「救援摂理史の原理観」
(96.04.16 ワシントン・タイムズ財団創立大会 ワシントンDC)
尊敬する内外の貴賓、高名なる紳士淑女の皆様。
今日、歴史的大変革の時代を迎え、レバレンド・ムーンと皆様が相まみえるようになったことを、神様に心から感謝するものです。
神様は絶対者であられ、唯一、不変、永遠であられるお方です。
そのみ旨も同じなのです。人間アダム、エバが神様の愛で一体になったなら、万事は完全、完成なのです。ですから、神様の出発、目的とその過程も、そして原因と結果とその方向も絶対的なのです。
人間始祖アダム、エバは無知から堕落し、混沌(こんとん)に陥りました。
個人的な無知と混沌から、家庭、国家、世界的無知と混沌に陥るようになりました。
この堕落圏を逃れるためのものが宗教と救援摂理の努力なのです。
終わりの日にメシヤが来て、神側で見る絶対、唯一、不変、永遠なる原因と方向と結果をはっきり教えてあげ、無知と混沌世界を清算して本然の神様の懐に帰るべきなのがみ旨の完成です。
そのようにならなければ、終わりの日にすべての宗教も主義や思想も国家も皆滅びるようになるのです。
今、私たち人類は、わずか数年で二十一世紀を迎え、二〇〇〇年代の新しい歴史時代に入るようになります。
このような重大な時点で、私は「救援摂理史の原理観」を主題としたお話で、新しい時代を準備する私たちの心を確認しようと思います。
創造主と人間との真(まこと)の愛を中心として完全完成を願う神様は、人間と一体となる条件が必要でした。
それで、神様は人間始祖に下さる戒めが必要だったのです。
人間が成長期間を育って上がっていく未完成段階にいたことをご存じで、神様は子女である人間に最も貴い真の愛を相続させてあげようとなさる条件が、戒めでした。
本来、真の愛は経験を通して得て、体恤(たいじゅつ)を通して分かるようになっていました。真の愛は言葉や文、あるいは一般教育を通して体得できるものではありません。
生活を通してのみ、完全に体得するのです。赤ん坊としてつくられたアダムとエバは成長しながら、段階的に生活を通して経験をすることによって、真なる子女の心情、真なる兄弟の心情、真なる夫婦の心情、真なる父母の心情を体恤することによって完成するようになっています。
神様の真の愛を全体的に体得するとき、初めて創造目的を完成した理想的な人間になるのです。
人は自分の愛する相対が、自分より何千万倍、いや無限大の価値的存在として生まれることを願います。
このように神様も、ご自身が愛する相対である人間が無限なる価値的存在になることを願われるのです。人間が完成すれば神性を成し、天の父が完全であるように、完全で神様的な価値を成すのです。
神様が絶対者であられますが、真の愛の理想は一人では成されません。愛の理想は必ず相対を要求するからです。私たちはここで神様の真の愛と人間の真の愛の出発と完成が互いにいかなる連関をもっているかを知らなければなりません。
もし、神様が真の愛の絶対的な対象体として人間を立てずに、ほかの方法を通してご自身の真の愛の出発と完成を成そうとされたなら、どのようになるでしょうか。神様と人間の真の愛の理想は、おのおの動機が異なり、二つの愛の方向と目的は異なるしかなくなります。このようになるなら、神様の愛の理想は人間より上位のまたほかの愛の対象を立てて成さなければならず、一方で人間の愛の理想は神様と直接的な関係をもてなくなってしまいます。
真の愛の主体者であられる神様は、その真の愛の相対として人間を立てました。
神様の愛の理想は人間を通してのみ完成されるのです。神様の創造目的は神人愛一体の絶対的愛の理想世界です。人間は神様の最高最善の愛の対象としてつくられました。
それゆえに、人間は創造物の中で唯一、神様の実体を身につけた対象です。
無形の神様の前に、見える体として生まれました。人間は完成すれば神様の宮になります。神様が自由に、また平安にいつも入ってきて、住まわれることのできる有形の実体です。
絶対者である神様の真の愛の全体的な理想は、人間を通して父母と子息の縦的関係で実現完成します。
神様はご自身の体としてアダムを先につくりました。アダムは神様の息子であると同時に、体をかぶった神様自身でもあります。その次に、アダムの相対者としてエバをつくって、横的な愛、すなわち夫婦の愛の理想を完成しようとしました。
エバは神様の娘であると同時に、神様の横的愛の理想を実体で完成すべき新婦でもあったのです。
アダムとエバが完成して神様の祝福の下に結婚をし、初愛を結ぶその場は、すなわち神様が実体の新婦を迎える場なのです。
アダムとエバの夫婦の愛の理想が横的に結実するその場に、神様の絶対愛の理想が縦的に臨在、同参なさることによって、神様の真の愛と人間の真の愛が一点から縦横の基点を中心として出発し、一点で結実完成するようになるのです。
神様の創造は必然でした。目的のない創造は仮想することができません。神様において創造が必要であった理由は、ただ一つ、真の愛の理想でした。最も簡単で低級な被造物から人間に至るまで、おのおの主体と対象、陽性と陰性のカップルで展開なさった理由も、愛の理想の下で相対関係を形成するためなのです。
創造物の愛の理想と神様の究極的な愛の理想は別個ではありません。人間世界の男性と女性の愛の完成を通して、神様の絶対愛が完成するようになさったのが、創造原理です。初めに人間をアダムとエバ一男一女として創造なさった理由もここにあります。
神様の創造目的はアダムとエバが真の愛の主体であられた神様の戒めを守って真の人として完成することです。さらには神様の真の愛で一つとなった真なる夫婦になるのです。
また、彼らがその真の愛の中で息子・娘をもち、幸福に豊かに暮らすことのできる真の父母になることです。
アダムとエバが真の愛で完成することは、まさに神様が実体を身にまとう願いが成就するのです。そして、彼らが真なる夫婦として完成することは、まさに神様の絶対的な愛の理想の完成を意味します。
次に、アダムとエバが善なる子女をもって真の父母になることは、まさに神様が永存の父母の位を実体的に確定し、また神様が人間の血統を通して子々孫々を繁栄なさることによって、天上天国の市民を無限に置かれたかった理想を成就なさろうとされたのです。
ところが、人間始祖アダムとエバは堕落してしまいました。エデンから追われるとき、彼らは子女を抱えていませんでした。神様が追い出したアダムとエバをエデンの外まで訪ねてきて祝福し、結婚式をしてあげられたはずは絶対にありません。
全人類は神様の愛と関係なく繁殖した、追い出された先祖の後孫です。
満場の内外貴賓の皆様!
人類の堕落が木の実を取って食べた結果でありうるでしょうか。アダムとエバの堕落は神様の真の愛の理想に背いた不倫の犯罪です。守るべき戒めが必要だった堕落前のアダムとエバは、未完成段階、すなわち成長期間で堕落しました。蛇で表示された天使長の誘いを受け、エバが霊的に堕落し、そのエバがアダムを誘って(時ならぬ時に善悪の実を取って食べる)肉的な堕落をしてしまったのです。本然の園で神様と対話しながら、楽しくはしゃぎ回って暮らしていたアダムとエバが、死ぬことを顧みないでまで犯しうる可能性のある犯罪は、間違った愛の犯罪しかないのです。
人類の先祖の初愛の結合は、神様自身の愛の完成でもあったので、当然、神様もアダムとエバも宇宙万象も、歴史を通して歓喜と祝福の中に酔う幸福な宴(うたげ)の連続でなければなりません。神様の愛と生命と血統が人間の中で出発をなしながら定着する幸福な儀式でなければなりません。
ところが、彼らは下半身を覆い、木のうしろに隠れて、不安に震えました。天道に逆らう偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統の根源をつくった不倫の関係を結んだからです。
堕落したアダムとエバの後孫である全人類は、子々孫々、生まれる時から原罪があるようになります。
人類が個体の中に心と体の衝突を矛盾として感じるのも堕落に根源があり、愛の秩序が紊乱(びんらん)した社会の中で、本心が願わない生を生きていくのも、すべてここに由来しました。
愛の理想を中心として見るとき、動植物の世界では、その愛の関係がすべて繁殖を前提にして初めて成されます。しかし、人間だけはその例外です。
人間は夫婦の愛の関係に自由を享受します。これが万物の霊長たる特権です。神様は息子・娘である人間が無限なる愛の喜びをもつように祝福しました。神様が許諾した真なる自由は、責任性を前提とします。
もし、責任性なしに個々人が愛の自由だけ主張し、実践するなら、どれほど大きな混乱と破局が来るでしょうか。
至高なる愛の理想を成した人間の完成は、愛に対する責任性をもつときに可能なのです。
その責任性は次の三つとして考えることができます。
第一に、人間は愛の自由を下さった神様に感謝しながら、自己修練、自己管理で自由な真の愛の主体になる責任です。
人において愛の責任性は法や耳目ゆえに守られるものではなく、神様との生命的縦的関係の中で自我主管、自己決断で守られるのです。
第二に、相対に対する責任性です。人間は本性的に自らの相対の自分に対する愛が分けられることを願いません。
夫婦間の横的な愛の関係は、父母と子供の間の縦的な愛の関係と異なり、分けられればもはやその完全性が破壊されます。
これは夫婦間に絶対的な愛の一体を成すようになっている創造原理ゆえです。人は絶対に自分の相対のために生きるべき愛の責任性があります。
第三に、子女に対する愛の責任性です。
子女たちの誇りと幸福の基地は父母の愛です。
子女たちは真の愛で和合一体化した父母を通して生命が生まれ、そのような愛の中で養育されることを願います。
父母の子女に対する最も貴い責任は、外的な養育だけではなく、彼らの霊性を完全にしてあげる真の愛の生命的な要素を提供することです。家庭が貴い理由はこのためです。生活的な経験を通して体得する真なる子供の心情、兄弟の心情、夫婦の心情、父母の心情は真なる家庭以外、そのどこでも得ることはできません。
アダムとエバが神様を中心とした真の愛の夫婦を成せば、神様は理想となさったとおりに、ご自身の実体であるアダムの体の中にいましたまいながらエバを愛されるようになるのです。
さらにはアダムとエバは神様の実体をまとった真の父母となって、善なる愛、善なる生命、善なる血統の出発になったことでしょう。
ところが、堕落によってアダムとエバはサタンの実体となって、悪なる夫婦、悪なる父母、悪なる先祖となってしまいました。彼らの結合は悪なる愛と悪なる生命と悪なる血統の根となってしまったのです。人類はすべてこの根に根源をおいたので、生まれるときからすべてが、神様の怨讐(おんしゅう)であり姦夫(かんぷ)であるサタンの後孫になり、悪なる父母の血統を受け継ぐようになってしまったのです。
親愛なる紳士淑女の皆様!
人類の先祖の堕落で真の愛の理想が崩れたとき、神様の苦痛がどれほど大きかったでしょうか。神様の子女になるべき人間たちが、本来の父母であるご自身が分からず、むしろサタンに仕えるのに、神様は救援歴史をしてこられたのです。絶対的な神様の創造理想も絶対的であるので、悲しい救援歴史をなさるしかありませんでした。神様の救援摂理は、失った真の愛の創造目的を再び回復する復帰摂理です。ですから、救援摂理は再創造摂理でもあります。
このような点で、復帰摂理の根本はどうすれば創造理想を完成する人間の種、本然の赤ん坊の種を見いだせるかにあるようになります。神様が一番嫌う姦夫であるサタンの偽りの愛から由来した生命と血統を清算しなければなりません。神様の真の愛と生命と血統と一体になった救世主、真の父母をどのようにして生まれさせるかということです。
人間の先祖が自分の責任分担を完遂できず、不倫なる血統関係を結んでサタンの主管を
受けるようになったので、神様が直接立って原状回復させることができないのです。神様は悪なる天使長側に回った人類を、条件なしに善なる立場から選ぶことも、打つこともできないのです。神様は善なる天使長的中心人物を立て、先に打たれながら蕩減(とうげん)条件を立てるようにして、奪ってくる作戦をしてこられました。しかし、サタンは先に打ち、奪われる立場になりました。第一次、第二次、第三次世界大戦はその例になります。先に打った側が滅びました。
復帰摂理を概観すれば、母子協助の基盤が重要でした。ヤコブの時、モーセの時、イエス様の時、皆そうでした。堕落の張本人であるエバを代身する責任を果たすお母さんを立て、次子と母子協助をしながら、サタンの血統と生命を分立しようとする摂理が存在してきたからです。
神様は、堕落によって人類を先占したサタンと血縁的に直結した長子に、直接対することがおできになりません。神様は善側を代表する次子を相対として条件を立たせ、悪側を代表する長子を屈服させることで善なる血統を復帰してこられました。
アダム家庭で、神様は次子アベルを立てて長子カインを屈服させようという摂理をなさいました。堕落した母親ですが、そのエバによる兄弟を一つにしようとする努力があったでしょうが、結局はカインがアベルを殺害することによって救援摂理は終結を見ることができず、延長され始めたのです。
ノアの時も、母子協助の基準はありましたが、本格的な母子協助の基準はリベカ・ヤコブの時からです。
人類の堕落はアダム、エバ、天使長、このように三つの存在によって引き起こされました。天使長がエバを誘って霊的堕落をし、その次に堕落したエバがアダムを誘って肉的堕落をすることによって、神様を裏切ったのです。堕落した天使長がサタンになりました。救援摂理は復帰摂理であり、復帰の原則は百八十度反対の道を通してなされるのです。
真の愛と生命の種をもったアダムを失った神様は、サタンの讒訴(ざんそ)条件がない新しい種をもった息子を探し立てなければなりません。創造の時アダムを先につくったように、再創造摂理である復帰摂理も堕落と無関係な息子を先に立てなければならないのです。これがメシヤ思想の根本です。
メシヤはサタンの主管下にいる堕落した血統をもった人たちの生命を否定し、新しい生命の種を接ぎ木してあげるために来られる真の人であられます。根は神様に置きましたが、後(のち)のアダムとして来て、アダムによって引き起こされたものを清算しなければならないメシヤです。神様が、能力だけで役事する超人を、メシヤとして送ることのできない事情がここにあるのです。
この地に神様の愛と生命の種をもって生まれる息子のために先にお母さんがいなければなりません。お母さんが息子を産むにしても、ただそのまま産むことはできないのです。必ず、復帰の公式を通して産まなければならないのです。
復帰摂理の中に現れた母子協助は、すべてが天の息子がサタンの讒訴を免れた新しい生命の種をもって着地するための準備であり、条件なのです。母子共にサタンの攻撃を免れることのできる条件を立てた土台の上で、サタンを代表する長子を屈服させることにより、サタンが先に占有した愛と生命と血統を復帰してこられたのです。
神様の摂理の歴史を記録した聖書の中に、理解することのできない記録がたくさんあります。リベカが夫のイサクと長子のエサウをだまし、次子ヤコブを助けて彼に祝福を受けさせました。神様は一見不当に見える方法を用いたこの母子の側に立たれて、彼らに祝福を続けて上げました。
アダムの家庭では、カインとアベルの兄弟が胎外で争って、次子のアベルがかえって殺されました。
ヤコブは、アベル以後の善側に立った多くの人の犠牲と蕩減条件の基台の上に立ったので、先に占有したサタンにいっそう追いついて、双子の兄であるエサウを相手にするようになったのです。結果的にヤコブは、ヤボク川で天使を屈服させる霊的勝利の条件と実体の天使長の体であるエサウを屈服させることによって、歴史以来、初めて勝利したというイスラエルの祝福を受けるようになりました。しかし、その時は既に年が四十代でした。
サタンの偽りの愛の種がエバの胎中にまかれて悪の生命が生まれたので、神様は母の胎中まで入っていって分別しておかなくては、天の息子が胎中で誕生することができないのです。ですから、ヤコブの勝利によっても、まだ分別されていない妊娠から四十代までの期間もサタンの分立がなされなければなりません。結果的にこの責任を任された偉大な母がタマルです。
タマルはユダの長男のエルと結婚しましたが、エルは神様にふさわしい人ではなかったので死んでしまいました。当時の慣例に従い、ユダは次子のオナンをタマルに与えて子供を産むようにしましたが、オナンは生まれる子供が自分のものにならないことを知り、精を地に流しました。これが神様の前に罪となってオナンも死んでしまいました。タマルはユダの三番目の息子のシラと一緒になろうとしましたが、ユダはシラをタマルに与えませんでした。タマルによって二人の息子たちが死んだと考えたユダは、シラまで死んで家系が絶たれることを心配したからです。
タマルは選民の血統を続けなければという一念から、売春婦に変装して、舅(しゅうと)であるユダを迎え、双子の赤ん坊を身ごもりました。赤ん坊たちが生まれる時、先に手を突き出して出ようとした長子の赤ん坊が再び入り、弟になるべき次子の赤ん坊が兄になって先に生まれたのですが、彼がペレヅです。タマルの胎中で長子と次子が争って、分立される胎中復帰がなされたのです。このような条件の上に、選民の血族を見て、二千年後にローマ帝国の国家基準に対峙(たいじ)するイスラエルの国家的土台の上に、メシヤを身ごもることができたのです。神様の息子の種が準備された母親の胎中に、サタンの讒訴なく根づかせることができるようになった国家的勝利の土台が造成されたのです。このような基盤の上に聖母マリヤが摂理の主流に登場するのです。
ヨセフと婚約したマリヤは、自分の身を通してメシヤが生まれるという(ルカ一・31)ガブリエル天使長の驚くべきメッセージを受けました。処女の立場で赤ん坊を身ごもれば、死ぬしかないという当時の規則でしたが、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」と言いながら、絶対信仰で神様のみ意(こころ)を受け止めました。
マリヤは親族であり、尊敬される大祭司長のザカリヤに相談しました。ザカリヤの家庭では、その夫人のエリサベツが神様の能力によって、妊娠したヨハネを胎中に身ごもったまま、マリヤに対して「あなたは女の中で祝福されたかた、あなたの胎の実も祝福されています。主の母上がわたしのところにきてくださるとは、何という光栄でしょう」(ルカ一・42~43)とイエス様の懐胎を証ししました。
このようにして神様はマリヤとザカリヤとエリサベツをして、メシヤの誕生を一番先に知らせました。彼らはイエス様によく侍(はべ)り、神様のみ旨によく従わなければならない重大な使命をもった者たちでした。ザカリヤ夫婦はマリヤを自分たちの家にとどまらせました。イエス様はザカリヤの家庭で懐胎しました。エリサベツとマリヤの間柄は母親側のいとこの関係でしたが、摂理上では、姉(カイン)と妹(アベル)の関係でした。ザカリヤの前でエリサベツの助けを受けたマリヤは、レアとラケルがヤコブの家庭で母子が一体になれなかったのを国家的基準でザカリヤ家庭を通して蕩減する条件まで立てながら、イエス様を誕生させなければなりませんでした。
歴史以来、初めて神様の息子の種、真の父となるべき種が、準備された母の胎中にサタンの讒訴条件なく着地したのです。それによって、地上に初めて、神様の初愛を独占することのできるひとり子が誕生するようになったのです。
当時の法によって、容認されるはずもなく、また、常識でも考えることのできないことをマリヤが成し遂げなければなりませんでした。三人が全部霊的に感動したし、神様から来た啓示に従い、それが神様のみ旨であり、願いであることを無条件に信じ従わなければならなかったためでした。
神様の息子はたとえ着地したといっても、サタンの世界の中で無事に育ってみ旨を成し遂げるためには、保護されるべき囲いが必要なのです。神様はザカリヤの家庭の三人にその基盤となってくれることを期待されました。三人が神様の息子を保護し、侍ることにどのように専念し、どれだけ長い間一つになったかについては、考えるべき点がたくさんあります。
聖書には「マリヤは、エリサベツのところに三か月ほど滞在してから、家に帰った」(ルカ一・56)と記録してあります。その後、聖書で見る限り、マリヤとエリサベツとザカリヤは互いに行き来した記録がありません。ここからマリヤとイエス様の困難が始まります。ザカリヤ家庭は最後までイエス様の囲いにならなければなりませんでした。
少し過ぎて、ヨセフはマリヤが子供を妊娠した事実を知るようになります。この時、彼の衝撃がどれほど大きかったでしょうか。愛する婚約者のマリヤが自分とは何の関係もない状態で、三か月間どこかへ行って帰ってきた時には子供を妊娠していたのですから、ヨセフがマリヤに、胎内にだれの赤ん坊を身ごもっているのかを追及するのは当然なことでした。
その時、もしマリヤが正直に話してしまったなら、どんなことが起こったでしょうか。もし明らかにした場合には一族が滅亡するようになるのです。ですから、マリヤはただ「聖霊によって懐胎した」とだけ話したのです。
マリヤのおなかが膨らんできて、周囲の人たちも妊娠したことが分かるようになりました。その時、ヨセフが自分は知らないことだと言ったならば、また、どうなったでしょうか。ヨセフは神様の啓示を信じ、妊娠が自身の責任であると擁護した義人でした。これによってマリヤは婚約期に妊娠したという嘲笑(ちょうしょう)は浴びたとしても、石を受けて死ぬことはなかったのです。
マリヤを愛したヨセフは、初めはこのようにマリヤを守ってあげました。しかし、ヨセフの心の底には苦悶(くもん)がたくさんありました。特に、生まれたイエス様を見詰めるヨセフは、その父親に対する疑問と関連し、心の中の苦痛を頻繁に経験するようになりました。イエス様が大きくなると同時に、ヨセフとの関係が心情的に距離が生まれるようになり、このことによって、家庭に頻繁に紛争が起こったことは間違いのない事実です。
こうしてイエス様は私生児の立場で、ザカリヤ家庭の保護も受けられず、また、ヨセフとも難しい条件で、心情的に途方もなく寂しい立場で育ちました。
メシヤの道を自覚するようになったイエス様は、孤独な事情が神様のみ旨を成すに当たって深刻な障害の要因であることを、独りもどかしく思いました。メシヤは真の父母であり、その使命のためには実体の新婦をお迎えにならなければなりません。天使長がアダムと兄妹のように育ったエバを、偽りの愛で堕落させたものを、根本的に復帰すべきイエス様です。
従って、アダムを代身して神様の息子として来られたイエス様は、天使長型の妹を妻として迎えなければなりません。彼女がまさしくザカリヤの娘、洗礼ヨハネの妹なのです。サタンの権勢が主人の役割をする世の中で、このことが成されるためには、絶対的な信仰によって形成された保護基台がなければなりません。不幸にもイエス様の周辺では、このような土台がみな崩れてしまいました。
もし、ザカリヤとエリサベツが神様の啓示と霊的な恩恵の下、初めにもった絶対的な信仰をずっともっていたなら、状況は全然違っていたことでしょう。彼らが責任を果たしたならば、マリヤは三か月後にその家を出たとしても、継続的に彼らと行き来し、相談したはずです。
ザカリヤ家庭は、イエス様の誕生の後にも、地を代表して最も先頭に立ってメシヤを保護し侍りながら、証すべき人々として神様が選んだ家庭です。彼らは、イエス様を神様の息子として、メシヤとして、このうえない精誠を込めて侍るだけでなく、さらにまた、イエス様を通して神様のみ旨を受け、絶対的に従ったはずでした。また、イエス様のために生まれた洗礼ヨハネだったので、彼が悔い改めさせた民たちをして、イエス様を信じ救われるように導く責任を果たしたはずです。
しかし、不幸にも、ザカリヤもエリサベツも洗礼ヨハネもイエス様を神様の息子として証しだけしたのであって、侍り従った実績は何一つありませんでした。尊敬される祭司長のザカリヤが傍観し、洗礼ヨハネがイエス様と無関係な立場に立つようになることにより、かえってイエス様の行く道をもっと難しくしてしまい、民たちが従うことができないようにしてしまいました。ましてや、彼らが信仰を失い人間的な考えに流れたときに、イエス様が願われた新婦を迎えるのを助けるはずは絶対になかったのです。
次に考えるべき点は、ヨセフとマリヤの関係がイエス様に及ぼした影響です。マリヤはエバとタマルを蕩減復帰すべき立場なので、ヨセフとは婚約関係でなければなりませんでした。しかし、摂理的に見れば、彼らの関係は夫婦ではありえません。ですから、彼らはイエス様が誕生する時まではもちろん、その後にも性関係を結んではならないのが神様の願いでした。ヨセフはマリヤに対して、イエス誕生の後にもずっと愛の心をもちました。
マリヤはヨセフと別れ、イエス様を神様の息子として育てたい気持ちがあったはずです。
しかし、現実はそれを簡単には許しませんでした。本心ではだめだと思いながら、マリヤはヨセフと性的関係を結ぶようになって子女をもつことにより、エバの失敗を反復した結果となってしまいました。サタンはこれを条件として彼らに侵犯するようになりました。イエス一人を残して、すべてサタンの主管下に入っていった結果となったのです。イエスを守るべき父親も、母親も、アベル側の兄弟(洗礼ヨハネとその兄弟)も、カイン側の兄弟(ヨセフの子女)もすべてサタン側になってしまいました。
人がサタンの侵犯を受ければ、もはや霊的に受けた恩恵と感動を失ってしまいます。神様に対する確信と感謝を失うようになります。すべてのものを人間的に考えるようになります。
これにより、マリヤまでイエス様が願われる結婚を助けられず、かえって反対してしまったのです。これが、イエス様が新婦を迎えて真の父母になれず、十字架の道を行かざるをえなかった直接的な原因になったのです。
カナの婚姻の宴で、イエス様がマリヤに「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか」(ヨハネ二・4)と言ったのも、最も貴い摂理の要請であるイエス様の新婦を迎える仕事をなおざりにし、遠い親戚(しんせき)の婚姻の宴を手伝おうとするマリヤを責めた心情が表出されたものです。
「わたしの母とは、だれのことか。わたしの兄弟とは、だれのことか」(マタイ一二・48)と言われたみ言葉も、このような基準から理解しなければなりません。
イエス様は母マリヤからも、ザカリヤ、エリサベツからも反対され、最後に洗礼ヨハネからも反対され、肉親の保護を受けながら使命を完遂することを断念するしかありませんでした。新しく霊的基盤を探して、再び復帰摂理をなさろうと出発したのがイエスの出家でした。出家したイエス様は行く所がありませんでした。
「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」(マタイ八・20)と嘆息されました。家門の基盤を失ったイエス様は、それを代身することのできる基盤を探しに出かけたのです。これがイエス様の三年路程でした。
しかし、民族が不信し、弟子たちの心が弱くなって、サタンの侵犯を受けてしまったので、イエス様の基台は倒れ、十字架の道に行かれるしかありませんでした。本来、イエス様はメシヤとして地上に来て、弟子たちと万民を祝福され、罪のない天国を築かなければなりませんでした。ところが、不信をされて新婦を迎えられなかったので、真の父母になれず、その使命を完遂することができませんでした。
それゆえ、再臨することを約束されました。再臨主はイエス様が果たせなかった神様の復帰摂理の根本を完成するためにこられます。すなわち、創造理想を完成すべき真なる本然の赤ん坊の種として来て、神様の真の愛、真の生命、真の血統の根源になる真の父母の理想を完成するためにこられます。
彼は既にイエスの時まで神側が勝利した根本摂理の土台の上に臨在されます。すなわち、イエス様が大人になられる時までの勝利的な基盤の上に真っすぐ立たれて、彼が果たせなかった新婦を探し、真の父母になられ、万民を救ってくださるのです。
それゆえ、真の父母は血統を伝授する新しい結婚行事を通じ、全人類をして、神様の真の愛、真の生命、真の血統に接ぎ木して、真の人として救援し、さらには真なる家庭を成して地上天国を建設なさるのです。それゆえ、再臨主は肉身をもって来られて、新しい血統関係を編成しようとするのであり、これが国際合同結婚式なのです。
アダム一家庭で失われたものを世界大家庭圏で蕩減することにより、アダム家庭で完成すべき真の長子権、真の父母権、真の王権を取り戻し、神様が主管なさる地上天国へと転換し、天上天国に入籍をして、神様を中心とした地上、天上王権時代に進入して、勝利と自由と幸福と統一の世界を復帰し、神様の創造理想である地上天国、天上天国を迎えるようになるのです。これが摂理史の原理観です。
皆さんも将来、幸福な祝福を受けるようにお願いします。
敬愛するこの国の指導者、そして内外貴賓の皆様! きょう、この夕べ、ワシントン・タイムズ財団創設を記念するために、来臨してくださった皆様にもう一度深い感謝をささげ、特にこの社会のための善なる業績により、ワシントン・タイムズ財団が授与する第一回受賞の栄光を受けられた皆様に、心からお祝いを申し上げます。ありがとうございました。