2013年6月10日月曜日

御旨と世界 一心不乱 一生懸命 一九七三年七月八日 東京 東京教会 文鮮明先生のみ言より



御旨と世界
一心不乱 一生懸命

一九七三年七月八日 東京 東京教会


 日本は、この二年間に、運命の審判を下さなければならない。 我々はもう既に刀を抜いている。これをさやに収めることはできないのである。切るか切られるか、いずれかの道を行かなければならない重大時点に立っている。 日露戦争の時、乃木大将は二〇三高地において、自分の子供を失いながらも、数多くの日本の青年たちに攻撃命令を下した。トンネルを掘り、爆薬を仕掛け、これを爆発させて、勝利の起点を得たと同じように、我々もその道しかないのである。後退するわけにはいかない。死を覚悟して前進しなければならない。今、少なくとも五万人が必要である。七四年まで五万人をもたなければ、統一戦線も後退せざるを得ない。それで、十一月(昨年)に日本を発つ時、皆さんに話したように、我々は七三、七四年を目指して総進軍しなければならない。この七三年も、もう六カ月が過ぎてしまった。きょうは七月八日である。七二年から世界路程を開始して以来、三年期間において準備をしなければならない重大時点は、もう半分が過ぎてしまった。 この時点において、アメリカを中心としてぶつからなければならない。共産党をして、世界的にぶつかるようになっている。韓国から見ても、日本から見ても、中国から見ても、世界中どこから見てもぶつかるようになっている。そういうような運勢圏にならなければ、これは摂理を中心として勝者と敗者を決定することができない。それを決定しなければ、神の勝利の基準は満たされないから、神はそういう摂理の時点を外的、内的に我々に迎えさせてくれたのである。 この期間のためにアベルは血を流したし、この期間のためにノアは一二〇年の箱舟の勝利を果たしたし、この期間を求めるために、ヤコブの二十一年が必要であり、この期間を立てるために、イスラエル民族のエジプトにおける四三〇年の苦労の道があった。この期間を残すために、クリスチャンのローマ迫害時代四〇〇年があり、数多くの先祖たちが血を流し、蕩減の道を受け継いでここまでたどりついたのである。この三年間はそういうような、歴史的重大な時点に立っているのである。


 日本が危ない。

 世界的に恐ろしい軍隊があるとしたら、恐ろしいほど訓練された軍隊である。素晴らしい軍隊があるとしたら、素晴らしいほど訓練された軍隊である。それ以外にはない。例外はない。実践には例外がない。奇跡ということは例外の例外であって、それは、一時あった場合には千年の穴があく。我々はそれを知っている。 訓練が必要である。でたらめな訓練ではない。計画的であり、科学的であり、理論的であり、実践的な計画の訓練が必要である。 先生が好きなのは、「一心不乱、一生懸命」である。一生懸命、一心不乱に目的に向かって進んだ場合にはどうなるであろう。だから、実践の現場を迎え合った全世界の宗教のうちで、何が宗教界を代表したダビデの任務を果たし得るや。こう考えてみた場合に、いくら考えてみても統一食口以外にないということを、先生はようやく結論するに至りました。もしも神様がいたとするならば、それは先生が考えたそれを、認めざるを得ないでありましょう。 先生においては、残してきた子供たちから手紙が来る。思いがあったら、わざと切ってしまう。それで今回帰って来る飛行機の中で、初めて済まない心情を精算してきた。七カ月と二十日近いこの期間済まなかった。しかし、仕方ない。子供たちに対していろいろな手紙を、お母様が涙しながら出す時、先生は、「その涙は神に対してで、子供のために流してはいけない」と何回も言っている。会いたいことはお母様も先生も同じ思いである。だからできるだけ写真も見なかった。真を尽くさなければならない。 先生が言ったことを君たちがやってくれると思ったのに、半年たって、この間の報告を聞いてがっかりした。これではいけない。作戦を変えなければならないし、方向を転換しなければならない緊急事態に入った。再び決意を固めなければならない。目的に向かって突進するような道を満たさなければ日本は危ないのである。先生が言ったとおりの日本の情勢になった。アジア情勢になった。時間がたつごとに、遅くなってしまう。だから準備をなさない者には勝利は得られないじゃないか。準備をなすために、七二年から七三、七四年までに五万人以上の基準を必ず突破しなければならない。 先生は皆さんに負けない。今も闘っている。先生は今、四十年の闘いの路程を歩んでいる。先生は三十代まで準備時代、四十代まで実践時代、六十までに完成したいと、ちゃんと原理的に組んでいる。一九七七年から一九七八年まで、アメリカに影響する最高の絶頂期と決めている。一人でも行く。君たちが休んでも行く。援助しなくても行く。 今まで一月に一人伝道してきた者、手を挙げて。――一人もいない。失敗だよ。摂理は人が滅びても、国が滅びても、摂理は残さなければならない。残すために今まで神は働きかけている。一点の家庭基準を、氏族基準を我々は抱えて、先生がそれを保って働きかけている。真剣な問題である。だから一時間が惜しい。この一時間を努力しなかったならば、数千年が飛んでしまう悲惨な運命が生まれてくる。この一時間、この一瞬が危機に瀕している。 涙ながらに神の摂理に近寄って、神の悲惨なその姿を思ってみた場合に、我々に対して信頼できない神の立場はどんなものであろうか。統一教会が信頼できなかったなら、神は救いを受けることができない。もうおしまいである。それを君たちがいいかげんに考えて、こうでもいいし、ああでもいいと適当なやり方でこれを妨げることがあったとしたら先生は相手にしない。黙っていればいかにたやすいことだろう。しかし、そうはいかない。果たすべき使命を残している以上は、それを果たすために、嫌と言っても、転んでしまっても、落ちてしまっても仕方がない。正義に立って、正当なことを教えて、命令するのが善の指導者であって、天的指導者としての使命だから仕方がない。


 先生は二時間しか休まない

 先生はアメリカで平均二時間しか眠らなかった。十二時にみんなを寝かして、それから三時半、四時半まで勉強した。時間がないから寝ない。疲れる暇がない。七年間は寝なかった。みんなは何時間寝るのだ? 六時間寝るのだったら、そのうちの二時間は先生のために費やせ。神のために費やせ。神はそういうところに近づいてくる。余った余分な力でやっても何の効果もありません。誰でもそれはやる。何の条件にもならない。だからこれからは、実力と実行力をもたない指導者は消えていくよ。邪魔になる。 原理には三大裁きがある。真理、人格、心情において裁く。堕落は三大要件を犯したんだから。先生は成して、あんたたちに教えているんだよ。復帰の道は成して教えるべきであって、成さないで教えるべきであったら、聖書は六〇〇〇年前にもう既にやってきているよ。なぜか? 原則がある。父母の信仰が立たないから、父母が先に知らなかったから、知るのも父母が先に知らなければならない。父母が先に実行できなかったから、実行するのも父母が先に実行してからこそ、知るようになるのが原則である。だから、原理は先生から、もう成した基準に立っていないと教えられない。 だから、あなたたちは、原理をパスしなければならない。原理をパスして、原理基準に引っかからないような自分となって、それから実体者となって、原理に適用される。しかし、蕩減原則に適用されるそういう者があった場合には、実体復帰はなされません。そういう条件が残った場合には、サタンがいつも私のものだと引っ張っていく。だから実体基準を勝利するには、サタンを正面的に抱えてやれ。


 八十四の基台

 今、我々は、十カ国を中心として、七七七双の世界的な氏族圏をもっている。どこかに迫害があった場合には、これはみな手を取り合って援助する。イエス様の親族より素晴らしい。我々はイエス様が失った親族、氏族を復帰した基準に立っている。その次には、それを民族と結びつけなければならない。イスラエル民族のモーセを中心として見た場合には、民族と十二支派と七十二門徒がある。聖書には、七十二とか七十になっているが、七十二でなければならない。なぜかといえば、十二の六倍である。七十ならば欠けている。 七十二家庭を勝利しなければならない。イエス様が天国をつくれなかったのは、十二弟子が一つになれず、七十二門徒が一つになれなかったからである。だからイエス様は七十二人に追われ、十二弟子に追われ、最後には三人の弟子に追われて一人ぼっちで十字架につけられてしまった。父母に追われ、家族に追われ、イスラエル民族と国から追われ、闘ってきた三年間の道は信頼されず、天国はめちゃくちゃになってしまった。それを我々は再編成して、イエス様の実体基準を蕩減復帰してやらなければ、天国は絶対にやってきません。これは原理の骨子である。 蘇生期は家族であり、氏族である。長成は、十二弟子と七十二門徒がなければ、イスラエルの六十万を動員することはできない。問題は十二弟子と七十二門徒である。 統一教会においては、我々は父母をもっている。兄弟をもっている。血肉を共に受け継いで生まれたより以上の我々の兄弟をもたなければならない。だから我々は、国を超えて超国家的心情基準を備えている資格ありや? 天国は超国家である。それを果たせない者は天国に入れない。天国をつくり得る者にはなれない。先生はその道を過ぎた。あなたたちは今から十二弟子を組め! 七十二弟子を組まなければ天国はつくれない。それがあなたたちに残されたものである。 昨年から先生が命令したのは、一月に一人ずつ伝道しなければならない。至上命令だ! やれ! 先生は何の準備なしにあなたたちに言ったのではない。鉄則の基準をあなたたちに教えた。イエス様は三年ないし、三年半に、霊肉ともの基準を一致させようとした。それが失敗した。我々がイエス様と同じ蕩減復帰をするには、霊的三年間以上、肉的三年間以上を費やさなければ、霊肉ともの勝利の基台を結びつけることができない。それで七年間という年月が必要になってきた。七年間は全部がみ旨のためにこの天国をつくらなければならない。七年間に何するか? イエス様が失った十二弟子と七十二弟子を、これを家庭を中心として、蘇生、長成、完成しなければ天国をつくれない。 七十二と十二は八十四だから、七年間に十二掛けると八十四だ。十二弟子と七十二弟子を我々各自が組み合わさなければ、天国は、イエス様が世界的になし得た天国の橋を造ることができないんだから、我々生涯をかけてこの橋を結びつけなければ天国につながらないという各人の使命がある。一月に一人伝道して、七年かかって初めて八十四人になる。だから最小限度、一月に一人伝道するという結論は、世界的な基準の核心になっている。あなたたちもこういう信念を世界的に武装した場合には、その目的のために全国一致してはっきりさせた場合には、いかばかりサタン史が崩れていくか。 各自が、一人が一人ずつ一月に伝道するところに、その実績の基台に、天国は社会的に開かれる。これは間違いない原理の原則である。七年間は行かなければならない。一月に一人ずつ伝道すれば七年費やしてこそ、初めて八十四人の条件的な基準がつくられるから、それを至上命令として下したのである。今、初めて詳細に話した。 死してもこの基準を解決しなければ行く道がないというのが、鉄則となっている。だから先生も、生涯をかけてこの問題に引っかかったよ。イエス様もこの問題に引っかかったよ。神様も六〇〇〇年間、救いのために苦労したのも、この問題のためである。これを解決しない以上は、神様の心情的恨みを解く道はありません。 この三年間というのは、世界的基準において、霊的ではありながらも、イエス様が三年間に世界的心情基準をなし得なかったその基準を、世界的に再び編成しなければならない。だから各国の青年たちを組ませて、こういう時代において、イエス様が死ぬ時、みな逃げていったのではなくして、死ぬ時に共に死ぬような覚悟をもつ、そのような青年に武装させるための訓練所が、ベルベディアの訓練所である。それを整え、ある軌道に乗るようになるまで、七カ月かかった。満六カ月費やして、そういうことを成して、今帰る時である。 あなたたちは、天国づくりがどういうようになっているか、はっきり分かりましたね。話では通じない。実績が問題である。霊界に行っても、先生に対して、「天国に行く正しい道を教えなかった」と讒訴できないだろう。今、教えた。 きょう、一九七三年七月八日は、七数から見て、再出発を数えるそういう日である。アジアの一角、日本において、最初に詳細に説明した。 あなたたちにすべてがかかっている。今からやらなければならない。今から先生は命令する。十日に一度ずつ自分の親、兄弟に手紙を出せ! 君たちが社会に向けて活動する三分の一の努力があったら、氏族復帰は可能である。天国づくりは氏族基台を中心として、それから社会につながる十二弟子と七十二門徒である。それがなければ、社会を率いることはできない。世界的になりたければ一二〇人を立てよ。先生はそれをやってきた。 日本の問題として、今残っているのは、数的問題である。もしも日本が、ある期間までやらなかった場合には、先生は日本の使命をほかに回す。世界を救うには仕方がない。そうせざるを得ない。あなたたち、考えてみなさい。一年に死亡率が百分の一だと考えて、百人に一人死ぬと考えてみた場合には、三十六億のうち、三六〇〇万は一日に死んでいく。そうした場合に三六〇〇万人は地獄に行く。神から見た場合に大損害である。サタンから見た場合、大勝利である。一年早ければ、三六〇〇万が救われる。十年早ければ三億六〇〇〇万人である。 こう考えた場合に、世界にまで早くこれを宣べ伝えるのに、いかに忙しいかということが自然と分かるであろう。もう時間がない。神がいかばかりそれを願っているだろう。


2013年5月23日木曜日

祖国光復と入籍 第二章 神様の祖国と祖国光復 より、文鮮明先生のみ言


祖国光復と入籍

第二章 神様の祖国と祖国光復
一、入籍しようとするならば、まず主権国家があってこそ

入籍する国があってこそ

 天国に皆さんは登録されていません。国がないために、出生届けができないのです。結婚式ができないし、死亡届けができないのです。ですから、押されれば倒れるしかなく、死んでも訴えることのできない惨めな道を、宗教人たちが歩んできたのです。文総裁がその代表的な道を歩んできたことを知らなければなりません。泣き叫んでも、解決できないのです。悔しくても、うらめしくても、耐えなければなりません。(二八三-二二二、九七年四月十二日)

 国があってこそ、入籍が行われるのです。出生届け、結婚届け、死亡届けをするのです。私たち統一教会の数多くの家庭が祝福を受けましたが、今のところ、すべての手続きができていません。国がないために、手続きができないのです。登録をみな新しくしなければならないことを知らなければなりません。ですから、大移動が行われるのです。北極人が南極に、南極から北極へ行くのです。今後は手続きをする手順にしたがって、国と支派が変わるのです。大移動が行われるのです。(二七八―三二七、九六年六月二十三日)

 今後、国が成立すれば、各家庭が入って憲法と法を中心として全世界を蕩減し、整理してから天国の民として入籍する時代に入るのです。入籍しなければならないのです、入籍。今は国がありません。(二九七-八一、九八年十一月十五日)

 この世界はだれの名の下に存在したいのでしょうか? 神様の下にありたいし、真の御父母様の名の下にありたいのです。はじめに万物は、アダムとエバの時から真の神様を中心として神様と一体となり、完成した夫婦・父母の名の下に存在したかったのです。それが創造本然の位置なのです。

 それで、私たちの統一思想では真の父母を中心として、世界は一つにならければならないというのです。そのような結論が出てくるのです。だとしたら、現在の皆さんには籍がありません。入籍していないのです。したがって、皆さんは神様を中心として新しく入籍しなければなりません。入籍するためには、国がなければなりません。皆さんは国がない者たちです。生きてはいますが、サタン世界に対して権威をもって、自らの位置を堂々と言える基盤がない者たちなのです。皆さんは、そのようなことを明確に知らなければなりません。天民として入籍しなければならないのです。その主権は大きくても良いし、小さくても良いのです。国連から見れば、アメリカも小さな国も投票の権限は同じなのです。(三五-一七一、七〇年十月十三日)

 皆さんは今後、天国に登録する、という新しい出来事が始まるでしょう。戸籍に入らなければなりません。戸籍に入るためには、国がなければなりません。国がなければ、入籍をすることができません。国がどれほど重要かを知らなければなりません。国があってこそ、その国によって神様が思う存分になさることができるし、私たちも、初めて迫害圏のサタン世界を越えることができる基盤がつくられるのです。したがって、ご飯を食べても、何をしていても、いつも国のことを考えなければなりません。(五四-二二八、七二年三月二十四日)

 統一教会の主義は天宙主義であるがゆえに、家庭を中心として相続させ、家庭を中心として入籍させなければなりません。そのような時代が来るのです。私たちには、まだ入籍する国がないために、入籍できないのです。そのようにできる国がないのです。大韓民国は私たちが入籍する国ではありません。こういう運命である私たちはジプシーの群れであり、浮浪する群れであり、流浪の群れと同様の身分なのです。三五-二八二、七〇年十月二十五日)

 もし、皆さんが国家を復帰できずに死んだとすれば、この地上に再臨し、個人を協助し、家庭に協助することができるだけであり、堂々と権勢をふるうような協助はすることができません。サタン世界を征服するための闘いをなしうる資格者になれないのです。したがって、国ができてこそ、皆さんは入籍できます。皆さんは入籍しましたか? 皆さんは統一教会には入籍しましたが、統一された神様の国には入籍できていません。国がないのに民になることができますか? できないのです。(五四-二七七、七二年三月二十六日)

 私たちは、国に登録しなければなりません。新しく入籍しなければならないのです。そう言っても、日本の国を叩きつぶして、なくしてしまえ、というのではありません。日本を引っ張って、神の国に登録したとき、日本が世界で最初に登録した場合には、日本が指導国家になるのです。そのような国になることを望んでいるのです。そのような国を作ってみたいですか? このように考えて自分から始めましょう。結局はメシヤが、私ひとりを国よりも先に愛し、民族よりも先に愛し、氏族よりも先に愛してきたのは、結局は私ひとりを救うため、国家的価値までたどって、その相対的な足場を作るために、今まで努力してきたのです。それが、永遠に残る基台です。国家を復帰してこそ、自分たちを解放するようになります。それを、はっきりと知らなければなりません。(五五-九七、七二年四月二十三日)

 皆さんは今後、入籍の時期があるのです。祝福を受けに行くということは、入籍することではありません。これは象徴的な入籍でしかないのです。それゆえに、私たちは入籍できる国を求めていくのです。その国は、どんな国でしょうか? 主権は父母の代身、民は息子の代身、国土は物質の代身となり、三位一体を成す国なのです。国家を形成するためには、主権がなければならないし、民がなければならないし、国土がなければなりません。宗教も同じです。(三五-二八二、七〇年十月二十五日)

 国がなければ、国籍がないのです。国がなければ入籍できる基台がないのです。私たちは民族を編成して、新しい入籍をしなければなりません。この地上に天国を編成し、その国籍をもって、愛国愛族の、真なる善の父母の血統を受け継いだ勝利的な息子・娘として、自らの氏族や家族を率いて生きてこそ、天上世界の天国に入っていくことができるのです。それが原理です。(五八-一四三、七二年五月二十二日)

 皆さん、赤ん坊を出産すると、籍を入れますね? 同じように、主権国家がなくては、入籍ができないのです。また、民族だけがあるときには、お互いに争いが絶えません。しかし、主権者が決定すれば争いは終わるのです。

 その民族圏内から主権者が出てくるまでは、相対圏から抜け出すことができませんが、主権者が立ったあとには、相対圏から抜け出して、絶対的な立場に立つことができるのです。そのようになるまでは、皆さんも入籍できないのです。この世に生まれることは生まれても、生まれない人と同様の立場なのです。名前はあっても、その名前は公認されないのです。生まれることは生まれましたが、その生命の価値は公認されないのです。

 エデンの園では、アダムとエバが二人いただけで、その背後にはだれもいなかったため、彼らが父母になれば、世界的、天宙的なものとなったはずです。しかし、今日の統一教会においては、まだ世界的、天宙的なものとなっていません。数多くの主権国家があるために、そのようにできないのです。それゆえ、このような内容を世界的に蕩減し、大韓民国において、一つの故郷の地を中心とした父母、氏族長、民族長、国の主権者を決定して、世界全体が仰ぐことのできる絶対的な一つの基準を立てておかなければならないのです。そうしてこそ、ここから新しい国、新しい宗教、新しい民族が編成されるのです。これが、今日、私たちに与えられた使命であり、統一教会が行かなければならない復帰の限界点であるということを、はっきりと知らなければなりません。(三七-一五二、七〇年十二月二十三日)


統一教会員の入籍

 今後、一九七二年度までの三年間の予定ですが、この三年路程を過ぎれば、国家を中心とした私たちの基台は、大韓民国に必ず顕現するようになるはずです。国家がそこに順応し、国家が相対的基準に立つことができる基盤が築かれるようになれば、このような活動の基台を持った人は、天を中心とした新時代において、国のために生きた家庭として、国の保護を受けることができる家庭として、入籍することでしょう。国がなくては入籍することができません。主権がなくては入籍することができないというのです。そういう使命を完結させるために、皆さんは一線に行かなければならないのです。(三六-一四六、七〇年十一月二十五日)

 先生は世界的に蕩減して、大韓民国において、一つの故郷の地を中心とした国の主権者を決定し、世界が仰ぐことのできる一つの絶対的な基準を立てるために闘っています。しかし、銃や刀を持って戦うのではありません。善の実績を積んで、功績の価値を保有することによって、民族から公認され、自動的に上がっていかなければならないのです。

 では皆さんが、このようなみ旨を受け継いで、何をしなければならないかというと、国がないために、国を編成しなければなりません。今、皆さんに伝道しなさい、と言うのは、国を編成するにあたって族長になれというのです。族長になって、世の中の人々の出生届けを再びさせるのです。それは、銃を持って兵を招集することと同じです。登録をさせる責任者の役割をしなさいというのです。その登録が後に入籍となるのです。戸籍に入るのです。入籍を知っていますか? 皆さん、全員入籍しましたか? できていませんから、その族譜にしたがって入籍をしなければならないのです。

 私たち統一教会も、まだ入籍していないのです。入籍をしようとすれば、主権がなければなりません。主権国家が成立しなければならないのです。入籍ができない場合は立場がないのです。それゆえ、私たちは国家復帰をしなければなりません。

 私たちは南北に分かれている大韓民国を統一させなければなりません。統一するには、私たちの血と汗の代価を払わなければなりません。これが、私たちの絶対的な使命であるということを、はっきりと知らなければなりません。私たちが自ら統一教会の名称をなくしてしまえる時も、統一されたその時からです。したがって、統一教会のなすべき最上の復帰の限界点は、主権復帰なのです。

 南北に分かれている大韓民国を統一し、神様を中心として一つの主権者を立て、新しい法度を通じて、新しい社会秩序、新しい教育方式等の新しい制度を形成してこそ、そのとき初めて、私たちのみ旨として、世界的な母国のみ旨として、登場できるのです。皆さんが、そこに貢献するということは、歴史時代に一度しかない、後にも先にもないことなのです。皆さんが生きているうちに、このようなみ旨の環境圏において、貢献することのできる、またとないこの良き時期を、失わないように願うものです。(三七-一五四、七〇年十二月二十三日)


国なきイスラエル

 統一教会は国なきイスラエル民族と全く同じです。第三のイスラエル民族なのです。ですから私たちは、いかなる苦労、いかなる闘いをしても、故郷の地を奪い返して占領しなければなりません。そうして、思う存分にできる主権を備えることを望んでなりません。

 では、第二イスラエルの主権基盤を中心として、今まで苦痛の路程をたどってきた、その希望とは何でしょうか? その国に帰って主権を復帰し、世界的に誇るにふさわしい国民の位置に立って、入籍をすることです。これが最高の願いなのです。これを早い期間内に、どのように達成したらよいのでしょうか?言うに言えない思いを秘め、この目的に自らのすべてを注ぎながら、前進していかなければならないのです。これは原理的なのです。

 入籍をすべき時になった場合には、国を越えて、すべてが帰りたくなるのです。今のイスラエル民族がそうなのです。今もアラブと戦いながら、イスラエルに帰りたい思いを抱いているのです。私たちも、入籍すると同時に、私たちの持つすべてを、その国のものとしたいという願いを持たなければなりません。

 入籍する順番によって、先祖の位置が違うのです。第一入籍者は第一先祖の位置に立ち、第二は第二、第三は第三の先祖になります。そして、比例的に数が多ければ自然と、その主権国家において、重要な権威を受け継ぐというのです。これは事実です。どの国民が、そのような国民となるでしょうか? 日本人がそのような国民となるでしょうか?アメリカ人でしょうか? それを考えるとき、互いに競争して、昼も夜もなく、努力していかなければなりません。いくら日本がエバ国家だといっても、じっとしていてエバ国家になれるでしょうか? み旨のために仕事をするのは、結局、自分自身のためなのです。そして、だれもが自由自在に行ける道を広げることにもなるのです。それは自分の国のためなのです。そのように考えるならば、一つにならざるを得ないのです。繁栄せざるを得ないのです。それは最後の愛国心です。もしもイエス様が来られた時に、そのような条件基盤が、今の統一教会の基準程度に成されていたならば、イエス様は死んだでしょうか、死ななかったかでしょうか? イエス様は死ななかったのです。(三五-一七二、七〇年十月十三日)


故郷へ帰るためには

 私たちの故郷の地はどこでしょうか? 考えてみてください。人間は本来、故郷の地で生まれましたが、堕落することによって、故郷の地を失いました。では私たちが、再び故郷の地に帰るとするならば、どのようにすべきでしょうか? 昔、アダムとエバが、堕落をしないで夫婦となり、家庭を持ち、父母となったならば、家庭の家長となり、氏族の族長となり、民族の指導者にもなれたのです。また、国の指導者にもなり、世界の指導者にもなれたのです。そしてアダムの思想は、世界的な思想となったことでしょう。

 本故郷の地とは、父母を中心とした愛を、天地のいかなるところにも躊躇せずに広げることのできる所です。それは、堕落していない人間の前に与えられた特権的な権限です。そこが私たちの本郷の地なのです。

 では、今日、私たち統一教会が、真の父母を中心とした愛を世界に広げうる圏になっているかというと、なっていないのです。今後、統一思想を中心として、そのようにしなければなりませんが、そのようにできる基盤とは、どこでしょうか? 大韓民国がそのようにできる所になっているでしょうか? 大韓民国は今、政治的に与党と野党が対立し、宗教も数多くの分派となって分かれています。また、国も南北に分かれていて、世界でいちばん複雑なのです。大韓民国は、このように複雑でなければならないのです。このように、いちばん複雑な中で、いちばん冷遇されている統一教会が、重い荷物をすべて担い、このような環境をすべて収拾し、今後、すべての宗教の主体的な立場に立って、国を主導できる立場にまで上がっていかなければならないのです。今、そのようなことが、できるかどうかをテストする過程にあります。

 皆さんは、このように定着して、一つの夫婦にならなければならないし、父母にならなければなりません。さらには、氏族の族長になり、民族の族長になって、主権者を代表した世界の中心的な存在にならなければなりません。そうして、この世の万民を、その懐に抱くことができてこそ、そこが世界的な本郷の地となるのです。今日、私たちには、このような世界的な故郷の地を創造すべき責任があるのです。

 そのためには、皆さんは真の父母を、天地に二つとない父母として、万民が侍りうる父母として、侍っていかなければなりません。また、すべての主権者がこの父母の前に屈服することのできる、主権者の権限を持ちうる基台を築いていかなければなりません。このような基台を大韓民国に築いておかなくては、理想的な本郷の天国は成されないということを、皆さんは知らなければなりません。またこれが現在、私たち統一教会の行くべき運命の道であり、唯一の復帰の限界点であるということを知らなければなりません。(三七-一五二、七〇年十二月二十三日)


栄光の一日が私たちの目前にきた

 私たちが神様を中心とした自主的な国で暮らせるという、その希望の一日が、何ものにも換えられない価値ある時間であるということを、皆さんは知らなければなりません。あの霊界に行った人々の中には、神様を中心とした国家圏内で暮らした人はいません。先生はそれを知っています。私は統一教会の教会員を苦労させましたが、国を復帰し、摂理的な国家圏内で主権者の前に、国民として、堂々と生きえた本然の人間像を持てるということが、どれほど権威あることかというのです。先生は一生の間、それを標準として生きています。今まで先生は、多くの人を苦労させてきましたが、その国の国民のための主権者としての神様に侍り、その心情を傾け、一生のすべてをすっかり捧げうる栄光の日のために闘ってきたのです。

 先生はだれかがひと言、言っただけでも、号泣してしまうのです。天の心情をあまりにも、よく知っているからです。天下を統治して、アメリカを治めなければならない神様が、主権者の中の主権者となり、万世の大王としてすべての権威を持ち、万民を父子の関係の世界へ統治しようという理想が、蹂躙された事実…、それが恨なのです。この時点で、私たちは立ち上がるのです。すべての悪なる権勢を倒し、天の願いであった主権を勝ち取ることのできる栄光の一日が、私たちの目前にやって来たのです。

 私の頭があるならば、それが最高の願いであり、私の目があるならば、死ぬ前に私の目に土が入る前に、それを見なければならないし、私の口があるならば、その国を称賛できる言葉を話さなければならないし、私の体があるならば、その国の国民として血と汗を流し、忠誠と忠情の道理を果たすことができるのです。そのようにできることが、人間として生まれた甲斐のある、価値的な生活なのです。皆さん、そのことを考えてみましたか? これから自らの手で国を建て、御父母様に侍り、神様の願う億万年の恨を解きうる時代を目前に控え…、私たちのこの溢れんばかりの胸を、いかに押さえることができるでしょうか? 爆発、爆発しなければなりません。

 それを考えると、あの北韓の同胞たちがかわいそうです。先生は監獄生活もしたので、北韓の事情をよく知っています。彼らは完全に四〇年間、それこそ、全部が奴隷になっているのです。彼らは韓国に、自分たちを救うことのできる国民を求めているのです。南の主権者を求めているのです。この国の主権者が、この国の国民が、それができずにいるのです。私がそのことを知って、私だけでもその事をしようと訴えているではありませんか? 伝統を残すのです。歴史的事実がそのようになっているので、後代にも皆このことを継承し、そのみ旨を完成できる一つの標的を立てるために、条件的基盤だけでも築かなければならないというのです。

 父の国で生まれ、父の国で暮らし、父の国でご飯を食べ、仕事をしている最中に死んでいかなければならないのです。国がありますか? 答えてみなさい。父の国になりましたか? 先生は、これを知っているために、父の国を得るために、一生の間、苦労したのです。万民の願いがそうであり、霊界の切ない願いを私が知っており、それを解怨してやるべき父母の責任を担ったゆえに、今日も生涯をかけてこれをしているのです。ですから、何をどうだとか、こうだとか言っていられないのです。

 そうするには、まさに入籍をしなければならないのです、入籍を。皆さんは全員、神様の前に入籍しましたか? 入籍できなかったのです。これは千秋の恨であり、万世の恨です。真の父母の名を持ったこの者自体としては、このような恥を後代に残してはならないことを知っているゆえに、歯をくいしばって、血を吐きながら、この道を開拓しなければならなかったのです。昼も夜も「夜よ、行くな! 昼よ、来るな!」と言って、開拓してきたのです。ですから、アメリカならばアメリカで、「アメリカ人よ、食べて遊べ! 食べて寝ろ! 腐ってしまえ! 君たちがそうしている間に、私は基盤を作る」と言ったのです。

 先生は横になりながらも、いつもそのように考えました。ここは父の国の家でないから、愛着がわかないのです。ここで愛着を感じ、暮らし、子供たちを生んだりするのは、止むをえずにしていることです。神様と天の国の霊人たちが、祖国の統一が来ることをどれほど願ったことでしょうか! どれほど願ったことでしょうか!「私が地獄に生きるとしても、私が天上の低い所にいるとしても、私たち祖国がいち早くできたなら……」と言って願うのではないでしょうか? その祖国が現れるとき、自分たちが解放されるのです。ですから、特別に許してあげなければならないのです。私は監獄においても、そのようなことをして、出てきたのです。門をすべて開いておいたのです。肉界霊界にすべてハイウェイを作っておいたのです。

 ゆえに、そのすべての霊界は真の御父母様に対して、すべてがそのような方向を取って、一つの国に進軍すべし! このように願っているのです。霊界が地上に向かって、「真の御父母様、頑張ってください」と祈祷しているのです。そのことを知らなければなりません。神様の願いはこれではないでしょうか?「地上の真の御父母様、どうか、どうか、立派に闘って、霊界の恨を解いてください……」。君たちは今まで、神の国で生まれて暮らすことができず、この地上のサタン世界で暮らしてきて年齢が多いことを、恥ずかしく思わなければなりません。(一六四-二一八、八七年五月十六日)

 この国とこの世界は、エデンの園の復帰型であるため、罪なき世界、平和の世界、天が喜びうる世界にならなければならないのです。そのようになれなかったので、皆さんは考えなければならないのです。「ああ、私が持つべきである世界にサタンが居座っていることを思えば、私が忘れずに国を持って誇るべきなのに……、国を持って誇るべきなのに……」このように考えなくてはなりません。皆さん、国を持って誇ってみましたか? サタンは国を持っていると自慢しているのに、私たちはサタンに対して氏族だけを持った立場にあります。国を持ったサタンの前で、優勢な立場で振る舞えないために、いつもサタンの前に追いやられる立場に立たされたということを、皆さんは知らなければなりません。

 このような千秋の恨を解こうとするならば、私たちは国を持った国民にならなければなりません。堂々と天の国に戸籍を登録して入籍した土台の上に、皆さんの息子と娘が、堂々たる国の権威を割り当てられ、天の保護の下で、天の国を愛する忠臣の道理をわきまえることのできる、そのような環境を持たなければなりません。そうしてこそ、初めて本来の人として行くべき道を行くことのできる家庭の基台を成し、復帰された立場で接ぎ木をすることができるのです。(五八-一九八、七二年六月十一日)


二、神様の祖国はどこか?

 祖国はどこですか、祖国は? 祖国とは、何の祖国でしょうか? 神の国のことですが、どんな神の国でしょうか? そこは縦的な父が現れることのできる国です。その縦的な天の父が生まれるためには、横的な真の父母が完全に現れて、神様を愛で包んであげなければなりません。縦横の真の父母が現れることのできる、そんな所が祖国になるのです、祖国。祖国の根となるのです。(一七六-三三七、八八年五月十三日)

 統一祖国というのは、完全な家庭、アダム家庭から始まるのです。ですから、アダム家庭は家庭の先祖であり、氏族の先祖なのです。また、完成したアダムは民族の先祖であり、国家の先祖であり、世界の先祖であり、天宙の先祖になるのです。

 それゆえに、聖書でも「私たちの体が聖殿になったことを知らないのか?」と言ったのです。私たちの体が聖殿になっています。神様が臨在できる家だというのです。神様の臨在し得る初めての家が、男性としてのアダム、女性としてのエバなのです。それゆえに、神様が臨在し得る初めての男性と、初めての女性が先祖になるのです。先祖が生き、先祖が出発した国が祖国なのです。すなわち、先祖と連結したその国が祖国になるのです。(二四二-一六六、九三年一月一日)

 神様の祖国はどこでしょうか? 真の父母と真の家庭があるところです。では、真の父母の本郷とはどこでしょうか? 神様と、その息子・娘のいるところです。その真の父母の祖国はどこでしょうか? 神様と子女がいるところ、すなわち愛することのできる主体と対象があるところが祖国なのです。主体者と対象者の愛を持つことができるのが祖国なのです。

 だとすれば、子女の祖国とはどこでしょうか? 神様を主体として真の御父母様を愛することができ、子女が対象として愛を受けることのできる所です。そこが、統一教会でいう四位基台の本郷の地なのです。それが、理想的な祖国です。なぜ、理想的な祖国なのでしょうか? 真の神様の愛と真の父母の愛と真の子女の愛があるからです。これが根本となり、拡大された世界が理想世界なのです。四位基台にはそのような原則があります。(一二四-二六六、八三年二月二十七日)

 祖国というのは何でしょうか? 祖国は、父と母の国なのです。私たち先祖の国です。母、父、私たち先祖の国です。初代先祖の国です。その初代先祖から愛して下ってきた、この国なのです。その愛は不変であるため、その国は変わってはいけないのです。歴史時代に、国を中心として祖国だと主張した、すべての人々の伝統的な背後を見るとき、このような真の御父母様の愛する祖国を失わない、そのような民族がいません。常に失ってきました。(一七三-一六八、八八年二月十四日)

 神様のみ旨にかなった祖国は、真の愛を中心とした人類の祖国であると同時に、故郷です、韓国はそのような人類の祖国と故郷にならなければなりません。(一八五-一三一、八九年一月三日)

 伝統的な私たち本然の祖国、統一された本然の祖国という所には、神様に仕え神様の御名による愛がなければなりません。そこに、愛と共に伝統的な男性を備え、女性を備えなければなりません。それゆえ、神の愛の三位基台が一つになってそこに残った、息子・娘を抱かなければなりません。そして、その息子・娘を抱き、育み、嫁をもらったり、嫁に行かせたりしなければなりません。そのようになってこそ、家族を中心として、横的な親戚が生まれるのです。その親戚の拡大を中心として、氏族・民族・国家・世界へと拡大していけば、私たちはどのようになるでしょうか? 天国家庭の長となるのです。そうです、愛には統治権があるのです。愛には同位・同参圏があります。神様の所有であり、私たちの所有です。世界の所有であり、私たちの所有なのです。世界の権限であり、私たちの権限となる、このような同参圏があるのです。それだけでなく、永遠なる相続権が真の愛にあるという事実を知らなければなりません。同参・同位・同席圏が真の愛にはあります。(一七三-一八一、八八年二月十四日)


神様が願う国とは、どんな国でしょうか

 神様が願う国は、どんな国でしょうか? 神様は、大韓民国を願いません。アメリカも願いません。アメリカがどんなに立派だとしても、神様の眼中にはありません。韓国がどんなに立派だとしても、韓国も神様の眼中にはないのです。神様が願う国は、異なる系統を通して、成していかなければなりません。今日、第二イスラエルを通して成そうとする時代が訪れたために、第二イスラエルを準備し、世界的な基盤を準備しました。この第二イスラエルの民主世界圏が責任を果たせないときには、これを放棄して第三イスラエルを求め、本郷の地、新たな祖国創建の基礎を作っていくことが神様のみ旨なのです。

 では、神様が願う国、すなわち、祖国とはどこなのでしょうか? 人類の祖国はどこでしょうか? 真の父母が来る、その国が人類の祖国です。人類の本郷の地は、どこでしょうか? 人類の真の父母が生まれた故郷が、宇宙とこの歴史的な世界の故郷の地です。

 人類の真の先祖が現れれば、人類は真の先祖の思想と真の先祖の伝統を受け継ぐようになります。その伝統を受けていない人は継子(連れ子)なのです。子女の中には、いろいろな種類があります。継子・養子・実子があります。養子と継子は父親が違うのです。(一五六-二三三、六六年五月二十五日)

 祖国はどこでしょうか? 神様の願う国、すなわち、祖国とはどこでしょうか? 人類の祖国はどこでしょうか? 人類の真の父母が来るその国が祖国です。そうではありませんか、道理が? 祖国はどこだと言いましたか? 人類の本郷の地はどこでしょうか? アフリカやその他、数多くの国々がいろいろとありますが、人類の本郷の地はどこでしょうか? 人類の真の父母として来られたそのお方の生まれ故郷が、宇宙と、この歴史的な世界の本郷の地になるのです。

 そうなることによって、もしも韓国が神様の願う、この世界の本郷の地となり、宇宙万民の祖国になったとするならば、その国の新しい文明は世界を支配し、その国の言語は世界語になり、その国の男女は世界的な男女になるはずです。そうなれば娘たちからは、これからは王子様でなければお嫁に行かないという話が出てくるはずです。また青年たちも、世界的なお姫様でなければ嫁には迎えない、という話が出てくるのです。このようになるように、つくってみようと言うのです。(一五六-二三三、六六年五月二十五日)

 神様が願う祖国はどこでしょうか? 人類の故郷はどこでしょうか? 真の御父母様がお生まれになった故郷が歴史的であり、宇宙的であり、世界的な故郷の地になるのです。先祖と思想と伝統を受け継がなければなりません。そうでなければ、継子の扱いを受けます。しかし、このような相続をすれば、養子を経て、将来は息子・娘の立場にまで入れるようになるのです。このような大問題が、この国で成されなければなりません。

 先生は内外をびっくり返さなければなりません。韓国の国民は選民にならなければなりません。韓国が本郷で祖国であるならば、すべての世界的な文明は、韓国で築かれなければなりません。私たちが韓国を故郷にするためには、今日、忠誠・精誠・愛・犠牲の、祭物となることを覚悟しなければなりません。そうでなければ、韓国は本郷としての資格を失うようになります。良いものを作るためには、実践が必要です。血と汗と涙を流しながら成さなければなりません。(一五-二八三、六五年十一月二日)

 イエス様の祖国、モーセの祖国、ヤコブの祖国、アブラハムの祖国、その祖国とは、どこでしょうか?神様が願う祖国はどこなのでしょうか? 神様は民と、その国を統治できる主権がないことを嘆いておられます。神様の主権が成立すれば、世界の統一は一時にして成されるのです。(一五-二七六、六五年十月三十日)

 先生は、なぜ国に戻るのでしょうか? 人は故郷を持たなければなりません。故郷を持ち、祖国を持たなければならないのです。故郷を愛した者が国を愛することができるし、故郷と国を愛した者が世界を愛することができるのです。先生がアメリカに行けば、アメリカが故郷になり、祖国になります。しかし、心情基準において、アメリカはそのようになっていません。何と言っても、最高の基準が韓国になっているからです。それを連結して、世界基準にまで引っ張っていくべき使命があります。したがって、韓国に行って、再び闘わなければならないのです。皆さん以上にしなければならないのです。(一五-一四二、六五年十月三日)

 神様が願う祖国はどこでしょうか? 神様自体ではないのです。国がなければなりません。国を作るには、民がなければなりません。ところが、それをすべて失ってしまいました。個人の安息地を中心とした基台をなくして、娘を愛せない神様、息子を愛せない神様なのです。その娘と息子たちが悲哀の立場で悪魔の僕となり、億千万世の地獄行きの列車に乗ったのです。地獄行きの列車とは何かというと、悪魔の愛に引きずられる列車です。それを知らなければなりません。(一七三-一六八、八八年二月十四日)


三、私たちが入籍する祖国とは

私と関係があるものは、サタンと因縁づけられている

 私が暮らしている祖国は、はたして私が望む祖国でしょうか? そうではないのです。私が生まれた本籍は、私が本来願った本籍でしょうか? そうではないのです。私が今暮らしている現住所は、はたして私が永遠に暮らしたかった、そのような住所になるのでしょうか? そうではないのです。今、私の父母は永遠に私と共にいられる父母となりうるでしょうか? そうではないのです。

 現在、生きている社会がそうなっており、この世界もそうなっているならば、そのような世界に生きる自分自身とは、いったい何者なのでしょうか? 更には「あなたはどんな立場にあり、だれのものか?」と問われるとき、普遍的なその結論は「私は善なる世界のものでなく、悪なる世界のものである」というのです、悪なる世界のものです!

 今後、皆さんが歩んでいくにあたって、「あなたはだれのものか?」と問われたとき、徹頭徹尾このような観点から、私は全体を代表して、あるいはこの世界に対し、歴史に対し、現世に対し、今後の未来に対し、あるいは故郷を、あるいは全体を代表して、「私はだれのものか?」というならば、神とサタンの闘う、この二つの世界圏内において、私が本心から要求し、本心から求めるすべての願い、本心から求めるすべての希望を、達成しうる圏内に入っている存在でなく、その外に置かれた存在であるため、「私」は明らかに悪なる世界のものだというのです、悪なる世界のもの。

 それゆえ、堕落した子孫たちは、明らかにサタンのものなのです、サタンの子孫。私が暮らしている国、私が生きている世界はサタンの世界です。私が生きているこの国もサタンの国であり、私が生まれた故郷の地もサタンの故郷です。私を生んでくれた父母もサタン世界の父母であり、私と共に暮らしている兄弟もサタン世界の兄弟であり、私と共に同じ学びの場で学ぶ友人たちもサタン世界の友人です。私がこの地上で何をしたとしても、やはり、私のものはありません。サタン世界と因縁づけられているのです。このように見るとき、あなたがたはだれのものであり、何をすべきでしょうか? これは極めて重大な問題です。(一五五-六五、六五年一月二十一日)


神様と共にある地球星が人間の祖国

 人はだれにでも祖国があります、祖国。祖国があるのです。では、私の祖国はどこでしょうか? アメリカの人々はアメリカが私の祖国です。祖国には一体何があって、私たちは好きなのでしょうか? そこには自らの、すべての歴史的なものがあります。自分を中心とした歴史的な背景がはっきりとしています。それから、自らの現在の関係がはっきりとしています。その次に何かというと、人は自分の未来を、祖国の未来観を中心として考えるものです。現在と未来の関係によって、良い国と悪い国、先進国と低開発国、という問題が起きてきます。そのような中で、人には未来により良き国を追求したい、そんな心があるのです。そうなっているのです。

 私たち人類の先祖は一つです。それでは、私たち人類始祖の祖国はどこでしょうか? 聖書を見ると、神様がそのことについて直接語られています。私たちの始祖が持っていた祖国は、神様がおられた所です。神様と共にある所です。では、その神様と共にある国とはどんな国なのでしょうか? それは地球星という国です。地球星という国であるということを知らなければなりません。結局、その地球星とは、未来の子孫たちが持つべき一つの祖国の地だったのです。

 それでは、その祖国の地は過去にはどうだったのでしょうか? それは、すでに神様と直結するのです。神様と直結するのです。もしもそうなっていたら、現在はどうなっていたでしょうか? その時は堕落のない理想世界と通じるようになっていた、ということを知らなければなりません。理想的世界ですから、理想的な人が生きることができ、理想的な言葉と理想的な心情と理想的な愛と理想的なすべてが通じることができるのです。そして、どのようになるのでしょうか? 理想的と言うのは、漸進的だということです。向上、いつも、常に落ちないのです。落ちても、向上しながら落ちるのです。

 理想的な世界において、理想的な文化と理想的な言葉とは、どんなものでしょうか? 理想的な言葉は、理想的な考えから出てくるのです。その理想的な考えは、何を中心とした考えかというのです。それは天、すなわち主体であられる神様から受け継いだものです。そこから私たちは、主体と対象の概念を知るようになるのです、主体と対象。では今日、人間として願う、主体としたい存在とは、いったい何であるかというと、だれもがそれをこの宇宙の中心存在である神様の前に帰着させたいのです。堕落した人間といえども、その欲望は変わらないのです。これは変わっていないのです。(一二四-一六三、八三年二月二十七日)


主体と対象の愛を持った、四位基台の本郷の地が理想の祖国

 神様が必要とする祖国があるならば、そこはどんな所でしょうか? 初めての愛が結ばれた所が、神様の願う祖国の地になるのです。また、人間が願う祖国の地になるのです。初めての愛の因縁の基台が祖国の地になるのです。そのような概念を私たちは、ここで得ることができます。

 神様の祖国はどこでしょうか? 真の父母と真の家庭がある所なのです。では、真の父母の故郷はどこでしょうか? 神様と自分と息子と娘がいる所です。このようになります。この真の父母の祖国はどこでしょうか? 神様と子女がいて、愛することのできる主体と対象がある所が祖国です。主体者と対象の愛を持てる所が祖国なのです。

 では、子女の祖国はどこでしょうか? 神様を主体として、真の御父母様を愛すことができ、私は対象として、愛を受けることができる所です。そこは統一教会でいう、四位基台の本郷の地である、という話が出てくるのです。四位基台の本郷の地です。それは何でしょうか? 理想的な祖国だというのです。なぜならばそこには、真の神様の愛と、真の父母の愛と、真の子女の愛があるからです。それゆえ、これが根本となって拡大した世界となったのが、理想世界ということになるのです。この四位基台には、そのような原則があるのです。それを全部整理しておかなければなりません。(二四-二六六、八三年二月二十七日)


完成の本拠地は神様とメシヤに会う所

 完成した人は、どのようにならなければならないかというと、天と共に世界的な一つの国の国民にならなければならないのです。皆さんにはアメリカ人、ドイツ人、韓国人という観念が皆ありますが、私の国はどこにあるでしょうか? この地球です。この地球が私の国です。私の故郷はどこでしょうか? この地球が私の故郷です。先生は国境のようなものは知らないのです。黒人だとか、白人だとかいうものも知らないのです。みな神様の息子です。

 では、このレバレンド・ムーンはどこの国の人ですか? 韓国人ではありません。神の国の人です。韓国という言葉は好きではないのです。韓国は今まで三〇年間、私に反対した国です。それゆえに韓国を捨てたとしても、世界を求めて救出しようとするのです。「黄色人種を捨てたとしても、白人を求め、黒人を求めよう! それゆえに白人を求め、黒人を求めて、あなたを訪ねよう!」というわけです。それで、今、アジアと韓国が危ないことを知っていながらも、アメリカに来てこの役事をしているのです。さあ、先生はどこの国の人ですか? 父の国の人ですね。

 その国が、私の生まれた祖国たる韓国よりも、偉大であることを発見し、私の父や母と生きるよりも、偉大であることを発見し、故郷にいるすべての兄弟よりも偉大であることを発見したたがゆえに、すべてを捨てて、それを私の故郷、私の国とせざるをえなかったのです。それゆえに、天国に入籍することのできる手続きを、私が学んだというです。そうするには、書類がなければなりません。このつまらない人々が暮らすアメリカの永住権を得るだけでも、どれほど複雑なことかわかりません。それでは、天国の市民になるのは簡単でしょうか?

 「その資格のある者は私だ!」と言ってはいけません。だめなのです。こっちへ行けと言っても「はい」、あっちへ行けと言っても「はい」、こちらに来いと言っても「はい」、明日来いといっても「はい」、すべて「はい」と言わなければならないのです。自分の国と何か手続きが違うと言って不平を言えば、不可能なのです。ただひたすらに、目も「はい」、耳も「はい」、考えも「はい」、心も「はい」と言わなければなりません。そうです、先生にそのような資格があるならば、先生が教えたとおりに、何でもしなければなりません。では、英語を使わずに韓国語を使いなさいと言ったならば、どうでしょうか?「えっ! 英語を使わないって?」と言ってはいけません。そのように主張することができないのです。そのような過程をたどらなければならないのです。

 そのためには結局、今後メシヤに会って、メシヤの証人の下で、神様の前に承諾書を受けなければならないのです。今では皆さんもこのことが理解できるでしょう? その次に完成が絶対に必要なのです。しかし、それ以前に神様が絶対に必要であり、それ以前にメシヤが絶対に必要だというのです。それゆえ、そのメシヤのために、神様の前に自らのすべてを犠牲にしても余りあるようにならなければなりません。

 完成はどこにあるのですか? 完成できる場所はどこかというのです。はっきりと知らなければならないのです。それはメシヤに会う場所なのです。メシヤに会うためなのです。メシヤに会うために歩んでいるのです。まだ行くべき道が残っているのです。ですから、メシヤに会うことによって、神様とメシヤに取りすがってこそ、初めて完成できるということを、はっきりと知らなければなりません。

 では、完成の本拠地はどこでしょうか? 神様と完成したメシヤ、完成した父母から成されるのです。個人完成はそうですが、家庭完成とはどこから始まるのでしょうか? いくら白人の夫婦が、チューインガムのようにくっついて離れられないほど楽しく、かごいっぱいにハチミツがあふれるくらいに幸せに暮らしたとしても、それは理想的な夫婦ではありません。メシヤの保障の下で、神様の公認を受けることができなければなりません。そのように完成した個人が、一つとなって夫婦となり、承認を受けてこそ、初めて完成した息子と娘がこの地球上に誕生することができるのです。神様を中心としたメシヤを通じてこそ、家庭を完成することができ、そこから息子と娘が生まれてくることができ、一つの氏族が形成され、一つの国家と理想主義世界が現れる、という結論が出てくるのです。これは妥当な結論なのです。

 世界の完成であるとか、理想の完成であるとか、幸福の完成などといった、すべての要件がある完成の本拠地、本郷はどこでしょうか? 本拠地はどこかという問題を考えてみると、神様とメシヤという決着点に、すべて連結されます。神様を除いて完成はなく、メシヤを除いては完成がありません。完成した以上の社会もありえないし、理想国家も現れることができません。神様とメシヤだけが、すべての幸福と理想的な追求の要件を解決しうる故郷の根拠地なのです。(七九-二四七、七五年八月二十四日)


私が祖国の根源になってこそ

 愛の祖国が必要です。愛の個人の家を大きくしていけば、国になります。氏族のその群れを大きくしていけば、国になります。国を大きくしていけば、世界になります。愛なしには嫌なのです。愛ある韓国は人類の祖国なのです。全世界の個人の祖国なのです。万国の祖国ではありません。万国は必要ではありません。個人個人なのです。この社会は個人個人から織りなされていくのです。それゆえ祖国創建は、皆さん個人個人、人類一人一人の愛の絆を束にすることによって、完成するのです。(一九一-三〇五、八九年六月二十五日)

 私に神様が入っておらず、天国が入っておらず、祖国が入っていない限り、その天国とその神様とその祖国は、私とは関係がないのです。神様がなく、祖国がなければ、サタン世界です。サタンがいて、地獄があるのです。確実なのです。天国と地獄が他の所にあるのではありません。私にあるのです。私が神様に侍ろうとするので、祖国を持とうとするので、ものを見るときは神様のように見なければならないし、話すにも神様のように話さなければならないし、聞くにも神様のように聞かなければならないし、行動するにも神様のようにしなければならないのです。そうすることによって神様が私と共にあり、祖国が私と共にあるのです。自分自身がそのような人となり、私の対する万物がそのようになってこそ、神様のものになるのです。そうすれば、私のものになるのです。(二〇一-二二六、九〇年四月二十二日)

 大韓民国が滅びるようになれば、先生はふろ敷包みを持って出ていくのです。先生は滅びる日を知っています。先生は、あらん限りの力を振り絞ってもできないときには、別のところに行って暮らすつもりです。大韓民国の入籍を拒否してしまうのです。先生は大韓民国の息子でしょうか? 神様の息子です。そうではありませんか? 先生は大韓民国で生まれたことは生まれましたが、先祖から引き継いできた五千年の歴史の前に恥ずかしくないように、内外の道理を果たそうとしているのです。そればかりやっていたら世界が滅びるので、世界を生かすことのできる所に行くのです。ヒマラヤ山頂やアルプス山頂に行っても、一人で座って、コンピュータやファクシミリで世界を指導できる体制を、すべて備えておきました。今回、アメリカもすべて収拾してきたのです。日本もみな収拾し、韓国も収拾しておいたので、先生がいなくても一人を呼んで命令すれば、そのとおりにしなければならないのです。そのとおりにしなければならないのです。先生の話を聞いても行わなかった人々には、そのときは先生の部下を送って「信じよ!」と言うのです。(二〇七-三〇七、九〇年十一月一日)


真の父母が生まれた所は人類の祖国

 真の父母が生まれた所は、人類の祖国になり、地上天国と天上天国の出発地になり、神様の全権時代を迎えるようになるでしょう。それゆえに、滅びることなく全盛の時代へと発展するでしょう。大韓民国の国民は訓読会を通して、真の父母と超国家的に一体となり、万国の勝利圏を誇る国を成したまえ。アーメン! (「アーメン」) (二九〇-五三、九八年二月二日)

 韓国はだれの祖国ですか? 韓国人の祖国ですか、日本人の祖国ですか? どちらですか? 人類の祖国です。人類の祖国なのです。祖国とは何かといえば、故郷と連結しているのです。故郷の国だというのです。故郷には父母がいます。また、国家には王がいます。故郷の父母、国家の王を中心として、世界の蘇生・長成・完成を連結させることができるのです。故郷を得た基盤の上に国家を得ることによって、世界は自動的に連結するのです。そのような時代になりました。(二九〇-一〇四、九八年二月三日)


四、私たちが探し求めなければならない祖国

 本郷の地と本郷の祖国はどこでしょうか? 祖国はどのようになるのでしょうか、祖国は? 祖国はもちろん、ある特定の一国家的な基準になるでしょうが、神様が探し求める人類の祖国はどこかといえば、この地球星です。この地球星なのです。この地球が人類の願う祖国なのです。神様が願う人類の祖国だというのです。

 過去に多くの歴代の先祖たちが、犠牲の道を歩んできましたが、彼らが願いを持って、天の前に訴えつつ歩んでいった内容は何でしょうか?「希望の祖国の時が、どうか訪れますように」ということでした。天の国家を建てることによって、今まで天の前に怨讐であった大師団を審判し、悪を除去して、善だけを中心とした平和の天国を、この地上に築いておかなければならないのです。それが神様の願いであり、イエス様の願いであり、今まで摂理路程において大変な貢献を残した、私たちの先祖の願いだったのです。(一五五-三二一、六五年十一月一日)

 私たちは祖国を探し求めなければなりませんが、今その国がありますか? 私たち統一教会が願う、その国がありますか? 神様が探し求める国、神様が探しておられる、その祖国がありますか? 神様を父として侍っている息子・娘として、その父が探しておられる祖国がないのに、その息子・娘たちが祖国を持つことができますか? 祖国がないから国籍もないのです。国籍がないために、今まで冷遇を受けてきたのです。

 私たちには、まだ祖国がありません。この場に立っている私を、皆さんは先生と呼びながらついてきてはいますが、先生はまだ慕わしき祖国を見ていないのです。この祖国を重んじる信頼感、祖国を重んじる愛国精神を教える道が、このサタン世界にどれほどたくさん現れたことでしょうか? それを防止し、侵食し、制裁した悪の群れは消え去っていきました。(三六-一八八、七〇年十一月二十九日)

 今まで人類は生まれた国が異なり、文化背景が異なり、国境を別々に作っては自分の祖国と呼びながら、歴史的な先祖たちが生きてきたし、今の私たちも生きているし、子孫たちも生きていくでしょうが、それはすべて堕落圏であることには間違いがないのです。堕落圏を蹴飛ばして、今日の勝利を称賛できる先祖たちと共に、自分の一族と共に、未来の子孫の前に誇らしく称賛できる、勝利の栄光を称賛できる、愛の祖国を探し求めなければなりません。その愛の祖国の中で、愛なる父母を持つことができるばかりか、祖国の中心に神様がおられて、神様に仕えることができる立場になるとき、それ以上の栄光の立場はないのです。(一三八-一〇五、八六年一月十九日)

 今、私たちが暮らしている世界に、祖国がどれほど多いでしょうか? 大韓民国の人は大韓民国を祖国といいますね? 北朝鮮では金日成主席を中心として北朝鮮を祖国といいます。日本人は日本を祖国といいますね? 中国人は中国を祖国といいます。数多くの民族がみな、根源的な国家や先祖を中心として民族を形成すれば、それを中心として祖国というのです。しかし、本来、人間世界の祖国は何百個、何千個ではありません。本来の祖国は一つです。一つでなければなりません。(二四一-一九一、九三年一月一日)

 私たちの祖国は一つの国です、一つの国。一つの国の中で、一つの故郷を探し求めているのです。神様が共におられる故郷、神様が共におられる祖国、神様の御名を持った祖国といえる国がないのです。モスクワではなく、ワシントンでもありません。ないのです。このような祖国と、私たち故郷の地を創建すべき宝物を探そうというのです。(一〇二-二六〇、七九年一月十四日)

 私たちが探し得なければならない祖国というのは、今日この地上にある、何らかの歴史と伝統を持った国ではありません。そのような国とは本質的に次元が違うのです。私たちが次元の違うその国を受け継ぐためには、そのようにできる思想的な主体性を持った国民とならなければなりません。しかし、その主体的な思想は絶対者である創造主がおられるならば、その創造主の思想と一致する思想でなければなりません。絶対者が望む国であるためには、その国の主権を中心として、その国の国民が一致することができる国となることを望まなければならないのです。そういう国民性を備えて、国家形態を備えなければなりません。その形態を保存させることのできる資格を持った人々になれなかったために、その国は形成されていないのです。(四九-九三、七一年十月九日)

 私たち統一教会が願う祖国とは、どんな祖国でしょうか? 皆さん、祖国というのは統一された霊界から始まらなければなりません。統一された霊界によって、地上に一つの国が設定されなければならないのです。観点がこのようになっていることを皆さんは知らなければなりません。あくまでも、神様を中心として、霊界を中心として、地上が一つの統治権時代にならなければならないのです。そのような国をいうのです。(一四九-三四九、八六年十二月二十八日)


五、祖国光復

 天が願う祖国がどこにあり、天が願う故郷の国がどこにあるのでしょうか? 天地は広く、今までこの宇宙に数多くの聖賢たちが生まれて死にましたが、いまだに、神様がおられる家がなく、地がないのです。そのような話を聞きましたか? どうして、天地を創造なさった神様が、この地上で今まで歴史路程において、呻吟してこなければならなかったのでしょうか! これは、神様が誤ったのではなく、私たちの人類始祖が誤ったため、皆さんが歴史を破壊しうる基台圏内に入ったために、天は最後までそれを探し出そうとし、望みを抱きながら億千万世の恨を抱いてこられたのです。これが人類歴史であることを、皆さんは知らなければなりません。(一五六-二二四、六六年五月二十五旦

 祖国を持たない人は、かわいそうな人です。神様を中心として祖国を持つことができないので、神様を信じる人々はかわいそうな人です。皆さんは入籍できないので身元保障がありません。ですから、キリスト教徒たちは放浪の民となったのです。そのことを知っているために、神様が文総裁に祖国光復を命令しているという事実を知らなければなりません。(一八五-六三、八九年一月一日)

 私たちは摂理の完成が成されていないために、祖国を持てないでいるのです。では、摂理の完成はどこからでしょうか? 祖国はどこからですか? 個人からです。私からです。祖国はどこから探し得なければならないのでしょうか? 私から探し得なければなりません。私が祖国の根源にならなければならないのです。私からなのです。(二○一-二二六、九〇年四月二十二日)

 祖国はどこから成されなければならないのでしょうか? それは個人の男性から成されなければなりません。女性たちは気分が悪くても、仕方がありません。男性を中心として妻が一つになり、その二人が祖国を相続できなければなりません。そのような男性と女性が、息子と娘になり、成長して父母となり、年を取っておじいさん・おばあさんになるのです。そして、その下に父と母がいて、息子と娘がいるようになるのです。このように次第に大きくなっていくのです。そうして氏族を受け継ぎ、民族・国家・世界まで受け継ぐことのできる、言い換えれば、統一祖国を受け継ぐことのできる道が、間違いなくできるということを知らなければなりません。(一七二-一五四、八八年一月十日)

 真の祖国を探し求めるためには、大韓民国で真の人を探し求めなければなりません。その真の人をどのように探すのでしょうか? 歴史において、生まれて死んでいった大韓民国の人の中で、だれよりも民族のために、全体のために、より犠牲になり、より愛そうという人が、祖国を受け継ぐことができる人なのです。それは間違いない結論です。もしも、そのような人と祖国を見つけることができなかったとしても、神様がおられて遣い将来に祖国が建てられたときには、その祖国の名の下に、そのような人々を入籍させることができますか、できませんか? できるのです。入籍させてあげることができる、このように思うのです。

 今まで数多くの宗教を信じてきた人々は、地上天国と神様の理想的な祖国に出会うことができませんでした。しかし、このような原則で犠牲となり、すべてを愛するために全体の利益を追求しつつ生きた人は、死んで何千年、何万年後であったとしても、そのような世界が現れるようになったとき、祖国の国民として入籍できる可能性がなくはないのです。あるというのです。(一七二-一五四、八八年一月十日)

 祖国がなければ、悲惨なのです。祖国がないために宗教人たちは悲惨だったのです。審判しようとするなら、個人・家庭・氏族・民族・国家・世界が、不変の基準に立ってこそ、その基準を土台として審判できるのです。祖国は最後の願いです。祖国の中には民族も、氏族も、家庭も、個人もみな含まれています。(一五-二八〇、六五年十月三十日)

 神様は愛することができませんでした。神様は愛することができましたか? できなかったのです。ですから、神様が愛することのできる自由の園を作って、捧げましょう。では、天地間に神様が愛することのできる場所はどこでしょうか? 神様が愛してみた場所があるならば、そこが世界の本郷地になるはずです。もし、大韓民国にあるならば、大韓民国は世界の祖国になるのです。この国の三千万の民族を中心として、そのような国を築いてみましょう。その道を開くために行く道が、今後、統一信徒が行くべき道です。(三四-三四五、七〇年九月二十日)

 統一教会の使命は、私たちの祖国を私たちの胸に刻んで忠臣の道理を果たし、祖国をいかに編成するかということです。私たちは三年間、韓民族のために闘ってきました。私という一個人だけでなく、一段階進んで祖国が恵みを受けられるよ今に苦労しなければなりません。神様が栄光の日を迎えるまでは、イエス様も霊界で祈祷しなければなりません。(一五-二八〇、六五年十月三十日)

 祖国が寝ているなら、自らの手で呼び起こして、新しい朝に祖国を作ることのできる、そのような皆さんとならなければなりません。私一人の身で被害を受け、私一人の身が刺されて血を流したとしても、そこに伝統を残して死んでいく愛国者たる忠臣・烈女になることだけが、私の一生の哲学であり、それこそが私の甲斐ある使命であり、責任であると心に決めて、そのように一生を捧げていったとするならば、その人は永遠無窮に生きた勝利者として、栄光の灯台になることは間違いないのです。このような厳粛な時点が、皆さんが知らないうちに、ただ無意味に流れていく一日、一時、一瞬の中で、通過していくということを知らずにいてはいけないのです。(四九-一〇四、七一年十月九日)

 私たちは、共産党に白昼にナイフで剌される覚悟をして闘っているのです。この民族ができないときは、私たちがしなければなりません。この民族が行くことができないので、私たちが行かなければならないのです。そのためには、だれよりも祖国を愛さなければなりません。統一教会用語で「祖国」というのは、大韓民国という一つの国でなく、世界的な国をいうのです。世界的というのは、堕落した世界圏で使われている言葉なので、気分が良くありません。このような祖国を探し求めていく主義を、統一教会では「天宙主義」というのです。(三六-一八五、一九七〇年十一月二十九日)

 祖国はどこでしょうか? アメリカでも韓国でもないのです。いかなる所であれ、家庭の編成、氏族の編成、民族の編成の成された祖国の地がなければなりません。神様は六〇〇〇年間、数多くの国家を経ながら、この地に実現すべき天の国を願い、探し求めてこられました。天の忠臣・烈女はどこにいるのかと探し求めてこられたので、私たちは天を中心とした国家・民族・家庭を再編成しなければなりません。祖国光復、解放の日のために、召命されたことを忘れてはなりません。祖国創建が宗教人の使命であるにもかかわらず、私一人だけが救いを受けようという誤った欲望を持っています。(一五-二八〇、六五年十月三十日)

 皆さんが決心すべきことは、何でしょうか? 祖国光復の一日を迎えなければならないのです。今日、私たち韓国の国民は、八月十五日を光復節として守っています。解放の日として記念しているというのです。第二次大戦以降、数多くの弱小民族たちが、自分の一国家を中心として、光復と解放と独立を記念しています。ところが、神様を中心として、天地の光復の日と独立を称賛できる日は、いつ来るのでしょうか? その日が来なければならないのです。(一五五-二二三、六五年十月三十日)

 私たちが暮らすことのできる祖国は、まだ永遠な所にあり、私たちの行くべき目的の基準は、いまだに残っています。この過程をどのようにして行くべきでしょうか? 蕩減という犠牲の条件を提示しなければなりません。そうでなければ、行くことができないのです。民族の峠を越えるためには、民族的な試練よりも、さらに大きな試練を自分から先に進んで受けてこそ、民族的な峠を越えて、新たな国家的な基準で出発することができるのです。

 それゆえ、皆さんの持つべき一念は何であるかというと、祖国光復です。祖国光復。神様がこの地上に来られて全天上天下に造られた、万物と天宙のすべてが、神様の喜ばれるなかで神様を称賛し、万民が、その子女の名分で抱かれて、神様の前に自由・平等・幸福を謳うことができ、私たちの福地天国になったと慶び祝う宴を開いて踊ることのできる、そのような一日を迎えなければならないのです。二五五-二二三、六五年十月三十日)

 国がないために、今まで皆さんはすべて入籍がなされていません。アメリカは入籍できなければ、パスポートを持てないのです。それと、ちょうど同じです。いつでも、追放するのです。それで氏族的メシヤが入籍をしなければならないし、国を得なければなりません。ですから国を得るのです。国を得なければなりません。入籍と祖国復帰です。これは世界的です。この国で入籍をして世界に入らなければなりません。国を得たとしても、それは単一民族であって、世界民族ではありません。単一民族の上に世界民族を抱かなければなりません。ですから、地上天国と天上天国です。(二六九-一七三、九五年四月十七日)


祖国光復のための祈り

愛するお父様…、
ここで起こったことがどうか早く天上世界と連結されて、
天のすべてのことを判別できるようにしてくださいますよう
お願い申し上げます。

今後は天と地上の万物すべてが天運にしたがい、
人類の運命を決定しなければならない
厳粛で宿命的な時が私たちの目前に到達しましたから、
重大なるみ旨に向かって、
新しき歴史的な転換時代に
天に向かう一体的な心情圏を基準として、
出発すべきこの時であることを知っています。

お父様…、
お母様を立てて女性解放運動を宣布し、
これからお母様はアダム国家の韓国から
エバ国家の日本と天使長国家のアメリカを通じて、
カインアベルのごときヨーロッパを同じ水準に引き上げるために、
八つの都市を中心として最後の前線に向かう立場にありますから、
お守りくださいませ!

今年に入って役事をなさる背後に
天が共にいてくださり、
お母様を中心としてすべての一体心情圏がヨーロッパに向かい、
ドイツのフランクフルトを経てベルリンを経て、
進行するすべての途上に、
お父様の勝利の恩賜が共にあってくださり、
あなたのご指導とご鞭撻が
共にあってくださらんことをお願い申し上げます。

行く行路にお父様が直々に共にあってくださり、
ただ一人で行ったとしても、
お父様と共に行くような父母の心情圏を与えてくださり、
すべての道に天運が共にあらんことを切にお願い申しあげます。
そうして地上に真の御父母様の行く所々に
神様が直々に来臨なさることができ、
干渉なさることのできる、
自由の天国環境になるよう
お許しくださいますよう切にお願い申し上げます。

これから祖国光復を中心とした天国の道で万民を解放し、
天国に入籍できる本国を創建しなければならない
厳粛なる一つの過程にありますから、
すべての動きがみ旨の前に、
み意のままになされますようお許しくださいませ!

お父様…、
ここに集った全国の子女たちが
任命を受けてみ旨にしたがい、
新しい決心とともに重大なる決意を固め、
民族の将来の方向を決定できる
一つの礎石を置くことのできる時点に至りましたから、
これからはこの世に追従するのでなく、
この世を感動させて引っ張っていかなければならない
責任があることを知り、
強く大胆な心をもって、
すべての面に影響を及ぼすことのできる
あなたの選ばれた子女とならせてくださいますよう、
切にお願い申し上げます……。(二三六-二七八、九二年十一月九日)


六、祖国光復は真の愛で

 神様の祖国はどこから来るのでしょうか? どんな道を通って来るのでしょうか? 怨讐を愛するとき、個人の怨讐を愛し、家庭の怨讐を愛し、氏族の怨讐を愛し、民族・国家・世界の怨讐を愛するという、このような伝統的な道以外には、理想的な祖国が現れる道がないという事実を知らなければなりません。(一〇七-二二、八○年二月二十一日)

 皆さんには、国がありません。神様も国がありません。神様に祖国がないために、私たちも祖国がないのです。私たちは、この祖国を建設しなければなりません。神様の愛と私たちの愛で、個人を中心とし、家庭を中心とし、氏族を中心とし、民族を中心とし、国家を中心として、愛ですべてを連結させてこそ、神様の地上天国と天上天国が成されるのです。真の愛の、個人・家庭・氏族・民族・国家的な地上基盤が立てば、自動的に天上にも国家的な基盤が立つようになります。そうすれば、霊界が自動的に開いて地上と一つになるのです。これが原理観なのです。(一三四-二一六、八五年七月二十日)

 天の国、天国を建設する祖国光復において、独立軍に参戦する女性たちが、歴史上どれほど立派なことでしょうか? 歴史において、どれほど称賛されることでしょうか? 堕落したエバ一人によって、歴史的に女性たちがどれほど呪われてきたことでしょうか? しかし、今や復帰時代において、女性たちが先頭に立って、祖国光復をするにあたって勝利的な基盤を築いたならば、それは、どれほど称賛を受けることでしょうか? 考えてみてください。

 では、どのようにして勝たなければならないのでしょうか? 鉄刀で勝ちますか、何で勝ちますか?真の愛で勝たなければなりません。しかし、女性が現れても、サタンの男性の兵士たちは女性の真の愛を願いません。そんな彼らに、どのようにして勝つのでしょうか? 皆さんは自らを、女王のようにみなさなければなりません。金日成主席は悪なる王です。皆さんは善なる女王なので、自国の権限をすべて持って、悪なる王に無言のまますべてを与えるのです。そのようにして整備をしなければなりません。(一七〇-二四一、八七年十一月二十一日)


愛の三大属性

 愛の属性には相続権があり、同居圏があり、同参圏があります。愛する夫が大統領ならば、妻は小学校すら出ていなくても、大統領の夫と同じ位置に上がるのです。愛する夫婦になれば、夫のものは妻ものであり、昼も夜も、いつでも共に同居できることはもちろん、同参できる権限もあるのです。ですから、愛は偉大なのです。愛には、このように相続権・同居圏・同参圏という偉大な三大属性があるために、神様の絶対的な愛、不変的な真の愛と一致した立場に立てば、神様がおられる所に、私がいつも加わって、いつでも同居できる権限を持つようになるのです。そのようになれば、私が目を閉じなくても、神様を見るようになり、涙を流すようになるのです。神様の悲痛な心情を体恤した者は、道を歩いていても立ち止まって慟哭をするのです。そのような体恤的な世界があるのです。

 絶対的な神様が絶対的な中心になれば、このようになるのです。神様が苦痛を感じないというのは、とんでもないことです。では、どうしてすべてを意のままにできる神様が苦痛を受けるのでしょうか? 神様も愛を絶対的な価値の中心に立てたからです。それを知れば、このようなすべてが分かるのです。

 堕落した世の中でも、母の愛は、もしも息子が外地で不意の事故にでもあったならば、感覚で分かるのです。そういうことがよくあるでしょう? 寝ていながらも「あっ!」といって、子供の名を叫んで起きるのです。愛には、そのような力があるために、その愛と一体になれば、二つの世界がすべて共存して、二人が共に生きるというのです。互いに分かるようになるのです。共存するだけでなく、分かるのです。

 言い換えれば、神様の本質的な真の愛、千年万年、為に生きても、さらに為に生きようというような真の愛を、私の心と体に百パーセント吸収する属性を備えるようになれば、心には神様の真の愛の根が生まれて、神様の感じるすべてが通じるようになり、体が自動的にそこに共鳴するのです。

 心の世界の真の愛を中心として、共鳴体になるように創造されたのが体であるため、心と体が統一世界を備えるためには、神様の本質的な真の愛を回復しなければなりません。このような課題が残っているということを知らなければなりません。重要な問題です。

 このような真の愛に共鳴した理論を中心として見るとき、私たち人間が、そこに一体化し、共同一体圏内に入っていけば、神様の愛が私の愛であり、神様の生命が私の生命であり、神様の血筋が私の血筋であり、神様の所有である被造世界が私の被造世界と言える、天下を抱いた父母の心を持って、天国に入籍するようになっているのです。これが、本来の人間の理想なのです。そのようなことを知っている文総裁が、五色人種を自分を生んだ父母よりも、兄弟よりももっと愛するという心を持って生きてみると、峠を乗り越えて、今日、統一教会を世界最高の立場にまで引き上げるようになりました。(二〇一-五八、九〇年三月三十日)


言語の統一

 皆さんは愛の本宮の基準に入っていくようになれば、神様から学んだ言葉を教えてあげるのです。堕落しなかったならば、霊肉共に通じて話すことができるのです。神様が現れて、母のように、父のように対することができるし、教育したその言葉が、すべてアダムとエバの言葉になるので、その言葉は人類の言語の出発であり、起源となります。その言葉を伝授できなかったことが堕落なのです。本然の真の父母が来れば、これを代わりに蕩減復帰し、伝授しなければならないのです。堕落した世界であるため、救いを受けるすべての人は、そのような立場に立たなければ、今後、入籍したとしても、行くべき道を進んでいくことができません。(二七一-一五五、九五年八月二十八日)

 これからは、強制的にでも言語統一をしなければなりません。真の御父母様が残したすべての記録を読むのに、翻訳物を読むというのは恥なのです。天上世界の恥になるでしょう。天上世界に行けば、神様の命令によって、千年万年を蕩減しなければならないかも知れません。そのように、途方もない問題になるのです。その峠を越えられない人は祖国光復をしたとしても、故郷に帰る道がありません。祖国に居住できる居住証がありません。民として入籍ができないというのです。深刻な問題です。(三〇三-一五七、九九年八月十七日)

 今日、最も至急なのことは、第一に言語の解放です。二つ目は世界統一です。さあ、二〇〇〇年、その時になれば、皆さんは三代になります。皆さんはおじいさんになるでしょう。祖父・父母・子女の三代、一家族のすべてに、韓国語を知らない食口がいてはならないのです。今後、残すところ六年です。そのようになってこそ、韓国に入籍できるのです。本国に入籍できます。頭がクラクラするでしょう? この者たち。しなければならないのです! 今日は何日ですか? 一九九五年一月五日、皆さんが韓国語を学ばなければならないと宣布するのです。そうでなければ、道がないし、希望がありません。神様は希望がないのです。真の父母も同じです。そうです、先生は深刻な人です。理論的にそのような立場なのです。バッサリと切り捨ててしまわなければなりません。ですから、鮮文大学、アメリカのUTS(統一神学大学院)を作って教育するのです。ベリータウンでも、韓国語科を強化しようと思います。今まで闘ってきました。闘いながらも峠を越えられなかったので、すべてをなすことができないのです。宣教師が機関車の役割をしようとすれば、言葉から、文化から、すべての精神姿勢がすべて変わらなければなりません。(二六七-一六九、九五年一月五日)

 これからは韓国語を学ばないわけにはいきません。皆さん、食事の時間があるでしょう? 食事の時間に一時間は必要でしょう? 韓国語ができなければお昼を食べずに、韓国語を勉強してください。先生も三〇代までは昼食を取りませんでした。一日に二食だけ食べるのです。同じように、皆さんも昼休みの一時間でも勉強しなさいというのです。昼食の時間を抜くのです。韓国語を自由自在に、上手にできないときには昼食を取れないのです。今後、昼休みの一時間は韓国語を勉強する時間にするのです。祖国光復、祖国復帰が難しいのと同様に、祖国の文化復帰が容易ではないのです。母国語がなければ、新しい文化世界を創造できないのです。(二六九-二四、九五年四月六日)

2013年5月20日月曜日

文鮮明先生のみ言集 感謝の生活


文鮮明先生のみ言集

感謝の生活

一九七〇年十月二十五日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第三十五巻』

 この世には多くの人が生きています。人は誰でも、現時点よりは良いあすを希望しつつ、より良い一日を迎えることを誓って、より価値ある内容を求めています。しかし、その価値ある内容を見いだすことができず、その内容を充足できなければ、落胆し絶望するという事実を現実の生活の中で見受けることがあります。

◆人が本来あるべき所

 それでは、人が本来行くべき所とはどこで、とどまるべき所とはどこかというと、今日私たちの願う未来の世界であるということなのです。あすの希望を中心とした生活舞台、あるいはそのような心情の基盤がつくられるところだと考えるのが、現在の人の考え方です。

 本来神様のみ旨を中心として見ると、堕落前の人類の先祖が置かれていた立場は、不幸、嘆息、怨恨、願望といった感情をもって生きる立場ではありませんでした。それは、父母の懐に抱かれて養育される立場であり、保護を受ける立場でした。

 そこにもし不幸の要因があるならば、神様は人間が不幸になる前に、その不幸に責任をもってくださるのであり、あるいはそこに落胆するような要因があるならば、神様がその内容をあらかじめ防いでくださるのです。そういう立場が本然の息子、娘の立場だということを考えると、本来アダムも不幸ではない立場にあり、エバも不幸ではない立場にあったにもかかわらず堕落したということができます。彼らの環境は不幸ではなかったのに、なぜ堕落したのかということが問題となるのです。

 今日の私たち人間を考えると、二人いれば二人の考え方が違い、十人いればその十人の考え方がそれぞれ違います。それゆえ、すべての問題において、分裂、背反、苦衷といったものが起こるのです。

 しかし二人、あるいは十人が一つの目的のために全く同じ立場で進めば、闘争もなく、分裂もあり得ないのです。

 本来、神様はアダムとエバを中心としていらっしゃるべきであり、また、アダムとエバは神様のための立場に立たなければなりません。しかし、アダムとエバが完成しなければ、神様のために存在するという立場に立てないので、アダムとエバは神様のために存在できるようになるまでの成長過程を経なければならないのです。

 この成長過程を経るにおいて、アダムとエバは現時点、すなわち現在を中心とする立場にありましたが、神様はアダムとエバの現在の立場を越えて、未来の立場まで、全体を愛する立場にあったのです。現実の立場は制限された立場であり、自分自身のための立場です。アダムとエバは相対的関係を中心として、神様が指向し願われる目的が何であるかを考えることもなく、自分だけを中心として現実的な内容を観察する立場にあったのです。

 しかし神様は、アダムとエバのように自分自身だけを中心として考える立場からではなく、彼らが生涯を終えたのちの歴史的未来を念頭において、アダムとエバを愛したのです。アダムとエバは、神様が直接現れて語りかけるという事実だけで満足していたかもしれませんが、神様はそれよりも高く、より大きい未来のことを中心として、現実において愛してこられたのです。このような事実を、アダムとエバは知らなかったのです。

 もし、アダムとエバが、神様のその愛がどれほど大きいかということを感じていたなら、彼らは堕落しようとしても堕落することができなかったはずです。しかし、彼らは神様の愛がどれほど大きいかを知らずに、現実の環境でぶつかる事情と、彼らの前にある問題をすべて解決できると感じる立場に立ったがゆえに、そこから問題が発生したということを皆さんは知らなければなりません。

◆人間が失望し絶望するようになった起源

 今日、この地に生きている人間が、自分の置かれている生活環境の中で落胆し、失望するというような、堕落した人間の悲惨な実情を多く見受けます。しかし、このような試練と苦痛が、今日の試練と苦痛として終わるのではなく、未来の基盤を開拓し、準備するために、なくてはならない重要な要素であることが分かれば、現実の生活で失望することはなく、また絶望したり自暴自棄になったりすることもないのです。

 このような環境を経ることにより、未来の自らの願いが強固なものとなり、あすの生命の価値を確固としたものとする現実の価値が、その生活圏内に宿っているということを感じる人は、どんなに困難な環境にあっても、自分のすべてを失望の淵に追いやることはないという事実を推し量ることができます。

 神様は、全体を中心としてアダムとエバを保護し、より永遠の価値を中心としてアダムとエバに接しました。このような膨大な価値ある深い内容を中心としてアダムとエバを立てたにもかかわらず、アダムとエバは、その日その日の立場で考え、感じたがゆえに問題が起きたのです。

 このような事実から察して、今日堕落した先祖の子孫として生まれた私たち人間が、失望し、絶望するといった本性の起源はどこにあるのかといえば、自分を中心にして考えることから始まったということができます。ここから、すべての問題が起こるのです。

 自分が置かれている環境が、自分の願うものとは反対の現象として現れるため、このような環境をかき分けていくために、すべての責任を負って苦闘し、闘争してはいくけれども、自分自らそれに耐えられなくなると失望し、絶望するのです。

◆宗教が行く道

 このような堕落した現実の環境においては、幸福の与件を得ようとしても得られないのは当然の理致です。それゆえ、どんなに立派で偉大な人であっても、その一生の過程を分析すると、幸福や価値的な内容を中心として生活してはいないのです。こういう観点から、真の意味での人生観をもって、感謝して生きている人がどれほどいるかという問題を考えると、そのような人は極めて少ないという事実がよく分かります。

 それはなぜかというと、未来に対する確信をもっていないためです。ですから、あすに対する希望を中心として、今日の生活において、生命力を刺激し得る原動力を補給できないのです。それゆえ堕落した今日の世界の人間は、あすの希望の世界を待たずにはいられないという立場にあることを、きちんと知らなければなりません。

 なぜならば、神様は未来を中心として人間のために成そうとされた内容があったにもかかわらず、人間がそれを受ける立場にまで到達できなかったためです。したがって私たち人間には、その立場を必ず取り戻すべき運命の道が残っているのです。堕落した世界に生きている人間が、このような運命の道を求めていくには、現実生活で苦痛と闘争の過程を経なければなりません。

 そのためには、平坦な生活をつづっていくのではなく、新しい革命を起こしていかなければならないのです。宗教の生活のすべては、革命です。新しく開いていく開拓者の路程をたどらなければ、人間が築くべき希望の世界に到達できないのです。原理のみ言でいうならば、蕩減路程を経て復帰していかなければならないということです。

 蕩減復帰路程とは純粋に、ある公式や法度に従っていく道ではありません。開拓と闘争の過程を経なくてはならないのです。その開拓とは、個人の生に関する問題の解決に限ったことではありません。それは世界的な開拓です。世界的な問題を解決するための開拓なのです。また、その闘争も個人的な闘争ではなく、世界的な闘争なのです。このような事実を、人間は知らずにいるのです。

 今日、私たち人間の生というものは、世界的な戦争の過程に立っているのであり、世界的な開拓の路程に立っているのであり、世界的な新しい革命の隊列に立っているのです。こういう事実を、私たち人間は忘れているのです。

 人類始祖が自分を中心としてあすの希望を忘れ去った立場、すなわち自分を肯定し、あすを否定するという立場で堕落したがゆえに、私たちはきょうの自分を否定し、あすを肯定する立場に立たなければならないのです。未来を肯定し、今日を否定することのできる革命の旗手とならなければ、価値のない人生となり、人生のすべての面で悲哀の仮面を脱ぐことができないのです。これは当然の理致です。

 人間が堕落しなかったのならばともかく、堕落したからには、現実を肯定し、未来を否定した人間始祖の過ちを繰り返していては、堕落圏を抜け出すことはできないのです。それゆえ私たちは、現実を否定し、未来を肯定する立場に立たなければなりません。すなわち、人類の先祖が現実を肯定し、未来を否定することにより堕落したので、現実を否定して未来を肯定するという新しい内容を私たち各自がもっていなければ、人生の正しい道を探し求めていくことはできないのです。

 すると、私たちが、現実をどれだけ否定できるかということが問題となります。その否定の限界点とはどこでしょうか。今日の宗教や堕落世界の圏内での、私たちが求める新しい未来の条件を中心とした否定かというと、その圏内での否定では、新しい未来の世界を求めていくことはできないのです。それゆえ、その圏外まで否定しなければなりません。そうしなければ、圏内の否定圏を勝利の結果としてもってくることができないという事実を皆さんは知らなければなりません。

 では、今日私たちが願う理想とはどのようなものでしょうか。現実を肯定する生活ではありません。信仰生活というのは、あくまでも現実を否定する生活です。現実を否定すると同時に、未来の肯定を強固なものとするのです。

 今日の宗教人が、現実を肯定して未来を否定する立場と、現実を否定して未来を肯定する立場の二つの立場のうち、どちらがより強くなければならないかという問題を考えると、現実を否定して未来を肯定する立場が何よりも強くなければならないということができます。そのような人だけが、未来の愛を見いだすことができるのです。自分を中心とした生活圏内における愛を中心として自分自身を求めたのでは、アダムとエバの犯した嘆かわしい堕落による苦難から抜け出すことはできないのです。これは当然の理致です。

 それゆえ宗教人は、今まで苦難と試練の道を休むことなく行っているのです。その目的は何でしょうか。現実を肯定し、未来を否定した先祖たちの過ちを再び繰り返すのではなく、現実を否定し未来を肯定することです。それが、宗教の行く道だということを知らなければなりません。

◆未来に向けた新しい価値観確立の必要性

 今日私たちは、現在と未来の間で、一日の生活を中心として心と体がひっくり返ると同時に、一日一日がひっくり返るということを知らなければなりません。皆さんの心と体がひっくり返ることにより、きょうとあすが決定されるのです。

 したがって私たちは、一日一日を過ごしていくにおいて、きょうの試練をあすまで持ち込んではならないのです。あすの新しい肯定を追求し、これをあすの新しい肯定に連結するための基盤をきょうももたなければならないということです。そうしなければ、あすという日が、私にとっての幸福の根拠地として現れることができないのです。このような境界線で生命力を維持していく道こそ、信仰者の行くべき道であるということを皆さんは知らなければなりません。

 片手は神様にすがり、片手では世の中にすがっていくのではなく、世の中を否定して、天を肯定していくのが信仰の道です。それでは、未来を肯定して現実を否定することのできる内容があるかというと、今まではありませんでした。心は価値的な方向を追求してきましたが、その追求する方向において、主体的な対象を求めようにも求められなかったのが、今までの信仰生活だったのです。

 それゆえ、ここでは自らあすの約束を確かなものとするための新しい因縁が必要であり、未来に向かう新しい価値観の確立が必要なのです。その確立した価値の内容は、現実における何よりも強く徹底した主体的な内容でなければなりません。そうでなければ、未来の世界を中心として、現実的な観念と現実的な生活舞台を否定し、克服することができないのです。

 個人の信仰路程を見ると、最初のうちは信仰生活をとても上手にします。しかし、日がたてばたつほど、その環境の範囲が広がれば広がるほど、より一層立体性を備えなければならないにもかかわらず、そうできないのです。始めは力強く出発しても、しまいには弱くなってしまうのです。これは未来観の確立がきちんとなされなかったがゆえだということを、皆さんは知らなければなりません。

◆最後の主義

 私たち個人は、百年以内に一時代を生きて、死ぬのです。けれども歴史は、永遠に続きます。歴史を連結させるために個人的な社会があるのであり、家庭的な社会、氏族的な社会、民族的な社会、国家的な社会があるのです。

 この地上には、風土が違い、伝統が違い、歴史的背景が違う様々な種類の民族が住んでいます。これらを何によって一つに結び合わせるのでしょうか。権勢や主権ではできません。世の中のどんな物質をもってしてもできません。これを結び合わせることができるたった一つの方法があるとすれば、それは何でしょうか。

 どのような人であっても、どこで暮らしたいかと尋ねれば、「故郷だ」と言うことでしょう。いくら長い間故郷を離れ、異郷で暮らした老人であったとしても、自らの故郷の山河を懐かしがるものです。自分の父母が死んで数十年がたち、父母を忘れてしまうほどの期間が過ぎたとしても、父母の墓を訪れて、昔の思い出をたどりながら、当時の生活を感じようとするのが人間の心なのです。

 このように考えると、私たちの心は果たしてどこにいることを願うのでしょうか。お金ではありません。自分の父母の家があるので、その家に行くために故郷へ行きたいのではありません。そこにいる愛する父母や兄弟、妻子に会いに行くのです。こう考えると、それは外的なことというより、内的な実証的次元のものであるということを、私たちは否定できません。

 では、この世を結び合わせることができ、一つの目的に帰結し得るものとは何でしょうか。それは愛というものです。その愛は、私たちが生きている現実の中で愛するような愛ではありません。本然の愛なのです。この愛は、どこから始まらなければなりませんか。最高の位置から始まらなければならないのです。神様は絶対者であり最高の方であられるがゆえに、その愛の出発も最高の位置からなされなければならず、その愛がとどまることのできる所も、最高の位置になければなりません。その愛は、天宙的な愛であることを皆さんは知らなければならないのです。

 私たちは、その愛をもって氏族と民族を超越することのできる、愛の化身とならなければなりません。その愛には、個人と氏族、氏族と民族、民族と国家、国家と世界、天宙、あるいは神様まで連結することができる氏族的内容があるのです。すなわちその愛は、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙、神様まで縦的な因縁を結ぶことのできる絶対的な起源であると同時に、横的に世界にまで広げて、世界人類を兄弟の因縁で結ぶことができ、歴史過程に現れたすべての否定的条件を永遠に否定できる、絶対的な愛でなければならないのです。

 したがって、愛を中心として縦的な面での個人、家庭、氏族、民族、国家、世界を超越することができるかというのが問題になります。横的な面においても、社会と文化の風土に対する思潮の変化すべてを超越できるかということが問題となるのです。これが全部可能であるならば、その主義は最後の主義に違いありません。

 縦的にも横的にもそれが可能であり、万民共通の生命を備えた現時点において、心から万民の前に勝利できる愛を備えた主義だとするならば、そしてまた、勝利して万民をして同じ感情を誘発させることのできる主義だとするならば、その主義こそ、人間世界において未来の希望を確かなものとし、未来の願いの基盤を開拓できる一つの母胎となることができるのです。

 ではその愛は、何を中心としたものでしょうか。その愛は、個人を中心としたものではありません。その愛は、家庭だけを中心としたものではなく、氏族だけを中心としたものではなく、民族だけを中心としたものではありません。また、一つの国家だけを中心としたものではありません。愛は、そのすべてを超越するのです。世界を超越して天宙を中心としたものであり、天宙だけでなく神様を中心としたものです。また、神様だけを中心としたものではなく、神様の愛を中心としたものです。

 神様の愛を世界と換えることができるかというと、換えることはできないのです。また、神様の愛を神様自体と換えることができるかというと、それもまた、できないのです。その愛を求めるために神様自体も犠牲になってきたのです。神様御自身も、神様自体にあるその愛のために犠牲になってきたという事実を考えてみると、神様とも換えることのできない根本的な内容が、愛であるということなのです。

 この愛こそが、私たちの骨髄を通ることができ、私たちの血肉を管理する根本となるのではないかというのです。これは、今日堕落した人間の情緒的な生活を通して、如実に現れている事実です。

◆縦的な愛を横的に展開するには

 それでは、縦的な愛をどのように横的に展開するのでしょうか。縦的な愛を横的に展開するためには、自分自体を意識してはなりません。このような縦横の愛を帰結させるための一つの基盤となり得る基点が、この地球上に現れたとするならば、これは私たち人類の希望となるに違いありません。

 それによって、人類が縦的な完成を迎えることができるのであり、横的な完成を迎えることができるのです。それゆえ、完成の基準の前に関係するすべてを否定し、堂々と足を踏み出すことのできる内容があるのです。

 こういう観点から考えると、現実世界において皆さん自身がもっている理念があるとすれば、その理念はどれほど高いでしょうか。それは、皆さんの一生とともに終わるものです。その理念は、どっちみち皆さんが否定すべき圏内でもった理念であるがゆえに、皆さんの一生とともに終わるのです。それはまた、自分の子孫に相続してはならないのです。私の代に清算していかなければならない理念的要件ということです。これを清算するためには、自分自ら今日の生活観念を超越しなければならないのです。

 傾いた月は再び昇り、日陰があれば日向もあるという真理を私たちは知っています。このように高低が交差する時点があることを考えると、今日の世の中は、決して幸福なだけの世界ではないということが分かります。それゆえ、現在の世の中を否定するということは、幸福な世の中を追求するためであると推考できるのです。

 私たちは、神様の愛を観念的に感じるだけでなく、この愛を現実の生活舞台に適用し、誘発していかなければなりません。そのために皆さんが考慮すべきこととは何でしょうか。神様の無限の価値と現実の一つの個体が、どのようにして関係を結ぶかということが問題です。その世界を求めていくのが復帰の道なのですが、個性真理体を超越しては連結されないのです。

 大きい所へ行くためには、小さな所から出発しなければならないのです。それは、私の言葉から始まらなければなりません。私の話す言葉が、未来の世界と関係を結ぶべきであり、私の見て感じることも未来の世界と関係を結ばなければならないのです。

 そのためには、どのようにしなければならないのでしょうか。私一人では駄目なのです。これを皆さんは知らなければなりません。深い境地の修道の道を行くとき、一人で精誠を尽くすのは、神様の対象となるためなのです。しかし、神様のみ旨を展開していくときには、一人ではできないのです。いくら修道の世界ですべてに通じ、その権限が天上世界に知られた立場にあったとしても、また、彼が神様とは縦的に関係を結んだとしても、横的に関係する相対基盤をもっていなければ縦的な基準で終わってしまうのです。

 それゆえ、神様は主体的で縦的な中心の立場にいらっしゃったとしても、地上に生きている人間のところへ来ざるを得ないのです。この地上の存在物はすべて、自分自体だけでは幸福を感じることはできません。私たち人間も、現実の中だけでは幸福を感じることはできないのです。未来に連結される現実で、幸福を感じることができるのです。

 より価値的な未来世界に包括され、吸収され得る現在において、今日の生活の価値を感じなければならないのです。そうしてこそ、未来の世界観を立てることができます。

◆偉大なる名詞「真の父母」

 堕落した世の中にある私たち人間は、中心をもつことができませんでした。堕落した位置にある人間一人では、神様に直接対することができません。それゆえ、神様に直接対することができる一人をこの地に送るというのが再臨思想、メシヤ思想です。

 メシヤはこの地に来て、その使命を一人で成すのではありません。中心となるためには、四方を備えなければならないのです。四方を備えて平等な立場で授け受けることのできる力を備えてこそ、均衡が保たれるのです。そうしなければ、その力が傾けば、均衡が保たれません。少なく与える者は上がり、たくさん与える者は下がるので、平衡が保たれなければ、それは永遠に続かないのです。

 均等になるためには、まず平衡を保つにおいて、原点となる主体が必要です。また、この中心と平衡を保つことのできる対等な価値をもった対象がなければなりません。それで、その主体と対象とを同じ位置に連結することのできる線が引かれて、初めて水平線ができるのです。したがって、ここでは相対的要因が絶対必要だということを、私たちは知らなければなりません。

 では、なぜ神様は、男性の前に女性を必要なものとされ、女性の前に男性を必要なものとされたのでしょうか。これが問題だというのです。それは、一人を立てて自ら生活できるようにするためではなく、二人を立てて彼らが完全に一つの願いを中心として神様の愛をたずさえ、未来の世界に向かって共に生きていくようにするためです。その二人が授け受けるその生活は、極めて希望的な生活です。ここに未来の生活を引き込んで、現実の生活において互いに感知し、感じながら生きていくべきなのですが、そうできる存在とは何かというと、夫婦だというのです。

 そのような家庭で、互いに手を取り合い、幸福を謳歌し、未来を約束し、現実を否定して、未来の世界に確信をもち肯定して進む夫婦がいるならば、いかなる生活環境も彼らを支配することはできないでしょう。現実の生活がどんなに困難であっても、それが未来の世界の前に支障をもたらすのではなく、困難であれば困難であるほど、未来の世界に対するビジョンを与えてくれるのです。そうなれば、いかなる現実の困難も、彼らを拘束できないというのです。

 男性と女性が共に、そのような立場に立って未来を愛し、互いに尊重し合い、未来のためという心で生活し、ここに自ら未来の価値を同伴させて、尊重視することのできる夫婦の因縁を結んだとするならば、ここから幸福の基盤ができることでしょう。

 アダムにはエバ、エバにはアダムが必要であるため、神様は、彼らを理想相対として立てられたという事実を知らなければなりません。その相手となる存在は、現実的に主体と因縁を結ばずしては、未来と連結されないのです。イエス様と聖霊を、主体と対象の立場に立てたのも、この天宙的な事情に通じるための内的事情があったためです。

 こういう観点から考えると、否定すべき現実社会を切り開いていくためには、同志がいなければならず、先生がいなければなりません。より高く上がるためには、先生がいなければならず、同志がいなければなりません。現実において、絶対的な新しいものが歴史と民族の前に投入されるためには、必ず同志として結合し、未来の希望の世界に向かって燃える心をもって進まなければなりません。そこから新しい歴史が創造されていくという事実を否定できないように、天の法度も、このような過程を通してのみ立てられるということを皆さんは知らなければなりません。

 あなた方の家庭は、家庭のことだけで終わってはなりません。皆さんの前には、家庭を中心とした氏族編成という途方もなく大きな目標が置かれています。家庭が完全に一つなってこそ、氏族の前に立つことができるのです。一つとなれなければ、氏族を忌避する立場に立つことになるのです。

 今日まで私たち人間は、これが分からなかったのです。南なら南、東なら東ですべてが解決されるものと思って、今まで苦闘してきたのです。そのようにしても駄目なのです。個人ならば個人、家庭ならば家庭が内外の内容を備えて、み旨を共にする位置に立ってこそ、神様が同伴されるのであり、また、そうすることができる内容を備えてこそ、人類を主管することができるのです。

 どうしてそのようになるのでしょうか。後孫たちが家庭的基盤を中心として、男性と女性として現れるために、男性と女性の代表的な基準が、心情を中心として家庭の前に結束する価値的な内容がなければなりません。そのように結束し、万民が共通的に欽慕することができる対象となってこそ世界を支配することができるのです。それゆえに、「真の父母」という名詞は、偉大なる名詞なのです。もちろん、真理の内容も深みがありますが、「真の父母」という言葉は偉大なる名詞であるというのです。

 ここから未来への出発が保障され、未来に対する確信と価値を保障することができるのです。同様に、現実舞台において価値を保障することができる原点があるとすれば、それはその言葉から来るのです。

◆真の父母を中心とした家庭的革命の必要性

 ここで私たちは、どのようにしなければならないのでしょうか。一つとならなければならないのです。誰を中心として一つとならなければならないのでしょうか。自分を中心として一つとなってはなりません。自分の家庭を中心として、「真の父母」を引っ張ってきて一つとなろうとしても駄目です。「真の父母」の前に、引っ張られていかなければならないというのです。引っ張られていくときに、自分だけ引っ張られていくのではなく、自分の父母なら父母、夫ならば夫、妻ならば妻まで引っ張られていかなければなりません。それだけでなく、自分の家族まで引っ張られていかなければならず、家庭にあるすべての物質まで引っ張られていかなければならないのです。そうして、一つとならなければなりません。

 歴史時代を見るとき、旧約時代は物質を中心として歩み、新約時代は愛を中心として歩んできました。イエス様は愛について話しましたが、人間たちは愛がどのようなものなのかを知らなかったというのです。

 旧約時代は、蕩減のために祭物を捧げました。祭物がなければなりませんでした。このように、祭物を捧げる路程を経てこなければならないというのです。ここでいう祭物とは何かというと、犠牲物だというのです。それゆえに、旧約時代は人間の代わりに贖 罪の祭物として万物を捧げ、物質と共に動物を祭物として捧げたのです。このような時代が、旧約時代でした。

 その次に、イエス様は一段階高めて、神様の愛を紹介しました。旧約時代にはモーセが、愛の神様を紹介することができず、権能の神様、能力の神様、審判の神様だけを紹介しました。しかし、イエス様は、愛を紹介しました。愛の神様を紹介し、愛のイエス様を紹介しましたが、当時の人間たちは受け入れませんでした。

 このような過程を通して、これまで歩んできました。ここで、私たちが知らなければならないことは、父母を中心としなければならないということです。愛は、父母なくしては現れることができません。父母から人が生まれてこそ、愛を授け受けすることができるのです。このような相対基準を備えられずには愛を成すことができないのです。

 万物は、人間のために存在するのです。歴史全体が何に帰結されるかというと、家庭の基準に帰結されるのです。これが宇宙の根本です。父母なくしては子女が生まれることはできません。父母から生まれた子女が、父母を中心として万物を主管しなければなりません。

 皆さんが、み旨を成すために生きなければならないというとき、皆さん一人一人では歩んでいくことはできません。このような内容を、すべて糾合していかなければならないのです。このように糾合したものを、ぎゅっと押さえつければ一つの点となるのです。圧縮すれば一点になるというのです。この一点が二つに分けられれば、ここから衝突が生じるのです。

 立体的に見るとき、歴史は皆さんにとって何に該当するのかといえば、それは家庭に該当するのです。家庭は、歴史的な中心基盤です。

 未来の世界の前に希望を提示するためのすべての革命の目標は、国家や世界ではないというのです。歴史過程において、国家の革命観や、世界の革命観を提示した人はいましたが、家庭の新しい基盤を準備するために、家庭の革命観を提示した主体勢力はなかったというのです。

 それでは、先生は何をしようとしているのですか。家庭の革命がある前に氏族の革命があるはずがなく、氏族の革命がある前に民族の革命があるはずがなく、民族の革命がある前に国家の革命があるはずがなく、国家の革命がある前に世界の革命はあり得ないというのです。それゆえに、個体の完成と共に家庭的な革命をしようとしているのです。

 革命は、既存のものを捨てて破綻させなければ、成し遂げることができません。過去のものを除去しなくては新しいものを成すことはできません。したがって、自分を否定しなければならず、家庭を否定しなければならず、自分の物質を否定しなければなりません。そうしなくてはならないのです。

◆家庭は宇宙の根本

 イエス様は、自分の子供を愛する前に、神様を愛せよと語られました。自分よりも神様をもっと愛せよと語られたのです。それゆえに、イエス様は「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである」(マタイ二二・三七)と語られました。

 私たち人間は生命の根がないために、根を接ぎ木しなければなりません。浮き草のごとく、風が吹けばあちらこちらに流されていってもいいのですか。根がないというのです。このみ言は、このような環境の与件を絶対に必要とする堕落した世界にとっては、福音のみ言なのです。

 それでは、神様をどのように愛するのでしょうか。楽園の宮中に立てておきますか、そうでなければ歩き回らせますか。天国中心ではなく、生活中心へとすり替えることができる道を見つけるために、これまで身もだえしてきたのです。これまで人間世界に、生活中心へとすり替えることができる、その道がなかったので、そのような道がなければなりません。これはどのような話かというと、神様の愛を中心とした、真の愛の主体がいなければならないということです。

 一つの国を中心として見るとき、国の国王を父と見るならば、民は息子の立場であり、地は万物の立場です。同様に、世界を中心として見れば、万民は息子の立場であり、この地球全体は万物の立場であり、世界を中心として来られる主は、父の立場なのです。全天宙を中心として見るときには、天宙の中心である神様は父の立場であり、神様と連結される歴史的な人間は息子であり、すべての被造世界は万物なのです。

 これを縮小させた基本単位が家庭です。ゆえに、家庭における父のもの、息子のものを、すべて神様のものとして捧げなければならないのです。誰の息子、誰のものという区別はなく、すべてを神様のものとして捧げなければならないというのです。ある人は、「物質を除いて息子、娘だけ捧げましょう」と言う人がいます。あるいは、「自分は除いて息子と物質だけ捧げましょう」と言う人もいます。そのようにしては、全体復帰が成されないのです。

 一つの国を形成するためには、主権がなければならず、民がなければならず、国土がなくてはなりません。天の国も、やはり同様です。主権を代表したものが父母であり、民を代表したものが息子、娘であり、国土を代表したものが国です。このうちの一つでも省くことはできません。これは鉄則です。

 それでは、皆さんが国を代表していくべき基盤とは何でしょうか。国の祭壇とはどこでしょうか。家庭です。したがって、家庭において愛する夫婦を中心として、子女と万物が一つとならなければなりません。それが国のものであるならば、世界のものにもなるのです。私自身や子女や万物は、私のものではなく、国のものです。それは間違いありません。ゆえに、国が要求とするときには、いつでも引き渡すことができなければなりません。そうしなくては、国の前に忠の道理を果たすことができないのです。

 国を愛するのは、国から奪うためではなく、与えるためなのです。なぜ世界のために奉仕し、犠牲とならなければならないのでしょうか。「統一思想」は、自分の国を犠牲にして世界を救おうという思想です。これは結局、犠牲ではなく、世界とすり替えることになるのです。大きなものを得るためには、小さなものを犠牲にするのが正常なのです。より価値あるものとすり替える人が、知恵のある人です。それが、世界に行くための正当な道です。人間は、より大きなものを憧憬しようとするのであって、小さなものを憧憬しないのです。より大きなものを望むのであって、小さなものを望みはしないというのです。

 あるものを否定しなさいというのは、否定するだけで終わるのではなく、より大きなものとすり替えなさいということです。この現実の生活圏内で、そのようにすることができる実際的な内容を備えなければならないのに、このような内容を備えることができなかったために、今日人間たちは堕落した世の中の汚染された環境の中で、その生涯を終わるようになっているのです。このような実状を、私たちはよく見ているのです。

◆先生の思想――天宙主義

 すべてのものは、父母と、子供と、万物の立場です。今日、この世の中を生きていく中においても、父母のあとに息子が従ってきて、息子のあとに万物が従ってきているのです。より大きなものを中心として、息子と万物が父母を擁護していくのです。永遠の世界まで、そのようにしていかなければなりません。この堕落した現実から、死の世界にまでそのように導いていかなければならないというのです。父母は息子、娘を導いていかなければなりません。それゆえ、メシヤは息子、娘を救うために導いていかなければなりません。その次には、万物を導いていかなければなりません。万物は、そのために準備されたものではないですか。子供として生まれれば、既に父母となるように準備されているのです。それゆえに、父母の周りには、息子、娘が取り巻いて立っていなければなりません。父母の周りに、息子、娘が永遠に取り巻いて座っていたいと思うその心の基盤が、この地上に現れるようになれば、平和の王国は建設されるのです。

 皆さんは、先生を中心としてその位置を離れず、そばにいたいと思い、現在の自分たちの位置を変えずについていくことができる心をもたなければなりません。すべての所有物もまた一つとなる、それで終わってしまってはなりません。自然的な環境で、天のものとして動くことができ、天のものとして和することができる基盤とならなければならないのです。

 それでは、万民の祭物はどこに行ったのでしょうか。息子の祭物はどこに行き、父母の祭物はどこに行ったのでしょうか。これまでこれらの祭物が一箇所に集まって、父母の懐に抱かれることができる、そのような時が地上にあったでしょうか。人類に対して、「愛する息子、娘よ!
 お前たちの息子、娘は私の孫であり、その孫のものは私のものである」と言うことができる私自身となっているのでしょうか。これが問題なのです。

 家庭がある前に氏族があるはずがなく、氏族がある前に民族があるはずがなく、民族がある前に国家があるはずがなく、国家がある前に世界はあり得ないというのです。それで先生は、天宙主義を唱えるのです。

 天宙主義とは何でしょうか。家庭においていえば、私が生活している家庭に、天下をぎっしり埋め尽くしても余りあるほどの金の宝物があるとしても、そこに酔いしれて生きるのではなく、それを忘れ、常に神様の愛に酔いしれて生きる、そのような家庭です。息子のものは父母のものであり、父母のものは神様のものとして、そっくりそのまま連結させられなければなりません。

 私たちが行く原理の道は、神様の前に物質をまず立たせていく道です。神様は被造世界を創造される時、万物を最初に創造されました。万物が最初に現れ、その次に息子が現れたのです。ゆえに、父の前に進んでいこうとすれば、一番前に万物を立て、その次に息子を立てておいて行かなければなりません。そうしたのちに、父が私たちを呼ばれるのです。

 神様の救援摂理の目的は、万物を取り戻すことではなく、息子を取り戻すことです。息子さえ取り戻せれば、万物はそこに自然と交わるようになっているのです。また、父母さえ取り戻せれば、息子は生まれるようになっているのです。それゆえに、人類の父母を取り戻してくるのが復帰歴史です。皆さんはこれを知らなければなりません。

◆神様の前に感謝を捧げることができる人

 それでは、本当の意味で神様の前に感謝を捧げることができる人とは、どのような人でしょうか。
 自分一人で神様の命令を受けていこうとする人は、どんなにやっても駄目です。そのようにしては完成の位置に行けないのです。甲斐ある位置ではないのです。どんなに自由世界と天地が記憶する恩賜の位置に立ったとしても、そのようにしては駄目だというのです。まず自分の息子、娘と一つとならなければなりません。自分が所有しているすべての物質と一つとならなければならないのです。

 今後、家庭を中心として相続させ、家庭を中心として入籍させなければならない時代が来るのです。私たちにはまだ入籍する国がないので、入籍ができないのです。そうすることができる国がないというのです。このような運命に処している私たちは、ジプシーの群れであり、流浪の群れと同じ身の上であるということを、皆さんは知らなければなりません。

 それゆえに私たちは、どのようにしても一つの土台をつかみ、一つの主権を立てなければなりません。数多くの苦難の圏内で、一つの甲斐ある価値を中心として、世界の民族を復帰させることができる主体性をもった群れとならなければならないのです。

 皆さんは、今後入籍時期があるということを知らなければなりません。祝福を受けることは、入籍することではありません。これは、象徴的な入籍にしかならないのです。ゆえに、私たちは入籍することができる国を探し求めていかなければならないのです。その国は、どのような国でしょうか。
 主権は父母を身代わりし、民は息子を身代わりし、国土は物質を身代わりし、三位一体を成す国です。国家を形成するためには、主権がなければならず、民がなければならず、国土がなければなりません。宗教も同様です。

 今日、皆さんにおいては、私のものか、父のものかという、この関係をどのように展開していくのかが問題です。これが今日、私たちが生活しながら境界線にぶつかる、最も大きな問題です。

 一つの家庭は、一つの国を成すところにおける細胞と同じです。甲という人が、個人としてもつべき要件をすべてもっているのと同様に、一つの家庭は、一つの国家を成すことができる要件をすべて備えているのです。そのような目的をもって、先生は家庭を祝福してあげるのです。

 どのように感謝する生活をすべきなのか

 ここにおいて問題となるのは、皆さんが感謝する生活をするかどうかということです。しているならば、どのように感謝しているのでしょうか。子供の多い人を見れば、その人は苦労が多いというでしょうが、一面では子供がいない人が感じることのできない、そのような幸福を感じるということを知らなければなりません。子供を育ててみた人は、それが分かるはずです。子供を育ててみた人と、子供を育ててみることができなかった人を置いてみるとき、子供を育ててみた人は、子供がどんなに込み入り、騒々しかったとしても人生の生き甲斐を感じるのですが、子供のいない人は、そのようなことを感じることができないのです。

 子供たちによって人生の希望を感じるのです。その処している環境は複雑であるとしても、不幸なことではありません。そこには、あすへの希望が接ぎ木されているというのです。人がもてない息子、娘が多ければ多いほど、各分野で四方性を備え、新しい希望をもつことができるがゆえに、自ら進んで困難な環境を克服することができるというのです。

 このようなことを見るとき、感謝する生活をどのようにするのかということが問題となるのです。皆さんは、常に物質に対しています。ところで人々は、その物質をもって自分の息子、娘にたくさん食べさせようという考えをもっています。しかし、物質をもって国を生かそう、世界を食べさせて生かそうとしなければならないのです。物質に対したとき、その物質が少ないとしても、世界のために与えようと精誠を込める人と、その物質にしがみついて自分の息子、娘のために残してあげようと極端に惜しむ人がいるとすれば、神様が御覧になるとき、どのように思われるでしょうか。

 どんなに小さな物質であったとしても、神様のために精誠を込めたものであるならば、それで世界を掲げて入っていくことができるのです。皆さんは、これを知らなければなりません。もっているものが百ウォンしかない人が、その百ウォンに神様の愛を掲げて入っていくようになるときには、その百ウォンは全体を代表し、その人の人格を代表するということを知らなければなりません。

 一寸の土地であっても、これを「自分の財産である」と言うことはできません。すべては、神様からもらったものだというのです。神様からもらったので、再び戻さなければならないというのです。そのようにするとき、歴史は熟していくのです。そのように受け取ったので、そのように与える人とならなければなりません。そのような人々の世界とならなければ、この地は天国とはなり得ません。

 一日二十四時間の生活圏内で、私が見聞きしているすべてのことは、何のためでしょうか。神様のために見たり聞いたりしなければならないのです。同様に、感じることも、神様のために感じなければなりません。私たちは地上で生活していますが、天上世界の生活と連結させて生活しなければなりません。そのような生活ができない人は、天上世界を体得することができないのではないでしょうか。

◆感謝する生活をすべき私たち

 皆さんが一つの物をあげたりもらったりするときは、世界の物としてあげたりもらったりしなければなりません。このような事実を、皆さんの生活の中でどれだけ感じ、体得して生活しているのかというのです。

 皆さんは、誰のために与え、誰のために受け取るのでしょうか。神様のために与えなければならず、神様のために受け取らなければならないのです。神様のためにもらったので、神様のために与えなければならないのです。神様のために与えたので、自分のためにもらおうとしては駄目なのです。

 皆さんが神様を中心として誰かに一つの物をあげたならば、皆さんを愛される神様は皆さんに、それのみを与えたいと思うのでしょうか、でなければ、それよりももっと大きな物を与えたいと思い、心を痛める境地で死んでも、恥ずかしいと感じる心をもたれるのでしょうか。これが問題となるのです。父母は与えて誇るのではなくて、与えながらも、かえって恥ずかしいと思うのです。

 父母は、子供に与えても他の人と同じように着せることができず、もっと与えたくても与えることができないことを恥ずかしく、恨めしく思うというのです。息子が泣くのを見れば、自然に涙を流す父母の心情があるということを、私たちは感じなければならないのです。それは公的なものです。そのような心情をもった父母から生まれた息子は、立派な息子になるはずです。

 私が与えても恥ずかしがる心の姿勢、もらえば恥ずかしくおそれ多くて、どうしたらいいのか分からないという心の姿勢を常にもって生きる人が、感謝の生活をする人です。このような人を通して新しい歴史が展開するのであり、このような内容を通して天国が成し遂げられるということを、皆さんははっきりと知らなければなりません。

 それゆえに皆さんは、自分が処している位置で、涙を流しつつ感謝しなければなりません。あまりに足りない自分に望みもしなかった物を整えてくださった神様に対して、感謝しなければなりません。恥ずかしさを感じながらもらったので、与えながらも恥ずかしさを感じることができる心の姿勢をもつ人は、絶対に滅びることはありません。そのような人は、感謝する生活をせざるを得ないということを、皆さんは知らなければなりません。

◆私たちが立てるべき伝統――感謝の生活

 もし、アダムとエバが「取って食べてはならない」という神様のみ言を聞いたとき、このみ言を感謝して受け、あまりにも高く尊いお方が「恥ずかしい我々に、このようなみ言を下さるとは」と言って、おそれ多い心で頭を垂れ、自分たちは慎重に行動しようという心をもって生活していたとするならば、堕落はしなかったはずです。

 皆さんは、神様の愛を中心として愛を与えても恥ずかしいと思う心でお互いを尊重し、愛を与えても恥ずかしさを感じることのできる愛の主人公とならなければなりません。このような人たちが生活する家庭が、幸福でないはずがありません。これが今日、公的、私的な問題において、私的な問題を解決し、公的な基盤に連結させることができるたった一つの道であるということを、皆さんははっきりと知らなければなりません。

 このような時代に生きる人は、間違いなく幸福を享受するはずです。時が問題であり、その期間が問題であるだけであって、そのような人は、自分の生活圏内で神様のみ業を受け継いで生きる人なのです。これを知って、皆さん自身の責任が大きいということを考えなくてはなりません。

 歴史過程には立派な人々がたくさんいましたが、与えても足りないことを感じ、もらうときは有り難く受け取る人がいなかったのです。その格好はどうであっても、感謝してもらい、有り難くもらう人のみが神様を愛することができるということを皆さんは知らなければなりません。

 将来、私たちは何を誇るのでしょうか。神様が下さるものをいつでも感謝して受け取り、いつでも有り難くもらえることが私たちの誇りであり、また、有り難く与えられる心をもったということが私たちの誇りです。このような伝統を立てていく皆さんであるならば、その伝統は、世界の歴史とともに切れることがなく、永遠であることでしょう。

 そのように生活する人のみが、神様に感謝する生活をなす人です。私たちが世界に残ることができる道は、すべてのことに感謝する生活をする道だけであるということを、皆さんははっきりと知らなければなりません。

 生死の問題を中心として堕落したことが起源となり、このような曲折の道をつづってきたのですから、これを越えていくためには、現実を否定し、未来を肯定しなければなりません。現実において未来を肯定する心を受け継ぐためには、感謝する思いで、「すべてを与えられる」という心をもたなくてはなりません。このような心がなくてはならないというのです。これを知って実践していく人は、間違いなく神様の息子、娘となれるはずです。