2014年7月23日水曜日

私達人間は、悪魔、サタンからの洗脳を解かないといけません。

み旨、摂理、蕩減復帰、再創造、
元に戻る為の道。
人間は、堕落した為に、万物以下の立場に落ちてしまった。
心と体、霊人体と肉体、堕落により、霊人体(心)が動物以下になってしまった。無知になってしまった。
そのことにより、肉体(体)も、無知になってしまったと共に、体が、主体の立場になってしまった。
堕落は、神様のみ言を信じないで、天使長ルシファーの言葉を信じて、行動して堕落してしまった。
堕天使、悪魔、サタンになってしまった。
(詳しくは、統一原理、堕落論、復帰原理を学んでください。)
人間には、本心と邪心の二つの心を持つようになってしまった。
そのことにより、主体、主人を二人持つ立場になってしまった。
本来の主人は、神様です。
堕落により、堕天使、悪魔、サタンが、もう一人の主人(主体)の立場になってしまった。
(人間は、堕落人間になってしまった。)
また、堕落により、愛せない(神様の立場で愛せなくなった。)信じられない、心と体が葛藤したり闘う。
自分自身を神様が愛するように、愛せなくなっしまった。
他人も、神様が愛するように、愛せなくなっしまった。
人間不信、いじめ、不平不満、怨み、嫉妬、病気、心の病気、その他様々な問題が起きています。
堕落人間(全ての人類)は、心と体が葛藤していることを知りませんでした。
心と体が葛藤している!
再臨主メシヤである、天地人真の父母様(真の父母様)は、文鮮明、韓鶴子総裁御夫妻です。
真の父母様が、「心と体が葛藤している!」このことを教えてくれました。
心と体が一つに成らないといけない。
誰が、心と体が一つに成らないといけないのか?
これが、問題です。
世界平和を願っても、様々な問題が起きているのは、心と体が一つに成っていないからです。
誰が変わるのか?
誰から、心と体が一つに成るのか?
言葉でなく、実践するのは誰か?
心と体を一つにする、実践運動をしているのは誰か?
これは、真の父母様である、文鮮明、韓鶴子総裁御夫妻です。
真の父母様は、心と体を一つにする実践と共に、夫婦が一体と成る、真の夫婦、真の家庭を成しました。
私達が、真の父母様のみ言を学び実践するのは、真の父母様の勝利圏の相続の為です。
私の心と体の統一
それから、夫婦、家庭、家族が、真の家庭、真の家族を目指して頑張りましょう。

まずは、私の心と体が、一つに(統一)する。
心、本心が、神様と一つにする。
( 邪心を取り除く!ことを願う。)
邪心が、働かないように、善なる生活をする。(悪なる思い、行動に邪心が働くため)

私の心と体が、一つに(統一)するために、私が、神様と一つに成らないといけない。
その為に、神様を正しく理解すること、正しく学ぶことが大切になってきます。
始めは、神様に愛されている自分を知りましょう。
神様に愛されている自分を実感しましょう!
瞑想をとうして、神様の真の愛を相続しましょう。
瞑想をとうして、私の心と体が、一つに統一するように意識しましょう。
瞑想をとうして、
真の父母様である、文鮮明、韓鶴子総裁御夫妻を意識しましょう。
真の父母様は、心と体を一つにする実践と共に、夫婦が一体と成る、真の夫婦、真の家庭を成しました。
私達が、真の父母様のみ言を学び実践するのは、真の父母様の勝利圏の相続の為です。
このことをイメージします。
神様と真の父母様の役事がありますように。

瞑想をしましょう。
趣味をしながらの趣味瞑想を意識しています。
神様を考えて、神様と共に、趣味をする。
神様に感謝します。

本来の自分に戻る為の道です。
本来の人間は、どんな人間か?
本来の人間は、神様と一つになっています。
神様の願いに生きることが、自分の喜びになっていました。
不自然な感じがすると思います。
今が、自然なんだ!と、皆さんが、サタンに洗脳されているからです。
だから、心では、よく成りたいと願いながら、行動出来ない自分…。

私達人間は、悪魔、サタンからの洗脳を解かないといけません。
習慣性、自分の発想などを新しくしましょう。
悪魔、サタンからの、解放、釈放されないといけません。
私達の考え方や発想を神様の考え方や神様の発想に変えないといけません。
(良心瞑想、神霊瞑想は、そのことを意識しています。)
統一思想や統一原理を学ぶのは、私達の考え方や発想の中に、サタンの考え方や発想があるため、原理を学んで、神様の考え方や神様の発想を知る為です。
自分の行動は、自分で変える!
意識をする。感謝します。

あなたは、どのように考えますか?
あなたを変えるのは、あなたの強い意志です。

あなたに、一つのビジョンを統一思想、統一原理は、提案します。

神様と真の父母様に感謝します。

原理講論に「その責任分担については神が干渉してはならないのである。」
人間の責任分担については神が干渉してはならないのである。
自分自身(私)の責任分担については、自分自身で、悟らないといけない。
神様に祈ります。
神様と真の父母様に感謝します。

2014年7月18日金曜日

創造原理・ポイントまとめ〈福母式、創造原理のポイント〉

第一章 創 造 原 理
人間は長い歴史の期間にわたって、人生と宇宙に関する根本問題を解決するために苦悶してきた。
それは本来、人間や宇宙がいかに創造されたかという究極の原理を知らなかったからである。
人生と宇宙に関する問題は、結局それを創造し給うた神が、いかなるお方かということを知らない限り解くことができないのである。
第一節 神の二性性相と被造世界
(一) 神の二性性相
無形にいます神の神性を、我々はいかにして知ることができるだろうか。それは、被造世界を観察することによって、知ることができる。
神の神性を知るために、被造世界に普遍的に潜んでいる共通の事実を探ってみることにしよう。存在しているものは、いかなるものであっても、それ自体の内においてばかりでなく、他の存在との間にも、陽性と陰性の二性性相の相対的関係を結ぶことによって、初めて存在するようになるのである。
我々はすべての存在が、陽性と陰性との二性性相による相対的関係によって存在を保ち得ているという事実を明らかにした。
我々はすべての存在を形成しているもっと根本的な、いま一つの二性性相の相対的関係を知らなければならない。存在するものはすべて、その外形と内性とを備えている。そして、その見えるところの外形は、見ることのできない内性が、そのごとくに現れたものである。したがって、内性は目に見ることはできないが、必ずある種のかたちをもっているから、それに似て、外形も目に見える何らかのかたちとして現れているのである。そこで、前者を性相といい、後者を形状と名づける。ところで、性相と形状とは、同一なる存在の相対的な両面のかたちを言い表しており、形状は第二の性相であるともいえるので、これらを総合して、二性性相と称するのである。
存在界のこのような第一原因を我々は神と呼び、この主体的な性相と形状のことを、神の本性相と本形状というのである。
性相と形状の二性性相と、陽性と陰性の二性性相とは、互いにいかなる関係をもっているのだろうか。本来、神の本性相と本形状は、各々本陽性と本陰性の相対的関係をもって現象化するので、神の本陽性と本陰性は、各々本性相と本形状の属性である。
我々はここにおいて、神における陽性と陰性とを、各々男性と女性と称するのである。
神を中心として完成された被造世界は、ちょうど、心を中心として完成した人間の一個体のように、神の創造目的のままに、動じ静ずる、一つの完全な有機体である。したがって、この有機体も性相と形状とを備えなければならないわけで、その性相的な存在が神であり、その形状的存在が被造世界なのである。神が、被造世界の中心である人間を、神の形状である(創一・27)と言われた理由もここにある。
したがって、被造世界が創造される前には、神は性相的な男性格主体としてのみおられたので、形状的な女性格対象として、被造世界を創造せざるを得なかったのである。
神は性相的な男性格主体であられるので、我々は神を父と呼んで、その格位を表示するのである。
上述した内容を要約すれば、神は本性相と本形状の二性性相の中和的主体であると同時に、本性相的男性と本形状的女性との二性性相の中和的主体としておられ、被造世界に対しては、性相的な男性格主体としていまし給うという事実を知ることができる。
(二) 神と被造世界との関係
二性性相を中心として見た神と被造世界との関係を要約すれば、被造世界は、無形の主体としていまし給う神の二性性相が、創造原理によって、象徴的または形象的な実体として分立された、個性真理体から構成されている神の実体対象である。
第二節 万有原力と授受作用および四位基台
(一) 万 有 原 力
神はあらゆる存在の創造主として、時間と空間を超越して、永遠に自存する絶対者である。したがって、神がこのような存在としておられるための根本的な力も、永遠に自存する絶対的なものであり、同時にこれはまた、被造物が存在するためのすべての力を発生せしめる力の根本でもある。このようなすべての力の根本にある力を、我々は万有原力と呼ぶ。
(二) 授 受 作 用
あらゆる存在をつくっている主体と対象とが、万有原力により、相対基準を造成して、良く授け良く受ければ、ここにおいて、その存在のためのすべての力、すなわち、生存と繁殖と作用などのための力を発生するのである。このような過程を通して、力を発生せしめる作用のことを授受作用という。

・ 授 受 作 用
万有原力と授受作用を中心として、神と被造物に関することを、更に具体的に調べてみることにしよう。
神はそれ自体の内に永存する二性性相をもっておられるので、これらが万有原力により相対基準を造成して、永遠の授受作用をするようになるのである。
この授受作用の力により、その二性性相は永遠の相対基台を造成し、神の永遠なる存在基台をつくることによって、神は永存し、また、被造世界を創造なさるためのすべての力を発揮するようになるのである。
また、被造物においても、それ自体をつくっている二性性相が、万有原力により相対基準を造成して、授受作用をするようになる。
また、この授受作用の力により、その二性は相対基台を造成し、その個性体の存在基台をつくって初めて、その個性体は神の対象として立つことができるし、また、自らが存在するためのすべての力をも発揮できるようになるのである。

もしも、堕落人間にこのような良心の作用がないとすれば、神の復帰摂理は不可能である。では、このような良心作用の力はいかにして生じるのであろうか。あらゆる力が授受作用によってのみ生じることができるのだとすれば、良心もやはり独自的にその作用の力を起こすことはできない。すなわち、良心もまた、ある主体に対する対象として立ち、その主体と相対基準を造成して授受作用をするからこそ、その力が発揮されるのである。我々は、この良心の主体を神と呼ぶのである。

イエス(真の父母様)は神と完全な授受の関係を結んで一体となられた、ただ一人のひとり子(天地人真の父母様)として来られたお方である。したがって、堕落した人間が、イエス(真の父母様)と完全なる授受の関係を結んで一体となれば、創造本性を復帰して、神と授受作用をすることによって、神と一体となることができるのである。それゆえに、イエス(真の父母様)は堕落人間の仲保となられると同時に、道であり、真理であり、また命でもあるのである。
〈イエス様、再臨のイエスは、真の父母です。イエスを、(真の父母様)と置き換えて私は考えます。〉

・四 位 基 台
このように、正分合作用により、正を中心として、二性の実体対象に立たされた主体と対象と、またその合性体が各々三対象目的を完成すれば、四位基台を造成するようになる。
四位基台は四数の根本であり、またそれは、三対象目的を完成した結果であるので、三数の根本でもある。四位基台は正分合作用によって、神、夫婦、子女の三段階をもって完成されるのであるから、三段階原則の根本となるのである。
四位基台は、その各位を中心として、各々三対象となるので、これらを総合すれば十二対象となる。ゆえに、十二数の根本ともなるのである。
また、四位基台は、創造目的を完成した善の根本的な基台でもあるので、神が運行できるすべての存在と、またそれらが存在するための、すべての力の根本的な基台ともなる。
したがって、四位基台は、神の永遠なる創造目的となるのである。

主体と対象とが授受作用をするようになれば、その対象は主体を中心として互いに回転して、円形運動をするようになるから合性一体化する。また、これと同一なる原理によって、その主体は神の対象となり、神を中心として回転して神と合性一体化し、また、その対象が、このような主体と合性一体化 するようになるとき、初めてその合性体は、神の二性性相に似た実体対象となる。このように、その対象は、その主体と合性一体化することによって、初めて神の対象となることができるのである。

人間において考えてみることにしよう。
体は心の対象として、心と相対基準をつくって授受作用をするようになれば、体は心を中心として円形運動をすることによって合性一体化する。そうして、心が神の対象となり、神を中心として回転して、神と合性一体化し、体がこのような心と合性一体化するようになれば、その個体は初めて、神の二性性相に似た実体対象となり、創造目的を完成した人間となるのである。
それゆえに、創造目的を完成した人間は、神を中心として、常に球形運動の生活をする立体的な存在であるので、結局、無形世界までも主管するようになるのである。

このように、主体と対象が授受作用をする平面的な回路による円形運動が、再び立体的な回路によって球形運動に変わることによって、創造の造化の妙味が展開されるのである。すなわち、その回路の距離、様相、状態、方向、角度、また、それらが各々授受する力の速度などの差異によって、千態万象の造化の美が展開されるようになるのである。
すべての存在は、性相と形状を備えているので、それらの球形運動にも、性相的なものと形状的なものとの二つがある。したがって、その運動の中心にも、性相的な中心と形状的な中心とがある。そうして、前者と後者は、性相と形状の関係と、同じ関係をもっている。それでは、この球形運動の究極的な中心はいったい何であろうか。神の二性性相の象徴的実体対象として創造された被造物の中心は、人間であり、神の形象的実体対象として創造された人間の中心は神なので、結局、被造世界の球形運動の究極的な中心は神であられる。

神のすべての実体対象に備えられている主体と対象において、その対象の中心がその主体にあるので、主体と対象の合性体の中心も、やはりその主体にある。しかるに、その主体の究極的な中心は神であるので、その合性体の究極的な中心もまた神である。それゆえに、神の三対象が相対基準を造成して、それらの三つの中心が神を中心として一つになり、授受作用をすることによって、三対象目的を完成するとき、初めて、四位基台が完成できるのである。したがって、四位基台の究極的な中心は神である。このように、四位基台を完成した各個の被造物を個性真理体という。

すべての物質の目的は宇宙形成にあるのである。それでは、宇宙は何のためにあるのであり、その中心は何であるのだろうか。それは、まさしく人間である。ゆえに、神は人間を創造されたのち、被造世界を主管せよ(創一・28)と言われた。
被造世界に人間が存在しないならば、その被造世界は、まるで、見物者のいない博物館のようなものとなってしまう。
我々が自然界の美に陶酔して、それらと渾然一体の神秘境を体験できるのは、人間が被造物のこのような性相の中心ともなるからである。人間は、このように、被造世界の中心として創造されたために、神と人間が合性一体化した位置が、まさしく天宙の中心となる位置なのである。

無形と有形の二つの世界を総称して天宙というが、人間はこの天宙を総合した実体相である。

人間始祖として創造されたアダムがもし完成したならば、彼は被造物のすべての存在が備えている主体的なものを総合した実体相となり、エバが完成したならば、彼女は被造物すべての存在が備えている対象的なるものを総合した実体相となるという結論を、直ちに得ることができる。
アダムとエバが完成された夫婦として一体となったその位置が、正に愛の主体であられる神と、美の対象である人間とが一体化して、創造目的を完成した善の中心となる位置なのである。ここにおいて、初めて父母なる神は、子女として完成された人間に臨在されて、永遠に安息されるようになるのである。

このときこの中心は、神の永遠なる愛の対象であるために、これによって、神は永遠に刺激的な喜びを感ずるようになる。また、ここにおいて初めて、神のみ言が実体として完成するので、これが正に真理の中心となり、すべての人間をして創造目的を指向するように導いてくれる本心の中心ともなるのである。

・ 神 の 遍 在 性
創造目的を完成した世界においては、神の本性相と本形状の実体となっているすべての個性体は、みな、このように球形運動を起こし、神が運行できる根本的な基台を造成するようになっている。このようにして、神は一切の被造物の中に遍在されるようになるのである。

・生 理 体 の 繁 殖
生理体が存続するためには、繁殖しなければならないし、その繁殖は授受作用による正分合作用によってなされる。
ある目的を立てて、心が望むとおりに体が実践して、体と心とが授受作用をするようになれば、同志ができ、同志たちがお互いに良く授け、良く受ければ、もっと多くの同志を繁殖する。このような面から見れば、被造世界は、無形の神の本性相と本形状が、その創造目的を中心として、授受作用をすることによって、それが実体的に展開されて繁殖したものであると見ることができる。

・すべての存在が二性性相になっている理由
いかなるものでも、存在するためには、必ずある力を必要とするようになるが、その力は授受作用によってのみ起こる。けれども、いかなるものも単独で授受することはできないので、それが存在するための力を起こすには、必ず授受作用ができる主体と対象との二性性相として存在しなければならない。
また直線上の運動においてはいつかは終わりがこなければならないので、このような直線運動をしている存在は永遠性をもつことができない。それゆえに、いかなるものでも、永遠性をもつためには回転しなければならないし、回転するためには主体と対象が授受作用をしなければならない。それゆえに、神も永遠性をもつために、二性性相としていまし給うのであるし、神の永遠なる対象である被造物も永遠性をもつためには、神に似た二性性相として存在しなければならない。そして、時間と周期的な輪廻とによって、永遠性を維持しているのである。

第三節 創造目的
(一) 被造世界を創造された目的
被造物の創造が終わるごとに、神はそれを見て良しとされた、と記録されている創世記のみ言を見れば(創一・4~31)、神は自ら創造された被造物が、善の対象となることを願われたことが分かる。このように被造物が善の対象になることを願われたのは、神がそれを見て喜ばれるためである。それでは、被造物がいかにすれば、神に一番喜ばれるのであろうか。神は万物世界を創造されたのち、最後に御自分の性相と形状のとおりに、喜怒哀楽の感性をもつ人間を創造され、それを見て楽しもうとされた。そこで、神はアダムとエバを創造なさったのち、生育せよ、繁殖せよ、万物世界を主管せよ(創一・28)と言われたのである。この三大祝福のみ言に従って、人間が神の国、すなわち天国をつくって喜ぶとき、神もそれを御覧になって、一層喜ばれるということはいうまでもない。
それでは、神の三大祝福は、いかにして完成されるのだろうか。それは、創造の根本基台である四位基台が成就された基盤の上でのみ成就されるのである。それゆえに、神が被造世界を創造なさった目的は、人間をはじめ、すべての被造物が、神を中心として四位基台を完成し、三大祝福のみ言を成就して、天国をつくることにより、善の目的が完成されたのを見て、喜び、楽しまれるところにあったのである。

すべての存在は二重目的をもつ連体である。

性相的な目的は全体のためにあり、形状的な目的はそれ自体のためにあるもので、前者と後者は、原因的なものと結果的なもの、内的なものと外的なもの、主体的なものと対象的なものという関係をもっている。それゆえに、全体的な目的を離れて、個体的な目的があるはずはなく、個体的な目的を保障しない全体的な目的もあるはずがない。したがって、森羅万象の被造物は、このような二重目的によって連帯しあっている一つの広大な有機体なのである。

(二) 神の喜びのための善の対象
喜びは独自的に生ずるものではない。無形のものであろうと、実体であろうと、自己の性相と形状のとおりに展開された対象があって、それからくる刺激によって自体の性相と形状とを相対的に感ずるとき、ここに初めて喜びが生ずるのである。

構想自体が対象として立つときには、それからくる刺激は実体的なものではないために、それによる喜びも実体的なものとなることはできない。人間のこのような性稟は、みな神に似たものである。ゆえに、神もその実体対象からくる刺激によって、それ(神)自体の本性相と本形状を相対的に感ずるとき、初めて喜びに満たされるということを知ることができる。

四位基台の基盤の上で、三大祝福による天国が実現すれば、これがすなわち、神が喜びを感ずる世界であるということを、既に我々は説明してきた。

天国は神の本性相と本形状のとおりに、個性を完成した人間一人の容貌に似た世界であるということを、我々は知ることができる。

天国においては、神の命令が人類の真の父母を通して、すべての子女たちに伝達されることにより、みな一つの目的に向かって動じ静ずるようになるのである。

第四節 創 造 本 然 の 価 値
(一) 創造本然の価値の決定とその価値の基準

創造本然の価値の基準はどこにあるのだろうか。創造本然の価値は、ある対象と人間主体とが、神を中心として、創造本然の四位基台を完成するときに決定されるが、この四位基台の中心が絶対者であられる神であるから、この価値の基準も絶対者なる神である。それゆえに、絶対者であられる神を基準として、これに対して相対的に決定されるある対象の創造本然の価値もまた絶対的でないはずがない。
ある存在が創造本然の価値をもつためには、神を中心として、それとそれに対する人間主体とが渾然一体の状態となって、神の第三対象となり、四位基台をつくらなければならない。

(二) 創造本然の知情意と創造本然の真美善

人間の心は、その作用において、知情意の三機能を発揮する。そうして人間の肉身は、その心の命令に感応して行動する。これを見ると、その肉身は心、すなわち知情意の感応体として、その行動は真美善の価値を追求するものとして表れるのである。神はどこまでも、人間の心の主体であるので、知情意の主体でもある。したがって、人間は創造本然の価値実現欲によって、心で神の本然の知情意に感応し、体でこれを行動することによって、初めてその行動は、創造本然の真美善の価値を表すようになるのである。

(三) 愛と美、善と悪、義と不義
(1) 愛 と 美
神から分立された二性の実体が、相対基準を造成して授受作用をすることにより四位基台をつくろうとするとき、それらが神の第三対象として合性一体化するために、主体が対象に授ける情的な力を愛といい、対象が主体に与える情的な力を美という。
ゆえに、愛の力は動的であり、美の刺激は静的である。
神と人間について例をとれば、神は愛の主体であり、人間は美の対象である。男女については、男子は愛の主体であり、女子は美の対象である。被造世界においては、人間は愛の主体となり、万物世界は美の対象となるのである。

つぎに、神の愛とは何であるかを調べてみることにしよう。
神を中心としてその二性性相の実体対象として完成されたアダムとエバが一体となり、子女を生み殖やして、父母の愛(第一対象の愛)、夫婦の愛(第二対象の愛)、子女の愛(第三対象の愛)など、創造本然の三対象の愛を体恤することによってのみ、三対象目的を完成し、四位基台を完成した存在として、人間創造の目的を完成するようになる。このような四位基台の三対象の愛において、その主体的な愛が、まさしく神の愛なのである。
それゆえ、神の愛は三対象の愛として現れ、四位基台造成のための根本的な力となるのである。したがって、四位基台は神の愛を完全に受けて、これを体恤できる完全な美の対象であり、また、完全な喜びの対象であるから、創造目的を完成した善の根本的な基台なのである。

第五節 被造世界の創造過程とその成長期間 
ここにおいて、宇宙は時間性を離れて突然に生成されたものではなく、それが生成されるまでには、相当な時間を要したという事実を我々は知った。したがって、天地創造を完了するまでの六日というのは、実際は、日の出と日没の回数によって計算される六日ではなく、創造過程の六段階の期間を表示したものであることが分かる。
このように、被造世界で起こるすべての現象は、必ずある程度の時間が経過したのち、初めてその結果が現れるようになる。これは被造物が創造されるとき、一定の成長期間を経て完成できるように創造されたからである。

被造世界は神の本性相と本形状とが数理的な原則によって、実体的に展開されたものである。ここにおいて我々は、神は数理性をもっておられるということを推測できる。またさらに、神は絶対者でありながら、相対的な二性性相の中和的存在であられるので、三数的な存在である。したがって、唯一なる神に似た被造物(創一・27)はその存在様相やその運動、さらにまたその成長期間がみな三数過程を通じて現れるようになる。
したがって、神の創造目的である四位基台は、神、アダムとエバ、そして子女の繁殖という三段階の過程を通じて、初めて完成するようになる。四位基台を造成して円形運動をするには、必ず正分合の三段階の作用を経て、三対象目的をつくり、三点を通過しなければならない。ゆえに、一つの物体が定着するには、最少限三点で支持されなければならない。またこのように、すべての被造物が完成するに当たっても、その成長期間は、蘇生期、長成期、完成期の秩序的三段階を通じてのみ完成するようになる。
(2) 間接主管圏
万物は原理自体の主管性、または自律性により、成長期間(間接主管圏)を経過することによって完成する。けれども、人間は原理自体の主管性や自律性だけでなく、それ自身の責任分担を全うしながら、この期間を経過して完成するように創造された。すなわち、「それを取って食べると、きっと死ぬであろう」(創二・17)と言われた神のみ言を見れば、人間始祖が神のこのみ言を信じて、取って食べずに完成するか、あるいはそのみ言を信ぜずに、取って食べて堕落するかは、神の側に責任があるのではなく、人間自身の責任にかかっていたのである。したがって、人間が完成するか否かは、神の創造の能力にだけかかっていたのではなく、人間自身の責任遂行いかんによっても決定されるようになっていたのである。それゆえに、人間は神の創造主としての責任分担に対して、人間自身の責任分担を全うしながら、この成長期間(間接主管圏)をみな経過して、完成するように創造されていたのである。したがって、その責任分担については神が干渉してはならないのである。
人間がそれ自身の責任分担を完遂して初めて完成されるように創造されたのは、人間が神も干渉できない責任分担を完遂することによって、神の創造性までも似るようにし、また、神の創造の偉業に加担させることによって、ちょうど創造主である神が人間を主管なさるそのごとくに、人間も創造主の立場で万物を主管することができる主人の権限をもつようにするためであった(創一・28)。人間が万物と違う点は、正にここにあるのである。

(3) 直接主管圏
直接主管圏とは何であり、またこれを創造された目的は、どこにあるのだろうか。神を中心として、ある主体と対象とが合性一体化して四位基台をつくり、神と心情において一体となり、主体の意のままに愛と美を完全に授受して、善の目的を完成することを直接主管という。したがって、直接主管圏とは直ちに完成圏を意味する。このように、直接主管は、あくまでも創造目的を成就するためであるので、これがなくてはならないのである。では、人間に対する神の直接主管とは、具体的にどのようなことをいうのだろうか。神を中心として、アダムとエバが完成して合性一体化し、家庭的な四位基台を造成することによって、神と心情において一体となり、神を中心としたアダムの意のままに、お互いに愛と美を完全に授受する善の生活をするようになるとき、これを神の直接主管という。このような人間は、神の心情を体恤し、神のみ旨が完全に分かって、実践するようになるので、あたかも、頭脳が、命令ならざる命令で四肢五体を動かすように、人間も、神の、命令ならざる命令により、神のみ旨のとおりに動いて、創造目的を成し遂げていくようになるのである。

第六節 人間を中心とする無形実体世界と有形実体世界

神との関係がなくては創造本然の人間の行動もあり得ない。したがって、無形世界との関係がなくては、有形世界が創造本然の価値を表すことはできないのである。ゆえに、心を知らずには、その人格が分からないように、神を知らなくては、人生の根本意義を知ることはできない。また、無形世界がいかなるものであるかを知らなくては、有形世界がいかなるものであるかを完全に知ることはできないのである。
この有形、無形の二つの実体世界を総合したものを、我々は天宙と呼ぶ。
無形世界は主体の世界であり、有形世界は対象の世界であって、後者は前者の影のようなものである(ヘブル八・5)。有形世界で生活した人間が肉身を脱げば、その霊人体は直ちに、無形世界に行って永住するようになる。

第一に、神は人間を被造世界の主管者として創造された(創一・28)。ところで被造世界は、神に対する内的な感性を備えていない。その結果、神はこの世界を直接主管なさらずに、この世界に対する感性を備えた人間を創造され、彼をして被造世界を直接主管するようになされたのである。したがって、人間を創造されるに当たって、有形世界を感じ、それを主管するようになさるために、それと同じ要素である水と土と空気で肉身を創造された。無形世界を感じ、それを主管するようになさるために、それと同じ霊的要素で、霊人体を創造された。
第二に、神は人間を被造世界の媒介体として、また和動の中心体として創造された。人間の肉身と霊人体が授受作用により合性一体化して、神の実体対象となるとき、有形、無形の二つの世界もまた、その人間を中心として授受作用を起こし合性一体化して、神の対象世界となる。そうすることによって、人間は二つの世界の媒介体となり、あるいは和動の中心体となる。
第三に、神は人間を、天宙を総合した実体相として創造された。
しばしば人間を小宇宙という理由は、ここにあるのである。

(三) 肉身と霊人体との相対的関係
肉身は肉心(主体)と肉体(対象)の二性性相からなっている。肉心とは肉体をして生存と繁殖と保護などのための生理的な機能を維持できるように導いてくれる作用部分をいうのである。
肉身の善行と悪行に従って、霊人体も善化あるいは悪化する。

この霊人体は生心(主体)と霊体(対象)の二性性相からなっている。そして生心というのは、神が臨在される霊人体の中心部分をいうのである。霊人体は神からくる生素(陽性)と肉身からくる生力要素(陰性)の二つの要素が授受作用をする中で成長する。また霊人体は肉身から生力要素を受ける反面、逆に肉身に与える要素もあり、我々はこれを、生霊要素という。人間が神霊に接することによって、無限の喜びと新しい力を得て、持病が治っていくなど、その肉身に多くの変化を起こすようになるが、これは、その肉身が霊人体から生霊要素を受けるからである。霊人体は肉身を土台にしてのみ成長する。それゆえに、霊人体と肉身との関係は、ちょうど実と木との関係と同じである。

霊人体はどこまでも、地上の肉身生活においてのみ完成できるのである。霊人体は肉身を土台として、生心を中心として、創造原理による秩序的三期間を通じて成長し、完成するようになっているが、蘇生期の霊人体を霊形体といい、長成期の霊人体を生命体、完成期の霊人体を生霊体という。
地上天国が先に実現したのち、初めて天上天国も実現できるのである。
霊人体の善化も、肉身生活の贖罪によってのみなされる。罪悪人間を救うために、イエスが肉身をもって地上に降臨された理由はここにあるのである。それゆえに、我々は地上で善なる生活をしなければならない。
天国でも地獄でも、霊人体がそこに行くのは、神が定めるのではなく、霊人体自身が決定するのである。
善を指向する心の性相的な部分を本心といい、その形状的な部分を良心という。
それゆえに、人間がその無知によって、創造本然のものと基準を異にする善を立てるようになるときにも、良心はその善を指向するが、本心はこれに反発して、良心をその本心が指向する方へと引き戻す作用をする。サタンの拘束を受けている生心と肉心が授受作用をして合性一体化すれば、人間をして悪を指向させるまた一つの作用体をつくるが、これを我々は邪心という。人間の本心や良心は、この邪心に反発し、人間をしてサタンを分立させ、神と相対することによって、悪を退け善を指向するようにさせるのである。

2014年7月5日土曜日

統一思想 原相論 (二) 神 性

(二) 神 性
神の属性には、先に述べたように形の側面もあるが、機能、性質、能力の側面もある。 それが神性である。従来のキリスト教やイスラム教でいう全知、全能、遍在性、至善、至 真、至美、公義、愛、創造主、審判主、ロゴスなどは、そのまま神性に関する概念であり、 統一思想ももちろん、そのような概念を神性の表現として認めている。
しかし現実問題の解決という観点から見るとき、そのような概念は形(神相)の側面を扱 っていないという点だけでなく、大部分が創造と直接関連した内容を含んでいないという 点で、そのままでは現実問題の解決に大きな助けとはならない。統一思想は現実問題の 解決に直接関連する神性として、心情、ロゴス、創造性の三つを挙げている。その中でも 心情が最も重要であり、それは今までいかなる宗教も扱わなかった神性である。次に、こ れらの神性の概念を説明し、それがいかに現実問題を解決しうるかを明らかにする。

(1) 心 情
心情とは何か
心情は神の性相の最も核心となる部分であって、「愛を通じて喜ぼうとする情的な衝 動」である。心情のそのような概念を正しく理解する助けとなるように、人間の場合を例と して説明する。
人間は誰でも生まれながらにして喜びを追求する。喜ぼうとしない人は一人もいないで あろう。人間は誰でも幸福を求めているが、それがまさにその証拠である。そのように人 間はいつも、喜びを得ようとする衝動、喜びたいという衝動をもって生きている。それにも かかわらず、今日まで大部分の人々が真の喜び、永遠の喜びを得ることができないでい ることもまた事実である。
それは人間がたいてい、金銭や権力、地位や学識の中に喜びを探そうとするからであ る。それでは真の喜び、永遠な喜びはいかにして得られるであろうか、それは愛(真の 愛)の生活を通じてのみ得られるのである。愛の生活とは、他人のために生きる愛他的 な奉仕生活、すなわち他人に温情を施して喜ばせようとする生活をいう。
心情は情的衝動である ここで「情的な衝動」について説明する。情的な衝動とは内部からわきあがる抑えがたい願望または欲望を意味する。普通の願望や欲望は意志で抑えることができるが、情的 な衝動は人間の意志では抑えられないのである。
われわれは喜ぼうとする衝動(欲望)が抑えがたいということを、日常の体験を通じてよ く知っている。人間が金をもうけよう、地位を得よう、学識を広めよう、権力を得ようとする のも喜ぼうとする衝動のためであり、子供たちが何事にも好奇心をもって熱心に学ぼうと するのも喜ぼうとする衝動のためであり、甚だしくは犯罪行為までも、方向が間違ってい るだけで、その動機はやはり喜ぼうとする衝動にあるのである。
そのように喜ぼうとする衝動(欲望)は抑えがたいものである。欲望は達成されてこそ満 たされる。しかるに大部分の人間にとって、喜ぼうとする欲望が満たされないでいるのは、 喜びは愛を通じてしか得られないということが分かっていないからである。そして喜びが 愛を通じてしか得られないのは、その喜びの根拠が神にあるからである。

神は心情である
神は心情すなわち愛を通じて喜ぼうとする情的な衝動をもっているが、そのような神の 衝動は人間の衝動とは比較にもならないほど抑えがたいものであった。人間は相似の法 則に従って、そのような神の心情を受け継いだので、たとえ堕落して愛を喪失したとして も、喜ぼうとする衝動はそのまま残っている。ゆえに、情的な衝動を抑えることは難しい のである。
ところで神において、喜ぼうとする情的な衝動は、愛そうとする衝動によって支えられて いる。真の喜びは真の愛を通じなければ得られないからである。したがって、愛そうとす る衝動は喜ぼうとする衝動よりも強いのである。愛の衝動は愛さずにはいられない欲望 を意味する。そして愛さずにはいられないということは、愛の対象をもたずにはいられな いことを意味する。
そのような愛の衝動によって喜ぼうとする衝動が触発される。したがって愛の衝動が一 次的なものであり、喜びの衝動は二次的なものである。ゆえに愛は決して喜びのための 手段ではなく、ただ無条件的な衝動なのである。そして愛の必然的な結果が喜びである。 したがって愛と喜びは表裏の関係にあり、喜ぼうとする衝動も実は愛そうとする衝動が表 面化したものにすぎない。
ゆえに神の心情は、「限りなく愛そうとする情的な衝動」であるとも表現することができる。 愛には必ず対象が必要である。特に神の愛は抑えられない衝動であるから、その愛の 対象が絶対的に必要であった。したがって創造は必然的、不可避的であり、決して偶発 的なものではなかった。

宇宙創造と心情
そのように心情が動機となり、神は愛の対象として人間と万物を創造されたのである。 人間は神の直接的な愛の対象として、万物は神の間接的な愛の対象として創造された。 万物が神の間接的な対象であるということは、直接的には万物は人間の愛の対象であ ることを意味する。そして創造の動機から見るとき、人間と万物は神の愛の対象であるが、 結果から見るとき、人間と万物は神の喜びの対象なのである。
このように心情を動機とする宇宙創造の理論(心情動機説)は創造説が正しいか生成 説が正しいかという一つの現実問題を解決することになる。すなわち、宇宙の発生に関 する従来の創造説と生成説の論争に終止符を打つ結果になるのである。そして生成説 (プロティノスの流出説、ヘーゲルの絶対精神の自己展開説、ガモフのビッグバン説、儒 教の天生万物説など)では、現実の罪悪や混乱などの否定的側面までも自然発生によ るものとされて、その解決の道がふさがれているが、正しい創造説では、そのような否定 的側面を根本的に除去することができるのである。
心情と文化
次に、「心情は神の性相の核心である」という命題から心情と文化の関係について説明 する。神の性相は内的性相と内的形状から成っているが、内的性相は内的形状より内 的である。そして心情は内的性相よりさらに内的である。このような関係は、創造本然の 人間の性相においても同じである。それを図で表せば、図1—3のようになる。
これは心情が人間の知的活動、情的活動、意的活動の原動力となることを意味する。 すなわち心情は情的な衝動力であり、その衝動力が知的機能、情的機能、意的機能を 絶えず刺激することによって現れる活動がまさに知的活動、情的活動、意的活動なので ある。人間の知的活動によって、哲学、科学をはじめとする様々な学問分野が発達する ようになり、情的活動によって、絵画、音楽、彫刻、建築などの芸術分野が発達するよう になり、意的活動によって、宗教、倫理、道徳、教育などの規範分野が発達するようにな る。
創造本然の人間によって構成される社会においては、知情意の活動の原動力が心情 であり愛であるゆえに、学問も芸術も規範も、すべて心情が動機となり、愛の実現がその 目標となる 。ところで学問分野、芸術分野、規範分野の総和、すなわち人間の知情意 の活動の成果の総和が文化である。したがって創造本然の文化は心情を動機とし、愛の 実現を目標として成立するのであり、そのような文化は永遠に続くようになる。そのような 文化を統一思想では心情文化、愛の文化、または中和文化と呼ぶ。しかしながら人間始祖の堕落によって、人類の文化は様々な否定的な側面をもつ非原理的な文化となり、興 亡を繰り返しながら今日に至った。これは人間の性相の核心である心情が利己心によっ て遮られ、心情の衝動力が利己心のための衝動力になってしまったからである。
そのように混乱を重ねる今日の文化を正す道は、利己心を追放し、性相の核心の位置 に心情の衝動力を再び活性化させることによって、すべての文化の領域を心情を動機と して、愛の実現を目標とするように転換させることである。すなわち心情文化、愛の文化 を創建することである。このことは「心情は神の性相の核心である」という命題が、今日の 危機から文化をいかに救うかというまた一つの現実問題解決の基準になることを意味す るのである。
心情と原力
最後に心情と原力について説明する。宇宙万物はいったん創造されたのちにも、絶え ず神から一定の力を受けている。被造物はこの力を受けて個体間においても力を授受し ている。前者は縦的な力であり、後者は横的な力である。統一思想では前者を原力とい い、後者を万有原力という。
ところでこの原力も、実は原相内の授受作用、すなわち性相と形状の授受作用によっ て形成された新生体である。具体的にいえば、性相内の心情の衝動力と形状内の前エ ネルギー(Pre-Energy)との授受作用によって形成された新しい力が原力( Prime Force) である。その力が、万物に作用して、横的な万有原力(Universal Prime Force)として現れ て、万物相互間の授受作用を起こすのである。したがって万有原力は神の原力の延長 なのである。
万有原力が心情の衝動力と前エネルギーによって形成された原力の延長であるという ことは、宇宙内の万物相互間には、物理学的な力のみならず愛の力も作用していること を意味する 。したがって人間が互いに愛し合うのは、そうしても、しなくても良いという ような、恣意的なものではなく、人間ならば誰でも従わなくてはならない天道なのである。
このように「心情と原力の関係」に関する理論も、また一つの現実問題の解決の基準と なることが分かる。すなわち「人間は必ず他人を愛する必要があるのか」、「時によっては 闘争(暴力)が必要な時もあるのではないか」、「敵を愛すべきか、打ち倒すべきか」とい うような現実問題に対する解答がこの理論の中にあることが分かる。

(2) ロゴス
ロゴスとは何か
ロゴスとは、統一原理によれば言または理法を意味する(『原理講論』、265 頁)。ヨハネによる福音書には、神の言によって万物が創造されたことが次のように表現されている。 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあ った。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらない ものはなかった」(ヨハネ 1 ・ 1—3)。
統一思想から見れば、ロゴスを言というとき、それは神の思考、構想、計画を意味し、ロ ゴスを理法というとき、それは理性と法則を意味する。ここで理性とは、本性相内の内的 性相の知的機能に属する理性を意味するのであるが、万物を創造したロゴスの一部で ある理性は、人間の理性とは次元が異なっている。人間の理性は自由性をもった知的能 力であると同時に、概念化の能力または普遍的な真理追求の能力であるが、ロゴス内の 理性は、ただ自由性をもった思考力であり、知的能力なのである。
そしてロゴスのもう一つの側面である法則は、自由性や目的性が排除された純粋な機 械性、必然性だけをもつものである。法則は、時と場所を超越して、いつどこでも、たがわ ずに作用する規則的なものである。すなわち、機械装置である時計の時針や分針が、い つどこでも一定の時を刻むのと同様なものが法則の規則性、機械性なのである。
ロゴスとは理法である
理法とは、このような理性と法則の統一を意味する。ここでは主として、そのような理法 としてのロゴスを扱う。それはそうすることによって、また一つの現実問題の解決の基準 を立てるためである。現実問題とは、今日、社会の大混乱の原因となっている価値観の 崩壊をいかに収拾するかという問題である。
『原理講論』には、ロゴスは神の対象であると同時に二性性相(ロゴスの二性性相)をも っているとされている(二六五頁)。これはロゴスが神の二性性相に似た一種の被造物で あり新生体であることを意味するのであって、ロゴスは「性相と形状の合性体」と同様なも のであると理解することができる。
しかし、ロゴスは神の言、構想であって、それによって万物が創造されたのであるから、 ロゴスそれ自体が万物と全く同じ被造物ではありえない。神の二性性相に似た神の対象 であるロゴスは思考の結果物である。すなわち、それは「完成された構想」を意味するも のであり、神の心に描かれた一種の設計図である。われわれが建物を造るとき、まずそ の建物に対する詳細な設計図を作成するように、神が万物を創造されるときにも、まず 万物一つ一つの創造に関する具体的な青写真または計画が作られるようになる。それ がまさにロゴスなのである。
ところで設計図は建築物ではないとしても、それ自体は製作物すなわち結果物であることに違いない。同じように、ロゴスも構想であり設計図である以上、やはり結果物であり、 新生体であり、一種の被造物なのである。被造物はすべて神の二性性相に似ている。そ れでは新生体としてのロゴスは、神のいかなる二性性相に似たのであろうか。それがま さに本性相内の内的性相と内的形状である(13)。
言い換えれば、内的性相と内的形状が一定の目的を中心として統一されている状態が まさにロゴスの二性性相なのである。あたかも神において、本性相と本形状が中和(統 一)をなす状態が神相であるのと同様である。ところでロゴスは言であると同時に理法で もある。それでは、ロゴスを理法として理解するとき、ロゴスの二性性相とは具体的にい かなるものであろうか。それはまさに理性と法則である。理性と法則の関係は内的性相と 内的形状の関係と同じであって、内的性相と内的形状の関係は後述するように主体と対 象の関係であるから、理性と法則の関係は主体と対象の関係になっている。
ロゴスは理性と法則の統一体
理性と法則の統一としてのロゴスによって万物が創造されたために、すべての被造物 には理性的要素と法則的要素が統一的に含まれている。したがって万物が存在し、運動 するとき、必ずこの両者が統一的に作用する。ただし低次元の万物であればあるほど、 法則的要素がより多く作用し、高次元であればあるほど、理性的要素がより多く作用す る。
最も低次元である鉱物においては、法則的要素だけで理性的要素は全くないようであ り、最も高次元である人間においては、理性的要素だけで法則的要素は全くないようで あるが、実際は両者共に理性的要素および法則的要素が統一的に作用しているのであ る。
したがって万物の存在と運動は、自由性と必然性の統一であり、目的性と機械性の統 一である。すなわち必然性の中に自由性が作用し、機械性の中に目的性が作用するの である。ところで今まで、自由と必然の関係は二律背反の関係にあるように理解されてき た。それはあたかも解放と拘束が正反対の概念であるように、自由と必然も正反対の概 念であるように感じられたからである。
しかし統一思想は、ロゴスの概念に関して、理性と法則を二律背反の関係とは見ない で、むしろ統一の関係と見るのである。比喩的に言えば、それは列車がレールの上を走 ることと同じである。列車がレールの上を走るということは必ず守らなければならない規 則(法則)であって、万一、レールから外れると、列車自体が破壊されるだけでなく、近隣 の人々や建物に被害を与えるのである。ゆえに列車は必ずレールの上を走らなくてはな らないのである。そのような観点から見て、列車の運行は順法的であり、必然的である。
しかしいくらレールの上を走るといっても、速く走るか、ゆっくり走るかは機関車(機関士) の自由である。したがって列車の運行は全く必然的なもののように思われるが、実際は 自由性と必然性の統一なのである。
もう一つの例を挙げて説明しよう。自動車の運転手は青信号の時には前進し、赤信号 の時には停止するが、これは交通規則として誰もが守らなければならない必然性である。 しかし、いったん青信号になったのちには、交通安全に支障にならない限り、速度は自由 に調整することができる。したがって自動車の運転も自由性と必然性の統一なのである (14)。
以上、列車の運行や自動車の運転において、自由性と必然性が統一の関係にあること を明らかにしたが、ロゴスにおける理性(自由性)と法則(必然性)も同様に統一の関係に あるのである。そのように、ロゴスの二性性相としての理性と法則は二律背反でなくて統 一であることを知ることができる。
ロゴスが理性と法則の統一であるために、ロゴスを通じて創造された万物は、大きくは 天体から小さくは原子に至るまで、すべて例外なく、理性と法則の統一的存在である。す なわち万物は、すべて理性と法則、自由性と必然性、目的性と機械性の統一によって存 在し、運動し、発展しているのである。
この事実は今日の一部の科学者の見解とも一致している。例えば検流計(ポリグラフ) の付着実験による植物心理の確認(バクスター効果 (15) )や、ジャン・シャロン( Jean Charon, 1920-1998 )の複素相対論における電子や光子内の記憶と思考のメカニズムの 確認(16)、などがそうである。すなわち、植物にも心があり、電子にも思考のメカニズムが あるということは、すべての被造物の中に理性と法則、自由性と必然性が作用しているこ とを示しているのである。
ロゴスそして自由と放縦
次は、ロゴスと関連して自由と放 縦の真の意味を明らかにする。自由と放縦に関する 正しい認識によって、また一つの現実問題が解決されるからである。今日、自由の名の もとになされている様々な秩序破壊行為と、これに伴う社会混乱に対する効果的な対策 は何かということが問題になっているが、この問題を解くためには、まず自由と放縦の真 の意味が明らかにされなければならない。
『原理講論』には「原理を離れた自由はない」( 125 頁)、「責任のない自由はあり得な い」(125 頁)、「実績のない自由はない」( 126 頁)と書かれている。これを言い換えれば、 自由の条件は「原理内にあること」、「責任を負うこと」、「実績をあげること」の三つになる。
ここで「原理を離れる」というのは、「原則すなわち法則を離れる」という意味であり、「責 任を負う」とは、自身の責任分担の完遂を意味すると同時に、創造目的の完成を意味す るのであり、「実績をあげる」とは、創造目的を完成し、善の結果をもたらすことを意味す るのである( 126 頁)。ところで責任分担の完遂や、創造目的の完成や、善の結果をもた らすことは、すべて広い意味の原理的な行為であり、天道に従うことであり、法則(規範) に従うことなのである。
したがって自由に関する三つの要件、すなわち「原理内にあること」、「責任を負うこと」、 「実績をあげること」は、一言で「自由とは原理内での自由である」と表現することができ るのであり、結局、真の自由は法則性、必然性との統一においてのみ成立するという結 論になる。ここで法則とは、自然においては自然法則であり、人間生活においては価値 法則(規範)である。価値とか規範は秩序のもとにおいてのみ成立する。それゆえ規範を 無視するとか、秩序を破壊する行為は、本然の世界では決して自由ではないのである。
自由とは、厳密な意味では選択の自由であるが、その選択は理性によってなされる。し たがって、自由は理性から出発して実践に移るのである。そのとき、自由を実践しようと する心が生まれるが、それが自由意志であり、その意志によって自由が実践されれば、 その実践行為が自由行動になる。これが『原理講論』( 125頁)にある自由意志、自由行 動の概念の内容である。
かくして理性の自由による選択や、自由意志や、自由行動はみな恣意的なものであっ てはならず、必ず原理内で、すなわち法則(価値法則)の枠の中で、必然性との統一のも とでなされなければならない。そのように自由は理性の自由であり、理性は法則との統 一のもとでのみ作用するようになっている。したがって本然の自由は理法すなわちロゴス の中でのみ成立することができ、ロゴスを離れては存立することはできない。よく法則は 自由を拘束するもののように考えられているが、それは法則と自由の原理的な意味を知 らないことからくる錯覚なのである。
ところで、本然の法則や自由はみな愛の実現のためのものである。すなわち愛の中で の法則であり自由である。真の愛は生命と喜びの源泉である。したがって本然の世界で は、喜びの中で、法則に従いながら自由に行動するのである。それは、ロゴスが心情を 土台として形成されるからである。
ロゴスを離れた恣意的な思考や恣意的な行動は似非自由であり、それはまさに放縦で ある。自由と放縦はその意味が全く異なる。自由は善の結果をもたらす建設的な概念で あるが、放縦は悪の結果をもたらす破壊的な概念である。そのように自由と放縦は厳密 に区別されるものであるが、よく混同されたり、錯覚されている。それは自由の真の根拠 であるロゴスに関する理解がないからである。ロゴスの意味を正しく理解すれば、自由の 真の意味を知るようになり、したがって自由の名のもとでのあらゆる放縦が避けられ、ついには社会混乱の収拾も可能になるであろう。このようにロゴスに関する理論も、現実問 題解決のまた一つの基準になるのである。
ロゴスおよび心情と愛
終わりに、ロゴスと心情と愛の関係について述べる。すでに明らかにしたように、ロゴス は言または構想であると同時に理法である。ところで言(構想)と理法は別のものではな い。言の中にその一部として理法が含まれているのである。あたかも生物を扱う生物学 の中にその一分科として生理学が含まれているのと同じである。すなわち生物学は解剖 学、生化学、生態学、発生学、分析学、生理学など、いろいろな分科に分類されるが、そ の中の一分科が生理学であるように、創造に関する神の無限なる量と種類を内容とする 言の中の小さな一部分が理法なのであり、それは言の中の万物の相互作用または相互 関係の基準に関する部分なのである。
言と理法は別個のものではないばかりでなく、言の土台となっている心情は、同時に理 法の土台になっている。あたかも有機体の現象の研究が生物学のすべての分科に共通 であるように、創造における神の心情が構想と理法の共通基盤となっているのである。
心情は愛を通じて喜ぼうとする情的な衝動である。心情が創造において言と理法の土 台となっているということは、被造物全体の構造、存在、変化、運動、発展など、すべての 現象が、愛の衝動によって支えられていることを意味する。したがって自然法則であれ、 価値法則であれ、必ずその背後に愛が作用しており、また作用しなければならない。一 般的に自然法則は物理化学的な法則だけであると理解されているが、それは不完全な 理解であって、必ずそこには、たとえそれぞれ次元は異なるとしても、愛が作用している のである。人間相互間の価値法則(規範)には、愛がより顕著に作用しなければならない のは言うまでもない。
先にロゴスの解説において、主として理性と法則、したがって自由性と必然性に関して 扱ったが、理法の作用においては、理法それ自体に劣らず愛が重要であり、愛は重要度 において理法を凌 駕することさえあるのである。
愛のない理法だけの生活は、規律の中だけで生きる兵営のように、冷えやすく、中身の ない粃のようにしおれやすいのである。温かい愛の中で守られる理法の生活においての み、初めて百花が咲き乱れ、蜂や蝶が群舞する春の園の平和が訪れてくるのである。こ のことは家庭に真の平和をもたらす真の方案は何かという、また一つの現実問題解決の 基準になるのである。すなわち心情を土台とするロゴスの理論は、家庭に対する真の平 和樹立の方案にもなるのである。

(3) 創造性
創造性とは何か
創造性は一般的に「新しいものを作る性質」と定義されている。統一原理において、創 造性を一般的な意味にも解釈しているが、それよりは「創造の能力」として理解している。 それは『原理講論』において「神の創造の能力」と「神の創造性」を同じ意味で使っている のを見ても知ることができる(79 頁)。
ところで、神の創造性をそのように創造の性質とか創造の能力として理解するだけでは 正確な理解となりえない。すでに明らかにしたように、神の属性を理解する目的は現実問 題を根本的に解決することにある。したがって、神に関するすべての理解は正確で具体的でなくてはならない。創造性に関しても同じである。したがって創造に関する常識的な 理解だけでは神の創造性を正確に把握するのは困難である。ここに神の創造の特性、 または要件が明らかにされる必要があるのである。
神の創造は偶発的なものではなく、自然発生的なものではさらにない。それは抑えることのできない必然的な動機によってなされたのであり、明白な合目的的な意図によって なされたのであった。そのような創造がいわゆる「心情を動機とした創造」(心情動機説) である。創造には、創造目的を中心とした内的および外的な四位基台または授受作用が 必ず形成されなければならない。したがって、神の創造性は具体的には「目的を中心とし た内的および外的な四位基台形成の能力」と定義される。これを人間の、新しい製品を つくるという創造に例えて説明すれば、内的四位基台形成は、構想すること、新しいアイ デアを開発すること、したがって青写真の作成を意味し、外的四位基台形成は、その青 写真に従って人間(主体)が機械と原料(対象)を適切に用いて新製品(新生体)を造るこ とを意味するのである。
神において、内的四位基台の形成は、目的を中心とするロゴスの形成であり、外的四 位基台形成は、目的を中心として性相と形状が授受作用をして万物を造ることである。したがって神の創造性はそのような内的および外的四位基台形成の能力であり、言い換えれば「ロゴスの形成に続いて万物を形成する能力」である。神の創造性の概念をこの ように詳細に扱うのは、創造に関連したいろいろな現実的な問題(例えば公害問題、軍 備制限ないし撤廃問題、科学と芸術の方向性の問題など)の根本的解決の基準を定立 するためである。

人間の創造性
次は、人間の創造性に関して説明する。人間にも新しい物を作る能力すなわち創造性 がある。これは相似の法則に従って、神の創造性が人間に与えられたものである。ところで人間は元来、相似の法則によって造られたので、人間の創造性は神の創造性に完全に似るように、すなわち神の創造性を引き継ぐようになっていた(『原理講論』 79、114、 259 頁)。しかし、堕落によって人間の創造性は神の創造性に不完全に似るようになったのである。
人間の創造性が神の創造性に似るということは、神が創造性を人間に賦与することを 意味する(同上、 131、259 頁)。それでは、神はなぜ人間に創造性を賦与しようとされたのであろうか。それは人間を「万物世界に対する主管位に立たせて」(同上、132 頁)、「万物を主管し得る資格を得させるため」(同上、114、131 頁)であった。ここで万物主管とは、 万物を貴く思いながら、万物を願うように扱うことをいう。つまり人間が愛の心をもって、 いろいろな事物を扱うことを万物主管というが、そこには人間生活のほとんどすべての領 域が含まれる。例えば経済、産業、科学、芸術などがすべて万物主管の概念に含まれる。 地上の人間は肉身をもって生きるために、ほとんどすべての生活領域において物質を扱 っている。したがって人間生活全体が万物主管の生活であるといっても過言ではないのである。
ところで本然の万物主管は、神の創造性を受け継がなくては不可能である。本然の主管とは、愛をもって創意的に事物を扱いながら行う行為、例えば耕作、製作、生産、改造、 建設、発明、保管、運送、貯蔵、芸術創作などの行為をいう。そのような経済、産業、科 学、芸術などの活動だけでなく、ひいては宗教生活、政治生活までも、それが愛をもって 物を扱う限りにおいて、本然の万物主管に含まれる。そのように本然の人間においては、 事物を扱うのに、愛とともに新しい創案(構想)が絶えず要求されるために、本然の主管のためには神の創造性が必要になるのである。
人間は堕落しなかったならば、そのような神の創造性に完全に似ることができ、したがって本然の万物主管が可能となったことであろう。ところが人間始祖の堕落によって、人 間は本然の姿を失ってしまった。したがって、人間が引き継いだ創造性は不完全なものになり、万物主管も不完全な非原理的なものになってしまった。
ここに次のような疑問が生ずるかもしれない。すなわち「神が相似の法則によって人間を創造したとすれば、人間は生まれる時から本然の創造性をもっていたであろうし、した がって堕落とは関係なく、その創造性は持続されたのではないか。実際、今日、科学技術者たちは立派な創造の能力を発揮しているではないか」という疑問である。

相似の創造
ここで、相似の創造が時空の世界では具体的にどのように現れるかを説明する。神の創造とは、要するに被造物である一つ一つの万物が時空の世界に出現することを意味する。したがって神の構想の段階では、創造が超時間、超空間的になされたとしても、被造物が時空の世界に出現するに際しては、小さな、未熟な、幼い段階から出発して、一 定の時間的経路を経ながら一定の大きさまで成長しなければならない。そして一定の大きさの段階にまで完成したのちに、神の構想または属性に完全に似るようになるのである。その時までの期間は未完成段階であり、神の姿に似ていく過程的期間であって、統 一原理はこの期間のことを成長期間といい、蘇生期、長成期、完成期の三段階(秩序的 三段階)に区分している(『原理講論』、77 頁)。
人間はこのような成長過程において、長成期の完成級の段階で堕落したのであった (同上、78 頁)。したがって神の創造性を受け継ぐに際しても、本然の創造性の三分の二 程度だけを受け継いだのであり、科学者たちがいくら天才的な創造力を発揮するといっても、本来神が人間に賦与しようとした創造性に比較すれば、はるかに及ばないといわ ざるをえない。
ところで、被造物の中で堕落したのは人間だけである。万物は堕落しないでみな完成し、 それぞれの次元において神の属性に似ているのである。ここで次のような疑問が生ずる であろう。すなわち万物の霊長であるといわれる人間が、なぜ霊長らしくなく堕落したのかという疑問である。それは、万物が原理自体の主管性または自律性だけで成長するようになっているのに対して、人間には、成長において、原理の自律性、主管性のほかに責任分担が要求されたからである。

創造性と責任分担
ここで原理自体の自律性とは有機体の生命力をいい、主管性とは生命力の環境に対する影響力をいう。例えば一本の木が成長するのは、その内部の生命力のためであり、 主管性はその木の生命力が周囲に及ぼす影響をいうのである。人間の成長の場合にも、 この原理自体の自律性と主管性が作用する。しかし人間においては、肉身だけが自律性と主管性によって成長するのであり、霊人体はそうではない。霊人体の成長には別の 次元の条件が要求される。それが責任分担を完遂することである。
ここで明らかにしたいことは、霊人体の成長とは、肉身の場合のように霊人体の身長が 大きくなることを意味するのではない。霊人体は肉身に密着しているので、肉身の成長に従って自動的に大きくなるようになってはいるが、ここでいう霊人体の成長とは、霊人体の霊性の成熟のことであり、それは人格の向上、心情基準の向上を意味する。要するに、 神の愛を実践しうる心の姿勢の成長が、霊人体の成長なのである。
このような霊人体の成長は、ただ責任分担を完遂することによってのみなされる。ここ で責任分担の完遂とは、神に対する信仰を堅持し、戒めを固く守る中で、誰の助けも受けないで、内的外的に加えられる数多くの試練を自らの判断と決心で克服しながら、愛 の実践を継続することをいう。
神も干渉することができず、父母もいない状況で、そのような責任分担を果たすということは大変難しいことであったが、アダムとエバはそのような責任をすべて果たさなければ ならなかった。しかしアダムとエバはそのような責任分担を果たすことができず、結局、サ タンの誘惑に陥って堕落してしまった。それでは神はなぜ失敗しうるような責任分担をア ダムとエバに負わせたのであろうか。万物のように、たやすく成長しうるようにすることも できたのではないであろうか。
それは人間に万物に対する主管の資格を与えるためであり、人間を万物の主管主に するためであった(創世記 1 ・28、『原理講論』、131 頁)。主管とは、自分の所有物や自分 が創造したものだけを主管するのが原則であり、他人の所有物や他人の創造物は主管 しえないようになっている。ことに人間は万物よりあとに創造されたのであるから、万物の 所有者にも創造者にもなりえないはずである。しかし神は、人間を神の子として造られた ために、人間に御自身の創造主の資格を譲り与え、主管主として立てようとされたのであ る。そのために人間が一定の条件を立てるようにせしめて、それによって人間も神の宇 宙創造に同参したものと認めようとされたのである。
人間の完成と責任分担
その条件とは、アダムとエバが自己を完成させることである。すなわちアダムとエバが 誰の助けも受けないで自己を完成させれば、神はアダムとエバが宇宙を創造したのと同 様な資格をもつものと見なそうとされたのであった。なぜならば、価値から見るとき、人間 一人の価値は宇宙全体の価値と同じだからである。すなわち人間は宇宙(天宙)を総合 した実体相であり(『原理講論』 、61、84 頁)、小宇宙(同上、 84 頁)であり、また人間が完 成することによって初めて宇宙創造も完成するからである。イエスが「たとい人が全世界 をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、 その命を買いもどすことができようか」(マタイ 16 ・26)と言われたのも、そのような立場か らである。したがってアダムとエバが自ら自身を完成させれば、価値的に見て、アダムと エバは宇宙を創造したのと同等な立場に立つことになるのである。
創造は、創造者自身の責任のもとでなされる。神が宇宙を創造されるのに神自身の責 任のもとでなされた。そしてアダムとエバが自身を完成させることは、創造主たるべきア ダムとエバ自身の責任なのであった。そのような理由のために、神はアダムとエバに責 任分担を負わせたのである。
しかし神は愛の神であるゆえに、 100 パーセントの責任をアダムとエバに負わせたのではなかった。人間の成長の大部分の責任は神が負い、アダムとエバには 5パーセンと と いう非常に小さな責任を負わせて、その 5パーセントの責任分担を果たしさえすれば、彼 らが 100 パーセントの責任全体を果たしたものと見なそうとされたのであった。そのような 神の大きな恵みにもかかわらず、アダムとエバは責任分担を果たすことができずに堕落 してしまった。そのために結局、神の創造性を完全に受け継ぐことができなくなったので ある。
万一、人間が堕落しなかったならば、いかなる結果になったであろうか。人間が堕落し ないで完成したならば、まず神の心情、すなわち愛を通じて喜びを得ようとする情的な衝 動をそのまま受け継いで、神が愛の神であるように人間は愛の人間になったであろう。そ して心情を中心とした神の創造性を完全に受け継ぐようになったであろう。
これはすべての主管活動が、心情を土台とし、愛を中心とした活動になることを意味す る。すでに述べたように、政治、経済、産業、科学、芸術、宗教などは、物質を扱う限りに おいて、すべて主管活動であるが、そのような活動が神から受け継いだ創造性(完全な 創造性)に基づいた愛の主管活動に変わるようになるのである。

本然の創造性と文化活動
心情の衝動力を動機とする知情意の活動の成果の総和を文化(心情文化)というが、 その知情意の活動がみな物質を扱うという点において共通であるために、文化活動は結 局、創造性による主管活動であると見ることができる。
ところで今日の世界を見るとき、世界の文化は急速に没落しつつある。政治、経済、社 会、科学、芸術、教育、言論、倫理、道徳、宗教など、すべての分野において方向感覚を 喪失したまま、混乱の渦の中に陥っているのである。ここで何らかの画期的な方案が立 てられない限り、この没落していく文化を救出することはほとんど絶望的であると言わざ るをえない。
長い間、鉄のカーテンに閉ざされたまま強力な基盤を維持してきた共産主義独裁体制 が、資本主義体制との対決において、開放を契機として崩れ始め、今日、資本主義方式 の導入を急いでいる現実を見つめて、ある者は資本主義の経済体制と科学技術の優越 性を誇るかもしれない。しかしそれは近視眼的な錯誤である。なぜなら資本主義経済の 構造的矛盾による労使紛争、貧富の格差の増大とそれに伴う価値観の崩壊現象、社会 的犯罪の氾濫、そして科学技術の尖端化に伴う犯罪技術の尖端化、産業の発達に伴う 公害の増大などは、資本主義の固疾的な病 弊であって、それらは遠からず、必ずや資 本主義を衰退させる要因となることを知らないでいるからである。
万物主管という観点から見るとき、今日の文化的危機の根本原因は、遠く人類歴史の 始めまでさかのぼって探さなければならない。それは人間始祖の堕落によって人間が神 の創造性だけでなく神の心情と愛を完全に受け継ぐことができなかったことによって、自 己中心的な存在となり、利己主義が広がるようになったことにあるのである。
したがって今日の文化を危機から救う唯一の道は、自己中心主義、利己主義を清算し、 すべての創造活動、主管活動を神の愛を中心として展開することである。すなわち世界 の各界各層のすべての指導者たちが神の愛を中心として活動するようになるとき、今日 の政治、経済、社会、教育、科学、宗教、思想、芸術、言論など、様々な文化領域の交錯 した難問題が、根本的にそして統一的に解決され、ここに新しい真の平和な文化が花咲 くようになるであろう。それは共産主義文化でもなく、資本主義文化でもない新しい形態 の文化であり、それがまさに心情文化、愛の文化であり、中和文化なのである。このよう に神の創造性に関する理論もまた現実問題解決の基準となっていることを知ることがで きるであろう。以上で原相の内容に関する説明をすべて終える。

統一思想 原相論 原相の内容と(一) 神 相

第一章 原相論
統一思想は人類のすべての難問題を根本的に解 決することによって、人類を永遠に救うために現れた思想である。ところで、そのような難 問題の根本的な解決は、神の属性に関して正確に、また十分に理解することによっての み可能である。
神の属性に関する理論が原相論である。ここで「原相」とは、原因的存在である神の属 性という意味である。神の属性には形の側面と、性質、性稟、能力などの機能的な側面 がある。前者を「神相」といい、後者を「神性」という。
従来のキリスト教やイスラム教においても、神の属性を様々に表現してきた。すなわち、 全知、全能、遍在性、至善、至美、至真、正義、愛、創造主、審判主などと表現してきた。 統一思想の立場から見ても、このような性稟は神の属性に違いない。しかし、神の属性 をこのようにとらえるだけでは、現実問題の根本的な解決は不可能である。
統一思想から見るとき、従来のこのような神の属性は神性である。ところが神にはこの ような神性のほかに、より重要な属性があるのであり、それが神相である。統一原理でい う「神の二性性相」が、まさにそれである。神の神相と神性を共に、そして正確に理解す ることによってのみ、人生問題、社会問題、歴史問題、世界問題などの現実問題の根本 的な解決が可能になる。
統一思想で扱う神の神相とは、二種類の二性性相(性相と形状、陽性と陰性)と個別相 をいい、神の神性とは、心情、ロゴス、創造性をいう。本原相論では「原相の内容」という 題目で神相と神性の一つ一つの内容を説明し、「原相の構造」という題目で神相のうち、 特に性相と形状の相互関係を扱うことにする。

一 原相の内容
原相の内容とは神の属性の一つ一つの内容をいうが、ここに神相である性相と形状、 陽性と陰性、個別相と、神性である心情、ロゴス、創造性のそれぞれの内容を詳細に、そ して具体的に説明することにする。まず神相、次に神性を扱う。

(一) 神 相
神相は神の属性の形の側面をいう。神は人間の目には見えないが、一定の形または 形に成りうる可能性または規定性をもっている。それが神相である。神相には、性相と形 状、陽性と陰性の二種類の二性性相と個別相があるが、まず性相と形状について扱うこ とにする。

(1) 性相と形状
神は性相と形状の二性性相をその属性としてもっているが、被造物の性相と形状と区 別するために、神の性相と形状を本性相と本形状ともいう。神と万物の関係は創造主と 被造物の関係であるが、この関係を原因と結果の関係とも見ることができる。したがって、 本性相は被造物の無形的、機能的な側面の根本原因であり、本形状は被造物の有形的、 質料的な側面の根本原因である。
神と人間との関係は父子の関係であり、相似の創造によって互いに似ているために、 本性相は人間の心に相当し、本形状は人間の体に相当する。ところで、この両者は分離 されている別々の属性ではなくて、互いに相対的および相補的な関係で中和(調和)をな して、一つに統一されている (1)。『原理講論』に「神は本性相と本形状の二性性相の中和 的主体である」( 46 頁)とあるのは、そのことを意味するのである。したがって正確にいえ ば、神相は本性相と本形状が中和をなした状態なのである。
本体論の観点から見るとき、このような神相観は唯心論でも唯物論でもなく、唯一論ま たは統一論である。なぜなら唯心論は本性相だけが宇宙の根本と見る立場に相当し、唯 物論は本形状だけが宇宙の根本と見る立場に相当するからである。次に、性相と形状の それぞれの内容について詳細に説明することにする。

1 性相(本性相)
本性相と被造物
神の性相は人間に例えると心に相当し(したがって性相は神の心である)、それがすべ ての被造物の無形的、機能的な側面の根本原因となっている。すなわち人間の心、動物 の本能、植物の生命、鉱物の物理化学的作用性の根本原因である。言い換えれば、神 の性相が次元を異にしながら、時間、空間の世界に展開したのが鉱物の物理化学的作 用性、植物の生命、動物の本能、人間の心なのである。創造が相似の創造であるからで ある。
したがってこれは、たとえ極めて低い次元であるとしても、鉱物のような無機物において も神の性相が宿っていることを意味し、植物においては、神の性相が生命の形態でより 高い心的機能として現れ(最近、植物にも人間の心に反応する心的作用があることが実 験を通じて知られている)、動物の段階においては、肉心(本能)の形態でさらに高い心 的機能として現れることを意味する。最近の学者たちの研究によれば、動物にも人間の 場合と同様に知情意の機能、すなわち意識があることが明らかにされている(ただし動物 が人間と違うのは、動物には人間のような自我意識がないということである)。

本性相の内部構造

神の性相はさらに内的性相と内的形状という二つの部分からなっている。内的性相は 機能的部分すなわち主体的部分をいい、内的形状は対象的部分をいう。次に神の内的 性相と内的形状を理解しやすくするために、人間の場合を例にして説明する(人間の心 は神の心と似ているからである)。

内的性相
内的性相すなわち機能的部分とは知情意の機能をいう。知的機能は認識の能力であ って、感性、悟性、理性の機能をいう。情的機能は情感性、すなわち喜怒哀楽などの感 情を感ずる能力をいう。意的機能は意欲性、すなわち欲求や決心、決断する能力をいう。 このような機能は内的形状に能動的に作用するから、内的性相は内的形状に対して主 体的部分となっている。知的機能における感性とは、五官に映るままに知る能力、直感 的に認識する能力を意味し、悟性とは、論理的に原因や理由を問いながら知る能力であ り、理性とは、普遍的真理を求める能力、または概念化の能力をいう。
この三つの機能をニュートンが万有引力を発見する過程を例に取って説明すれば次の ようになる。万有引力の発見に際して、ニュートンは初めにリンゴが落下する事実をその まま認識し、次にリンゴが落下する原因を考えて大地とリンゴが互いに引き合っているこ とを理解し、さらにその後、いろいろな実験や観察などの研究を通じて、地球とリンゴだけ でなく、宇宙内の質量をもっているすべての物体が互いに引き合っていることを知るよう になったのである。このとき、初めの段階の認識が感性的認識であり、第二の段階の認 識が悟性的認識であり、第三の段階の認識が理性的認識すなわち普遍的認識なのであ る。

内的形状
内的形状は本性相内の対象的部分をいうが、それはいくつかの形の要素から成り立っ ている。そのうち重要なものは観念、概念、原則、数理である。

1観念
観念は性相の中にある被造物一つ一つの具体的な表象、すなわち映像をいう。人間は 経験を通じて客観世界の事物一つ一つの具体的な姿を心の中に映像としてもっている が、その映像がまさに観念である。人間の場合は経験を通じて観念を得るが、神は絶対 者であるために本来から無数の観念をもっていたと見るのである。

2概念
概念は抽象的な映像、すなわち一群の観念に共通的に含まれた要素を映像化したも のをいう。例えば犬、鶏、牛、馬、豚などの観念において、共通の要素は「感覚をもって運 動する性質」であるが、これを映像化させれば「動物」という抽象的な形を得るようになる。
それが概念である。概念には種概念と類概念がある。

3原則
原則は被造世界の自然法則および規範(価値法則)の根本原因となる法則であって、 数多くの自然法則と規範は、この原則がそれぞれの自然現象と人間生活を通じて現れ る表現形態なのである。あたかも植物において、一粒の種が発芽して幹と枝が伸び、数 多くの葉が繁るように、一つの原則から数多くの法則(自然法則と規範)が現れるように なったと見るのである。

4数理
数理は数的原理という意味であって、自然界の数的現象の究極的原因をいう。すなわ ち内的形状の中には数的現象の根源となる無数の数、数値、計算法などが観念として 含まれているのであり、それが数理である。ピタゴラス( Pythagoras, ca.570-496 B.C.)が 「万物の根本は数である」というときの数の概念、また量子力学の大成に貢献したイギリ スの物理学者のディラック( P. Dirac, 1902-1984 )が「神は高度の数学者であり、宇宙を 構成する時、極めて高級な数学を使用した (2)」というときの数の概念は、すべて内的形 状の数理に該当するということができる。
内的形状の原理的および聖書的根拠
次は以上の内的形状に関する理論が、統一原理および聖書のどこにその根拠がある かを明らかにする。

1 内的形状
「内性は目に見ることはできないが、必ずある種のかたちをもっているから、それに似て、 外形も目に見える何らかのかたちとして現れているのである。そこで、前者を性相といい、 後者を形状と名づける」(『原理講論』 、44頁)。これは目に見える形より前に、性相の中 に、すでに形があることを意味するものであり、その性相の中の形がまさに内的形状で ある。

2 観念と概念
「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創 造された」(創世記 1 ・ 27)。神は六日間で万物を創造されたが、一日の創造を終えるとき、 「そのようになった」(創世記 1 ・ 7、9、11)、「見て、良しとされた」(創世記 1 ・ 4、10、12、 18、21、25)と言われたが、これは、心の中にもっていた観念や概念のとおりに、被造物 が造られたことを意味する。

3 原則(原理)
「(神は)原理によって被造世界を創造され、その原則に従って摂理を行い給う」(『原理 講論』、132 頁)、「神は原理の主管者としていまし給い」(同上、79 頁)、「神は原理によっ て創造された人間を、愛で主管しなければならない」(同上、 113 頁)などに見られるよう に、神は原則(原理)を立てたのち、人間と万物を創造されたのである。

4数理
「被造世界は神の本性相と本形状とが数理的な原則によって、実体的に展開されたも のである」(同上、77 頁)、「神は数理性をもっておられる」(同上、77 頁)、「神は数理的に も存在し給う方である」(同上、 444 頁)などに見られるように、神は被造世界を数理的に 創造されたのである。このように内的形状を成している形の要素は、みな統一原理(『原 理講論』)と聖書にその根拠があることが分かる。
以上は神の本性相内の機能的部分(内的性相)と対象的部分(内的形状)を人間の心 に例えながら説明したものである。本性相をこのように詳細に扱うのは、現実問題の解 決のためである。例えば内的性相である知情意の機能が心情を中心として作用するとき、 愛を基礎とした真美善の価値観が成立するようになる。知情意に対応する価値が真美 善である。そして内的形状は知情意の対象的部分であると同時に、本形状とともに、被 造物の有形的部分の根本原因になっている。この事実から、現実生活においては、衣食 住の物質的生活よりも真美善の価値の生活を優先しなければならないという論理が導 かれるのである。

2 形状(本形状)
次は神の形状(本形状)について説明することにする。 本形状と被造物
神の形状(本形状)を人間に例えれば体に相当するものであり、それはすべての被造 物の有形的な要素(側面)の根本原因である。すなわち人間の体、動物の体、植物の細 胞・組織、鉱物の原子・分子などの究極的原因なのである。言い換えれば、神の本形状 が次元を異にしながら、時間・空間の世界に展開されたものが鉱物の原子・分子であり、 植物の細胞・組織であり、動物の体であり、人間の体なのである。これもまた相似の創造 によるものである。
このように被造物の有形的要素の根本原因が神の形状であるが、この被造物の有形 的要素の根本原因には二つの側面がある。一つは素材(質料)的要素であり、もう一つ は無限の形態を取ることのできる可能性(無限応形性)である(万物の形態自体の根本 原因は内的形状にある)。
ここで「無限な形態を取ることのできる可能性」(無限応形性)を水の場合を例に取って 比喩的に説明する。水自体は他の万物と違って一定の形態がない。しかし容器によって いろいろな形態を現す。三角形の容器では三角形として、四角形の容器では四角形とし て、円形の容器では円形として現れる。このように水が無形なのは、実はいかなる容器 の形態にも応ずる無限な応形性をもっているからである。すなわち水が無形なのは実は 無限形であるためである。同様に、神の本形状も、それ自体は一定の形態がないが、い かなる形態の映像にも応ずることのできる応形性、すなわち無限応形性をもっているの である。このように被造物の有形的要素の根本原因には素材的要素と無限応形性の二 つがあるが、この二つがまさに神の形状の内容である。
人間の創作活動は、心が構想した型に一致するように可視的な素材(彫刻の場合、石 膏または大理石)を変形させる作業であると見ることができる。言い換えれば、創作とは、 構想の型に素材を一致させる作業であるということができる。神の創造の場合もこれと同 じであるといえる。すなわち、本性相内の内的形状の型または鋳型に無限応形性をもっ た素材的要素を与えて、一定の具体的な形態を備えさせる作業を創造ということができ るのである。

本形状と科学

被造物の有形的側面の根本原因である素材的要素とは、要するに科学の対象である 物質の根本原因であるが、素材的要素と科学はいかなる関係にあるのであろうか。
今日の科学は、物質の根本原因は素粒子の前段階としてのエネルギー(物理的エネ ルギー)であり、そのエネルギーは粒子性と波動性を帯びていると見ている。しかし科学 は結果の世界、現象の世界だけを研究の対象としているために、それは究極的な第一 原因ではありえない。本原相論は、その究極的原因をまさに本形状であると見るのであ る。したがって本形状とは、科学的に表現すればエネルギーの前段階であって、それは 「前段階エネルギー」( Prior-stage Energy)、または簡単に「前エネルギー (3)」 (Pre-Energy)ということができるであろう。

本形状と力
神の創造において、本形状である前エネルギーから授受作用(後述)によって、二つの 力(エネルギー)が発生すると見る。その一つは「形成エネルギー」(Forming Energy)であ り、他の一つは「作用エネルギー」(Acting Energy)である。
形成エネルギーは直ちに粒子化して物質的素材となり、万物を形成するのであるが、 作用エネルギーは、万物に作用して、万物相互間に授け受ける力(例:求心力と遠心力) を引き起こす。その力を統一思想では原力(Prime Force)と呼ぶ。そして原力が万物を通 じて作用力として現れるとき、その作用力を万有原力(Universal Prime Force)と呼ぶので ある。
本形状から授受作用によって形成エネルギーおよび作用エネルギーが発生するとき、 愛の根源である心情が授受作用の土台となるために、発生する二つのエネルギーは単 純な物理的なエネルギーではなく、物理的エネルギーと愛の力との複合物なのである。 したがって原力にも万有原力にも、愛の力が含まれているのである(文先生は一九七四 年五月の「希望の日晩餐会」での講演以後、しばしば「万有原力にも愛の力が作用する」 と語っておられる。)