2013年4月24日水曜日

全国大学教授学生南北統一運動連合創設集会 「 南と北が共に生きる道」  1986年10月11日  韓国・ソウル

全国大学教授学生南北統一運動連合創設集会

南と北が共に生きる道
                     1986年10月11日  韓国・ソウル


 この講演で文師は、真の愛をもって「共に生きる」運動を展開するよう呼びかけ、「私たちの中に『真に共に住みたい』と言える心を蘇生させることができないなら、南北統一運動を提唱すること自体が、歴史的批判を受ける一つの偽善行為になるのです」と訴えられました。これに関連して、同年十一月八日、九日には「第一回南北統一全国大学学生大会」を開催。八日には講演とフェスティバル、九日には体育大会とマラソン大会が行われ、教授と学生が一体となった新しい学生運動がスタートしました。

 「全国大学教授学生南北統一運動連合」創設会員として、今日お集まりになった多くの教授、および学生の皆様に感謝申しあげます。

 私たちが今まで活動してきた内容を簡単に振り返ってみますと、一月二十四日、ソウルに教授の皆様が集まって、新しい決意をして対社会活動を始め、二月十七日から三月三十一日までは対社会講演という、驚くべき歴史的な快挙を成し遂げました。

 それから四か月後には、世界の大学者を中心として、日本および欧米の教授の方々と皆様が協力して、韓国で全国巡回講演会を行ったという事実は、世界を超えて歴史における記念すべき一つの記録となるものです。

 さらに、このような活動に、高名な学者の皆様がその背後の事情を越えて、先頭に立ってくださったということは驚くべきことであると思います。そのような意味から、本日は皆様方に厚くお礼を申し上げます。


 「共に生きる」思想が必要

 「全国大学教授学生南北統一運動連合」という十六文字でかなり長い名称ですが、今後は教授の皆様方が、簡単で分かりやすい略称をつくってくださることだろうと思っています。この集まりに対して、私は多くの期待を寄せています。

 皆様もご存じのとおり、私は間もなく七十歳になります。数え年で今六十七歳ですから、あと三年で七十歳です。七十歳の老人が社会の先頭に立って何ができるでしょうか。学者の世界でもそうでしょう。このごろ、定年は何歳でしょうか? 五十五歳ですか。六十五歳以上を過ぎて、ある団体の先頭に立ったり、社会の指導的な位置に立つと糾弾されることにもなりかねません。私も定年で退くべきであるにもかかわらず、今晩もまた仕方なくここに出てきて、高名な教授の方々の前でお話しすることとなり、大変申し訳ありません。どうぞ寛大に受け入れてくださることをお願いいたします。

 私も一生の間、多くのことを語ってきましたが、教授の皆様もやはり教壇で学生を教えてこられた当事者でありますから、今まで多くのお話をしてこられたことと思います。そのような皆様の前で話す内容は、順序正しく組み立てられていなければいけないし、原稿を用意して語るべきだという考えもあるでしょうが、私は今晩そのような枠から外れて話したいと思います。皆様「ポンポクトック」(注:穀物の粉にかぼちゃなどを混ぜてつくった韓国の餅)という食べ物をご存じでしょう。それは見た目はまずくとも、おいしいものです。ですから、今晩はそう思っていただいて、時間がある限り、感じたままを話してみようと思います。

 大体話の骨子からタイトルをつけますと、「私たちは、真に共に生きたい」という内容です。タイトルがおかしく感じられるかもしれません。「私たちは、真に共に生きたい」。では、このような内容での話をいたします。

 皆様方で、家庭を持っていない人はおられないでしょう。家庭があれば、まず父母に仕え、父母を中心として、その次は妻子を率いる生活をするようになります。私たちはそのような家庭を中心として生きているのです。

 それでは、真なる意味において「私たちは、家族と共に生きたい」と言える人がどのくらいいるでしょうか。さらに、私たちの大韓民国を中心として考えてみたとき、一人の主権者を親代わりの代表として仕えて、全国民が「私たちは、あなたと真に共に生きたい」と言える、国民あるいは国家の指導者がどのくらいいるでしょうか。また問いの範囲を世界的に広げて、この世界にある中心存在が決められたとしても、「私たちは、彼と真に共に生きたい」と言える世界が、果たして可能であるだろうかということが問題なのです。


 家族の心を占領する孝子

 さらに一歩進んで、大宇宙を創造した神がおられるとしたら、神と今日のすべての被造世界はもちろん、過去、現在、未来の人間がみな「私たちは、真に共に生きたい」と言えるそのような世界になることができるでしょうか。これが一つのなぞであり、人生の命題であり、また私たちが宿命的に望んでいる希望ではないでしょうか。

 では、そのような命題において、再び自分自身に戻ってみて「私は家族と共に住みたくない」と思うことがあれば問題なのです。「あなたは父母と身内に仕えたいと思いましたか?」と尋ねられたとき、「生まれてから死ぬまでの生活と生涯路程を通して、そうでした」と答えることのできる家庭があるとしたら、その家庭は世界的な模範として追慕され、記念されるべき代表者となることでしょう。

 父親であれば父親として、母親であれば母親として、父母がそのような生活の中心になって共に生きる家庭は、本当に幸福な家庭ではないでしょうか。自分とは直接に関係のない問題のようですが、これは私とあなたとの生活舞台に必然的な運命として受け入れなければならない現実問題です。このような運命的な生活を営んでいく自分自身が、それに対して責任を取ることのできる資質を備えているかどうかということは深刻な問題です。

 十人の家族と一緒に住んでいる場合、十人の家族みんなが「彼は真に共に住みたい人である」と言うならば、その人は十人の家族の生涯路程において、忘れられない尊敬と追慕の対象になるのです。その人が兄であれば兄として、姉であれば姉として、父母であれば父母として、家族の心の深い所を占領できる主人公ではないでしょうか。

 ですから、家庭では孝子を願っています。孝子というのは何かというと、「父母と共にいつまでも住みたい」と願う子供なのです。では、生きる時には何を中心として生きるのかといえば、ここでの共通分母は、すなわち父母を愛するということです。万古の歴史がどんなに変わるとしても、これを除いて変わることはありません。歴史も、この共通分母を中心として変わろうとするのであり、これを否定しつつ変わることは願わないのです。ですから孝子の伝統を受け継いだ人は、家庭から願われる人、すなわち共に住みたいと願われる人です。また、私たちの五官の感覚と深い心情の内面からも、共に住みたいと願われるそのような人ではないかということです。


 聖人は神と一致して歩む人

 さらに範囲を広げて、国を中心として考えてみましょう。愛国者はなぜ必要なのでしょうか。一体、愛国者というのは何でしょうか? 主権者とその統治下の国民がいる場合、国民と主権者は切り離そうとしても切り離すことができない、捨てようとしても捨てることのできない関係になり、真に共に生きたい理想に向かってお互いに努力しながら生きるとき、国を愛するということは自然に実践されるでしょう。国家という共同体を中心に、主体と対象の関係で分けようとしても分けられない、永遠に共に生きたいという心を持って生活する代表者が、すなわち愛国者なのです。心の中に主権国家の意思と願いと誇りを持って生活するそのような人にこそ、愛国者という称号をつけることができるのではないでしょうか。

 もう少し範囲を広げてみれば、私たちの歴史上には聖人たちがいます。聖人とは一体何かというと、全部が宗教の教祖たちです。例を挙げれば、釈迦、イエス、あるいは孔子、マホメット、それら四大聖人がみな、神を中心として教祖の役割をして、聖人という称号を持っています。では、その教祖たちが持っている内容は何でしょうか? それは神がおられるとしたら、その神と共に住みたいということです。神を知って、神によって治められる人類が存在しているという場合に、その人類と共に住みたいと願った人々が、すなわち彼らです。「私たちは、真に共に生きたい」と、代表的な生活と生涯の路程をたどっていった人たちが、彼らではないでしょうか。

 さらに、統一教会では聖子ということを言っています。キリスト教で言う、聖子にならなければならないということです。その聖子とは一体何でしょうか。その前にまず聖人とは何かを考えると、彼ら自身が神をはっきり知っていなければなりませんし、人格的な神として私たちの生活と理想の象徴になる、具体的な内容をよく知っていなければなりません。万有の根本存在であり、万軍の主として、すべての主権者の総帥の立場にあるのが神です。神こそ天宙の中心存在としてあられ、そこには天法があると同時に、その王宮の法度があるはずです。そうではないでしょうか。

 聖子とは、もちろんその天法を中心としてすべてを履行するということは言うまでもありませんが、王に仕えるということにおいて、王宮の法度どおりの生活をしなければなりません。王宮の法を中心として生活しながら、ついには法度を超えたところで王と共に永遠に住みたいと願い、王もその息子なしには生きていけないくらい、永遠に共に住もうといえる立場に立った人こそ、すなわち聖子なのです。

 ではこのように、人間はいかに生きるべきか、あるいは私たちの人生航路はどう行くべきかを考えてみたとき、孝子が行く道、忠臣が行く道、聖人が行く道、聖子が行く道には共通の根本的骨子があるはずです。すなわち、それが永遠に共にいたいと願い、共に生きたいと願う心なのです。上下、前後、左右を問わず共にいたいし、昼夜を超えて、生涯を超えて、共に住みたいと願う心に満ちあふれた生き方ではないかという結論に至ります。それでは、このことを俗世の人間から離れて、聖人と呼ばれる人たちに聞いてみてはどうでしょうか。

 例えば、お釈迦様のような方に「あなたが今まで二五〇〇年の歴史を通して仏教を広めてこられたその目的は何でしょうか。万民と共にお互いが離れられない存在として、歴史を超えて共に生きたい道理を広めるためだったのではないでしょうか」と尋ねたなら、お釈迦様は間違いなくそうだと答えるはずです。また、イエスに「あなたは二〇〇〇年の間、キリスト教を通して世界文化圏を指導する歴史的基盤をつくるほどに偉大な貢献をされましたが、世界万民にこのように布教することによって何を成したかったのですか」と尋ねれば、「お金をたくさんもうけてある団体をつくったり、国をつくるためだ」と言うでしょうか。答えは簡単です。「私はあなたと真に共に生きたかった」と言われるはずです。また、孔子も同じです。「あなたは儒教という教えをもって、このアジア世界に何を願いましたか」と尋ねれば、「アジアを超えて世界の人々まで、宇宙の本体である方がおられるとしたら、その方と共に生きようと願っただけです」と答えるに違いありません。それは、回教の教祖であるマホメットに尋ねてみても同じでしょう。

 さらに、神がおられるとしたら「全知全能であり無所不在の方として、一体あなたの願いがあるとしたらそれは何でしょうか?」と尋ねることができるでしょう。ではその神はお金が必要でしょうか、知識が必要でしょうか。神も必ず、きょう申し上げたこのタイトルのように「私たちは、真に共に生きたい」と言われるはずです。「真に共に住みたい」。これは、小さな個人から国家を超え、世界を超え、そして大宇宙を超えて、人格的な神が存在する世界圏内共通の答えになるでしょう。


 学校内の関係も愛を基調に

 以上のように考えてみたとき、多くの教授の皆様が教職員の一人として勤める大学にも、上下の関係があります。まず理事会の役員と学生がいます。そこで「私は真に理事会の役員と共に、あるいは私の学生と共に生きたい。あなた方は願っていないかもしれませんが、私はこのように生きたいのです」と言える教授がいたら、たとえ彼の知識が足りなく、多くの短所を持っていたとしても、彼こそ教授の中の教授ということができるでしょう。また、「先生と本当に共にいたいし、共に生きたい」と言える学生がいたら、彼は真の学生です。そして、理事会の役員の中で「私は教授、学生たちと共に生きたい」と言える人がいたら、その人はその学校をだれよりも愛する代表的な存在として恥ずかしくない人です。

 ではこのような共に住みたいという、その内容の共通分母は何でしょうか。それは権力ではありません。権力は歴史を超えることができません。権力は一時的なものです。それでは知識でしょうか。知識の世界は発展するではありませんか。皆様は知識の世界で、その学問と共に永遠に生きたいという心になりますか。私たちが共に生きられる道は知識でもないし、お金でもないのです。

 このように考えたときに、上下、前後、左右を問わず、過去、現在、未来の時間性を超えたところで共通的に認められる一つの分母は何かというと、それが、すなわち愛なのです。ですから孝子とは、家庭で父母を真に心から愛しながら生きる人であり、また愛国者とは、国を真に愛しながら生きる人であり、聖人とは世界万民を真に愛する人であり、聖子とは神を真に愛しながら生きている人なのです。したがって、いくら山の中にただ一人座っていたとしても、愛国者の心と同じように民族と共に生きることを願い、民族が試練に遭っている時には、その試練を私の試練、私の痛みとするのです。また喜びがあるとすれば、それはただ流れていくのではなく、永遠に我々全体の喜びとして残っていくべきだ、と決意できる真の心情の基盤が問題なのです。

 今日皆様は、私が何を話すつもりなのかと気になったかもしれません。宗教の指導者なので、聖書の話や説教を期待していたかもしれません。しかし今日の、以上のような話の内容から見て、レバレンド・ムーンとは一体どんな人なのでしょうか、何をする人でしょうか?

 レバレンド・ムーンという人は、今日統一教会の創始者として、既に世界的な宗教家としても問題の人物となりつつありますが、統一教会の会員たちと文なにがしとはどのような関係なのでしょうか? それは簡単なことです。「あなたと私は、真に共に住みたい」、「真に共に生きたい」と願う、正にそのような心情のきずなであるといえるのです。既に私は六十歳を過ぎたので、もう定年退職で退こうとしても、みんなが「ついていきたい」と願うのです。そのような紐帯関係が、個人を超え、家族と氏族圏を超え、民族圏を超え、世界を超えて、統一運動の背後に形成されているのです。


 子供よりも痛みを感じる親

 世界的に著名な学者がいれば、彼も「愛する弟子たちと共にいたい」と願い、弟子たちも神にかけて、また自分の職場と家庭にかけてでも全体を代表して「あなたと離れては生きられない」と言うような大学者である場合、いくら苦しい条件のもとにあっても、彼は決して不幸な人ではありません。そこで初めて、幸せな教授として存在できるということです。皆様、心の世界の生活において、このような内容を測定することができなければなりません。

 愛国者と孝子の道、聖人の道に従っていくとすれば、聖人にはなれないとしても、その生き方に似た追従者にはなれるのです。さらに、自分が聖子を追慕できる内なる人になっているかどうかという場合、その共通分母になる内容は、真の愛それしかありません。親のわが子に対する愛、これは真理の中の真理です。子供が喜べば、その子よりももっと喜ぶのが親であり、子が悲しめば、その悲しみと痛みを、本人よりも一層深く感じるのが親の立場ではないでしょうか。

 以上のように考えてみるとき、家庭の中で真理を代表する立場が親の立場であるように、真の主権者、あるいは善君の場合も同様です。そして、万民と共に歴史や時代を何度越えてでも共に生きる道理を成し遂げたいと願うのが、聖人の立場です。さらに、神の天理の精髄も、万有存在と共にもっと深く、高く、広い所で共に住みたいのです。そこは、よしあしを超越した所です。そのような愛を分母にした因縁の世界こそ、あなたと私が真に共に住みたい幸福の基地ではないでしょうか。

 高名な先生方の前に、今晩このことを提言いたします。ですから皆様、自ら愛国者になる前に、愛国者ぶって人を批判してはいけません。聖人の道理に立てる心情的な愛のきずなをもたずしては、聖人の道理を論ずることはできないのです。なぜかと言えば、それは見せかけのものであり、二重人格者になるからです。


 北韓の同胞と共に住みたい

 大韓民国の国民が一つになることを願い、南北を一つにしたいと思うあまり、結成されたのが「南北統一運動連合」です。社会的な名分も持った立派な名称で出発しましたが、それでは皆様は北に行って、北韓の同胞と共に住みたいと思いますか。解放四十年という歳月を経るこの間に、皆様はどれほど北韓のことを考えてみましたか。雨が降ろうと、雪が降ろうと、彼らと共に住みたいという慕わしさが、皆様の心にどれほどしみ入っているでしょうか。

 私の場合は、故郷が北韓にあるからですけれど、慶尚南北道や全羅南北道の人々には、北韓は遠くの他国のようにも考えられることでしょう。しかし私たちの中に、「真に共に住みたい」と言える心を蘇生させることができないなら、南北統一運動を提唱すること自体が、歴史的批判を受ける一つの偽善行為になるのです。この運動を主張する提唱者として、私が一番心配するのはそのことです。知らない人は許されるし、恥を免れる余地があります。しかし、大宇宙の天理の前で、皆様はどんな立場にいるのでしょうか。

 今日提示された内容を中心として、皆様は責任を遂行しなければなりません。南北統一運動に共に参加しようとする皆様の心は、このような話を忘れようとしても忘れることができないし、逃げようとしても逃げることのできない自分であるということを発見して、悩み始める状況がこれから現れるはずです。もしそうでなければ、今日のこの集まりは、むしろないほうが良かったのです。

 父母と永遠に共に住みたいですか。いくら父母を愛しても、国のない所で父母と共に住むことは不孝です。また、いくら偉大な愛国者になって国を愛し、君主に仕えて生きるとしても、聖人の道理と通じない愛国と愛国者の道はふさがってしまいます。いくら聖人の道理に従ったとしても、聖子の道理、大宇宙の法度を中心として神様の法度を通過しなければ、神の王宮からは歓迎されないのです。

 このような意味から、今日私が提唱する「統一」というのは何でしょうか。「統」という文字は、「統べる」という意味です。「統べる」とは、主体性を中心として、素直に従ってこられるようにすることであり、統一ということです。では、家庭を統一する主体はだれでしょうか。それは孝子ではありません。孝子の熱い涙を慰めることができ、深い歓喜をもって褒めたたえることができる愛を持った父母が主体になるのではないでしょうか。

 愛国者のさまざまなる悩みを理解して、彼の悲惨な過去をただ過ぎ去った個人の歴史としてではなく、それは私のことであり、わが国民のことであり、わが国の主権者のことであると、褒めたたえることのできる人が、正に国の主体になるのです。世界の大統領がいるとしたら、彼とてもやはり同じです。

 大宇宙の主宰者である神がおられるとしたら、その神はどんなかたでしょうか。それは夜であろうと昼であろうと、人間に苦しみがあるとき、その苦しみを強く痛感しながら、人間の喜びをも、千年万年の歴史を越えて一緒に保ちたいと願う心情の所有者です。歴史が変遷し、世界の次元が変わっても変わることのない、そのような主体者をもった相対者はどんなに幸せでしょうか。

 教授の皆様の家庭で、皆様自身がそのような主体者になっていないとすれば、どうかそのような主体者と共に、相対者として永遠に住みたいと言われる人になってください。いくら周辺が混乱し、難しい環境であったとしても、そのように生きる人は、個人的にもまた家庭的にも幸せな人です。私の周りにいくら混乱した環境破壊の歴史が訪れてくるとしても、主権者と国民のために天理を見つめ、未来を眺めながら、そこでお互いに一つになろうとする心情のきずなを持って生きる人がいるとすれば、彼は国の前に恥じることがないだろうし、国民の前でも恥じることのない堂々たる存在となるはずです。聖人の道理も、それと同様の内容ではないでしょうか。

 では今日まで、レバレンド・ムーンが世界的に問題を起こし、そのすべての複雑多岐な環境を経ながらぶつかったり押したりしましたが、その多くの難関を越えることのできた力の根源は何でしょうか。北韓に行くその日に、真に歴史時代の中でだれも持つことができなかった民族のための愛の心情を持って、この国と永遠に共に生きたいという心を、歴史を代表して、時代を代表して、誇ることができるか、ということをいつも自分自身に問いながら歩んできたのです。そのような自覚した自らをもって、環境的に難しい地に入って、まずぶつかってみるのです。そこで、「あなたが真なるものか、私が真なるものか」と考えてみるとき、それは何が基準かといえば、その国に何を残したいのかということなのです。


 天理の道に従った生涯

 真の心情の因縁として、真の人を残すべきです。では真の人とはどんな人でしょうか? 知識を先に立てる人や、権力を先に立てる人や、金を先に立てる人などを残そうとはしないのです。必ず、愛を持った人を残そうとするはずです。私はそのために生きてきました。そのようにして韓国ではもちろん、世界各地でありとあらゆる苦痛と迫害を受けながら、滅びることなく発展してきました。世間の無理解ゆえに迫害を受けるときは、すでに私たちの苦しみを先頭で受けている神がおられることを知っていましたから、自分の悔しい事情など問題ではなかったのです。

 アメリカ人たちが私をダンベリーに送ったときも、彼らにとって韓国という国は眼中にありませんでしたし、いつでも彼らの思いどおりにできる国だと思っていました。アメリカの果てのアラスカ州ほどにも思っていなかったのです。彼らの評価の基準において、韓国は取るに足りない国ですが、私と十四年という歳月を共にしてからのちは、私を白い目でにらんでいた多くの人々が、隠れて涙を流すという状況が現れ始めたのです。それは力でできたのでしょうか。知識でできたのでしょうか。金などでできたはずはありません。永遠に残る歴史の発展要因として、玄妙な調和を引き起こすことのできるただ一つのその力こそ、真の愛なのです。

 真の愛とは、一体何でしょうか。それは、今日の話の「私たちは、共に住みたい」という心であり、その生活なのです。「私はこんなにもあなた方のためにやっているのに、あなた方は逃げていくのですか」と、あの山を遠く越えて逃げていく彼をしのびながら涙ぐみ、幸福な春の日が来ることを祈って、彼のための心情のきずなを絶たずに生きている人は、不幸な人ではありません。私たちはそのような人になるべきです。そのようにして生きて、この大韓民国の一番難しい問題や、アメリカの最も大きな難題を抱えつつ、「あなた方の苦しみと悲しみの根源に私が責任を持って、あなた方以上に涙する心の道、実践の道を探してみよう」というのが、レバレンド・ムーンの主義なのです。

 一言の言葉でも共に交わしつつ、悲しいことがあったら共に悲しみ、良いことがあれば共に喜ぶのです。夜十二時が過ぎて、一時、二時になるまで共に過ごすのも普通なのです。妻が「もう七十歳近くになったのに大丈夫ですか」と私のことを心配しますが、天理の道がそうなのですからこの道に従っていきながら、この道で倒れてもよいと思っています。

 儒教的な伝統では、父母が死ぬと三年間喪に服しながら孝子の道理に生きますが、そのような形式的なものが何の役に立つのでしょうか。それよりも真に共にいる心情の道理を、生活過程の中でどれほど残すかということが重要な問題なのです。


 北の悲惨さに心痛める

 皆様方がある一門(注:韓国では「門中」=同姓での縁のある間柄)の家に行くと、「ああ、教授様が来た」と褒めたたえられるでしょう。一門の先祖たちは自分の子孫が立派になり、幸福になることを願うはずです。しかし、一門が栄えるためにはどうすべきかが問題です。そのような道は何かというと、一門を代表する父およびその息子自身が一門のために生き、昼夜に「この一門でなければ生きられない」と言えるほどの、愛の主体者にならなければなりません。そうなれば、その一門は自然に栄えるのです。そうなると、飛んでいる鳥も、教授の方々の門前に来て昼食を食べていくようになるでしょう。飛んでいる鳥や地上の動物も「私たちも共に住もう、共に生きよう」と言える、心の主体者を求めているのです。家で飼っている犬もそうです。犬も主人が自分と共に生き、かわいがってくれれば、朝に夕にいつでも「ワンワン」とうれしがってついてくるではありませんか。

 統一は、どこから始めるかが問題です。南北統一はどこから何をもってなすのでしょうか。腕力でしょうか。力で屈伏させると、後で相手の力が強くなったとき、また戦いが起こります。そのような方法では、統一は成し遂げられません。一言で「南北統一運動連合」と言いますが、それはどんなに難しいことでしょうか。金日成をどのようにすればよいのでしょうか。

 皆様は今、南韓に住んでいますけれど、北韓に住んでいる彼らと真に共に住みたいという心、一つにならなければならないという心を持ってこそ、統一の道が開けるのです。北韓があんなに苦しいのは、金日成が独裁政治を行って閉鎖社会をつくってしまったからです。その事情を知れば知るほど、その統治下にいる人たちはどんなに悲惨なことかしれません。共産主義は敵ですが、彼らは敵ではありません。北韓を望みながら胸がつまって、惨めに暮らしているわが同胞のために涙ながらに「あなた方の苦しみと共に生きて、解放の一日を準備してあなた方の前に現れます」と誓いつつ、統一のための実践運動がここにおいて展開されるならば、北韓に行ける日も遠くないのです。

 今日、世界の統一教会の会員たちが、釜山の「ボンネッコル」を聖地に決めて、巡礼しています。三十余年前、猫の額ぐらいの小屋で暮らしながら、青年会員の一人が肖像画を描き、それを私が横で片づけたそのとき使った小さいテーブルがまだ残っています。なぜその小屋を見て、会員たちが悲惨であると感動するのでしょう。それは、二十世紀の終末の思想的な没落を予測して、その時代の混乱と塗炭の惨状に涙ぐみ、彼らの苦しみを背負ってあげることのできる価値と生活内容を持って生きようという信念が、ここから出発したからです。

 皆様、学者も知識のみの授受が重要ではなく、勉強しながら苦労したすべてのことを、愛するすべてのことがらを共に感じ、共感できる情の交流が必要なのです。情の交流なしに、その学者に会ってみて何をするのでしょう。世界的な大学者に会って、一体何をするのでしょうか。あなたはあなた、私は私ではなく、彼に会えば涙が出て我知らずひざまずくほどの、苦難の中で共に生きる知的な探究生活の同伴者としての態度が、その裏面に存在すべきではないでしょうか。

 私が「世界平和教授アカデミー」を設立して、ありがたく思ったことの一つは、私がダンベリー刑務所にいた時、李恒寧博士と何人かの方が訪ねてこられたことです。李恒寧博士は、私を見るなり目にいっぱい涙ぐんで挨拶をされたのです。李恒寧博士という方は一体だれかに頭を下げるような方でしょうか。割竹のように世の中に自分以上に偉い者はいないといえるそのような人が、その目に涙して……。私がいなかったら、きっとポロリと涙を落としたかもしれません。私がたとえダンベリーの刑務所の中にいても、私の悲しみがその方たちの心の深い所へ、その方たちの悲しみとしてつながり、私の喜びがその方たちの喜びとして芽生えているというこの事実は驚くべきことです。レバレンド・ムーンに誇りたいことがあるとすれば、正にこれを誇りたいと思うのです。

 個人の名誉は流れていくものです。一時代を過ぎ去るしかありません。歴史を超越してその場に通じることのできるものは、別のものです。父母のお墓が十年、二十年を経て、土さえ薄くなってなくなってしまっても、真の孝子は、平地になったそのお墓を抱いて身もだえしながら泣くのです。慟哭するその原因はどこにあるのでしょうか。歴史は過ぎ去り、数十年の生涯がたっても、だれも引き継ぐことができない心情の深い骨髄を引き継いで、今日の現実に生きて動く力として爆発することができるのは事実です。一〇〇〇年前にも、一〇〇〇年後にも、その行く道をふさぐことができないほどの内に燃える力が存在している所はどこでしょうか。それはここ以外にないのです。それは何でしょうか。


 涙しキリスト教の没落防ぐ

 大韓民国の既成教会は私に対して四十年間反対し、アメリカの教派全体も反対してきました。しかし、反対される私の本心は、彼らをお兄さんの立場から、あるいは親の立場から、神の代身の立場からその未来を心配し涙してあげることができたのです。そのような人がいたという事実がキリスト教の没落を防止し、希望の世界に向かって新しい突破口を探し出すことができる一つの因縁になったということを、そこまでは分からなかったでしょう。しかし、今やアメリカの牧師たちが韓国へ訪ねてきて、統一教会の足跡をたどりながら、感激の涙を流すという現象が起こっています。その人たちは何のために韓国を訪ねてくるのでしょうか。あの釜山のボンネッコルの聖地で、なぜ共に熱い祈祷をささげることができるのでしょうか。

 私が釜山で暮らしていたあの時は、「六・二五動乱」の直後で、最も悲惨な避難民という身の上でしたし、服は米軍のポケットの多い作業服を着ていました。下は韓国服のズボンに腰帯を結んで、靴は古いゴム靴でした。そんな姿をして聖地に座って、「あの大海を渡って、心から期待する心情のきずなを探すために、あの国へ行って種をまこうと思います。氷山のようなこの世界の中に、真の愛の父母はどこにいるというのでしょうか?」と祈りました。釜山の遠くの海を眺めながらそのように祈ると、神はよく私に冗談を言われました。「ああ、君見てごらん。これから世界はこのようになるんだよ」と言われて、大きな商船に私を乗せて、多くの群衆が歓呼するそんな夢みたいな場面を見せたりして、慰めてくださいました。

 そのように、神が私のような人間を中心として環境を超え、時間と距離の隔たりを超えて、今日の現実の中で私を慰めてくださっているという事実は、何を意味するものでしょうか。「ただ、あなたと私と、真に永遠に共に住みたい」というその願い、神だにこれを求めているのではないでしょうか。そのためには神も威信を捨てて、すべてのものを投入するのです。自らのすべてのものを全部犠牲にしてでも、これだけは成し遂げようとされるのです。

 そのような天理に従ってすべてのことをささげて生きながらも、四十年間絶えず反対され続けてきた統一教会は、世界的な基盤を築きました。今や、あまりにも有名になって私は困っております。ですから、博士の皆様方にこれを分けて差し上げたいのです。皆様方に分けて差し上げるその道は、ほかでもありません。

 統一教会の文なにがしのジェスチャーだとか、話だとか、知識などは何も学ぶ必要はありません。ただ一つ皆様方に差し上げられるプレゼントとは、皆様が学ぶことがあるとすれば、「あの人たちと共に住みたい」と願う、この心です。この世の中だけではなく、あの世に行ってもです。

 それで私は、白鐵博士が他界したことを非常に残念に思っています。私も向かい合って、本当に涙のこぼれる話をしたかったのに、もう霊界に行ってしまわれました。今でも韓国に来るたびに思い出します。「私がしてあげるべきことができなかったなあ。兄弟以上の勧告をし、父母以上に忠告のできる立場に立って、永遠に苦楽を共にする心情世界を求めていける同志だったのに、私はそのような話ができなかったんだなあ」と、このように思っているのです。


 金や知識より心が大切

 レバレンド・ムーンの生活哲学は、特別なものではありません。ある村へ訪ねていけば、私はその村の歴史と共に生きたいのです。おじいさんに会えば、夜を明かしながら過去の話をよく聞いてあげます。その次はその時代と現実について、眠らないでよく聞いてあげるのです。「未来の希望は何ですか」「どのような心配がありますか」と尋ねながら、その村、その家庭の未来に対して二人で話をすれば、その後は自分の息子や娘、あるいはその村の有名なだれよりも、私と向かい合って話したくて共に住もうとするのです。

 そのように生きてきて、今日、私は世界的な人物になったのです。もちろん行くべき道はまだまだですけど――。これから統一を成し遂げるには、知識とか力だけをもってしてはできません。だからといって、これらが一切いらないと否定するわけではありません。全部必要ですがそれよりもまず、その知識世界の専門分野につながっている目上の人とか、目下の人と共に住みたいと願う心がそれ以上に重要であるというのです。その心がなければすべては偽物です。

 世界的な学者がいるとすれば、その方は学問分野の体系を整え理論を立てるためにどれほど苦労したことでしょうか。私たちはそのような谷をかき分けながら、涙とともに骨がにじみ出る心情をもって本を読み、彼の苦しみを私のものとして感じ、その人の本を手にしても、涙ぐんでありがたいと思える心が必要です。

 皆様は、学生をどれほど愛したことがありますか。自分の骨に深くしみ入って忘れられないほどその学生を引き止め、寒さを冒し、苦難を冒し、体面を冒してでも「君と私とは離れることができない心情のきずなを持った師弟の関係だ」と堂々と言えますか。これが問題なのです。また夫として、妻に対しては「あなたがそこに行けば、私もそこへ行きます」と言えるほどの裏面の生活内容をもって暮らす夫婦関係であるべきです。

 愛国者の道がそうであり、聖人、聖子の行く道がそのような道です。これは老若男女を問わず、地位の高低を問わず、皆が願うものです。このように生きたとしたら、たとえ反対されても、追われたとしても、結局は中心主体になっているというのです。大韓民国で四十年間、私がどんなに悪口を言われて冷遇されたか知っていますか。空港を出入りするたびごとに、刑事たちが「君が文なにがしだね」と冷遇しました。しかし、「君たちはそう言うけれども、私は君たちの先祖と共に、君たちの父母と共に、君たちの子供と共に生きよう!」。このような気持ちで決意して生きてきたので、四十年の間に文なにがしの名前がだんだん高まってきたのです。


 韓国で郷土学校始まる

 今後、私に反対すれば、突然ある人から「なぜ、義人の悪口を言うか!」と、胸元をつかまれるかもしれません。今まで私が種をたくさんまいておきましたから、春になるとその種子から芽が多く出るようになっています。そのような環境がつくり上げられています。戦わないで、すべてのことが平静になる時代が目の前に来ています。どうですか。私がまるで狂ったように見えるでしょうが、狂ったのではありません。

 この前、私は韓国で郷土学校を始めました。皆様、大学教授として郷土をどれほど考えたことがありましたか。郷土と共にどのように生きようかと考えなければなりません。自分の父母と共に住みたくないし、郷土と共に生きたくないという人は国を愛することはできません。そのような人が「国を愛する」と言うのは、うそです。国と共に生きたのちに、世界と共に生きるようになっているのです。そうして、世界と共に生きてのちに神と共に生きるようになっているのです。ですから郷土を愛し、その地域社会を愛してこそ国を愛することも可能なのです。

 真と偽は、一緒にしてぶつけてもんでみれば分かります。もんでみれば何が減って、何がなくなるか明らかになるからです。偽物はなくなります。本物は減っても必ず残るというのです。それが生きた標本になるのです。では、この国ではどのような家庭の標本が必要でしょうか。共に生きたいと願う人々、そのような息子、そういうふうに生きた父母が標本になるのです。

 この世界では、どのような聖人が残るのでしょうか。それはそういうふうに生きた聖人です。神の国があるならば、そこにはそういうふうに生きた聖子が主体として残るでしょう。そのように生きられなかった人は決して主体にはなれません。これが統一思想の骨子です。ですから、どうかお帰りになったら、皆様の学校からこのような運動を広げてください。そうすることによって、南北統一は自分の心、自分の生活から始まるのです。


 後の歴史から愛の審判

 自分が韓国で生活していても、世界と共にある心情のきずなを持ってさえいれば世界的な生き方をすることができます。愛と心情のきずなを持った人は、統一圏に同参できる特権があります。皆様、いくら無学の女性であっても博士と結婚して愛の関係を結べば、一夜にして博士夫人になれるでしょう。共に住もうとする心情のきずなを多く持っている人は、今日の統一圏に堂々と参席する特権があります。神ご自身がそのような方ですから、神と一つになれる生活内容を持つと、そこに同参できる資格が自動的に付与されるのです。

 私はこれまで、数百、数千組の合同結婚式を行いましたが、どの家庭を訪ねていっても、門を入れば歓迎を受けることができるようになっています。西欧の社会では、父母も自分の子に電話で約束して訪ねるようになっていますが、私もそのような方式に縛られるべきでしょうか。いいえ。いつ訪ねていって「門を開けなさい」と言っても、「はい、どうぞ」と歓迎されることができてこそ、あなたと私という隔たりのない、幸福な世界が現れるのではないでしょうか。

 では、政治を行う指導者たちは国を愛しているのでしょうか。国の未来がどうなっていくかも知らずに、近ごろも、民正党と新民党が互いに大統領を争っています。では、大統領になってみなさいというのです。彼らに国民と共に真に生きたいという心がなければ、それは全部流れていくものです。いくら立派であっても水泡のようになくなってしまいます。国民を愛することのできない指導者であれば、国民から、また後々の歴史からも審判を免れがたいはずです。

 私は、統一教会の創始者になっていますが、統一教会の中で私を追い払おうとする人はいません。どうしていないのでしょうか。その実証的な証をしましょう。アメリカに「エクス・ムーニー」という、いわば統一教会員になったけど、途中でやめていった人たちがいます。「私より勉強もできなかった者が教会の幹部になったから、その人とは一緒にいられない。文鮮明先生はいいけれど、その人のゆえに私は教会に行かない」、このように言い訳をしています。

 私がダンベリーの牢獄に入った時、彼らが全部一緒になって手紙を送ってくれました。「先生を牢獄に送った、今までの統一教会の人たちは偽物だ」というのです。先生を牢獄に送っておきながら、責任を執らないでそのままいる者たちが、現在教会に残っている人々だということでした。彼らは、「私たちはこのままではいられない。先生が牢獄に入れば、牢獄を破壊してでも先生をヘリコプターに乗せて、南米のほうに移送します。このような計画を立てていますが、どうでしょうか」と言うのです。彼らが言うには、統一教会の文先生を愛していると言うのです。

 忠臣と奸臣の違いは何でしょうか。奸臣も王を愛し、忠臣も同じです。違うところは、奸臣は公義と順理的な過程を通らないということです。その秩序的段階を経ようとしないところが間違っているのです。

 皆様も愛の心情を持つと、このような秩序的な段階を経て、いくら法が存在するとしても結局は法を超えて生きるのです。ある家庭に、全家族と共に生きたいと願う息子がいるとしたら、その家庭に法があったとしても、その法をもって制御することができるでしょうか。国家でもそのように生きる人をだれが制御できますか。世界でも、聖人の道理をもってそのように生きる人はだれも制御することはできません。いくら神の法が絶対的であっても、そのように生きる人を妨げることができるでしょうか。むしろ歓迎するはずです。 家庭から、社会から、世界から、天宙から、このような一念をもって生きるべきです。鉄が磁石になろうとすれば、よく擦って一つになるべきです。近づくことによって同化される過程を経てこそ、自分も磁石になれるのです。環境の制約や我々の習慣性と歴史性を超えて、そのような運動が始められるのです。本心がそうであるからです。

 教授の方々も、次の事実をよく自覚してから教壇に立って教育すべきです。自分は神と共にあって教壇に立つ者であるということです。このような生活哲学を持つべきです。神と共に住みたいという立場から、聖人と共に住みたいと願いながら、国と国民を代表する立場から、「私に見習いなさい」と宣言する教育をしなければならないというのです。習うのは専門知識ではありません。国と共に、聖人の道理と共に、天理と共に住みたいと願う情緒的な土台の上で、初めていろいろな専門化した方向性が必要なのです。経済とか、哲学とか、科学とかすべて同様です。水のない砂漠では草木が生きられないように、そのような心情の土台なしには真の人間や、成熟した社会は現れえないのです。


 死の恐怖を越えて生きる

 私は一人であっても、このような歴史的なすべての存在が追求する生活のまっただ中に立って宣言するのです。それこそが本当の権威ではないでしょうか。

 教授の方々は、私のこの話をただ過ぎ去っていく人の話として聞かないで、よく心に刻んでおいてくださることをお願いいたします。そうすれば、「私たちは、真に共に住みたい、共に生きたい」という思いがするときはレバレンド・ムーンを思い出されるはずです。そして、それを残していくべきです。それを残していく人は、あの世の道も平坦な大路になるのです。そうでないと、すべてのものが門をつくって妨げます。これは単なる過ぎ去っていく話ではありません。私の経験と実証を通して得られた結論なのです。

 ですから、レバレンド・ムーンは死の恐ろしさを越えて生きる者です。歴史と共に、一〇〇〇年前の人もこのような生活を願ったのであり、今日、五十億の人類もこのような生活を願い、未来と後代の人類もこのような生活を願うはずです。だから、現実の中で生きながらも超越的な歴史を生きていくことが、どんなに素晴らしいことかというのです。このように生きたとしたら、どこへ行っても寂しいことはありません。いくら寂しい立場、甚だしくは牢獄に入っても友達が多くできるのです。南京虫でも友にするはずです。そのような立場は悲惨であるかもしれませんが、そこからも深い心情の節が生じるのです。事実そうです。

 ここにおられる教授の皆様と原理研究会、基督教学生連合会の皆様は、これから連合運動をしなければなりません。今まで教授と学生の関係で、いかに教授が権威を振るってきたことでしょうか。今日からは変わっていくべきです。「ああ、君たちと共に暮らしたい」「私の学生時代が懐かしいなあ。私の持っている知識を全部上げたいし、君たちといるのがいいなあ」「ああ、やっと研究が終わった。君、ここへ来て話をしないか」と言えるような生活が必要です。

 講義室だけに必要な教授ではなく、生活の中でも必要とされ、生涯において共に住みたいという弟子をつくるところから新しい理想世界が開けてくるのです。その基地が広くなればなるほど、その教授の生涯がいくら苦しくても、たとえ途中で客死したとしても彼は成功した人です。彼が置かれた立場が惨めであればあるほど、来るべき歴史に栄光として記憶されるのは間違いない真実です。皆様が私と共に会ったこのことは、背後の先祖までもが全部関係しているという事実を知らなければなりません。「南北統一運動連合」が出帆する今から、有終の美を飾るために努力しながら生きていきましょう。

 分かれた南と北は、簡単に一つになれるはずがないのです。愛する国同士が戦うその過程では、夜も眠らずに、時間を超越し、難しい環境を克服することができる心の決意と実践が必要なのです。「真に共に住みたい。死ぬのも共に死に、生きるのも共に生きる――」「我々の先祖、霊界の霊人たちとも共に生きる――」。皆様がそのような教授や学生になることによって、そこから南北統一は始まるのです。

 南北統一を達成することができれば、民主世界と共産世界の統一もそこから始まることでしょう。そして、世界を代表する立場に立って、五十億の人類を代表し、三十億のアジア人を代表し、わが学校を代表し、私が教えた弟子全部を代表する立場に立って、民族の将来、世界の将来を見つめるべきです。そして、「私は、あなたがたと真に共に生きる運動を展開しよう」と誓わねばなりません。それが、聖人の道理と通じれば聖人に似るのであり、聖子の忠節を神に対して実践すれば、「神の相続者」、「み旨の後継者」になれるということを私は生涯を通して確認したので、今日皆様にこのような話をお伝えするのです。

 どうかお帰りになったら、まず家庭の中からこの運動を始めてください。そのことによってその名に恥じない結果が、この三千里の祖国全土に現れることを再三お願い申しあげながら、私の話を終わらせていただきたいと思います。ありがとうございました。

2013年4月5日金曜日

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2011年11月24日木曜日

説教(2011年11月6日) ■宋 総会長 原理大復興会 ■説教内容

説教(11月6日)


■宋 総会長 原理大復興会

■説教内容

最初に、文鮮明先生ご夫妻に敬礼を捧げました。今日、初めて教会に来られた方々に、敬礼を捧げたその意味をお伝えしようと思います。

神様が、宇宙を創造し、最後に人間、アダムとエバを創造されました。人間が神様の息子娘になり、そして、神様は、人間の父母になることを願われていました。このように神様は、宇宙を創造された目的を持っていました。

しかし、アダムとエバが堕落することにより、可哀そうな神様になりました。そうして、宗教を通して、人間が本来の位置に戻ってくることを願われました。根本を求め、親孝行をすること、これを教えているのが宗教です。

神様を中心に、四位基台をなすために、父母となり、無形の神様が臨在できる家となることを願われたのがアダムとエバでしたが、神様の家が無くなってしまいました。その家を取り戻すために、2000年前に、イエス様が来られました。

しかし、十字架により、神様の家を再び失いました。そうして、三番目に、再臨のメシヤによって、責任分担が果たされ、父母を迎えることができるようになったのです。人類史上初めて、神様の願いである四位基台を果たしてくださり、夜の神様と昼の神様が一つになり、神様を解放し、神様が臨在することができる聖殿になりました。このような意味がありますので、はじめに敬礼を捧げました。人類史上初めての神様の家なのです。

次に、敬拝後、家庭盟誓を、韓国語で唱和しました。本来、神様は、イエスキリストと、第一イスラエル民族を通して神のみ旨を果たすことを願いました。しかし、それが成されず、第二イスラエルとして、キリスト教を立て、そして、韓国の地に、再臨主を送る準備をし、天国の言葉を創りたいと思いました。そこで、朝鮮王朝時代、世宗王によりハングルはつくられ、天国の言葉がつくられます。

今日の説教に入ります。
尊敬する全国の教会員の皆様、生きること死ぬこと、罰を受けること、人が、その興亡盛衰に干渉することができるでしょうか?全てのことは、神様が主管者であられます。

創造原理では、神様の責任分担は95%で、人間の責任分担は5%とされています。無形の神様の実体になり、永遠の神様の息子であり、相続者となるはずでした。地上生活は、神様の愛、父母の愛、夫婦の愛、子女の愛を合わせた愛を体恤する場です。

心情的に、神様の愛を体恤することが人生の目的です。お母さんのお腹の中で、10か月生活し、その後、胎盤を切り捨てて地上に出てきます。産まれて30才位までに、子女の愛を30才-40才位までに夫婦の愛を40才-50才位で、父母の愛を確立していきます。

水中生活が母の腹中時代であり、その後、空気の生活が地上生活になり、最後に愛の訓練を受けて、完成すれば、愛中時代、愛の中で生きるのが天国生活です。そうして、完成した霊人体と肉体が分離され死を迎えます。

この地上にあることは、霊界、天国にはすべて存在します。地上生活は霊界の影のような存在です。例えば、私が、パソコンでサンフランスコを見たいと思えば、サンフランシスコが出てきます。これは、霊界の在り様を現しています。

全て、地上にあるものは霊界に存在します。しかし、これは天国に行った時の話です。地獄ではだめです。なぜ、我々はそれを知らないのでしょうか?霊界、神様を知らないまま生活しているからです。神様を信じない人に聞いてみたいのですが、もし、全て自然にできたとするなら、とても大変です。例えば、世界70億人類の中で、目が4つある人がいますか?完全に、神様の設計によって創られているのです。

地上での愛の訓練が終わり、生霊体になれば、天国の良いところに行きます。まだ、実っていない栗は不良品です。ゴミ箱に捨てられます。結婚していない人は、お父さん、お母さんに成れません。

昇華は、きれいな花を準備します。昇華は、最高のお祝いです。結婚式のお祝いには行かなくても、亡くなった時には行ったほうが良いです。全部、霊界から見ています。後に霊界で、なぜ来なかったかと叱られてしまいます。

何も持たないで生まれ、何も無いまま死にます。何も持って行けないのです。実った霊人体だけが霊界へ行くのです。人間の生死は神様だけが主管することができます。ですから、自殺する人は、罪の中で一番重い罪になります。

神様に忠孝烈の精誠を果たせば喜びをお返しできます。神様を喜ばせることは、神様の愛を占領し、神様の聖殿になるのです。神様の願われることをしなければいけません。反対の道を行けば滅びます。神様が主管され天地人真の父母定着実体み言葉宣布をされたことにより、2000年前のイエス様が十字架で、果たすことができなかったことを、文先生ご夫妻によって完成されました。

日本ほど、先祖に侍る国はありません。しかし、本当の先祖は神様です。先祖の先祖は神様です。そのことが判り、神様に誰よりも侍れば、母の国、女王の国として勝利します。日本ほど美しい国はないのです。

これからの我々の歩む姿勢は、1億5千万全ての日本人が、神様を先祖の中の先祖として侍ることです。神様に、ありがとうございますと感謝いたしましょう。顔に目があり鼻があることに、神様、ありがとうございます。ご苦労様です、おめでとうございます。と感謝しましょう。

興亡盛衰を主管される神様に、関心を持てば天運がきます。感謝の言葉を、神様に伝えれば通じます。日本の運命が変わるでしょう。神様が、皆さんに惚れると思います。ご苦労様でした。おめでとうございます。これを聞いてくれないでしょうか?よろしくお願いすれば、神様は、ちゃんと願いを叶えてくれるので、この内容を説明しました。

これが、母の国として、行くべき道なのです。全ての教会員、伝道の前線に出ていくことを期待しています。一日を千年のごとくに過ごして下さい。前進、発展する道は、天の神様を信じることです。全国民をそのように導いてくれるように願います。
私の話を理解していただいたことに感謝して、説教を終わります。ありがとうございました。

☆http://www.uc-shibuya.com/
渋谷教会 ブログのコピーです。
説教(2011年11月6日)
■宋 総会長 原理大復興会
これは、統一教会初のインターネットによる 原理大復興会であった。
と教会長が話されました。

新しい事にチャレンジ!
神様を伝えて行く、みことばを伝えて行く!

☀これからの我々の歩む姿勢は、1億5千万全ての日本人が、神様を先祖の中の先祖として侍ることです。神様に、ありがとうございますと感謝いたしましょう。顔に目があり鼻があることに、神様、ありがとうございます。ご苦労様です、おめでとうございます。と感謝しましょう。

興亡盛衰を主管される神様に、関心を持てば天運がきます。感謝の言葉を、神様に伝えれば通じます。日本の運命が変わるでしょう。神様が、皆さんに惚れると思います。ご苦労様でした。おめでとうございます。これを聞いてくれないでしょうか?よろしくお願いすれば、神様は、ちゃんと願いを叶えてくれるので、この内容を説明しました。

ここの所の神様に、ご苦労様でした。おめでとうございます。これを聞いてくれないでしょうか?(お願いします)
神様との会話が大切だと感じます。
(毎日の祈りの中で、神様との会話)
その為にも、神様の事を、正しく知らないといけないと思います。
感謝します。

出来る事からチャレンジしましよう!
ありがとうございます。

2011年9月11日日曜日

天国を開く門

家庭は天国の中心モデル
第一節 家庭はすべての存在の中心モデル
第二節 家庭は宇宙の愛に接することができる愛の教材
第三節 愛の王国に入籍するための愛の訓練場
第四節 家庭は天国のモデル教科書
第五節 家庭は三時代の愛が結集した核心体
第六節 家庭は心情的な訓練場所
第七節 人間の永遠の本郷は家庭
第八節 家庭は天宙主義を完結させる最終基準
愛を中心とした人生行路
第一節 人間はなぜ生まれたのか
第二節 愛を中心とした創造本然の人生
第三節 人間の永遠なる生命の要素は愛
第四節 神様の愛はどのようなものか
第五節 愛と喜びの相続のための神様の祝福
第六節 愛の中心を求めていく人生行路
第七節 三時代を行く人生路程
第八節 地上生活は霊界の拍子に合わせるための訓練場所
創造本然の男女の愛
第一節 創造本然の男女の愛
第二節 男性と女性が生まれた理由
第三節 男性と女性は互いに絶対的に必要な存在
第四節 愛は相対から来るもの
第五節 異性間で愛の調和を成せば
第六節 真の愛に酔った本然の人間
第七節 愛は極めて自然なところで成される
人生路程
第一節 人が願う目的
第二節 生まれた理由
第三節 瞬間(一日)と一生の関係
第四節 胎中期間と三段階秩序
第五節 我々の人生の道
第六節 我々が訪ねるべき本郷
第七節 人生最高の行くべき道
有形実体世界と無形実体世界
第一節 人生路程についての祈祷文
第二節 死に対する理解
第三節 三段階の人生行路
第四節 霊界、肉界の中心
第五節 明らかに実存する霊界
第六節 霊界の創造

2011年7月30日土曜日

平和を愛する世界人として 第一章 ご飯が愛である-幼少時代 3

牛を愛せば牛が見える 42

*目に入るものはすべてを知り尽くして初めて満足する性格だったので、何でも大まかに知ってそれで終わりということはありませんでした。「あの山の名前は?あの山には何があるのだろう?」という疑問が浮かぶと、必ず行ってみたものです。幼い頃、二十里 (約八キロメートル) 四方にある村々の山の頂という頂には全部登ってみました。その山に行く途中も行かない所がありませんでした。そうやってこそ朝日が照らすあそこに何があるかを心に思い浮かべ、心置きなく眺めることができるのであって、分からないと眺めるのも嫌になります。目に入るものは、その向こう側にあるものまですべて知らなければ気が済まず、我慢できませんでした。
*ですから、山に行って触ってみなかった花や木がありません。目で見るだけでは物足りず、花も木も触ってみたり、匂いを嗅いでみたり、口に入れてみたりしました。その香りと食感があまりに心地良くて、一日中草木の匂いを嗅いでいなさいと言われても嫌ではありませんでした。良き自然に魅了されて、外に行けば家に帰るのも忘れてしまい、野山を歩き回りました。太陽が沈んで薄暗くなっても恐ろしいとは思いませんでした。
*姉たちが山菜採りに行く時は、私が先頭になって山に登って、山菜をもぎ取りました。おかげで、味が良くて栄養価のある青菜も種類別に全部分かるようになりました。その中で、好物と言えば苦菜です。薬味を加えた醤油で和えて、ビビンバに入れてコチュジャンと混ぜて食べると、味が一級品でした。苦菜は、食べるとき口に含んでちょっと息を止めます。そうやって一呼吸置いてよく蒸らすうちに、苦菜の苦味が消えて、口の中に甘味が染み出してきます。そのコツがうまくつかめると、非常に美味しく苦菜を食べることができます。
*木登りも好きで、わが家にあった樹齢二百年の大きな栗の木を登り降りしました。村の入り口の外まで大きく広がった展望がどれだけ素晴らしいことか。木のてっぺんまで上がって、いつまでも降りようとしませんでした。
*ある時、夜中まで登っていたら、すぐ上の姉が眠らずに私を捜しに来て、危険だと大騒ぎしたことがあります。
「龍明、お願いだから降りてきなさい。夜遅いから、早く戻って寝なければ」
「眠くなったらここで寝ればいいよ」
姉に何を言われようと、私は栗の木の枝に座ってびくともしません。すると、腹を立てた姉が怒鳴りました。
「こら、猿!早く降りてこい!」
私が木登りを好んだのは申年生まれだったせいかもしれません。
*栗の木に毬栗が鈴生りに垂れ下がるようになると、あっちの木こっちの木と、折れた木の枝を使って毬栗をゆらゆら動かして回りました。毬栗がぽとぽと地面に落ちていくので、この遊びも本当に面白いものでした。都会暮らしの最近の子供たちがこういう面白さを知らないのは実に残念なことです。
*自由に空を飛び回る鳥も私の関心の対象でした。なかなかきれいな鳥が飛んでくると、雄はどうなっているのか、雌はどうなっているのかと、実地にいろいろ調べて研究しました。その頃は木や草や鳥の種類を教えてくれる本がなくて、自分で詳しく調べてみる以外方法はなかったのです。渡り鳥の後を追って山をあちこち捜し回ろうとし、おなかが空いても気になりませんでした。
*ある時、カササギがどうやって産卵するのかひどく気になって、朝な夕なカササギの巣がある木を登り降りしました。毎日のように木登りして観察したので、実際に卵を産む場面も見たし、カササギとも友達になりました。
「カッカッカッカッ」
カササギも初めは私を見ると、しきりに鳴いてやたらと騒いだのですが、後になるとじっとしていました。
*周辺の草むらの虫も私の友達でした。毎年夏の終わり頃になると、私の部屋の前にある柿の木のてっぺんでヒグラシが鳴きました。夏の間中ミンミンミンと耳痛く鳴いていたセミの声がぱったり途絶えて、ヒグラシが鳴き始めると、どれだけほっとするかしれません。もうすぐ蒸し暑い夏が去り、涼しい秋が来るという季節の変わり目を告げる鳴き声だったからです。
「カナ、カナカナカナカナ」
そうやってヒグラシが鳴くたびに、私は栗の木に登って考えました。
「そうだな。穴に入って鳴いたって誰も気がつかないさ。やっぱり、どうせ鳴くなら、ああいう高い所で鳴いたら村の人みんなに聞こえていいよなあ」
*ところで、分かってみると、ミンミンゼミもヒグラシもすべて(人に聞かせるためではなく)
愛のために鳴くのでした。ミンミンミンもカナカナカナも鳴き声は皆、連れ合いを呼ぶ信号だと知ってからは、虫の声が聞こえるたびに笑いが込み上げました。
「そうか、愛が恋しいというのか。熱心に鳴いて、素敵な連れ合いを見つけろよ」
このように自然界の生き物と友達になって、彼らと心を通わせる方法を少しずつ悟っていきました。
*故郷の家から十里(約四キロメートル)西に行くと黄海です。少し高い所に登るだけで広々とした海が見えるほど、海は近くにありました。溜め池がいくつもあって、そこに小川の水が流れ込んでいました。下水のにおいがする池に入り、中をあさって、ウナギとカニを上手に捕まえたものです。池の中のあらゆる場所を探って魚を捕まえてみると、どこにどんな魚が棲んでいるのかよく分かりました。ウナギはもともと広い所に腹ばいでじっとしているのが嫌いで、穴に隠れます。頭を穴に押し込んでも、長い体を全部は入れることができず、尻尾がちょこっと出ているのが普通です。その尻尾らしきものを口で噛んで捕まえれば間違いないのです。カニの棲む穴のような所に、ウナギは尻尾を出してじっと潜んでいました。わが家に来客があって、お客様がウナギの煮詰めたものを所望されたときは、十五里(約六キロメートル)の道をぶっ通しで走っていってウナギを五匹ほど捕まえてくるのは訳もないことでした。夏休みになれば一日に四十匹以上、いつも捕ってきたからです。46
*私が唯一嫌だったのは、牛に牧草を食べさせることでした。父から牛に食べさせてこいと言われると、向こう側の村の野原に牛をつないでおいて、その場から逃げてしまいました。しばらくの時間逃げて、心配になって戻ってみると、牛は相変わらずその場所につながれていました。半日近く過ぎても自分に食べさせてくれる人が来なければ、牛はモーと鳴きます。遠くで牛の鳴き声が聞こえてくると、私はいたたまれなくなって、「牛の奴め。あいつめ、あいつめ……」と言って苛立ちました。おなかが空いたと私を捜して鳴く声を、気にしないようにしても気になって仕方がなく、胸がつぶれる思いをしました。それでも、夕方遅くに行ってみると、怒って角で私を追い返そうとすることもなく喜んでいました。そんな牛を見るたびに、人間も大きな志の前では牛と同じでなければならないと考えました。愚直に時を待てば良いことに出会うようになるものです。
*わが家には、私がとてもかわいがっていた犬がいました。利口な犬で、学校から戻ってくると家の外の遠くまで迎えに来ました。私を見つけるとうれしそうにするので、いつも右手で触ってやりました。そのせいか、犬がたまたま私の左側に来ても、さっと回って右側に来て、私に顔をすりつけてきます。そのときは右手で顔を触って顔や頭をごしごししてやり、背中を撫でてやりました。そうしないと、キャンキャン吠えては付いてきて、私の周りをぐるぐる回るのです。
「こいつ、愛が何であるのか分かるのか。それほど愛がいいのか」
*動物も愛を知っています。雌鶏が雛をかえすために卵を抱いている姿を見たことがあるでしょうか。卵を抱いた雌鶏は、深刻そうな目をして、誰も近くに来ないように足を踏みならして、一日中座っています。雌鶏が嫌がるのは承知の上で、私は鶏小屋を随時出たり入ったりしました。入っていくと、雌鶏は怒って、首を真っすぐに立てて私を睨みつけます。私も負けじと睨み返します。あまり頻繁に出入りしたので、後になると、最初から私を相手にしなくなりました。しかし一度だけ、神経が高ぶったのか、卵を守ろうと足の爪を長く伸ばして、ピューンと飛んで私をつつこうとしたことがあります。結局、卵が気になってその場を離れられず、徒労に終わりましたが。47
*卵を抱いた雌鶏は、私がわざと近くに行って羽を触ってもぴくりともしませんでした。おなかの羽毛が抜けてしまうほど卵を守って座り続け、やがて雛を誕生させます。そうやって母子が愛でしっかりと一つになっているので、卵を抱いた雌鶏の権威の前では雄鶏も好き勝手なことはできません。「誰であろうと、ちょっとでも触ってみろ。黙っちゃいないぞ!」という天下の大王の権威を持っているのです。
*雌鶏が卵を抱いて守ることが愛であるように、豚が子を産むことも愛です。豚が出産する様子も見守りました。親豚がウーンと稔って力むと子豚がつるっと落ち、またウーンと捻って力むとつるっと出てきました。猫も犬も同様です。目も開けられない動物の子供たちが、ウーンと力むたびにこの世界に出てくるのを見ると、うれしくて自然と笑みがこぼれます。しかしながら、動物の死を見るのは実に悲しいことです。
*村から少し離れた所に屠畜場がありました。牛が屠畜場に足を踏み入れると、白丁(屠畜などに従事する当時の被差別民)が出てきて、腕ほどの太さの金槌で牛をドーンと一撃します。大きな牛がばたりと倒れて、すぐに皮を剥ぎ、足を取り外します。足を取り外した後でも、切られた箇所がずっとぴくぴくしているのです。生命が死にきれなくて生きているのです。それを見ると涙があふれて、わんわん泣きました。48
*私は幼い時から人並み外れているところがありました。神通力があるかのように、人々が知り得ないことをかなりよく言い当てました。幼い頃から、「雨が降る」と言えば間違いなく雨が降ったし、家の中に座って「あの上の村の誰々お爺さんが危ないだろう」と言えば、そのとおりになりました。そんな能力があったので、七歳の時から村々で見合いをしてあげるチャンピオンになりました。新郎と花嫁の写真を二枚だけ持ってくればすべて分かりました。「この結婚は良くない」と言ったのに結婚すれば、全部壊れてしまいました。そのように良縁を結んであげることを九十歳になるまでしたのですから、その人が座ったり、笑ったりするのをさっと見ただけで、すべて分かるようになりました。
*姉が今何をしているのかも、集中して思念してみるとすべて知ることができました。精神を統一し、集中して思念すれば、全部分かりました。ですから、姉たちは私を好きでありながらも、一方で私を恐れました。私が彼女たちの秘密を何でも知っていたからです。凄い神通力のように見えますが、実際のところ、これは別段驚くようなことではありません。取るに足りない蟻でさえも、梅雨の始まりを知って前もって避難するではありませんか。人間も自分の行く道を先んじて知らなければなりません。それを知るのはそれほど難しいことでもありません。カササギの巣を詳しく観察すれば、風がどこから吹いてくるかを知ることができます。どこからか風が吹いてくれば、カササギはその反対側に入口をさっと作っておきます。木の枝をくわえてごちゃごちゃと絡み合わせた後、雨水が入らないように巣の下と上に赤土をくわえてきて塗ります。そうしてから木の枝の端をすべて一つの方向に揃えます。家の軒のように雨水が一箇所にだけ流れるようにするのです。カササギにもこれだけの生きる知恵があるのに、人間に
なぜそういう能力がないのでしょうか。
*父と一緒に牛の市場に行って、「お父さん、あの牛は良くないから買っては駄目です。良い牛はうなじがしっかりして、前足が立派で、後ろと腰ががっしりしていなければならないのに、あの牛は全然そうじゃない」と言えば、必ずその牛は売れませんでした。父に「おまえはそんなことをどうやって知ったのか」と言われたので、私は「お母さんのおなかの中で学んで生まれました」と答えました。もちろんそれは、そんなふうに言ってみただけです。
*牛を愛すれば牛が見えるのです。この世で最も力強いのが愛であり、一番恐ろしいのは精神統一です。心を落ち着かせ静めていくと、心の奥深い所に心が安らぐ場があります。その場所まで私の心が入っていかなければなりません。心がそこに入って眠って目覚めるときには、精神がとても鋭敏になります。まさにその時、雑多な考えを排除して精神を集中すればすべてのことに通じます。疑問に思ったら、今すぐにでもやってみたらよいでしょう。この世のすべての生命は、自分たちを最も愛してくれるところに帰属しようとします。ですから、真に愛さないのに所有し支配することは偽りなので、いつかは吐き出すようになっているのです。

草むらの虫と交わす宇宙の話 50

*森の中にいれば心が澄んできます。木の葉がしきりにカサカサする音、風が葦を揺らす音、水場で鳴くカエルの鳴き声といった自然の音だけが聞こえ、何の雑念も生じません。そこで、心をがらんと開け、自然を全身で受け入れれば、自然と私は別々のものではなくなります。自然が私の中に入ってきて、私と完全に一つになるのです。自然と私の問の境界がなくなる瞬間、奥妙な喜びに包まれます。自然が私になり、私が自然になるのです。
*私はそのような経験を生涯大事にしまって生きてきました。今も目を閉じれば、いつでも自然と一つになる状態が訪れます。ある人は無我の状態だとも言いますが、私を完全に開放したところに自然が入ってきてとどまるのですから、事実は無我を超えた状態です。その状態で、自然が話しかける音を聞くのです。松の木が出す音、草むらの虫が発する音……。そうやって私たちは友達になります。
*私は、その村にどんな心性を持った人が住んでいるか、会ってみなくても知ることができます。村の野原に出て一晩過ごし、田畑で育つ穀物の言葉に耳を傾ければ、おのずと分かるようになります。穀物が嘆息するのか喜ぶのかを見れば、村人の人となりを知ることができるのです。
*韓国と米国、さらには北朝鮮で何度か監獄に入っても、他の人のように寂しいとかつらいとか思わなかったのも、すべてその場所で風の音を聞くことができ、共に暮らす虫たちと会話を交わすことができたからです。
「虫たちと一体どんな話をするんだ!」と疑うこともできますが、ちっぽけな砂粒一つにも世の中の道理が入っており、空気中に浮かぶ埃一つにも広大無辺な宇宙の調和が入っています。私たちの周りに存在するすべてのものは、想像もできないほどの複合的な力が結びついて生まれているのです。また、その力は密接に連関して相互につながっています。大宇宙のあらゆる存在物は、一つとして神の心情の外で生まれたものはありません。木の葉一枚揺れることにも宇宙の息遣いが宿っています。
*私は幼い頃から山や野原を飛び回って、自然の音と交感する貴重な能力を与えられました。自然はあらゆる要素が つのハーモニーをなして、偉大で美しい音を作り出します。誰一人として排除したり無視したりせず、どんな人でも受け入れて調和をもたらします。自然は、私が困難にぶつかるたびに私を慰めてくれたし、絶望して倒れるたびに私を奮い立たせました。大都市に生きる最近の子供たちは自然と親しむ機会すらありませんが、感性を教え育むことは知識を養うことより重要です。自然を感じる心がなく、感性が乾いた子供であるならば、誰が教育したところで何が変わるでしょうか。せいぜい世間に広まった知識を積み上げて個人主義者になるだけです。そんな教育では、物質を崇拝する唯物論者ばかりを作り出すことになってしまいます。
*春の雨はぽつぽつ降り、秋の雨はぱらぱら降る、その違いを感じることができなければなりません。自然との交感を楽しめる人であってこそ正しい人格が身に付くと言えます。道端に咲いたタンポポ一本が天下の黄金よりも貴いのです。自然を愛し、人を愛することのできる心を備えておくべきです。自然も、人も愛せない人は、神を愛することはできません。神が創造された万物は神ご自身を表す象徴的な存在であり、人は神に似た実体的な存在です。万物を愛することのできる人だけが神を愛することができます。

「日本人はどうぞ日本に帰りなさい」 53

*誤解のないように付け加えておくと、私は野山を歩き回って四六時中遊んでいたわけではありません。兄を助けて野良仕事も熱心にやりました。農村には、季節ごとにやらなければならない仕事がたくさんあります。田や畑を耕し、田植えをし、田畑の草取りもしなければなりません。草取りの中で最もつらいのが、粟の畑で雑草を取る作業です。種を蒔いた後、畝間の除草を三回はしないといけないのに、粟畑の除草は重労働で、一回やり終えるごとに腰が曲がるほどでした。サッマイモは赤土に植えて育てると味がなく、砂土に赤土を三分の一ほど混ぜた土壌で育てると甘いサツマイモを収穫できます。トウモロコシを育てるには、人糞の堆肥が最も良いため、手で糞をこねまわして粉末を作ることもしました。野良仕事を手伝ってみて、どうやれば良い豆や良いトウモロコシができるのか、どんな土に豆や小豆を植えればいいのか、自然と分かるようになりました。ですから、私は農夫の中の農夫です。
*平安道はキリスト教文物が早くから入ってきた所で、一九三〇年代、四〇年代にすでに農地が真っすぐに整理されていました。田植えをするときは、一竿を十二間に分けて一間 (普通、一間は六尺で約一・八ニメートル) ごとに目印を付けておき、この長い竿を少しずつ移動させて、二人で六列ずつ動きながら整然と苗を植えていきます。後に韓国に来てみると、竿もなく、ただ列の線を引いただけで、一列に数十人ずつ入って、じゃぶじゃぶと行ったり来たりして植えるやり方で、実にもどかしく見えました。足を指尺二つ分の幅に開けて立ち、素早く植えるのがコツです。私が農繁期に田植えを手伝っただけでも学費程度は十分稼ぐことができたのです。
*九歳になると、父は私を近所の書堂に送りました。書堂では、一日に本一ページだけ覚えればよいとされていました。三十分だけ集中して覚えて、訓長(先生)の前に立ってすらすら詠ずれば、その日の勉強は終わりです。
*年老いた訓長が昼食の前後三時間ほど昼寝に入ると、私は書堂を出て、野山を歩き回りました。山に行く日が増えれば増えるほど、草や実など食べ物の在り処にも精通するようになり、そうなると次第に食べる量が増えて、それだけで食の問題を解決しました。ですから、昼食や夕食は必要ないのです。その時から、私は家で昼食を取らずに山に行くようになりました。
*書堂に通って『論語』『孟子』を読み、漢字を学びましたが、文字はかなり上手に書きました。おかげで十一歳の時から、訓長に代わって、子供たちが手本にする書を書くようになりました。ところで、実を言うと私は書堂より学校に通いたかったのです。世の中は飛行機を造っているのに、「孔子曰く」「孟子曰く」でもないだろうと思ったからです。その時が四月で、父がすでに一年分の授業料を全額払った後でした。それを知りながら書堂をやめると決心して、父を説得しました。祖父も説得し、叔父までも説得しました。当時、普通学校に移ろうとすれば編入試験を受ける必要があり、試験に合格するには塾に入って勉強しなければなりませんでした。私はいとこまでけしかけて、圓峰の塾に入って、普通学校編入のための勉強を始めました。
*十四歳になった一九三四年、編入試験を受けて私立五山普通学校の三学年に入りました。入った時は人より遅れていましたが、勉強ができて五学年に飛び級しました。五山学校は家から二十里(約八キロメートル)も離れた所にあります。しかし、私は一日も休まず、毎日決まった時間に歩いて行きました。峠を越えると他の子供たちが待っていて、私が先に立ってサッサッサッと早足で歩いていくと、彼らは付いてくるのが大変そうでした。平安道の虎が出てくる恐ろしい山道を、そうやって歩いて通いました。
*五山学校は独立運動家である李昇薫先生が建てた民族学校です。日本語を教えないだけでなく、初めから日本語を使えないようにしました。しかし、私の考えは少し違っていて、敵を知ってこそ敵に勝つことができると考えました。それで、再び編入試験を受けて、今度は定州公立普通学校四学年に入りました。公立学校の授業はすべて日本語です。初登校の前夜、辛うじて片仮名と平仮名だけを覚えて登校しました。それでも、日本語が全然できなくて困り、一学年から四学年までの教科書を十五日以内に全部覚えました。そうやって初めて耳が通じたのです。
*おかげで、普通学校を卒業する頃には、日本語を流暢に話せるようになっていました。卒業式の日、定州邑 (邑は面の中で人口が多く商工業が盛んな地域を指し、日本では町にあたる) の主立った名士が皆、学校に集まってきました。私は志願して、彼らを前にして演説をしました。感謝の言葉を述べたのではありません。この先生はどうであり、あの先生はどうであり、学校制度にはこのような問題があって、この時代の指導者はこういう覚悟で臨むべきだ等々、批判的な演説を日本語で続けざまにやりました。
「日本人は一日も早く荷物をまとめて日本に帰りなさい。この地は、わが国の者たちが子々孫々にわたって生きていかなければならない先祖から受け継いだ遺産です!」
*そういう演説を、警察署長、郡守、面長すべてが集まった前でやりました。潤國大叔父の魂を受け継いで、あえて誰も言えない言葉をぶつけたのです。聴衆がどんなに驚いたかしれません。演壇を降りる時に見てみたら、彼らの顔は灰色に曇り、呆然としていました。
*問題はその後です。日本の警察は、その日から私を要注意人物としてマークし、私の行動をあれこれと監視し、うるさく付きまといました。後には、日本に留学しようとした際、警察署長が書類に判を押してくれなくて、ひどく苦労しました。日本に送るわけにはいかない要注意の青年として拒絶したのです。結局、警察署長と激しく争って、強く訴えた後になって、ようやく日本に渡って行くことができるようになりました。

2011年7月29日金曜日

平和を愛する世界人として 第一章 ご飯が愛である-幼少時代

第一章 ご飯が愛である-幼少時代



誰とでも友達になる 24

*私は心に決めたことがあれば、すぐに実行に移さなければ気が済まない性格です。そうしないと夜も眠れませんでした。やむなく夜が明けるのを待たなければならないときは、 晩中まんじりともしないで壁をしきりに掻きました。掻きすぎて壁がすっかりぼろぼろになり、夜の間に土の屑がうずたかく積もるほどでした。悔しいことがあれば夜遅くでも外に飛び出して、相手を呼んでひとしきり喧嘩もしたので、そんな息子を育てる両親の心労は重なるばかりでした。
*特に、間違った行動は見過ごしにできず、子供たちの喧嘩があると、まるで近所の相談役にでもなったかのように、必ず間に入って裁定し、非のある方を大声で怒鳴ったりしました。ある時は、近所で勝手気ままに横暴を働く子供のお祖父さんを訪ねて、「お祖父さん、お宅の孫がこんなひどいことをしたので、ちゃんと指導してください」とはっきり忠告したこともあります。
*行動は荒っぽく見えても、本当は情が深い子供でした。遅くまで祖母のしぼんだおっぱいを触って寝入るのを好みましたが、祖母も孫の甘えをはねつけはしませんでした。嫁に行った姉の家に遊びに行き、姑をつかまえて、餅を作ってほしい、鶏を屠ってほしいとねだっても嫌われなかったのは、私の中に温かい情があると大人たちが知っていたからです。
*とりわけ私は、動物を世話することにかけては並外れていました。家の前の木に巣を作った鳥が水を飲めるように水たまりを作ってやったり、物置から粟を持ってきて庭にサーッと撒いたりしました。初めは人が近づくと逃げていった鳥たちも、餌をくれるのは愛情の表れだと分かったのか、いつの間にか私を見ても逃げなくなりました。魚を飼ってみようと思って、魚を捕って水たまりを作って入れておいたことがあります。餌も一つまみ入れてやりましたが、次の日、起きてみると皆死んでいました。きちんと育てたかったのに、力なく水に浮かぶ姿を見ると、ひどく胸がふさがって一日中泣きました。
*父は数百筒もの養蜂を手がけていました。大きな蜂筒に蜂の巣の基礎になる原板の小草を折り目細かくはめ込んでおくと、そこにミッバチが花の蜜を運んできて、蜜蝋を分泌し、巣を作って蜜を貯蔵します。好奇心旺盛だった私は、ミツバチが巣を作る様子を見ようと蜂筒の真ん中に顔を押し込んで刺されてしまい、顔が挽き臼の下に敷く筵みたいに腫れ上がったことがあります。
*蜂筒の原板をこっそり引き抜いて隠し、きつ叱られれたこともありました。ミツバチが巣を作り終えると、父は原板を集めて何層にも積んでおくのですが、その原板にはミッバチが分泌した蜜蝋が付いていて、油の代わりに火を付けることもできました。ところが、私はその高価な原板をカランコロンとひっくり返しては、石油がなくて火を灯せない家々に、蝋燭に使ってくださいと分け与えたのです。そんなふうに自分勝手に人情を施して、父からこっぴどく叱られました。
*十二歳の時のことでした。その頃は娯楽といえるようなものがなくて、せいぜいユンノリ(朝鮮半島に伝わるすごろくに似た遊び)か将棋、そうでなければ闘牋(花札が普及する前に行われていた賭博の一種)があったぐらいです。
*私は大勢で交わって遊ぶのが好きで、昼はユンノリや凧揚げなどをし、夕方から近所の闘牋場に頻繁に出入りしました。闘牋場で一晩過ごせば百二十ウォンほどのまとまったお金は稼げます。私は三ゲームもやればそれだけ稼ぎました。陰暦の大みそかや正月十五日頃が闘牋場の最盛期です。そういう日は、巡査が来ても大目に見て、捕まえることはしません。私は大人たちが興じている闘牋場に行って、一休みしてから、明け方頃にぴたっと三ゲームだけやりました。そうやって稼いだお金で水飴を丸ごと買って、「おまえも食べていけよ。おまえもどうだ」と言って、近所中の子供たちに分け与えました。そのお金を絶対に、自分のために使うとか、悪事を働くのに使ったりはしませんでした。
*義理の兄が家に来れば、財布のお金を自由に出して使いました。そうしていいとあらかじめ許可をもらっていたからです。義理の兄のお金で、かわいそうな子供たちに飴玉も買ってあげ、水飴も買ってあげました。
*どの村でも、暮らし向きがいい人もいれば悪い人もいました。貧しい友達が弁当に粟飯を包んでくるのを見ると、やるせなくて自分のご飯が食べられず、友達の粟飯と交換して食べました。私は、裕福で大きな家に住む子供よりは、生活が苦しくてご飯を食べられない子供とより親しかったし、何としてでもその子の空腹の問題を解決しようとしました。それこそが私の一番好きな遊びだったからです。年齢は幼くても、すべての人の友達に、いや、友達以上にもっと心の奥深くでつながった人にならなければならないと思いました。
*村人の中に欲の深い男性が一人いました。村の真ん中にそのおじさんのマクワウリ畑があって、夏になると甘い匂いが漂い、畑の近くを通る村の子供たちは食べたくてうずうずします。それなのに、おじさんは道端の番小屋に座って、マクワウリを一つも分け与えようとしません。ある日、「おじさん、いつか一度、マクワウリを思いっ切り取って食べてもいいでしょ」と私が尋ねると、おじさんは「いいとも」と快く答えました。そこで私は、「マクワウリを食べたい者は袋を一つずつ持って、夜中の十二時にわが家の前にみんな集まれ!」と子供たちを呼び集めました。それからマクワウリ畑に群れをなして行き、「みんな、心配要らないから、好きなように一畝ずつ全部取れ!」と号令をかけました。子供たちは歓声を上げて畑に走って入っていきあっという間に数畝分を取ってしまいました。その晩、おなかの空いた村の子供たちは、萩畑に座って、マクワウリをおなかが破裂しそうになるくらい食べました。
*次の日は大騒ぎです。おじさんの家を訪ねていくと、蜂の巣をつついたようでした。おじさんは私を見るやいなや、「この野郎、おまえがやったのか。マクワウリの農作業を台無しにしたのはおまえか!」と言って、顔を真っ赤にしてつかみかからんばかりの勢いでした。私は何を言われても動じないで、「おじさん、思い切り食べてもいいと言ったじゃないですか。食べたくてたまらないみんなの気持ちが僕にはよく分かるんです。食べたい食べたいと思っている子供たちに、マクワウリを一つずつ分けてやるのと、絶対に一つもやらないのと、どっちがいいんですか!」と問い詰めました。すると、かんかんになって怒っていたおじさんも、「そうだ、おまえが正しい」と言って引き下がりました。

私の人生の明確な羅針盤 29

*私たちの本貫は全羅道羅州の東にある南平です。曾祖父文禎紘は高祖父文成学の息子で、三兄弟の末弟でした。曾祖父にも致國、信國、潤國の三兄弟の息子がおり、私たちの祖父は長兄に当たります。
*祖父の致國は学校にも通わず書堂 (日本の寺子屋に似た私塾)にも行ったことがないため、字は一つも知りませんでしたが、聞いただけで『三国志』をすべて暗記するほど集中力がずば抜けていました。『三国志』だけではありません。誰かが面白い話をすると、それを全部頭に入れてすらすらと暗唱しました。何でも一度だけ聞くと全部覚えてしまいます。祖父に似て、父も四百ページ以上ある「讃美歌』をすべて暗記して歌いました。
*祖父は「無条件に与えて生きなさい」という曾祖父の遺言によく従いましたが、財産を守ることはできませんでした。末弟の潤國大叔父が一族の財産を抵当に取られて、すっかりなくしてしまったからです。それからというもの、家族、親族の苦労は並大抵ではありませんでした。しかし、祖父も父も、潤國大叔父を一度も怨みませんでした。なぜなら、賭博に手を出して財産を失ったわけではなかったからです。大叔父が家の財産を担保にして借りたお金は、すべて上海臨時政府(一九一九年四月に上海で組織された亡命政府。正式には大韓民国臨時政府)に送られました。当時、七万円といえば大金でしたが、大叔父はその大金を独立運動の資金に使い果たしてしまったのです。
*潤國大叔父は朝鮮耶蘇教長老会神学校を卒業した牧師です。英語と漢学に秀でたインテリでした。徳彦面 (面は日本の村に相当する行政区分で、郡の下、里の上に位置する) の徳興教会をはじめとして三つの教会の担当牧師を務め、崔南善先生などと共に一九一九年の三・一独立宣言文を起案しました。独立宣言文に署名するキリスト教代表十六人のうち徳興教会の関係者が三人になると、大叔父は民族代表の立場を自ら降りました。すると、五山学校(民族意識の高揚と人材育成を目的とした初等。中等教育機関) の設立に志を同じくした南岡・李昇薫先生は、潤國大叔父の両手を握って涙を流し、万一、事に失敗したならば、後を引き受けてほしいと頼んだといいます。
*故郷に戻ってきた大叔父は、万歳を叫んで街路にあふれ出てきた人々に太極旗 (現在の大韓民国の国旗で、元は一八八三年に朝鮮国の国旗として公布されたもの) 数万枚を印刷して配りました。そして同年三月八日、定州郡の五山学校の校長と教員、学生二千人以上、各教会信徒三千人以上、住民四千人以上と会合し、阿耳浦面事務所の裏山で独立万歳のデモを率いて逮捕されました。大叔父は二年の懲役刑を宣告され、義州の監獄でつらい獄中生活を送りました。翌年、特赦で出監したものの、日本の警察の迫害が激しくて一箇所に留まることができず、あちこちに身を隠していました。
*警察の拷問を受けた大叔父の体には、竹槍で刺されて、ぼこっとへこんだ大きな傷跡がありました。鋭くとがった竹槍で両足と脇腹を刺す拷問を受けても、大叔父はついに屈しなかったといいます。激しい拷問にもまるで言うことを聞かないので、警察が、独立運動さえしなければ郡守(郡の首長)の職でもやろうと懐柔してきたりもしました。すると、かえって「私がおまえら泥棒の下で郡守の職に飛びつくとでも思ったのか」とすさまじい剣幕で、大声で怒鳴りつけたといいます。
*私が十七歳頃のことです。潤國大叔父がわが家にしばらく滞在していると知って、独立軍の関係者が訪ねてきたことがありました。独立運動の資金が不足して援助を乞いに、雪が降り注ぐ夜道を歩いてきたのでした。父は寝ている私たち兄弟が目を覚まさないように掛け布団で顔を覆いました。すでに眠気が吹っ飛んでいた私は、掛け布団を被って両目を大きく見開いたまま、横になって大人たちの話し声に聞き耳を立てました。母はその夜、鶏を屠り、スープを煮て、彼らをもてなしました。
*父がかけた掛け布団の下で息を殺して聞いた大叔父の言葉は、今も耳の奥に生き生きと残っています。大叔父は「死んでも国のために死ぬなら福になる」と話していました。また、「いま目の前に見えるのは暗黒であるが、必ず光明の朝が来る」とも話していました。拷問の後遺症から体はいつも不自由でしたが、声だけは朗々としていました。
「あんなに偉大な大叔父がなぜ監獄に行かなければならなかったのだろう。われわれが日本よりもっと力が強ければ、そうはならなかったのに……」と、もどかしく思った気持ちもよく覚えています。
*迫害を避けて他郷を転々とし、連絡が途絶えた潤國大叔父の消息を再び聞くようになったのは、一九六八年、ソウルにおいてでした。従弟の夢に現れて、「私は江原道の施善の地に埋められている」と言ったそうです。従弟が夢で教えられた住所を訪ねていってみると、大叔父はすでに十年前に亡くなっていて、その地には、雑草が生い茂った墓だけが堂々と残っていました。私は潤國大叔父の遺骨を京畿道披州に移葬しました。
*一九四五年八月十五日の光復以後、共産党が牧師や独立運動家をむやみやたらと殺害する事件が起きました。大叔父は幸いにも難を逃れ、家族に迷惑をかけないように共産党を避けて、三八度線を越えて南の旌善に向かいました。しかし、家族も親族もその事実を全く知らずにいました。旌善の深い山奥で書を売って生計を立て、後には書堂を建てて学問を教えたといいます。大叔父に学問を学んだ弟子たちの言葉によれば、平素は即興で漢詩を作って楽しんだそうです。そうして書いた詩を弟子たちが集めておいて、全部で百三十首以上になりました。

「南北平和」

在前十載越南州
流水光陰催白頭
故園欲去安能去
別界薄遊為久游
袗稀長着知當夏
闘紈扇動揺畏及秋
南北平和今不遠
候簷児女莫深愁

*十年前、北の故郷を離れて南に越えてきた
流水のように歳月が経ち、私の頭は白くなった
北の故郷に帰りたいが、どうして帰ることができようか
しばし他郷に留まるつもりが、長い間留まることになった
葛布の衣を着ると、暑さで夏が来たことを感じ
扇子をあおぎながら、もうすぐ秋が訪れると思う
南北の平和は遠からずやって来るので
軒下で待つ人々よ、あまり心配するな

*家族から離れて、見知らぬ旌善の地に生活しながらも、潤國大叔父の心は憂国の真情に満ちていました。大叔父はまた、「蕨初立志自期高 私慾未嘗容一毫(初め志を立てるときは自ら進んで高い目標を掲げ、私欲は体に生えた黒くて太い毛の先程度でも許してはならない)」という詩句も残しました。独立運動に従事した功績が韓国政府から認められたのは非常に遅く、一九七七年に大統領表彰、一九九〇年に建国勲章が追叙されました。
*数多い試練に直面しながらも、一心不乱に国を愛してきた大叔父の心が見事に表現された詩句を、私は今も時々口ずさみます。最近になって、年を取れば取るほど潤國大叔父のことを思い出すのです。国の行く末を心配したその人の心が、切々と私の心深くに入り込んできます。私は大叔父自作の「大韓地理歌」をわが信徒たちにすべて教えました。北は自頭山から南は漢ラ山まで、一つの曲調で歌い通すと、心の中がすっきりする味わいがあって、今も彼らと楽しく歌ったりします。

「大韓地理歌」

東半球に突出した大韓半島は、東洋三国の要地に位置し、
北は広漠たる満州平野であり、東は深く青い東海だ。

南は島の多い大韓の海があり、西は深く黄金の黄海だ。
三面の海の水中に積まれた海産物、魚類貝類数万種は水中の宝だ。

北端に鎮座する民族の基、白頭山は、鴨緑江と豆満江の二大河の水源となり、
東西に分流して両海に注がれ、中国とソ連との境界がはっきりと見える。

半島中央の江原道に輝く金剛山、世界的な高原の名は大韓の誇り、
南方の広大な海に聳え立つ済州の漢ラ山、往来する漁船の標識ではないか。

大同、漢江、錦江、全州の四大平野は、三千万民同胞の衣食の宝庫であり、
雲山、順安、扮川、載寧の四大鉱山は、私たち大韓の光彩ある地中の宝だ。

京城、平壌、大邸、開城の四大都市は、私たち大韓の光彩ある中央の都市だ。
釜山、元山、木浦、仁川の四大港口は、内外の貿易船の集中地だ。

大京城を中心として延びた鉄道線、京義と京釜の二大幹線を連結し、
京元と湖南の両支線が南北に伸び、三千里江山を周遊するのに十分だ。

歴代朝廷の繁栄を物語る古跡は、檀君、箕子二千年の建都地平壌。
高麗始祖太祖王建の松都開城、李朝朝鮮五百年の始王地京城。

一千年の文明を輝かせた新羅、朴赫居世始祖の村、名勝地慶州。
山水の風景、絶景の忠清扶余は、百済初代温 王の創造古跡地。

未来を開拓する統一の群れよ、文明の波は四海を打つ。
寒村、山邑の平民は古い頭を拭い去り、未来の世界に猛進しよう。

やると言えばやる「一日泣き」の強情っばり 36

*父はお金を貸して踏み倒されることはあっても、返してもらうことには無頓着な人でした。しかし、自分がお金の入り用があって借金したときは、返済の約束は、牛を売り、家の柱を抜いてでも必ず守る人でした。父はいつも、「小手先の企みで真理を曲げることはできない。真というものは、そんな企みに屈するものではない。小手先の企みで何をしようと、数年も経たずにぼろが出るものだ」と言っていました。父は風采が良かったばかりか、米俵を背負って階段をのっしのっしと上がっていくほど逞しい体の持ち主でした。私が九十歳(数え)になっても世界を股に掛けて活動できるのは、父から譲り受けた体力のおかげです。
*讃美歌「あの高い所に向かって」を好んで歌った母も、並の女性ではありませんでした。真っすぐで、豪胆で、荒っぽいのが母の性格でした。額や頭のつるりとしたところに加えて、性格もそのまま受け継いだ私は、我が強く、この母にしてこの息子ありと言えそうです。
*幼い頃、私のあだ名は一日泣き」でした。一度泣き始めると、一日中泣いてようやく泣き止むところから付いたあだ名です。泣くときは、一大事でも起こったかのようにわんわん泣いて、寝ている者が皆起き出してくるほどだったといいます。じっと座って泣いたのではありません。部屋の中で、ひっくり返って、跳ね回りながら騒ぎを起こして、体のあちこちに傷ができ、皮膚が切れて、部屋のそこらじゅうが血だらけになるほど泣いたそうです。幼い時からとても気性の激しいところがありました。
*一度決心すると絶対に譲歩しませんでした。どんなことがあっても譲歩しませんでした。もちろん物心がつく前のことです。過ちを犯したのは私だと分かっていても、母が何か指摘すると、「違う。絶対違う1」と言ってぶつかりました。「間違っていました」と一言で済むのに、死んでもその言葉を口にしませんでした。しかし母も負けてはいません。「さあ、親が答えなさいというのに答えないのか!」と言って叩くのです。ある時などは、何回叩かれたか分からないほど叩かれて気絶してしまいました。それでも私は降伏しませんでした。すると今度は、目の前でおいおい泣き始めるではありませんか。その姿を見ても、まだ間違っていたとは言いませんでした。
*我が強いだけに勝負欲も強くて、どんなことでも、死んでも負けるものかという気持ちでいました。大げさではなくて、「五山の家の小さな目。あいつは一度やると言ったら必ずやる奴だ」と村の大人の誰もが認めるほどでした。何歳の時だったか、私に鼻血を出させて逃げていった子供の家に一月も通い詰めたあげく、その子と会って、親からは謝罪を受け、餅まで一抱えもらってきたのを見て、大人たちも舌を巻きました。
*だからといって、気力だけで勝とうとしたのではありません。同じ年頃の子供たちよりもはるかに体も大きく、力も強かったので、村には腕相撲で私にかなう者がいませんでした。ところが、三歳年上の子に相撲で負けたことがあり、その時はひどく腹が立って我慢がなりませんでした。そこで、毎日山に登り、アカシアの木の皮が剥がれるほど木にぶつかって稽古し、力を付けて、六カ月後にはその子に勝ってしまいました。
わが家は子供が多い家系です。私の上に兄が一人、姉が三人、下に弟と妹が八人いました。幼い頃は兄弟が多くいて、本当に良かったと思います。兄弟姉妹、いとこ、またいとこ、全員呼び集めたら何でもできました。それでも歳月が過ぎてみると、広い世界に私一人が残った気分です。
*一九九一年末、北朝鮮に八日間ほど行く機会がありました。四十六年ぶりに故郷に行ってみると、大勢いた兄弟と母はすでに亡くなり、姉一人と妹一人だけが生きていました。子供の頃、母のように私の世話をしてくれた姉は七十を過ぎたお婆さんになっていたし、あれほどかわいかった妹もすでに六十を過ぎて、顔は雛だらけでした。
*あの頃は、この妹をなんだかんだとよくからかったものです。「孝善、おまえの新郎になる奴は目が一つしかないそ!」と言って逃げると、「何ですって!そんなこと、お兄さんがどうして分かるの?」と言いながら追いかけてきて、小さな拳で私の背中をパンパン叩きました。十七歳になった年に、孝善が叔母の紹介で見合いをしました。その日、朝早くから起きて、髪をきれいに整え、美しく化粧した孝善は、家の内外を掃除して新郎となるかもしれない人を待っていました。「孝善、おまえそんなに嫁に行きたいのか?」とからかうと、化粧した顔が赤く染まって、その姿が何とも言えずかわいらしかったです。
*北朝鮮を訪問して十数年が過ぎた今は、あの時私と会って、胸が痛くなるほど泣いた姉も亡くなり、妹一人が残っているだけというのですから、切なくて、心がすっかり萎れてしまうようです。
*手先が器用だった私は、靴下や服の類は自分で編んで着ていました。寒くなれば帽子もすいすい編んで被りました。編み物の腕前は女たちよりも上で、姉にも教えてあげたし、孝善の襟巻きも私が編んでやりました。針仕事も好きでした。熊の足裏のように大きく分厚い手で、下着も自分で作って着たのです。「荒織りの木綿」を置いて、それをさっと半分に折って、型を取って寸法に合わせて裁断した後、裁縫をすると、自分の体にぴったりのものができました。母の足袋もそうやって作って差し上げたところ、母は「おやおや、二番目の子が遊びでしていると思ったら、母さんの足にぴたっと合ってるね」と言って、喜んでくれました。
*孝善の下には妹が四人もいました。母は十三人の子供を産んで、五人の子供に先立たれています。母が憔悸したのは言うまでもありません。生活に余裕がない上、子供がそんなにも多くて、母は言葉で言い尽くせないほどの苦労をしました。
*その当時、娘を嫁に出すとか嫁をもらうときには、木綿を織らなければなりませんでした。綿花から取り出した綿を糸車に入れて糸を紡ぎますが、糸車に入れる際のほぐした綿の固まりを平安道の言葉で「トケンイ」と言います。子供たちが一人、二人と結婚するたびに、「荒織りの木綿」のように柔らかく美しい木綿が、母の厚ぼったい手を通して作られました。人1 倍手際が良くて、普通の人が一日に三、四枚織る布を、母は十枚も二十枚も織り出しました。姉を嫁に出すというので、速いときは一日に一疋(二反)織ることもありました。決意すれば何でもさっとやってしまう母の性急な性格によく似て、私も何でもさっとやってしまう性分です。
*今もそうですが、私は幼い頃からどんな食べ物でもよく食べました。トウモロコシもよく食べ、生のキュウリもよく食べ、生のジャガイモや空豆もよく食べました。二十里(約八キロメートル) 離れている母の実家の畑に蔓が伸びているのがあって、何かと尋ねてみたら「チクァ」という返事でした。その村ではサツマイモを「チクァ」と言ったのです。掘って食べてみると、後味が素晴らしく良くて、籠に入れて持ってきて一人で全部食べました。翌年からは、サツマイモの季節になると、しばしば母の実家に走って行きました。「お母さん、しばらくの問どこそこに行ってきますよ」と言って、二十里の道を一息で走って行き、サツマイモを食べたのです。
*故郷では、五月はジャガイモの蓄えが底を尽きかける一番大変な時期です。冬の間はずっとジャガイモばかり食べて、春になって六月頃に麦を収穫するとジャガイモ暮らしは終わりを告げます。麦は最近のように食べやすくした平麦ではなく、丸麦でしたが、それなりに美味しく食べました。丸麦を二日ほど水でふやかしてご飯を炊くと、スプーンでぎゅうぎゅう押さえたとき、飯粒が弾けて散らばります。それにコチュジャン(唐辛子みそ)をさっと混ぜて一口食べると、麦が口の端からしきりに飛び出してきます。そこで、口をむっと閉じて、もぐもぐと食べた覚えがあります。
*アマガエルもたくさん捕って食べました。昔の田舎では、子供たちが麻疹にかかるか病気になるかして顔がやつれていれば、アマガエルを食べさせました。太ももがぱんぱんに張った大きなアマガエルを三、四匹捕まえて、カボチャの葉に包んで焼くと、蒸し器で蒸したようにふかふかしてとても美味しいのです。味からすればスズメの肉、キジの肉にも劣りません。広い野原を飛び回っていたクイナはもちろん、まだらでかわいい山鳥の卵もたくさん焼いて食べました。このように、自然界には神様が下さった食べ物があふれていることを、山や野原を歩き回って知っていきました。