果たして、サタンは、不信に陥った祭司たちと律法学者たちを中心とするユダヤ民族、特に、イエスを売った弟子、イスカリオテのユダを通して、再びイエスの前に現れて、対立したのであった。

このようにユダヤ民族の不信によって、第二次世界的カナン復帰路程のための「実体基台」はつくり得なくなり、それに伴ってこの摂理のための「メシヤのための基台」もまた造成することができなくなったために、第二次世界的カナン復帰路程は、これまた失敗に終わってしまったのである。

(三)第三次世界的カナン復帰路程
(1) イエスを中心とする霊的カナン復帰路程

世界的カナン復帰路程におけるユダヤ民族の信仰の対象は、幕屋の実体として来られたイエスであったので、その弟子たちまでが不信に陥ってしまうと、もうその信仰を挽回する余地はなく、イエスが、「モーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない」(ヨハネ三・14)と言われたみ言のとおり、その肉身は十字架につけられ、死の道を歩まなければならなくなったのである。このように、ユダヤ民族は、霊肉を併せた信仰の対象を失った結果、第三次世界的カナン復帰路程は、第三次民族的カナン復帰路程と同じく、直接、実体の路程としては出発することができず、したがって、第二イスラエルであるキリスト教信徒たちが復活されたイエスを、再び信仰の対象として立てることをもって、まず、霊的路程として出発するようになったのである。

ヨシュアがモーセの使命を継承して、第三次民族的カナン復帰を完成したように、イエスは、再臨されることによって、初臨のときの使命を継承され、第三次世界的カナン復帰路程を、霊肉併せて完成されるようになるのである。

① 霊的な信仰基台

イエスが十字架によってその肉身をサタンに引き渡したのち、霊的洗礼ヨハネの使命者としての立場から、四十日復活期間をもってサタン分立の霊的基台を立てることにより、第三次世界的カナン復帰の霊的路程のための、霊的な「信仰基台」を復帰されたのである。

② 霊的な実体基台

イエスは、霊的な洗礼ヨハネ使命者の立場から、霊的な復活「四十日サタン分立基台」を造成なさることにより、霊的な真の父母の立場でもって霊的な「信仰基台」を復帰すると同時に、また、霊的な子女の立場でもって「堕落性を脱ぐための世界的な蕩減条件」を立てるための、霊的なアベルの位置をも確立されたのである。

モーセのときには、「幕屋のための基台」を立てることによって「出発のための摂理」をされた。しかし、復活されたイエスは、ガリラヤに四散していた弟子たちを呼び集められて、自身が石板と幕屋と契約の箱との霊的な実体となられ、弟子たちに一切の奇跡の権威を授けられることによって(マタイニ八・16~18)、「出発のための摂理」をされたのである。
ここにおいて、カインの立場に立っていた信徒たちは、この「出発のための摂理」により、霊的な洗礼ヨハネ使命者として、霊的なアベルの立場におられる、復活されたイエスを信じ、彼に仕え、彼に従って、「堕落性を脱ぐための霊的な蕩減条件」を立てることにより、「霊的な実体基台」を復帰することができたのである。

③ メシヤのための霊的な基台

イエスが十字架で亡くなられたのち、取り残された十一人の弟子たちはみな力を失って、四方に散らばってしまっていた。ところが、イエスは復活されるとまた、彼らを再びひとところに集められ、霊的カナン復帰の新しい摂理を始められたのである。弟子たちは、イスカリオテのユダの代わりにマッテヤを選んで、十二弟子の数を整え、復活されたイエスを命を懸けて信奉することにより、「霊的な実体基台」を造成し、それによって「メシヤのための霊的な基台」を復帰した。そこでイエスは、この基台の上で、霊的な洗礼ヨハネ使命者の立場から、霊的なメシヤの立場を確立し、聖霊を復帰することによって、霊的な真の父母となり、重生の摂理をされるようになったのである。

④ 霊的カナン復帰

キリスト教信徒たちは「メシヤのための霊的基台」の上で霊的メシヤとして立たせられたイエスを信じ侍ることによって、霊的カナン復帰だけを完成するようになった。それゆえに、霊的カナン復帰の恵沢圏内にいる信徒たちの肉身は、ちょうど十字架によってサタンの侵入を受けたイエスの肉身と同じ立場に立つようになるので、(肉身の面から見れば)イエスが来られる前の状態と異なるところがなく、サタンの侵入を受けることにより、原罪は依然として元のままに残っているので(ロマ七・25)、信徒たちもまた、キリスト再臨のための、サタン再分立の路程を歩まなければならなくなったのである

2011年3月11日金曜日

第二章 モーセとイエスを中心とする復帰摂理 第三節 (二)⑴②まで

第二章 モーセとイエスを中心とする復帰摂理

第三節 イエスを中心とする復帰摂理
(一)第一次世界的カナン復帰路程
(二)第二次世界的カナン復帰路程
(三)第三次世界的カナン復帰路程
(四)イエスの路程が見せてくれた教訓

天使を主管すべきであったアダム(コリント・六・3)が、堕落することによって逆にサタンの主管を受け、地獄をつくったのであるから、これを蕩減復帰するために、後のアダムとして来られるイエスは、あくまでも自分自身でサタンを屈伏させて、天国を復帰しなければならないのである。

ヤコブはサタンを屈伏させる象徴的路程を歩んだのであり、モーセはサタンを屈伏させる形象的路程を、そして、イエスはその実体的路程を歩まなければならなかったのである。それゆえに、イエスは、モーセがサタンを屈伏していった民族的カナン復帰路程を見本として、サタンを屈伏させることによって、世界的カナン復帰路程を完遂しなければならなかったのである。

(一)第一次世界的カナン復帰路程
(1) 信 仰 基 台
第一次世界的カナン復帰路程において、「信仰基台」を復帰しなければならなかった中心人物は、洗礼ヨハネであった。

エジプト苦役四〇〇年間の「サタン分立基台」の上に立っていたモーセが、パロ宮中で忠孝の道を学んだように、メシヤ降臨準備時代の四〇〇年間の「サタン分立基台」の上に立っていた洗礼ヨハネは、荒野でいなごと野蜜とを食べながら、メシヤを迎えるために、天に対する忠孝の道を立てたのであった。それゆえに、祭司たちをはじめとして(ヨハネ一・19)、ユダヤ人たちはみな、洗礼ヨハネがメシヤではないかとまで思うようになったのである(ルカ三・15)。洗礼ヨハネは、このようにして「四十日サタン分立基台」を立てたので、第一次世界的カナン復帰のための「信仰基台」をつくることができたのであった。

(2) 実 体 基 台
洗礼ヨハネは、モーセと同じ立場に立てられていたので、ユダヤ民族に対して、父母と子女という二つの立場に立っていたのであった。ところで、彼は父母の立場から、第一次世界的カナン復帰のための「信仰基台」を蕩減復帰したので、同時に彼は、子女の立場から、「堕落性を脱ぐための世界的な蕩減条件」を立てるに当たっての、アベルの立場をも確立することができたのであった

神は、洗礼ヨハネを中心とする数々の奇跡を見せてくださることにより、ユダヤ人たちが彼を信ずるように仕向けることによって、「出発のための摂理」を成就しようとなさったのである。

イエス当時のユダヤ人たちも、神の奇跡をもって信仰の対象者として立ててくださった洗礼ヨハネを信じ、彼に従ったならば、彼らは「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立て、「実体基台」を復帰することにより、「メシヤのための基台」を復帰することができたのであった。

(3) 第一次世界的カナン復帰路程の失敗

ユダヤ人たちは、洗礼ヨハネが立てた「信仰基台」の上に、彼をメシヤのように信じ、彼に従う立場にいたので(ヨハネ一・19、ルカ三・15)、彼らは旧約時代を清算して、世界的カナン復帰の新しい路程を出発することができたのである。ところが、既に前編の第四章第二節において詳しく論じたように、洗礼ヨハネは自らイエスをメシヤとして証したのにもかかわらず、彼を疑うようになり(マタイ一一・3)、また、自分がエリヤとして来たのにもかかわらず、それを知らずに否認して(ヨハネ一・21)、ユダヤ人たちがイエスの前に出ていく道をふさいだばかりでなく、彼らがイエスに逆らうような立場にまで押しやったのである。これによって洗礼ヨハネは、「実体基台」を立てるに当たってのアベルの位置を離れたために、ユダヤ人たちは、「堕落性を脱ぐための世界的な蕩減条件」を立てることができなかったのである。このようにして、ユダヤ人たちが「実体基台」を立てることができなくなった結果、「メシヤのための基台」を造成することができなくなったために、第一次世界的カナン復帰路程は失敗に終わることとなり、これもモーセのときと同じく、二次から三次まで延長されたのである。

(二)第二次世界的カナン復帰路程

(1) 信 仰 基 台
① イエスが洗礼ヨハネの使命を代理する

洗礼ヨハネは、完成したアダムとして来られたイエスに対しては、復帰されたアダム型の人物であった。

洗礼ヨハネが第一次世界的カナン復帰路程のために立てた「信仰基台」はサタンの侵入を受けてしまった。それゆえ、やむを得ず、イエス自身が洗礼ヨハネの使命を代理して、「信仰基台」を蕩減復帰することにより、第二次世界的カナン復帰路程を出発するほかはなかったのである。イエスが荒野で四十日間断食をされながら、サタンを分立されたのは、とりもなおさず、洗礼ヨハネの代理の立場で、「信仰基台」を蕩減復帰されるためであった。

イエスは、メシヤであられるにもかかわらず、洗礼ヨハネの代理に復帰摂理路程を出発されたという事情のために、ペテロに向かい、自分がメシヤであるという事実をユダヤ人たちに証してはならぬと言われたのである(マタイ一六・20)。

② イエスの荒野四十日の断食祈祷と三大試練

我々はまず、イエスの四十日断食祈祷と三大試練に対する、その遠因と近因について知っておく必要がある。

磐石を二度打ったモーセの行動は、とりもなおさず、洗礼ヨハネが不信に陥るようになったとき、その「信仰基台」を復帰するために、イエス御自身が洗礼ヨハネの代理の立場で荒野に出ていかれ、四十日断食と三大試練を受けなければならなくなった遠因となったのである。

事実においても、洗礼ヨハネが不信に陥ったために(前編第四章第二節(三))、彼が立てた「信仰基台」にサタンが侵入したのであるが、これが近因となって、イエスは自ら洗礼ヨハネの立場で、「四十日サタン分立基台」を立てることによって「信仰基台」を蕩減復帰するために、荒野における四十日断食と三大試練を受けなければならなかったのである。
それでは、サタンが三大試練をするようになった目的は、どこにあったのだろうか。マタイ福音書四章1節から10節を見ると、サタンはイエスに石を示しながら、それをパンに変えてみよと言ったとあり、また、彼を宮の頂上に立たせてそこから飛びおりてみよと言い、さらに最後には、彼を非常に高い山に連れていき、もしひれ伏して自分を拝むならば、この世のすべてのものをあげようと言うなど、三つの問題をもってイエスを試練したのであった。

サタンが人間を堕落させて、この三つの祝福を成就することができなかったために、神の創造目的は達成されなかったのである。それに対してイエスは神が約束されたこの三つの祝福を復帰することによって、神の創造目的を成就するために来られたのであるから、サタンは祝福復帰への道をふさぐため、その三つの試練をもって、創造目的が達成できないように妨げようとしたのであった。

2011年3月10日木曜日

第二章 モーセとイエスを中心とする復帰摂理 第二節(二)⑶②(ロ)

赤色(核心的内容)
(ロ) ヨシュアを中心とする実体基台
それゆえに神は、ヨシュアをモーセの代理として立てられ、その内的イスラエルの民を彼に服従させ、彼と共に、「幕屋のための基台」の上に立たせることによって、磐石の水を中心とする「出発のための摂理」を成就され、この摂理に基づいて彼らがカナンの地に入ることにより、そこで、「堕落性を脱ぐための民族的な蕩減条件」を立て、第三次路程のヨシュアを中心とする「実体基台」をつくらせようとされたのであった。

モーセが第二次路程でカナンの地に偵察として送った十二人がいた(民数一三・1、2)。彼らの中でひたすら忠誠をもって、その使命を完遂した二人の心情の基台の上に、ヨシュアは再び二人の偵察(斥候)をエリコ城に送った(ヨシュア二・1)。その際、エリコ城の偵察を終えて戻ってきた二人の偵察者は、「ほんとうに主はこの国をことごとくわれわれの手にお与告したのである。このとき、荒野で出生したイスラエルの子孫たちは、みなその偵察者の言葉を信じたので、これをもって、過去に四十日偵察を、み意にかなうように立彼らが三日路程を経たのちに、雲の柱と火の柱とで表象されたイエスと聖霊の象徴的な実体である契約の箱が、彼らをヨルダン河まで導いたのであった(ヨシュア三・3、同三・8)。

ヨシュアを導いていた契約の箱がヨルダン河の水際に浸ると同時に、岸一面にあふれていたヨルダンの流れが分かれて(ヨシュア三・16)、ついてきたイスラエルの民は、陸地のように河を渡ったのである(ヨシュア三・2)

ヨシュアを中心とするイスラエルも、彼らが三日路程を経たのちに、雲の柱と火の柱とで表象されたイエスと聖霊の象徴的な実体である契約の箱が、彼らをヨルダン河まで導いたのであった(ヨシュア三・3、同三・8)。

ヨシュアを導いていた契約の箱がヨルダン河の水際に浸ると同時に、岸一面にあふれていたヨルダンの流れが分かれて(ヨシュア三・16)、ついてきたイスラエルの民は、陸地のように河を渡ったのである(ヨシュア三・17)。

このとき神はヨシュアに命じられて、「民のうちから、部族ごとにひとりずつ、合わせて十二人を選び、彼らに命じて言いなさい、『ヨルダンの中で祭司たちが足を踏みとどめたその所から、石十二を取り、それを携えて渡り、今夜あなたがたが宿る場所にすえなさい』」(ヨシュア四・2、3)と言われた。そしてイスラエルの民は、正月十日に、ヨルダン河から上がってきて、エリコの東の境にあるギルガルに宿営して、ヨルダン河から取ってきた十二の石をそこに立てたのであった(ヨシュア四・20)。

ギルガルに宿営したヨシュアを中心とするイスラエルの民も、その年の正月十四日の過越の祭を守ってのち、固く閉ざされていたエリコの城壁に向かって進軍したのであった。

イスラエル民族は、神の命令により、四万の兵士が先頭に立ち、そのあとにつき従って七人の祭司長たちが、七つのラッパを吹きながら行進し、またそのあとには、レビ部族の祭司長たちが担いだ契約の箱(ヨシュア三・3)が従い、最後の線にはイスラエルの全軍が続いて進軍したのであった(ヨシュア六・8、9)。

神が命じられたとおり、イスラエル民族は、このような行軍をもって一日に一度ずつ六日間、城を回ったのであるが、その城には何らの変動も起こらなかった。彼らは忍耐と服従とをもって、サタンの侵入を受けた六日間の創造期間を蕩減復帰しなければならなかったのである。彼らがこのような服従をもって六日間を立てたのち、七日目に七つのラッパを吹く七人の祭司たちが、城を七度回りながら七度目にラッパを吹いたとき、ヨシュアがイスラエルの民に向かって、「呼ばわりなさい。主はこの町をあなたがたに賜わった」と号令すると、民はみなこれに応じて、一斉に大声をあげて呼ばわったので、その城が、たちまちにして崩れてしまったのであった(ヨシュア六)。

破竹の勢いをもって敵を攻撃したヨシュアは、ベテホロンの戦いにおける十九王と、メロムの激戦における十二王を合わせて、三十一王を滅ぼしたのであるが(ヨシュア一二・9~24)、

③ メシヤのための基台
第三次の民族的カナン復帰路程の「実体基台」がつくられ、その結果としてこの路程の「メシヤのための基台」が造成されることによって、アブラハムのときに立てられた「メシヤのための家庭的な基台」は、彼の供え物の失敗による四〇〇年エジプト苦役の蕩減路程を経たのち、初めて「メシヤのための民族的な基台」が造成されるようになったのである。ところが、既に後編第一章第三節(三)を通じて詳しく論じたように、そのとき既に、堕落人間たちが、サタンを中心として、エジプト王国などの強大な王国を建設し、天の側の復帰摂理と対決していたので、ヨシュアを中心として「メシヤのための民族的な基台」が立てられたといっても、その基台の上でサタンと対決することのできる天の側の王国が建設されるときまでは、メシヤは降臨なさることができなかったのである。ところで、カナンに入った内的イスラエルも、また不信に陥り、この摂理は、再び延長を重ねてイエスのときにまで至ったのである。

2011年3月7日月曜日

第二章 モーセとイエスを中心とする復帰摂理 第二節(二)⑵(b)

(b) 第二次 幕屋のための基台
「四十日サタン分立基台」を再び立てて、幕屋のための「信仰基台」を復帰しなければ、石板を中心とする幕屋を復帰することは不可能であるため、モーセは、再び、四十日四十夜の間断食したのちに、十戒のみ言を記録した第二次の石板と幕屋理想を復帰するようになったのであった(出エ三四・28)。

モーセが、第二次として石板を中心とする幕屋理想を復帰していた「四十日サタン分立基台」においては、イスラエル民族は、モーセに従順に屈伏しただけでなく、モーセの指示によって、神のみ言のとおりに幕屋を建てたのであるが、そのときは、第二年の正月一日であった(出エ四〇・17)。このようにして、イスラエルの選民たちは「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立て、幕屋のための「実体基台」をつくることによって、「幕屋のための基台」を造成した基台の上に、幕屋を建設するようになったのである。しかし、既に述べたように、彼らが幕屋を建設することだけでは、第二次民族的カナン復帰路程における「実体基台」はつくり得ないのである。彼らはカナンに入って神殿を建て、メシヤを迎えるときまで忠節を変えることなく、この幕屋を自分たちの命よりもなお貴重に思い、それを信奉しなければならなかったのである。
第二年の二月二十日に、イスラエル民族は雲の柱の導きによって、幕屋を中心として、シナイの荒野を出発した(民数一〇・11、12)。ところが、彼らは再び不信仰に陥り、モーセを恨んだので、エホバは怒りを発せられ、火をもって彼らの宿営の端を焼かれたのである(民数一一・1)
イスラエル民族が立てていかなければならなかった「幕屋のための基台」は、再びサタンの侵入を受ける結果となってしまったので、この基台を復帰しようとした摂理は、またも、第三次の延長を余儀なくされたのであった。

(c) 第三次 幕屋のための基台

モーセの変わらない信仰と忠誠とによって、その幕屋は、依然としてモーセを中心とする幕屋のための「信仰基台」の上に立っていたのであり、また、イスラエル民族は、既にレピデムで幕屋の中心である石板の根、すなわち、磐石の水を飲んだ(出エ一七・6)基台の上に立っていたのであった。それゆえに、このような基台の上でイスラエル民族が再び、「四十日サタン分立基台」を立てて、幕屋を中心とするモーセに従順に屈伏したならば、彼らはいま一度、第三次の「幕屋のための基台」を蕩減復帰できるようになっていたのである。このための条件として下さったのが、四十日の偵察期間であった。

偵察から戻ってきた十二名のうち、ヨシュアとカレブとを除いては全部が不信仰な報告をしたのである。

この報告を聞いたイスラエル民族は、モーセに向かってつぶやき、泣き叫びながら、新たに一人のかしらを立てて、エジプトに帰ろうと騒ぎだした。

第三次の「幕屋のための基台」も復帰することができなくなったので、第二次の二十一カ月の荒野路程は、第三次の四十年荒野路程に延長されてしまった。

④ 第二次民族的カナン復帰路程の失敗

イスラエル民族の不信により、「幕屋のための基台」が、三次にわたってサタンの侵入を受けるようになったので、
第二次に立てようとした「実体基台」を造成することができなくなり、第二次民族的カナン復帰路程は、再び失敗に終わってしまい、第三次民族的カナン復帰路程に延長されたのである。

(3) 第三次民族的カナン復帰路程
① 信 仰 基 台

イスラエル民族の不信仰により、第二次民族的カナン復帰路程が失敗に終わったので、モーセがこの路程の「信仰基台」を復帰するために立てたミデヤン荒野の四十年期間は、再び、サタンの侵入を受ける結果となってしまった。それゆえに、イスラエル民族が偵察四十日期間を、信仰と従順をもって立てることができなかったので、日を年に換算して、荒野を経てカデシバルネアに戻るまでの四十年期間は、モーセにおいては、第二次路程の「信仰基台」に侵入したサタンを分立して、第三次路程の「信仰基台」を蕩減復帰するための期間となった。したがって、この荒野の四十年間を、ひたすら信仰と忠誠をもって、幕屋を信奉しながら流浪したあと、カデシバルネアに再び戻ってきたモーセは、第三次民族的カナン復帰路程のための「信仰基台」を立てることができたのであり、それによってこの路程の、民族的な「実体献祭」のためのアベルの立場も確立するようになったのである。

② 実 体 基 台
荒野の四十年流浪期間は、モーセにおいては、第三次路程における「信仰基台」を立てるための期間であったのであり、またイスラエル民族においては、「幕屋のための基台」を立てたのち、第二次路程で彼らがモーセに仕えて幕屋を建設した立場に戻ることによって、第三次路程の「出発のための摂理」をつくるための期間であったのである。

(イ) モーセを中心とする実体基台

イスラエル民族が石板と幕屋と契約の箱とを信奉することにより、三大恩賜と十戒を守るならば、彼らは第二次路程において、三大奇跡と十災禍をもってエジプトを出発したときのその立場に戻るようになるのであった。したがって、イスラエル民族が、信仰と従順とをもってモーセに従い、荒野四十年の蕩減期間を終えてカデシバルネアに戻ったのち、モーセと共に「幕屋のための基台」の上で石板と幕屋と契約の箱を信奉したならば、彼らは、第二次路程で三大奇跡と十災禍をもってエジプトを打つことにより、「出発のための摂理」の目的を完遂した立場に、再び立つようになっていたのであった。

第三次民族的カナン復帰路程は、磐石を中心とした「出発のための摂理」により、カデシバルネアを出発することによって始まる。そして、イスラエル民族が、信仰と忠誠をもって幕屋を信奉し、モーセに従ってカナンに入れば、そのとき第三次民族的カナン復帰路程における「堕落性を脱ぐための蕩減条件」が立てられ、モーセを中心とする「実体基台」がつくられるようになっていたのであった。

それでは、神は磐石を中心とする「出発のための摂理」をいかに完遂しようとされたのであろうか。荒野の四十年期間をみ意にかなうように立てることができず、再び不信に陥っていくイスラエルの民族を(民数二〇・4、5)救うために、神はモーセをしてイスラエルの会衆の前で、杖をもって岩(磐石)を打ち、水を出させて、それを彼らに飲ませられたのであった(民数二〇・8)。

そのときから、モーセを信じて彼に仕え、彼に従ってカナンの地に入ったならば、彼らは「堕落性を脱ぐための民族的な蕩減条件」を立てることになるから、第三次路程のモーセを中心とする「実体基台」を、そのときつくることができたはずであった。

モーセはこのように一度打つべきであった磐石を二度打ったので、磐石を中心とする「出発のための摂理」は、成就することができなくなり、結局は、約束されたカナンの福地を目の前に眺めながら、そこに入ることができなかったのである(民数二〇・24、民数二七・12~14)。

サタンは、将来、命の水を出し得る磐石となるべく成長してきたアダムを、一度打って堕落させることにより、彼を「水を出せない磐石」としてのアダムに変えてしまったので、神はこの水を出せないアダムの表示体である磐石を一度打って水を出すようにし、それによって、「水を出し得る磐石」として、このアダムを蕩減復帰することができる条件を立てようとされたのである。

コリント・一〇章4節に、磐石(岩)はすなわち、キリストであると言われたみ言のとおり、磐石はイエスを象徴すると同時に、石板の根となるので、それは、石板の実体であられるイエスの根、すなわち、神をも象徴するのである。

モーセが磐石を二度打った外的な行動は、サタンの行動になってしまったが、内的な情状においては、その磐石から水を出して、イスラエルの民に飲ませ、彼らを生かしたのであった。それゆえに、エジプトから出てきた外的なイスラエル民族は、ヨシュアとカレブを除いては、みな、神が予定されたカナンの地に復帰することができず、モーセも一二〇歳を一期として望みの地を目前に眺めながら死んでいったのである(申命三四・4、5)。しかし、ヨシュアがモーセの代わりに(民数二七・18~20)、磐石の水を飲み、幕屋を信奉する荒野路程の中で出生した内的なイスラエルを導いてカナンの地に入ったのであった(民数三二・11、12)。

モーセが、磐石を二度打ったのち、神は不信に陥っていくイスラエルに、火の蛇を送られ、彼らをかんで死ぬようにせられた(民数二一・6)。しかし、イスラエルが悔い改めるようになったとき、神は、モーセに青銅の蛇をつくらせ、それをさおの上に掛けるように計らわれ、その青銅の蛇を仰いで見る人だけは救われるようにされたのであった(民数二一・9)。

イスラエルの不信によって、モーセが磐石を二度打ったとき、神は、モーセがカナンの地に入ることはできないだろうと預言された(民数二〇・12)。これに対してモーセは、神にカナンの地に入ることができるようにと哀願の祈りを切実にあげたのであるが(申命三・25)、彼はついに、カナンの地を目の前に見おろしながら息絶えたのであった。このようにして彼が死んだのち、その死体は葬られたが、今日までその墓を知る人は一人もいない(申命三四・6)。

2011年3月6日日曜日

第二章 モーセとイエスを中心とする復帰摂理 第二節(二)⑵③

赤色(核心的内容)
③ 幕屋を中心とする復帰摂理

我々は先に、石板と幕屋と契約の箱とを受けるようになったそのいきさつを、知らなければならない。イスラエル民族は、アマレクと戦って勝利したのち、三カ月目の初めに、シナイの荒野に到着した(出エ一九・1)。

モーセは、シナイ山で断食する間に、神から契約の箱と幕屋についての指示を受けた(出エ二五~三一)。そして四十日間の断食が終わったとき、モーセは十戒を記録した二つの石板を神から受けたのである(出エ三一・18)。

モーセが石板を持ってシナイ山から下り、イスラエルの民の前に出てきたとき、彼らはアロンをして金の子牛をつくらせ、それが、イスラエル民族をエジプトから導きだした神であると言って拝んでいたのであった(出エ三二・4)。これを見たモーセは大いに怒って、手に持っていた二つの石板を山の下に投げつけ、壊してしまったのである(出エ三二・19)。

このみ言を聞いたモーセが、再び四十日四十夜を断食したとき、神は彼の石板に再び十戒を記録してくださった(出エ三四・28)。モーセがこの石板をもって、再びイスラエル民族の前に現れたとき、初めて彼らはモーセを信じ、彼に仕えるようになって、契約の箱をつくり、幕屋を建設したのである(出エ三五~四〇)。

(イ) 石板、幕屋、契約の箱などの意義とその目的

石板は何を意味するものであろうか。

み言を記録した二つの石板は、復帰したアダムとエバとの象徴体であって、将来、み言の実体として来られるイエスと聖霊とを象徴したのであった。
幕屋にはどういう意義があるのであろうか。
神殿はイエスの形象的な表示体であるといわなければならない。

幕屋はイエスの象徴的な表示体なのである。
契約の箱とはいったい何であろうか。
契約の箱は、大きくは天宙の、そして、小さくは幕屋の縮小体であると見なすことができる。
神が石板と幕屋と契約の箱とを下し給うた目的は、いったいどこにあるのだろうか。

イスラエル民族はみな不信に流れてしまった。そしてついには、モーセまでが不信の行動をとるかもしれないという立場に陥ってしまったのである。ここにおいて神は、たとえ人間は変わっても変わることのできないある信仰の対象を立てなければならなかったのである。

(ロ) 幕屋のための基台

メシヤを迎えるためには「メシヤのための基台」がつくられなければならないのと同様に、象徴的なメシヤである幕屋を迎えるためにも、「幕屋のための基台」がつくられなければならない。したがって、この基台を立てるためには、幕屋のための「信仰基台」と、幕屋のための「実体基台」とを立てなければならない、ということはいうまでもない。

モーセが、幕屋のための神のみ言を信奉し、断食の祈りをもって「四十日サタン分立期間」をみ意にかなうように立てれば、幕屋のための「信仰基台」がつくられるようになっていたのである。また、イスラエル民族が、幕屋のための「信仰基台」の上で、幕屋理想を立てていくモーセに、信仰をもって従順に屈伏すれば、幕屋のための「堕落性を脱ぐための蕩減条件」が立てられ、したがって、幕屋のための「実体基台」もつくられるようになっていたのであった。ここにおいて、幕屋というのは、その中に入っている石板と契約の箱とを含めていうのである。

(a) 第一次 幕屋のための基台

モーセは、このときから四十日四十夜の間断食したのである(出エ二四・18)。それは、既に前のところで詳しく論じたように、イスラエル民族が紅海を渡ったのち、再び不信に陥るのを見られた神が、モーセをして「四十日サタン分立期間」を立てるようにせられ、それによって、象徴的なメシヤである幕屋のための「信仰基台」を立たしめるためであった。

幕屋を建てるために、「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立てて、幕屋のための「実体基台」をつくるときにおいても、イスラエル民族は、モーセが「四十日サタン分立期間」を経て幕屋を建てるときまで、彼を信じ、彼に仕え、彼に従わなければならなかったのであった。ところが彼らは、モーセが断食の祈りをあげていた期間に、みな不信に陥ってしまい、アロンに金の子牛をつくらせ、それがイスラエルの民をエジプトから導きだした神であると言って拝んでいたのである(出エ三二・4)。その結果、イスラエル民族は、幕屋のために立てなければならなかった「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立てられず、したがって幕屋のための「実体基台」もつくることができなかったのである。

イスラエル民族のこのような不信仰は、モーセが「四十日サタン分立期間」を立てたのち、その民をしてモーセに従わせ、「幕屋のための基台」をつくろうとされた神の摂理を挫折させてしまったのである。したがって、「幕屋のための基台」をつくろうとされた摂理は、打ち続くイスラエルの不信仰により、二次から更に三次にまで延長されてきたのであった。

2011年3月5日土曜日

第二章 モーセとイエスを中心とする復帰摂理 第二節(二)から⑵②まで

赤色(核心的内容)
(二)モーセを中心とする民族的カナン復帰路程

モーセがサタンの世界であるエジプトから、イスラエルの選民を奇跡をもって導きだし、紅海を渡り、荒野を巡って、神が約束された土地であるカナンに向かう路程は、将来、イエスがこの罪悪世界において、第二イスラエルであるキリスト教信徒を奇跡をもって導き、この罪悪世界の苦海を渡り、命の水が乾いた砂漠を巡って、神が約束された創造本然のエデンに復帰するその路程を、先に見せてくださったことにもなるのである。また、モーセを中心とする民族的カナン復帰路程が、イスラエル民族の不信によって、三次にわたって延長されたように、イエスを中心とする世界的カナン復帰路程も、ユダヤ人たちの不信によって、三次にわたって延長されたのであった。

(1) 第一次民族的カナン復帰路程

① 信 仰 基 台
イスラエル民族が、四〇〇年間をエジプトで苦役することにより、アブラハムの象徴献祭の失敗によって招来された、民族的な蕩減期間は終わったのである。ここにおいて、モーセがイスラエル民族を導いて、「信仰基台」を復帰する人物となるためには、民族的な蕩減期間である四〇〇年を、再び個人的に蕩減することにより、「四十日サタン分立の基台」を立てなければならなかった。モーセは、この目的とともに、堕落前のアダムの「信仰基台」のために立てなければならなかった四十数を蕩減復帰するために(後編第三章第二節(四))、サタン世界の中心であるパロの宮中に入り、四十年を送らなければならなかったのである。

モーセは、パロ宮中生活の四十年をもって「四十日サタン分立基台」を立て、信仰基台を蕩減復帰したのである

② 実 体 基 台
モーセは、「信仰基台」を立てることによって、同時に、既に述べたような「堕落性を脱ぐための民族的な蕩減条件」をつくるのに必要な、アベルの位置をも確立していたのである。ゆえに、カインの立場にいたイスラエル民族が、彼らの父母の立場であると同時に、子女としてのアベルの立場にもいたモーセに、信仰を通じて従順に屈伏し、彼から神のみ旨を継承することによって、善を繁殖することができたならば、そのときに「堕落性を脱ぐための民族的な蕩減条件」を立て、「民族的な実体基台」を蕩減復帰するようになっていたのである。イスラエル民族が、このようにモーセに従ってエジプトを出発し、カナンの福地に入る期間は、すなわち、彼らがこの「実体基台」を立てるための期間となるのである。
神は、モーセがエジプト人を打ち殺すことをもって「出発のための摂理」をされた。

③ 第一次民族的カナン復帰路程の失敗
彼らは、モーセがエジプト人を打ち殺すのを見て、むしろ、彼を誤解し、そのことを口に出して非難したため、パロはこのことを聞いてモーセを亡き者にしようとしたのである(出エ二・15)。そこでモーセは、やむなくパロの目を避けて、イスラエル民族を離れ、ミデヤンの荒野に逃げるようになったので、その「実体基台」をつくることができず、したがって、モーセを中心とするイスラエル民族のカナン復帰路程は、二次から三次まで延長されるようになったのである。

(2) 第二次民族的カナン復帰路程

① 信 仰 基 台
カナン復帰路程は失敗に終わり、モーセが彼の「信仰基台」のために立てたパロ宮中の四十年期間は、サタンの侵入を受ける結果となってしまった。それゆえに、モーセが第二次民族的カナン復帰路程を出発するためには、サタンの侵入によって失った、パロ宮中の四十年期間を蕩減復帰する期間を再び立て、「信仰基台」を復帰しなければならなかったのである。モーセがパロを避けてミデヤンの荒野に入り、再び、四十年期間を送るようになった目的は、とりもなおさず、ここにあったのである。

モーセは、ミデヤン荒野における四十年をもって「四十日サタン分立基台」を新たに立てたため、第二次の民族的カナン復帰のための「信仰基台」を復帰することができたのである。

② 実 体 基 台

モーセは、ミデヤン荒野の四十年をもって、「四十日サタン分立基台」を再び造成し、「信仰基台」を復帰すると同時に、再び「堕落性を脱ぐための民族的な蕩減条件」を立てるに当たってのアベルの位置をも確立したのである。

第一次民族的カナン復帰路程を出発しようとしたとき、モーセがエジプト人を打ち殺したのと同じ目的でもって、第二次民族的カナン復帰路程を出発するに当たって、神はモーセに、三大奇跡と十災禍を起こす権能を与えられ、エジプト人を打つことによって「出発のための摂理」をされたのである。

モーセが、神に自分の言葉を代理に語れる人を要求したとき、神はその兄アロン(出エ四・14)と、アロンの姉である女預言者ミリアム(出エ一五・20)とを彼に与えられた。これは、将来み言の実体となられるイエス(ヨハネ一・14)と聖霊とが来られて、堕落によってみ言を失った人間を、み言の実体として復帰されるということを、形象的に見せてくださったのであった。

モーセが神の命令を受けパロの前に行く途中で、主が現れてモーセを殺そうとされた。そのときモーセは、彼の妻チッポラがその男の子に割礼を施して許しを請うたおかげで、死を免れることができたのである(出エ四・24~26)。

神は、モーセを通じて十災禍の奇跡を行われることにより、イスラエル民族をエジプトから救いだされたのであるが(出エ七・10~一二・36)、これも将来イエスが来られて、奇跡をもって神の選民を救われるということを、見せてくださったのであった。

第一次の民族的カナン復帰路程においては、モーセがエジプト人を打ち殺すことをもってその出発のための摂理をされたのであった。しかし、彼らがかえってモーセを信じなかったために、この路程は出発することさえもできず、失敗に終わってしまったのである。ところが、第二次路程におけるイスラエル民族は、その「出発のための摂理」として見せてくださった三大奇跡と十災禍に接し、モーセはまさしく、神が遣わされた真実なるイスラエルの指導者である、ということを信ずるようになったのであった。そして、イスラエル民族は、「民族的な信仰基台」の上でアベルの立場を確立したモーセを信じ、彼に従う立場に立つようになったので、彼らはついに、第二次民族的カナン復帰路程を出発することができたのである。

「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立てる摂理路程にはサタンが侵入し、長い摂理の期間をサタンに奪われていたために、モーセに対してカインの立場に立っていたイスラエル民族は、このような期間を民族的に蕩減復帰するため、この荒野路程の全期間を通じ、従順と屈伏をもってモーセを信じ、彼に従わなければ、「堕落性を脱ぐための民族的な蕩減条件」を立てることができなかったからである。したがって、イスラエル民族がモーセに従い、荒野路程を経てカナンに入ってしまうまでは、「民族的な実体基台」を立てることができなかったのであった。

モーセを中心とするイスラエル民族は、二十一カ月の荒野路程を出発するようになったのである。

モーセにも、彼がカナン復帰路程を出発するためには、パロを欺いて自由行動をとり、サタンを分立せしめる三日期間がなければならなかったのである。
イスラエルの壮丁(成年に達した男子)六十万人が、ラメセスを出発したのは、正月十五日であった(出エ一二・6~37、民数三三・3)。

イスラエル民族が、三日期間を神のみ意にかなうように立て、スコテに到達したのちにおいても、神は尽きない恩賜をもって、昼は雲の柱、夜は火の柱をもって彼らを導かれたのである(出エ一三・21)。

モーセは神の命令により、杖をもって紅海の波を分け、それを陸地のようになさしめて渡ったのであるが、彼らのあとを追撃してきたエジプトの馬と戦車と騎兵とは、みな水葬に付されてしまったのである(出エ一四・21~28)。

イスラエルの民族は、紅海を渡り、エジプトを出発してから二カ月目の十五日に、シンの荒野に到着した(出エ一六・1)。このときから神は、彼らが人の住む土地にやって来るまでマナとうずらとを与えられたのであるが(出エ一六・35)、

イスラエル民族がシンの荒野を出発して、レピデムに宿営したとき、神はモーセに命ぜられて、ホレブ山の磐石(岩)を打たせ、水を出して彼らに飲ませられた(出エ一七・6)。

ヨシュアがレピデムでアマレクと戦ったとき、モーセが手を挙げているとイスラエルが勝ち、手を下げると敗れた。それゆえに、アロンとホルは、石を取ってモーセの足もとに置き、彼をその上に座らせて、彼の手が下がらないように左右から支えることにしたので、その前で戦っていたヨシュアは、アマレク王とその民を打って勝利したのであった(出エ一七・10~13)。

2011年3月4日金曜日

第二章 モーセとイエスを中心とする復帰摂理 第一節・第二節(一)より

赤色(核心的内容)
第一節 サタン屈伏の典型的路程
第二節 モーセを中心とする復帰摂理
第三節 イエスを中心とする復帰摂理

神が、ヤコブとモーセを立てて復帰摂理路程を歩ませ、それをもって、将来、イエスが来られて、人類救済のために歩まねばならない摂理を、どのようなかたちで表示してくださったかということについて調べてみることにする。

第一節 サタン屈伏の典型的路程
(一)イエスの典型路程としてヤコブ路程とモーセ路程とを立てられた理由
(二)ヤコブ路程を見本として歩いたモーセ路程とイエス路程

イサクの家庭を中心とする復帰摂理において、「実体基台」を立てる中心人物であったヤコブが、アベルの立場を確立して、「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立てるために、サタンを屈伏してきた全路程は、ヤコブによるその象徴路程を、形象的に歩まなければならないモーセ路程と、それを実体的に歩まなければならないイエス路程とを、あらかじめ示した典型路程であった。そして、この路程は、イスラエル民族と全人類が、摂理の目的を成就するために、サタンを屈伏させながら歩まなければならない、表示路程でもあるのである。

(一)イエスの典型路程としてヤコブ路程とモーセ路程とを立てられた理由
復帰摂理の目的は、究極的には人間自身がその責任分担として、サタンを自然屈伏させ、それを主管し得るようになることによって成就されるのである。イエスが、人間祖先として、メシヤの使命を負うて来られたのも、サタン屈伏の最終的路程を開拓し、すべての信徒たちをその路程に従わせることによって、サタンを自然屈伏させるためである。

第二節 モーセを中心とする復帰摂理
(一)モーセを中心とする復帰摂理の概観
(二)モーセを中心とする民族的カナン復帰路程
(三)モーセ路程が見せてくれた教訓

(一)モーセを中心とする復帰摂理の概観

モーセを中心とする復帰摂理は、アブラハムを中心とする復帰摂理において既に立てられた「メシヤのための基台」の上で達成されなければならないのであるが、「信仰基台」と「実体基台」とを蕩減復帰して、「メシヤのための基台」をつくらなければならないという原則は、彼においても、何ら異なるところはなかったのである。

(1) 信 仰 基 台
① 信仰基台を復帰する中心人物
アブラハムの象徴献祭の失敗によって生じた、その子孫たちのエジプト苦役四〇〇年期間が終わってのち、イスラエル民族がカナンの福地に復帰する路程において、「信仰基台」を復帰する中心人物は、モーセであった。

アダム、ノア、アブラハムなどと比べて、モーセの異なる点が何であったかということについて、調べてみることにしよう。

その第一はモーセが神の代理となり、神として立てられたということである。それゆえに、出エジプト記四章16節を見れば、神はモーセにイスラエルの預言者アロンの前で、「あなたは彼のために、神に代るであろう」と言われ、

第二に、モーセは、将来来られるイエスの模擬者であった。

モーセは、イエスの模擬者として、将来イエスが歩まれる路程を、そのとおり、先に歩むことによって、あたかも、洗礼ヨハネが、イエスの道を直くしなければならなかったように (ヨハネ一・23)、彼もイエスが将来歩まれる道を、前もって開拓したのであった。

ヨハネ福音書五章19節を見れば、イエスは、父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができないと言われた。
② 信仰基台を復帰するための条件物
モーセは、既に論じたように、モーセ以前の
摂理路程において、「信仰基台」を復帰してきた他の中心人物たちとは、別の立場に立っていた。それゆえに、モーセは、アベルとか、ノアとか、あるいはアブラハムのように、象徴献祭をしなくても、神のみ言を中心として、「四十日サタン分立基台」だけを立てれば、「信仰基台」を蕩減復帰することができたのである。その理由を挙げれば、まず第一に、モーセは、アベル、ノア、イサクなどが、三次にわたる象徴献祭を成功させることにより、象徴献祭による摂理を完了した基台の上に立っていたからである。

(2) 実 体 基 台

復帰基台摂理時代においては「家庭的な実体基台」を立てる摂理をなさった。しかし、復帰摂理時代になると、その次元が上がって、「民族的な実体基台」を立てる摂理をなさるようになるのである。

モーセがアベルの位置を確立したのち、イスラエル民族がカインの立場で、モーセを通じて「堕落性を脱ぐための民族的な蕩減条件」を立てるならば、そこに「実体基台」はつくられるのであった。

(3) メシヤのための基台

モーセが「民族的な信仰基台」を蕩減復帰して、モーセを中心とするイスラエル民族が、「民族的な実体基台」を蕩減復帰すれば、それがすなわち、「メシヤのための民族的基台」となるのである。

2011年3月2日水曜日

第一章 復帰基台摂理時代 第三節 赤色(核心的内容)⑶より

(二)実体基台

イサクを中心として、「メシヤのための基台」を立てるには、更に、彼の子エサウとヤコブとを、カインとアベルの立場に分立して、「実体献祭」をささげ、「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立てて、「実体基台」を完成しなければならなかった。

エサウとヤコブが「実体献祭」で、「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立てるためには、それに先立って、ヤコブがアベルの立場を蕩減復帰する条件を立てなければならなかった。そこで、ヤコブは次のようにして、「実体献祭」の中心人物であったアベルの立場を復帰するための蕩減条件を立てて、「実体献祭」をささげたのちに、アブラハムの「象徴献祭」の失敗による四〇〇年間の蕩減路程を歩むために、エジプトに入ったのである。
第一に、ヤコブは長子の嗣業を個人的に復帰する争いで、勝利の条件を立てなければならなかった。長子の嗣業を復帰しなければならない使命をもって胎内から選ばれたヤコブは、次子の立場から、知恵を用いて、パンとレンズ豆のあつものを与えて、エサウから長子の嗣業を奪ったのであるが(創二五・34)、ヤコブは長子の嗣業を重んじてそれを復帰しようとしたので、神はイサクに彼を祝福させた(創二七・27)。これに反してエサウは、それをパンとレンズ豆のあつもので売ってしまう程度に軽んじたので、彼を祝福なさらなかったのである。
第二に、ヤコブはサタン世界であるハランに行って、二十一年間苦労しながら、家庭と財物とを中心に、長子の嗣業を復帰する争いで勝利してカナンに帰ってきたのである。
第三に、ヤコブは、ハランから神が約束されたカナンの地へ帰ってくるとき、ヤボクの河で、天使との組み打ちに勝利して、実体で天使に対する主管性を復帰したのである。ヤコブはこのようにして、ついに、アベルの立場を蕩減復帰し、「実体献祭」のための中心人物となったのである。

エサウは、ヤコブがハランで二十一年間の苦役を終えて、天の側の妻子と財物とを得てカナンへ帰ってきたとき、(創三三・4)、彼らは「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立てることができたのである

(三)メシヤのための基台
アダムの家庭から立てようとした「メシヤのための基台」は、復帰摂理の中心人物たちが彼らの責任分担を全うできなかったので、三時代にわたって延長され、アブラハムにまで至ったのである。しかしながら、み旨を完成しなければならないアブラハムが、また「象徴献祭」に失敗したので、このみ旨は、更にイサクにまで延長された。ゆえに、イサクの家庭を中心として、「信仰基台」と「実体基台」がつくられて、初めて「メシヤのための基台」が造成されたのである。したがって、メシヤは当然、このときに降臨なさらなければならない。
堕落人間が「メシヤのための基台」を立てるのは、既にサタンを中心としてつくられた世界を、メシヤのための王国に復帰できる基台をつくるためである。

アブラハムの時代には、既に、堕落人間たちがサタンを中心とする民族を形成してアブラハムの家庭と対決していたので、そのとき「メシヤのための家庭的な基台」がつくられたとしても、その基台の上にすぐにメシヤが降臨なさるわけにはいかない。すなわち、この基台が、サタン世界と対決できる民族的な版図の上に立てられたのち、初めてメシヤを迎えることがで きるのである。
彼が「象徴献祭」に失敗したので、これに対する罰として、「メシヤのための家庭的な基台」を造成したイサクの子孫たちは、故郷を離れて異邦の国に入り、四〇〇年間を苦役しながら民族的な基台を立てて、再びカナンに帰ってきたのちに初めて、「メシヤのための民族的な基台」がつくられるようになっていたのである。

ヤコブの家庭は、イサクの家庭を中心として立てられた「メシヤのための基台」の上で、アブラハムが犯した罪を担当して、四〇〇年の蕩減路程を歩んだのである。ヤコブの家庭は、アブラハムを中心とする復帰摂理の目的を完成しなければならないので、イサクの家庭と同じ立場でこの蕩減路程を出発するようになった。

アブラハムの「象徴献祭」の失敗による蕩減路程を担当したヤコブは、天のみ旨のため、知恵をもってエサウから長子の嗣業を奪うというかたちで個人的な争いに成功した。また、サタン世界であるハランに入って、彼の母の兄ラバンから長子の嗣業を家庭的に奪う二十一年間の争いに勝利した。そして、彼がハランからカナンへ帰る途中で、天使との組み打ちにも勝利して、人間始祖が堕落して以後、堕落人間として、初めて、天使に対する主管性を復帰できる蕩減条件を立てて、イスラエルという名前を受け、選民形成の基盤をつくったのである。
ヤコブは、このような路程をたどって、カナンへ帰ってきたのち、初めて、「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立てたので、サタンを屈伏させる典型路程において成功したのである。

2011年3月1日火曜日

第一章 復帰基台摂理時代 第三節 赤色(核心的内容)⑵より

第三節 アブラハムの家庭を中心とする復帰摂理
(一)信仰基台
(二)実体基台
(三)メシヤのための基台
(四)アブラハムを中心とする復帰摂理が我々に見せてくれた教訓

② アブラハムのイサク献祭
アブラハムが「象徴献祭」に失敗したのち、再び神はアブラハムにイサクを燔祭としてささげよと命令された(創二二・2)。それによって、「象徴献祭」の失敗を蕩減復帰する新たな摂理をされたのである。

どうして神は、アブラハムを再び立て、イサク献祭によって、彼の「象徴献祭」の失敗を蕩減復帰する摂理をなさることができたのだろうか。
第一に、「メシヤのための基台」を復帰なさろうとする神の摂理は、アダムの家庭を中心とした摂理が第一次であり、ノアの家庭を中心とした摂理が第二次で、アブラハムの家庭を中心とした摂理が第三次であった。しかるに、三数は完成数(後編第三章第二節(四))なので、「メシヤのための基台」を復帰なさろうとする摂理が、第三次まで延長されたアブラハムのときには、この摂理を完成すべき原理的な条件があったのである。
第二には、既に詳述したように、献祭をささげるアブラハムの立場は、すなわちアダムの立場であった。しかるに、サタンは、アダムとその子カインに侵入して、二代にわたって彼らを奪っていったので、蕩減復帰原則により、天の側でも、アブラハムとその子の二代にわたって、取り返してくる摂理をすることができたのである。
第三に、アブラハムは、蘇生「象徴献祭」に成功したアベルの基台と、長成「象徴献祭」に成功したノアの基台の上で召されたことから、完成「象徴献祭」をすることができたのである。それゆえ、アブラハムは「象徴献祭」に失敗したけれども、神はアベルやノアが、「象徴献祭」に成功した歴史的な心情の基台を条件として彼を再び立てて、もう一度献祭をせしめることができたのである。
アブラハムは、イサクを供え物としてささげるときにも、「象徴献祭」をささげたときと同じように、まず、アダムの家庭を復帰する象徴的な蕩減条件を立てて、イサク献祭のための信仰を立てなければならなかった。

アブラハムは、イサク献祭をいかにささげたのだろうか。アブラハムはその絶対的な信仰で、神のみ言に従い、祝福の子として受けたイサクを燔祭としてささげるため殺そうとしたとき、神は彼を殺すなと命令されて「あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」(創二二・12)と言われた。
神のみ旨に対するアブラハムの心情や、その絶対的な信仰と従順と忠誠からなる行動は、既に、彼をしてイサクを殺した立場に立たしめたので、イサクからサタンを分離させることができた。

アブラハムがイサク献祭に成功することによって、アブラハムを中心とする復帰摂理は、イサクを通じて成し遂げていくようになっていたのであった。

③ み旨から見たイサクの位置と彼の象徴献祭

自分の責任分担を果たせずに失敗した張本人であるアブラハムを中心としては、再び同じ摂理を繰り返すことはできなくなっている。したがって、神は「象徴献祭」で失敗したアブラハムを、失敗しなかった立場に立て、また、延長されなかった立場に立てなければならなかった。神はこのような目的のため、アブラハムに、イサクを燔祭としてささげよと命令されたのである(創二二・2)。

アブラハムが神の命令に従って、その約束の子イサクを殺そうとした忠誠は、「象徴献祭」の失敗によってサタンの侵入を受けた自分自身を殺そうとしたのと同様な立場をつくったのである。したがって、神がイサクを死んだ立場からよみがえらせたということは、アブラハム自身も、イサクと同じく、死んだ立場から侵入したサタンを分立すると同時に、再びよみがえったということを意味するのである。ゆえに、アブラハムはイサク献祭で成功することにより、「象徴献祭」の失敗で侵入したサタンを分立し、み旨を中心としてイサクと一体不可分の立場に立つようになった。

献祭を中心として、イサクとアブラハムとが共に死んだ立場からよみがえることによって、第一に、アブラハムは、「象徴献祭」の失敗によって侵入したサタンを分立し、失敗以前の立場に蕩減復帰して、その立場から自分の摂理的な使命をイサクに継がせることができ、つぎにイサクにおいては、彼がみ旨の前に従順に屈伏することにより、アブラハムからの使命を受け継ぎ、「象徴献祭」をささげるための信仰を立てることができたのである。
このように、アブラハムの使命がイサクの方に移されたのち、「アブラハムが目をあげて見ると、うしろに、角をやぶに掛けている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行ってその雄羊を捕え、それをその子のかわりに燔祭としてささげた」(創二二・13)と記録されているとおり、アブラハムは、イサクの代わりに神が準備された雄羊を燔祭としてささげた。これは、そのままイサクを中心として、「信仰基台」を復帰するためにささげられた「象徴献祭」となったのである。

イサクは、アブラハムの使命を受け継いで、彼の身代わりの立場で、「象徴献祭」に成功して、「信仰基台」を蕩減復帰したのである。