2013年5月20日月曜日

文鮮明先生のみ言集 感謝の生活


文鮮明先生のみ言集

感謝の生活

一九七〇年十月二十五日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第三十五巻』

 この世には多くの人が生きています。人は誰でも、現時点よりは良いあすを希望しつつ、より良い一日を迎えることを誓って、より価値ある内容を求めています。しかし、その価値ある内容を見いだすことができず、その内容を充足できなければ、落胆し絶望するという事実を現実の生活の中で見受けることがあります。

◆人が本来あるべき所

 それでは、人が本来行くべき所とはどこで、とどまるべき所とはどこかというと、今日私たちの願う未来の世界であるということなのです。あすの希望を中心とした生活舞台、あるいはそのような心情の基盤がつくられるところだと考えるのが、現在の人の考え方です。

 本来神様のみ旨を中心として見ると、堕落前の人類の先祖が置かれていた立場は、不幸、嘆息、怨恨、願望といった感情をもって生きる立場ではありませんでした。それは、父母の懐に抱かれて養育される立場であり、保護を受ける立場でした。

 そこにもし不幸の要因があるならば、神様は人間が不幸になる前に、その不幸に責任をもってくださるのであり、あるいはそこに落胆するような要因があるならば、神様がその内容をあらかじめ防いでくださるのです。そういう立場が本然の息子、娘の立場だということを考えると、本来アダムも不幸ではない立場にあり、エバも不幸ではない立場にあったにもかかわらず堕落したということができます。彼らの環境は不幸ではなかったのに、なぜ堕落したのかということが問題となるのです。

 今日の私たち人間を考えると、二人いれば二人の考え方が違い、十人いればその十人の考え方がそれぞれ違います。それゆえ、すべての問題において、分裂、背反、苦衷といったものが起こるのです。

 しかし二人、あるいは十人が一つの目的のために全く同じ立場で進めば、闘争もなく、分裂もあり得ないのです。

 本来、神様はアダムとエバを中心としていらっしゃるべきであり、また、アダムとエバは神様のための立場に立たなければなりません。しかし、アダムとエバが完成しなければ、神様のために存在するという立場に立てないので、アダムとエバは神様のために存在できるようになるまでの成長過程を経なければならないのです。

 この成長過程を経るにおいて、アダムとエバは現時点、すなわち現在を中心とする立場にありましたが、神様はアダムとエバの現在の立場を越えて、未来の立場まで、全体を愛する立場にあったのです。現実の立場は制限された立場であり、自分自身のための立場です。アダムとエバは相対的関係を中心として、神様が指向し願われる目的が何であるかを考えることもなく、自分だけを中心として現実的な内容を観察する立場にあったのです。

 しかし神様は、アダムとエバのように自分自身だけを中心として考える立場からではなく、彼らが生涯を終えたのちの歴史的未来を念頭において、アダムとエバを愛したのです。アダムとエバは、神様が直接現れて語りかけるという事実だけで満足していたかもしれませんが、神様はそれよりも高く、より大きい未来のことを中心として、現実において愛してこられたのです。このような事実を、アダムとエバは知らなかったのです。

 もし、アダムとエバが、神様のその愛がどれほど大きいかということを感じていたなら、彼らは堕落しようとしても堕落することができなかったはずです。しかし、彼らは神様の愛がどれほど大きいかを知らずに、現実の環境でぶつかる事情と、彼らの前にある問題をすべて解決できると感じる立場に立ったがゆえに、そこから問題が発生したということを皆さんは知らなければなりません。

◆人間が失望し絶望するようになった起源

 今日、この地に生きている人間が、自分の置かれている生活環境の中で落胆し、失望するというような、堕落した人間の悲惨な実情を多く見受けます。しかし、このような試練と苦痛が、今日の試練と苦痛として終わるのではなく、未来の基盤を開拓し、準備するために、なくてはならない重要な要素であることが分かれば、現実の生活で失望することはなく、また絶望したり自暴自棄になったりすることもないのです。

 このような環境を経ることにより、未来の自らの願いが強固なものとなり、あすの生命の価値を確固としたものとする現実の価値が、その生活圏内に宿っているということを感じる人は、どんなに困難な環境にあっても、自分のすべてを失望の淵に追いやることはないという事実を推し量ることができます。

 神様は、全体を中心としてアダムとエバを保護し、より永遠の価値を中心としてアダムとエバに接しました。このような膨大な価値ある深い内容を中心としてアダムとエバを立てたにもかかわらず、アダムとエバは、その日その日の立場で考え、感じたがゆえに問題が起きたのです。

 このような事実から察して、今日堕落した先祖の子孫として生まれた私たち人間が、失望し、絶望するといった本性の起源はどこにあるのかといえば、自分を中心にして考えることから始まったということができます。ここから、すべての問題が起こるのです。

 自分が置かれている環境が、自分の願うものとは反対の現象として現れるため、このような環境をかき分けていくために、すべての責任を負って苦闘し、闘争してはいくけれども、自分自らそれに耐えられなくなると失望し、絶望するのです。

◆宗教が行く道

 このような堕落した現実の環境においては、幸福の与件を得ようとしても得られないのは当然の理致です。それゆえ、どんなに立派で偉大な人であっても、その一生の過程を分析すると、幸福や価値的な内容を中心として生活してはいないのです。こういう観点から、真の意味での人生観をもって、感謝して生きている人がどれほどいるかという問題を考えると、そのような人は極めて少ないという事実がよく分かります。

 それはなぜかというと、未来に対する確信をもっていないためです。ですから、あすに対する希望を中心として、今日の生活において、生命力を刺激し得る原動力を補給できないのです。それゆえ堕落した今日の世界の人間は、あすの希望の世界を待たずにはいられないという立場にあることを、きちんと知らなければなりません。

 なぜならば、神様は未来を中心として人間のために成そうとされた内容があったにもかかわらず、人間がそれを受ける立場にまで到達できなかったためです。したがって私たち人間には、その立場を必ず取り戻すべき運命の道が残っているのです。堕落した世界に生きている人間が、このような運命の道を求めていくには、現実生活で苦痛と闘争の過程を経なければなりません。

 そのためには、平坦な生活をつづっていくのではなく、新しい革命を起こしていかなければならないのです。宗教の生活のすべては、革命です。新しく開いていく開拓者の路程をたどらなければ、人間が築くべき希望の世界に到達できないのです。原理のみ言でいうならば、蕩減路程を経て復帰していかなければならないということです。

 蕩減復帰路程とは純粋に、ある公式や法度に従っていく道ではありません。開拓と闘争の過程を経なくてはならないのです。その開拓とは、個人の生に関する問題の解決に限ったことではありません。それは世界的な開拓です。世界的な問題を解決するための開拓なのです。また、その闘争も個人的な闘争ではなく、世界的な闘争なのです。このような事実を、人間は知らずにいるのです。

 今日、私たち人間の生というものは、世界的な戦争の過程に立っているのであり、世界的な開拓の路程に立っているのであり、世界的な新しい革命の隊列に立っているのです。こういう事実を、私たち人間は忘れているのです。

 人類始祖が自分を中心としてあすの希望を忘れ去った立場、すなわち自分を肯定し、あすを否定するという立場で堕落したがゆえに、私たちはきょうの自分を否定し、あすを肯定する立場に立たなければならないのです。未来を肯定し、今日を否定することのできる革命の旗手とならなければ、価値のない人生となり、人生のすべての面で悲哀の仮面を脱ぐことができないのです。これは当然の理致です。

 人間が堕落しなかったのならばともかく、堕落したからには、現実を肯定し、未来を否定した人間始祖の過ちを繰り返していては、堕落圏を抜け出すことはできないのです。それゆえ私たちは、現実を否定し、未来を肯定する立場に立たなければなりません。すなわち、人類の先祖が現実を肯定し、未来を否定することにより堕落したので、現実を否定して未来を肯定するという新しい内容を私たち各自がもっていなければ、人生の正しい道を探し求めていくことはできないのです。

 すると、私たちが、現実をどれだけ否定できるかということが問題となります。その否定の限界点とはどこでしょうか。今日の宗教や堕落世界の圏内での、私たちが求める新しい未来の条件を中心とした否定かというと、その圏内での否定では、新しい未来の世界を求めていくことはできないのです。それゆえ、その圏外まで否定しなければなりません。そうしなければ、圏内の否定圏を勝利の結果としてもってくることができないという事実を皆さんは知らなければなりません。

 では、今日私たちが願う理想とはどのようなものでしょうか。現実を肯定する生活ではありません。信仰生活というのは、あくまでも現実を否定する生活です。現実を否定すると同時に、未来の肯定を強固なものとするのです。

 今日の宗教人が、現実を肯定して未来を否定する立場と、現実を否定して未来を肯定する立場の二つの立場のうち、どちらがより強くなければならないかという問題を考えると、現実を否定して未来を肯定する立場が何よりも強くなければならないということができます。そのような人だけが、未来の愛を見いだすことができるのです。自分を中心とした生活圏内における愛を中心として自分自身を求めたのでは、アダムとエバの犯した嘆かわしい堕落による苦難から抜け出すことはできないのです。これは当然の理致です。

 それゆえ宗教人は、今まで苦難と試練の道を休むことなく行っているのです。その目的は何でしょうか。現実を肯定し、未来を否定した先祖たちの過ちを再び繰り返すのではなく、現実を否定し未来を肯定することです。それが、宗教の行く道だということを知らなければなりません。

◆未来に向けた新しい価値観確立の必要性

 今日私たちは、現在と未来の間で、一日の生活を中心として心と体がひっくり返ると同時に、一日一日がひっくり返るということを知らなければなりません。皆さんの心と体がひっくり返ることにより、きょうとあすが決定されるのです。

 したがって私たちは、一日一日を過ごしていくにおいて、きょうの試練をあすまで持ち込んではならないのです。あすの新しい肯定を追求し、これをあすの新しい肯定に連結するための基盤をきょうももたなければならないということです。そうしなければ、あすという日が、私にとっての幸福の根拠地として現れることができないのです。このような境界線で生命力を維持していく道こそ、信仰者の行くべき道であるということを皆さんは知らなければなりません。

 片手は神様にすがり、片手では世の中にすがっていくのではなく、世の中を否定して、天を肯定していくのが信仰の道です。それでは、未来を肯定して現実を否定することのできる内容があるかというと、今まではありませんでした。心は価値的な方向を追求してきましたが、その追求する方向において、主体的な対象を求めようにも求められなかったのが、今までの信仰生活だったのです。

 それゆえ、ここでは自らあすの約束を確かなものとするための新しい因縁が必要であり、未来に向かう新しい価値観の確立が必要なのです。その確立した価値の内容は、現実における何よりも強く徹底した主体的な内容でなければなりません。そうでなければ、未来の世界を中心として、現実的な観念と現実的な生活舞台を否定し、克服することができないのです。

 個人の信仰路程を見ると、最初のうちは信仰生活をとても上手にします。しかし、日がたてばたつほど、その環境の範囲が広がれば広がるほど、より一層立体性を備えなければならないにもかかわらず、そうできないのです。始めは力強く出発しても、しまいには弱くなってしまうのです。これは未来観の確立がきちんとなされなかったがゆえだということを、皆さんは知らなければなりません。

◆最後の主義

 私たち個人は、百年以内に一時代を生きて、死ぬのです。けれども歴史は、永遠に続きます。歴史を連結させるために個人的な社会があるのであり、家庭的な社会、氏族的な社会、民族的な社会、国家的な社会があるのです。

 この地上には、風土が違い、伝統が違い、歴史的背景が違う様々な種類の民族が住んでいます。これらを何によって一つに結び合わせるのでしょうか。権勢や主権ではできません。世の中のどんな物質をもってしてもできません。これを結び合わせることができるたった一つの方法があるとすれば、それは何でしょうか。

 どのような人であっても、どこで暮らしたいかと尋ねれば、「故郷だ」と言うことでしょう。いくら長い間故郷を離れ、異郷で暮らした老人であったとしても、自らの故郷の山河を懐かしがるものです。自分の父母が死んで数十年がたち、父母を忘れてしまうほどの期間が過ぎたとしても、父母の墓を訪れて、昔の思い出をたどりながら、当時の生活を感じようとするのが人間の心なのです。

 このように考えると、私たちの心は果たしてどこにいることを願うのでしょうか。お金ではありません。自分の父母の家があるので、その家に行くために故郷へ行きたいのではありません。そこにいる愛する父母や兄弟、妻子に会いに行くのです。こう考えると、それは外的なことというより、内的な実証的次元のものであるということを、私たちは否定できません。

 では、この世を結び合わせることができ、一つの目的に帰結し得るものとは何でしょうか。それは愛というものです。その愛は、私たちが生きている現実の中で愛するような愛ではありません。本然の愛なのです。この愛は、どこから始まらなければなりませんか。最高の位置から始まらなければならないのです。神様は絶対者であり最高の方であられるがゆえに、その愛の出発も最高の位置からなされなければならず、その愛がとどまることのできる所も、最高の位置になければなりません。その愛は、天宙的な愛であることを皆さんは知らなければならないのです。

 私たちは、その愛をもって氏族と民族を超越することのできる、愛の化身とならなければなりません。その愛には、個人と氏族、氏族と民族、民族と国家、国家と世界、天宙、あるいは神様まで連結することができる氏族的内容があるのです。すなわちその愛は、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙、神様まで縦的な因縁を結ぶことのできる絶対的な起源であると同時に、横的に世界にまで広げて、世界人類を兄弟の因縁で結ぶことができ、歴史過程に現れたすべての否定的条件を永遠に否定できる、絶対的な愛でなければならないのです。

 したがって、愛を中心として縦的な面での個人、家庭、氏族、民族、国家、世界を超越することができるかというのが問題になります。横的な面においても、社会と文化の風土に対する思潮の変化すべてを超越できるかということが問題となるのです。これが全部可能であるならば、その主義は最後の主義に違いありません。

 縦的にも横的にもそれが可能であり、万民共通の生命を備えた現時点において、心から万民の前に勝利できる愛を備えた主義だとするならば、そしてまた、勝利して万民をして同じ感情を誘発させることのできる主義だとするならば、その主義こそ、人間世界において未来の希望を確かなものとし、未来の願いの基盤を開拓できる一つの母胎となることができるのです。

 ではその愛は、何を中心としたものでしょうか。その愛は、個人を中心としたものではありません。その愛は、家庭だけを中心としたものではなく、氏族だけを中心としたものではなく、民族だけを中心としたものではありません。また、一つの国家だけを中心としたものではありません。愛は、そのすべてを超越するのです。世界を超越して天宙を中心としたものであり、天宙だけでなく神様を中心としたものです。また、神様だけを中心としたものではなく、神様の愛を中心としたものです。

 神様の愛を世界と換えることができるかというと、換えることはできないのです。また、神様の愛を神様自体と換えることができるかというと、それもまた、できないのです。その愛を求めるために神様自体も犠牲になってきたのです。神様御自身も、神様自体にあるその愛のために犠牲になってきたという事実を考えてみると、神様とも換えることのできない根本的な内容が、愛であるということなのです。

 この愛こそが、私たちの骨髄を通ることができ、私たちの血肉を管理する根本となるのではないかというのです。これは、今日堕落した人間の情緒的な生活を通して、如実に現れている事実です。

◆縦的な愛を横的に展開するには

 それでは、縦的な愛をどのように横的に展開するのでしょうか。縦的な愛を横的に展開するためには、自分自体を意識してはなりません。このような縦横の愛を帰結させるための一つの基盤となり得る基点が、この地球上に現れたとするならば、これは私たち人類の希望となるに違いありません。

 それによって、人類が縦的な完成を迎えることができるのであり、横的な完成を迎えることができるのです。それゆえ、完成の基準の前に関係するすべてを否定し、堂々と足を踏み出すことのできる内容があるのです。

 こういう観点から考えると、現実世界において皆さん自身がもっている理念があるとすれば、その理念はどれほど高いでしょうか。それは、皆さんの一生とともに終わるものです。その理念は、どっちみち皆さんが否定すべき圏内でもった理念であるがゆえに、皆さんの一生とともに終わるのです。それはまた、自分の子孫に相続してはならないのです。私の代に清算していかなければならない理念的要件ということです。これを清算するためには、自分自ら今日の生活観念を超越しなければならないのです。

 傾いた月は再び昇り、日陰があれば日向もあるという真理を私たちは知っています。このように高低が交差する時点があることを考えると、今日の世の中は、決して幸福なだけの世界ではないということが分かります。それゆえ、現在の世の中を否定するということは、幸福な世の中を追求するためであると推考できるのです。

 私たちは、神様の愛を観念的に感じるだけでなく、この愛を現実の生活舞台に適用し、誘発していかなければなりません。そのために皆さんが考慮すべきこととは何でしょうか。神様の無限の価値と現実の一つの個体が、どのようにして関係を結ぶかということが問題です。その世界を求めていくのが復帰の道なのですが、個性真理体を超越しては連結されないのです。

 大きい所へ行くためには、小さな所から出発しなければならないのです。それは、私の言葉から始まらなければなりません。私の話す言葉が、未来の世界と関係を結ぶべきであり、私の見て感じることも未来の世界と関係を結ばなければならないのです。

 そのためには、どのようにしなければならないのでしょうか。私一人では駄目なのです。これを皆さんは知らなければなりません。深い境地の修道の道を行くとき、一人で精誠を尽くすのは、神様の対象となるためなのです。しかし、神様のみ旨を展開していくときには、一人ではできないのです。いくら修道の世界ですべてに通じ、その権限が天上世界に知られた立場にあったとしても、また、彼が神様とは縦的に関係を結んだとしても、横的に関係する相対基盤をもっていなければ縦的な基準で終わってしまうのです。

 それゆえ、神様は主体的で縦的な中心の立場にいらっしゃったとしても、地上に生きている人間のところへ来ざるを得ないのです。この地上の存在物はすべて、自分自体だけでは幸福を感じることはできません。私たち人間も、現実の中だけでは幸福を感じることはできないのです。未来に連結される現実で、幸福を感じることができるのです。

 より価値的な未来世界に包括され、吸収され得る現在において、今日の生活の価値を感じなければならないのです。そうしてこそ、未来の世界観を立てることができます。

◆偉大なる名詞「真の父母」

 堕落した世の中にある私たち人間は、中心をもつことができませんでした。堕落した位置にある人間一人では、神様に直接対することができません。それゆえ、神様に直接対することができる一人をこの地に送るというのが再臨思想、メシヤ思想です。

 メシヤはこの地に来て、その使命を一人で成すのではありません。中心となるためには、四方を備えなければならないのです。四方を備えて平等な立場で授け受けることのできる力を備えてこそ、均衡が保たれるのです。そうしなければ、その力が傾けば、均衡が保たれません。少なく与える者は上がり、たくさん与える者は下がるので、平衡が保たれなければ、それは永遠に続かないのです。

 均等になるためには、まず平衡を保つにおいて、原点となる主体が必要です。また、この中心と平衡を保つことのできる対等な価値をもった対象がなければなりません。それで、その主体と対象とを同じ位置に連結することのできる線が引かれて、初めて水平線ができるのです。したがって、ここでは相対的要因が絶対必要だということを、私たちは知らなければなりません。

 では、なぜ神様は、男性の前に女性を必要なものとされ、女性の前に男性を必要なものとされたのでしょうか。これが問題だというのです。それは、一人を立てて自ら生活できるようにするためではなく、二人を立てて彼らが完全に一つの願いを中心として神様の愛をたずさえ、未来の世界に向かって共に生きていくようにするためです。その二人が授け受けるその生活は、極めて希望的な生活です。ここに未来の生活を引き込んで、現実の生活において互いに感知し、感じながら生きていくべきなのですが、そうできる存在とは何かというと、夫婦だというのです。

 そのような家庭で、互いに手を取り合い、幸福を謳歌し、未来を約束し、現実を否定して、未来の世界に確信をもち肯定して進む夫婦がいるならば、いかなる生活環境も彼らを支配することはできないでしょう。現実の生活がどんなに困難であっても、それが未来の世界の前に支障をもたらすのではなく、困難であれば困難であるほど、未来の世界に対するビジョンを与えてくれるのです。そうなれば、いかなる現実の困難も、彼らを拘束できないというのです。

 男性と女性が共に、そのような立場に立って未来を愛し、互いに尊重し合い、未来のためという心で生活し、ここに自ら未来の価値を同伴させて、尊重視することのできる夫婦の因縁を結んだとするならば、ここから幸福の基盤ができることでしょう。

 アダムにはエバ、エバにはアダムが必要であるため、神様は、彼らを理想相対として立てられたという事実を知らなければなりません。その相手となる存在は、現実的に主体と因縁を結ばずしては、未来と連結されないのです。イエス様と聖霊を、主体と対象の立場に立てたのも、この天宙的な事情に通じるための内的事情があったためです。

 こういう観点から考えると、否定すべき現実社会を切り開いていくためには、同志がいなければならず、先生がいなければなりません。より高く上がるためには、先生がいなければならず、同志がいなければなりません。現実において、絶対的な新しいものが歴史と民族の前に投入されるためには、必ず同志として結合し、未来の希望の世界に向かって燃える心をもって進まなければなりません。そこから新しい歴史が創造されていくという事実を否定できないように、天の法度も、このような過程を通してのみ立てられるということを皆さんは知らなければなりません。

 あなた方の家庭は、家庭のことだけで終わってはなりません。皆さんの前には、家庭を中心とした氏族編成という途方もなく大きな目標が置かれています。家庭が完全に一つなってこそ、氏族の前に立つことができるのです。一つとなれなければ、氏族を忌避する立場に立つことになるのです。

 今日まで私たち人間は、これが分からなかったのです。南なら南、東なら東ですべてが解決されるものと思って、今まで苦闘してきたのです。そのようにしても駄目なのです。個人ならば個人、家庭ならば家庭が内外の内容を備えて、み旨を共にする位置に立ってこそ、神様が同伴されるのであり、また、そうすることができる内容を備えてこそ、人類を主管することができるのです。

 どうしてそのようになるのでしょうか。後孫たちが家庭的基盤を中心として、男性と女性として現れるために、男性と女性の代表的な基準が、心情を中心として家庭の前に結束する価値的な内容がなければなりません。そのように結束し、万民が共通的に欽慕することができる対象となってこそ世界を支配することができるのです。それゆえに、「真の父母」という名詞は、偉大なる名詞なのです。もちろん、真理の内容も深みがありますが、「真の父母」という言葉は偉大なる名詞であるというのです。

 ここから未来への出発が保障され、未来に対する確信と価値を保障することができるのです。同様に、現実舞台において価値を保障することができる原点があるとすれば、それはその言葉から来るのです。

◆真の父母を中心とした家庭的革命の必要性

 ここで私たちは、どのようにしなければならないのでしょうか。一つとならなければならないのです。誰を中心として一つとならなければならないのでしょうか。自分を中心として一つとなってはなりません。自分の家庭を中心として、「真の父母」を引っ張ってきて一つとなろうとしても駄目です。「真の父母」の前に、引っ張られていかなければならないというのです。引っ張られていくときに、自分だけ引っ張られていくのではなく、自分の父母なら父母、夫ならば夫、妻ならば妻まで引っ張られていかなければなりません。それだけでなく、自分の家族まで引っ張られていかなければならず、家庭にあるすべての物質まで引っ張られていかなければならないのです。そうして、一つとならなければなりません。

 歴史時代を見るとき、旧約時代は物質を中心として歩み、新約時代は愛を中心として歩んできました。イエス様は愛について話しましたが、人間たちは愛がどのようなものなのかを知らなかったというのです。

 旧約時代は、蕩減のために祭物を捧げました。祭物がなければなりませんでした。このように、祭物を捧げる路程を経てこなければならないというのです。ここでいう祭物とは何かというと、犠牲物だというのです。それゆえに、旧約時代は人間の代わりに贖 罪の祭物として万物を捧げ、物質と共に動物を祭物として捧げたのです。このような時代が、旧約時代でした。

 その次に、イエス様は一段階高めて、神様の愛を紹介しました。旧約時代にはモーセが、愛の神様を紹介することができず、権能の神様、能力の神様、審判の神様だけを紹介しました。しかし、イエス様は、愛を紹介しました。愛の神様を紹介し、愛のイエス様を紹介しましたが、当時の人間たちは受け入れませんでした。

 このような過程を通して、これまで歩んできました。ここで、私たちが知らなければならないことは、父母を中心としなければならないということです。愛は、父母なくしては現れることができません。父母から人が生まれてこそ、愛を授け受けすることができるのです。このような相対基準を備えられずには愛を成すことができないのです。

 万物は、人間のために存在するのです。歴史全体が何に帰結されるかというと、家庭の基準に帰結されるのです。これが宇宙の根本です。父母なくしては子女が生まれることはできません。父母から生まれた子女が、父母を中心として万物を主管しなければなりません。

 皆さんが、み旨を成すために生きなければならないというとき、皆さん一人一人では歩んでいくことはできません。このような内容を、すべて糾合していかなければならないのです。このように糾合したものを、ぎゅっと押さえつければ一つの点となるのです。圧縮すれば一点になるというのです。この一点が二つに分けられれば、ここから衝突が生じるのです。

 立体的に見るとき、歴史は皆さんにとって何に該当するのかといえば、それは家庭に該当するのです。家庭は、歴史的な中心基盤です。

 未来の世界の前に希望を提示するためのすべての革命の目標は、国家や世界ではないというのです。歴史過程において、国家の革命観や、世界の革命観を提示した人はいましたが、家庭の新しい基盤を準備するために、家庭の革命観を提示した主体勢力はなかったというのです。

 それでは、先生は何をしようとしているのですか。家庭の革命がある前に氏族の革命があるはずがなく、氏族の革命がある前に民族の革命があるはずがなく、民族の革命がある前に国家の革命があるはずがなく、国家の革命がある前に世界の革命はあり得ないというのです。それゆえに、個体の完成と共に家庭的な革命をしようとしているのです。

 革命は、既存のものを捨てて破綻させなければ、成し遂げることができません。過去のものを除去しなくては新しいものを成すことはできません。したがって、自分を否定しなければならず、家庭を否定しなければならず、自分の物質を否定しなければなりません。そうしなくてはならないのです。

◆家庭は宇宙の根本

 イエス様は、自分の子供を愛する前に、神様を愛せよと語られました。自分よりも神様をもっと愛せよと語られたのです。それゆえに、イエス様は「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである」(マタイ二二・三七)と語られました。

 私たち人間は生命の根がないために、根を接ぎ木しなければなりません。浮き草のごとく、風が吹けばあちらこちらに流されていってもいいのですか。根がないというのです。このみ言は、このような環境の与件を絶対に必要とする堕落した世界にとっては、福音のみ言なのです。

 それでは、神様をどのように愛するのでしょうか。楽園の宮中に立てておきますか、そうでなければ歩き回らせますか。天国中心ではなく、生活中心へとすり替えることができる道を見つけるために、これまで身もだえしてきたのです。これまで人間世界に、生活中心へとすり替えることができる、その道がなかったので、そのような道がなければなりません。これはどのような話かというと、神様の愛を中心とした、真の愛の主体がいなければならないということです。

 一つの国を中心として見るとき、国の国王を父と見るならば、民は息子の立場であり、地は万物の立場です。同様に、世界を中心として見れば、万民は息子の立場であり、この地球全体は万物の立場であり、世界を中心として来られる主は、父の立場なのです。全天宙を中心として見るときには、天宙の中心である神様は父の立場であり、神様と連結される歴史的な人間は息子であり、すべての被造世界は万物なのです。

 これを縮小させた基本単位が家庭です。ゆえに、家庭における父のもの、息子のものを、すべて神様のものとして捧げなければならないのです。誰の息子、誰のものという区別はなく、すべてを神様のものとして捧げなければならないというのです。ある人は、「物質を除いて息子、娘だけ捧げましょう」と言う人がいます。あるいは、「自分は除いて息子と物質だけ捧げましょう」と言う人もいます。そのようにしては、全体復帰が成されないのです。

 一つの国を形成するためには、主権がなければならず、民がなければならず、国土がなくてはなりません。天の国も、やはり同様です。主権を代表したものが父母であり、民を代表したものが息子、娘であり、国土を代表したものが国です。このうちの一つでも省くことはできません。これは鉄則です。

 それでは、皆さんが国を代表していくべき基盤とは何でしょうか。国の祭壇とはどこでしょうか。家庭です。したがって、家庭において愛する夫婦を中心として、子女と万物が一つとならなければなりません。それが国のものであるならば、世界のものにもなるのです。私自身や子女や万物は、私のものではなく、国のものです。それは間違いありません。ゆえに、国が要求とするときには、いつでも引き渡すことができなければなりません。そうしなくては、国の前に忠の道理を果たすことができないのです。

 国を愛するのは、国から奪うためではなく、与えるためなのです。なぜ世界のために奉仕し、犠牲とならなければならないのでしょうか。「統一思想」は、自分の国を犠牲にして世界を救おうという思想です。これは結局、犠牲ではなく、世界とすり替えることになるのです。大きなものを得るためには、小さなものを犠牲にするのが正常なのです。より価値あるものとすり替える人が、知恵のある人です。それが、世界に行くための正当な道です。人間は、より大きなものを憧憬しようとするのであって、小さなものを憧憬しないのです。より大きなものを望むのであって、小さなものを望みはしないというのです。

 あるものを否定しなさいというのは、否定するだけで終わるのではなく、より大きなものとすり替えなさいということです。この現実の生活圏内で、そのようにすることができる実際的な内容を備えなければならないのに、このような内容を備えることができなかったために、今日人間たちは堕落した世の中の汚染された環境の中で、その生涯を終わるようになっているのです。このような実状を、私たちはよく見ているのです。

◆先生の思想――天宙主義

 すべてのものは、父母と、子供と、万物の立場です。今日、この世の中を生きていく中においても、父母のあとに息子が従ってきて、息子のあとに万物が従ってきているのです。より大きなものを中心として、息子と万物が父母を擁護していくのです。永遠の世界まで、そのようにしていかなければなりません。この堕落した現実から、死の世界にまでそのように導いていかなければならないというのです。父母は息子、娘を導いていかなければなりません。それゆえ、メシヤは息子、娘を救うために導いていかなければなりません。その次には、万物を導いていかなければなりません。万物は、そのために準備されたものではないですか。子供として生まれれば、既に父母となるように準備されているのです。それゆえに、父母の周りには、息子、娘が取り巻いて立っていなければなりません。父母の周りに、息子、娘が永遠に取り巻いて座っていたいと思うその心の基盤が、この地上に現れるようになれば、平和の王国は建設されるのです。

 皆さんは、先生を中心としてその位置を離れず、そばにいたいと思い、現在の自分たちの位置を変えずについていくことができる心をもたなければなりません。すべての所有物もまた一つとなる、それで終わってしまってはなりません。自然的な環境で、天のものとして動くことができ、天のものとして和することができる基盤とならなければならないのです。

 それでは、万民の祭物はどこに行ったのでしょうか。息子の祭物はどこに行き、父母の祭物はどこに行ったのでしょうか。これまでこれらの祭物が一箇所に集まって、父母の懐に抱かれることができる、そのような時が地上にあったでしょうか。人類に対して、「愛する息子、娘よ!
 お前たちの息子、娘は私の孫であり、その孫のものは私のものである」と言うことができる私自身となっているのでしょうか。これが問題なのです。

 家庭がある前に氏族があるはずがなく、氏族がある前に民族があるはずがなく、民族がある前に国家があるはずがなく、国家がある前に世界はあり得ないというのです。それで先生は、天宙主義を唱えるのです。

 天宙主義とは何でしょうか。家庭においていえば、私が生活している家庭に、天下をぎっしり埋め尽くしても余りあるほどの金の宝物があるとしても、そこに酔いしれて生きるのではなく、それを忘れ、常に神様の愛に酔いしれて生きる、そのような家庭です。息子のものは父母のものであり、父母のものは神様のものとして、そっくりそのまま連結させられなければなりません。

 私たちが行く原理の道は、神様の前に物質をまず立たせていく道です。神様は被造世界を創造される時、万物を最初に創造されました。万物が最初に現れ、その次に息子が現れたのです。ゆえに、父の前に進んでいこうとすれば、一番前に万物を立て、その次に息子を立てておいて行かなければなりません。そうしたのちに、父が私たちを呼ばれるのです。

 神様の救援摂理の目的は、万物を取り戻すことではなく、息子を取り戻すことです。息子さえ取り戻せれば、万物はそこに自然と交わるようになっているのです。また、父母さえ取り戻せれば、息子は生まれるようになっているのです。それゆえに、人類の父母を取り戻してくるのが復帰歴史です。皆さんはこれを知らなければなりません。

◆神様の前に感謝を捧げることができる人

 それでは、本当の意味で神様の前に感謝を捧げることができる人とは、どのような人でしょうか。
 自分一人で神様の命令を受けていこうとする人は、どんなにやっても駄目です。そのようにしては完成の位置に行けないのです。甲斐ある位置ではないのです。どんなに自由世界と天地が記憶する恩賜の位置に立ったとしても、そのようにしては駄目だというのです。まず自分の息子、娘と一つとならなければなりません。自分が所有しているすべての物質と一つとならなければならないのです。

 今後、家庭を中心として相続させ、家庭を中心として入籍させなければならない時代が来るのです。私たちにはまだ入籍する国がないので、入籍ができないのです。そうすることができる国がないというのです。このような運命に処している私たちは、ジプシーの群れであり、流浪の群れと同じ身の上であるということを、皆さんは知らなければなりません。

 それゆえに私たちは、どのようにしても一つの土台をつかみ、一つの主権を立てなければなりません。数多くの苦難の圏内で、一つの甲斐ある価値を中心として、世界の民族を復帰させることができる主体性をもった群れとならなければならないのです。

 皆さんは、今後入籍時期があるということを知らなければなりません。祝福を受けることは、入籍することではありません。これは、象徴的な入籍にしかならないのです。ゆえに、私たちは入籍することができる国を探し求めていかなければならないのです。その国は、どのような国でしょうか。
 主権は父母を身代わりし、民は息子を身代わりし、国土は物質を身代わりし、三位一体を成す国です。国家を形成するためには、主権がなければならず、民がなければならず、国土がなければなりません。宗教も同様です。

 今日、皆さんにおいては、私のものか、父のものかという、この関係をどのように展開していくのかが問題です。これが今日、私たちが生活しながら境界線にぶつかる、最も大きな問題です。

 一つの家庭は、一つの国を成すところにおける細胞と同じです。甲という人が、個人としてもつべき要件をすべてもっているのと同様に、一つの家庭は、一つの国家を成すことができる要件をすべて備えているのです。そのような目的をもって、先生は家庭を祝福してあげるのです。

 どのように感謝する生活をすべきなのか

 ここにおいて問題となるのは、皆さんが感謝する生活をするかどうかということです。しているならば、どのように感謝しているのでしょうか。子供の多い人を見れば、その人は苦労が多いというでしょうが、一面では子供がいない人が感じることのできない、そのような幸福を感じるということを知らなければなりません。子供を育ててみた人は、それが分かるはずです。子供を育ててみた人と、子供を育ててみることができなかった人を置いてみるとき、子供を育ててみた人は、子供がどんなに込み入り、騒々しかったとしても人生の生き甲斐を感じるのですが、子供のいない人は、そのようなことを感じることができないのです。

 子供たちによって人生の希望を感じるのです。その処している環境は複雑であるとしても、不幸なことではありません。そこには、あすへの希望が接ぎ木されているというのです。人がもてない息子、娘が多ければ多いほど、各分野で四方性を備え、新しい希望をもつことができるがゆえに、自ら進んで困難な環境を克服することができるというのです。

 このようなことを見るとき、感謝する生活をどのようにするのかということが問題となるのです。皆さんは、常に物質に対しています。ところで人々は、その物質をもって自分の息子、娘にたくさん食べさせようという考えをもっています。しかし、物質をもって国を生かそう、世界を食べさせて生かそうとしなければならないのです。物質に対したとき、その物質が少ないとしても、世界のために与えようと精誠を込める人と、その物質にしがみついて自分の息子、娘のために残してあげようと極端に惜しむ人がいるとすれば、神様が御覧になるとき、どのように思われるでしょうか。

 どんなに小さな物質であったとしても、神様のために精誠を込めたものであるならば、それで世界を掲げて入っていくことができるのです。皆さんは、これを知らなければなりません。もっているものが百ウォンしかない人が、その百ウォンに神様の愛を掲げて入っていくようになるときには、その百ウォンは全体を代表し、その人の人格を代表するということを知らなければなりません。

 一寸の土地であっても、これを「自分の財産である」と言うことはできません。すべては、神様からもらったものだというのです。神様からもらったので、再び戻さなければならないというのです。そのようにするとき、歴史は熟していくのです。そのように受け取ったので、そのように与える人とならなければなりません。そのような人々の世界とならなければ、この地は天国とはなり得ません。

 一日二十四時間の生活圏内で、私が見聞きしているすべてのことは、何のためでしょうか。神様のために見たり聞いたりしなければならないのです。同様に、感じることも、神様のために感じなければなりません。私たちは地上で生活していますが、天上世界の生活と連結させて生活しなければなりません。そのような生活ができない人は、天上世界を体得することができないのではないでしょうか。

◆感謝する生活をすべき私たち

 皆さんが一つの物をあげたりもらったりするときは、世界の物としてあげたりもらったりしなければなりません。このような事実を、皆さんの生活の中でどれだけ感じ、体得して生活しているのかというのです。

 皆さんは、誰のために与え、誰のために受け取るのでしょうか。神様のために与えなければならず、神様のために受け取らなければならないのです。神様のためにもらったので、神様のために与えなければならないのです。神様のために与えたので、自分のためにもらおうとしては駄目なのです。

 皆さんが神様を中心として誰かに一つの物をあげたならば、皆さんを愛される神様は皆さんに、それのみを与えたいと思うのでしょうか、でなければ、それよりももっと大きな物を与えたいと思い、心を痛める境地で死んでも、恥ずかしいと感じる心をもたれるのでしょうか。これが問題となるのです。父母は与えて誇るのではなくて、与えながらも、かえって恥ずかしいと思うのです。

 父母は、子供に与えても他の人と同じように着せることができず、もっと与えたくても与えることができないことを恥ずかしく、恨めしく思うというのです。息子が泣くのを見れば、自然に涙を流す父母の心情があるということを、私たちは感じなければならないのです。それは公的なものです。そのような心情をもった父母から生まれた息子は、立派な息子になるはずです。

 私が与えても恥ずかしがる心の姿勢、もらえば恥ずかしくおそれ多くて、どうしたらいいのか分からないという心の姿勢を常にもって生きる人が、感謝の生活をする人です。このような人を通して新しい歴史が展開するのであり、このような内容を通して天国が成し遂げられるということを、皆さんははっきりと知らなければなりません。

 それゆえに皆さんは、自分が処している位置で、涙を流しつつ感謝しなければなりません。あまりに足りない自分に望みもしなかった物を整えてくださった神様に対して、感謝しなければなりません。恥ずかしさを感じながらもらったので、与えながらも恥ずかしさを感じることができる心の姿勢をもつ人は、絶対に滅びることはありません。そのような人は、感謝する生活をせざるを得ないということを、皆さんは知らなければなりません。

◆私たちが立てるべき伝統――感謝の生活

 もし、アダムとエバが「取って食べてはならない」という神様のみ言を聞いたとき、このみ言を感謝して受け、あまりにも高く尊いお方が「恥ずかしい我々に、このようなみ言を下さるとは」と言って、おそれ多い心で頭を垂れ、自分たちは慎重に行動しようという心をもって生活していたとするならば、堕落はしなかったはずです。

 皆さんは、神様の愛を中心として愛を与えても恥ずかしいと思う心でお互いを尊重し、愛を与えても恥ずかしさを感じることのできる愛の主人公とならなければなりません。このような人たちが生活する家庭が、幸福でないはずがありません。これが今日、公的、私的な問題において、私的な問題を解決し、公的な基盤に連結させることができるたった一つの道であるということを、皆さんははっきりと知らなければなりません。

 このような時代に生きる人は、間違いなく幸福を享受するはずです。時が問題であり、その期間が問題であるだけであって、そのような人は、自分の生活圏内で神様のみ業を受け継いで生きる人なのです。これを知って、皆さん自身の責任が大きいということを考えなくてはなりません。

 歴史過程には立派な人々がたくさんいましたが、与えても足りないことを感じ、もらうときは有り難く受け取る人がいなかったのです。その格好はどうであっても、感謝してもらい、有り難くもらう人のみが神様を愛することができるということを皆さんは知らなければなりません。

 将来、私たちは何を誇るのでしょうか。神様が下さるものをいつでも感謝して受け取り、いつでも有り難くもらえることが私たちの誇りであり、また、有り難く与えられる心をもったということが私たちの誇りです。このような伝統を立てていく皆さんであるならば、その伝統は、世界の歴史とともに切れることがなく、永遠であることでしょう。

 そのように生活する人のみが、神様に感謝する生活をなす人です。私たちが世界に残ることができる道は、すべてのことに感謝する生活をする道だけであるということを、皆さんははっきりと知らなければなりません。

 生死の問題を中心として堕落したことが起源となり、このような曲折の道をつづってきたのですから、これを越えていくためには、現実を否定し、未来を肯定しなければなりません。現実において未来を肯定する心を受け継ぐためには、感謝する思いで、「すべてを与えられる」という心をもたなくてはなりません。このような心がなくてはならないというのです。これを知って実践していく人は、間違いなく神様の息子、娘となれるはずです。


2013年5月15日水曜日

文鮮明先生のみ言集より 故 郷 一九八九年二月十二日 韓国本部教会






故 郷

一九八九年二月十二日
韓国本部教会 『文鮮明先生み言選集百八十七巻』


 きょう、皆さんにお話しするみ言の題目は「故郷」です。

◆故郷に対する回想

 人は大抵、年が若い時には故郷を離れたがるものです。それは、先生も同じでした。幼いころから物心がついて考えたことなど、すべての過去のことを思い出してみれば、咸 鏡道がどのようになっていて、平 安南道がどのようになっていて、黄海道がどのようになっていて、それから江 原道から慶 尚南北道、全羅南北道、忠 清 南北道がどのようになっているのかということが気になったのです。それは皆さんも、みな同じだったことでしょう。それで、二十代を前後して全国を歩き回ったことも回想されます。

 その時に感じたすべてのもの、懇切に願えば願うほど、相対的立場にある国が幸福で平安であったならば、それほど印象的なものではなかったことでしょう。しかし、貧しく暮らす村々を経ながら、あるいは山野に行き来しながら感じたことは、「この哀れな民族」ということでした。そのような思い出は今も忘れられません。

 そうして、私はこの民族の中の一人として生まれ、外国の勢力に支配を受けながら自分の心中と生活環境を誇ることができない悲惨な姿、そのすべての内的な苦衷が大きければ大きいほど、民族を眺めたとき、その衝撃的であきれ返るほどの事実を忘れることができなかったことが、今思い出されるのです。

 さらに進んで、韓国がどうだというとき、日本がどうで、中国がどうで、世界がどうだとしながらさらに広げて考えるようになるとき、外国に出てみるようになれば、一遍に自分の国と比較されるのです。皆さんも、みなそうでしょう。

 我が国と豊かな国を比較して見るとき、その差が大きければ大きいほど、その比較される環境で格差を感じると同時に、そこにおいて歓迎されず隔離され、自分自ら苦衷を慰労する環境となれず四方からそのような苦衷に取り囲まれるのです。そのような心的苦痛を与えたすべての環境的与件は、改めて国の不足を嘆かせ、将来このような不足な国をどうすれば良い国に導いていけるのかという問題について考えるとき、それ自らが解決することができない、導くには不足な自分と環境とを思うときに、そこから来る苦衷は到底言葉で言い表すことができません。

 このような立場からその範囲を広げて考えてみましょう。私たちの人生が単なる七十年の人生として終わるならばどうか分かりませんが、私たちの人生というものは永遠の問題を中心として生きているのです。

 それでは霊界があって、皆さんが死後に霊界に行くようになれば何を考えるでしょうか。その世界は広大な世界です。皆さんはよく知らないでしょうが、広大無辺なる世界です。そのような世界に入っていき、すぐに感じるようになることは、「私が暮らしていた故郷の地よりも私が暮らしていた世界、地球星がどうで、こうで」ということです。

 皆さんは、民族間の差別や背後の文化的な格差だとか、相いれない生活様相などに悩まされながら暮らしているこの地において、自分を主張し、すべてのことを収拾したいと思い、自分の主張と自分の価値を残したいと思うのです。それらのものが過去に過ぎ去るのではなく、その世界に行っても鮮やかによみがえるのです。

 その世界が自分で測定できず、自分の考えの中に自由に吸収することができない膨大な世界であればあるほど、より一層懐かしくなるものが故郷の地、あるいは地球星での生活ではないかというの
です。

 それでは皆さんが霊界に行き、永遠の世界を歩んでいく生活をするようになるとき、いつになればそれを忘れるようになるのでしょうか。皆さんは、どのように思いますか。何日ぐらいかかると思いますか。何年ぐらいたてば忘れると思いますか。

 その世界に行って出会う人は、自分には見慣れない人々です。そのような不慣れな環境に私がもし一人で立ったとしたなら、気持ちはどうですか。皆さん、一度考えてみてください。そこにおいて何かを思うようになるとき、自分に懐かしい人々、過ぎし日の、心の中から抜き去ることができない情緒的な関係を結んだすべての因縁から、抜け出すことができないのです。

 自分が霊界に入っていき、その世界において思うことは「お母さん、お父さんはどうなり、おじいさん、おばあさんはどうなっただろうか」と、そのようなことなのです。

◆宗教人たちが追求する故郷

 宗教を信じる人々がこの世の人々と異なっている点とは何かといえば、彼らは一生の間、霊界を標準として生きているということです。宗教というものは、神様と出会って生活しようとするところから始まるのです。

 各宗教団体の教祖たちが残していった経典の内容は、人間の暮らしを紹介したものではありません。それは永遠の世界、超然とした世界の内容を中心として、神様ならば神様がいらっしゃるところと神様が住まれるところを中心として、私たちがそこと関係を結ぶことができる内容を教えてくれたものです。

 そして、宗教生活をするその生活が深刻であればあるほど、人生の問題を全部捨てて越えていけばいくほど、神様、あるいは主のために、すべてのものを投入するのです。宗教の目的のために愛する父母と愛する故郷、そして愛する祖国と人生の路程を経ていくべきこの地球星を捧げたということができる宗教人がいますか。世界の人類のためにすべての精誠を捧げ、自分の思いや活動の目的も、この一つの目的のために投入したとするとき、その人が霊界に行くようになれば、どうなると思いますか。「ああ、行きたくない」と言うと思いますか。

 深く広いその世界の環境が、私たち人間世界と異なれば異なるほど、そこに対する関心はどれほど大きいことでしょうか。「どうだろうか。どうだろうか」としながら、しきりと気になるのです。
 まだ結婚していない若者が、「嫁に行ったら、婿に行ったらどうなるだろうか」と思うのと同じように、欽慕の心情をもって第二の故郷をもちながら生きる人々が、宗教人ではないのかというのです。

 そのような所のために涙を流し、生涯を投入し、すべての精誠を尽くすところにおいて、この世からはむち打たれ、冷遇されるとすれば、それは深刻な立場です。そのような深刻な立場において、この世のすべてのことを知り、それと比較した結果、自分が行く道がより価値ある道であるとすれば、「私がぶつかる外的なすべての反対現象は、私をして後世における希望の基準をもたらしめるのではないか」と考えるようになるのです。

 宗教人たちの中でも、平坦な宗教生活をする人もいるし、困難な宗教生活をする人がいるし、平凡な生活をする人がいる一方で、深刻な立場で宗教生活をする人もいて、その宗教に帰依しながらも自分の利益のために生きようとする人がいるかと思えば、自分の永遠なる生命と本質的な価値のために生きようとする人など、様々な人々がいます。そのような千態万状の生涯路程における困難は、その基準に従って千態万状の系列や階級、あるいは方向があるのではないかというのです。

◆心と体がとどまることができる故郷

 私たち人間は、心と体をもっています。それでは、皆さんの心の故郷と体の故郷は違いますか。同じでなければなりません。それでは、永遠なる私の心の故郷がどこであり、また、永遠なる私の体がとどまることができる所とはどこでしょうか。これは深刻な問題なのです。

 人間が価値の問題を論じるとき、私たちはよく「あの人は立派な人だ」と言います。しかしながら、その人が自分の故郷でだけ暮らしていては、故郷というものが分かりません。また、国にだけ住んでいてはその国の貴重さを知らないのです。アジアを経て、世界を経て、遠くに離れれば離れるほど、離れた距離に比例して、また、故国を離れた時間が長ければ長いほどその時間に比例して、故郷は消えてなくなるのではなく、より一層懇切なものとなるのです。

 このようなことを見るとき、人は一箇所に定着して生きるのですが、定着した基地を中心として東西南北に拡大し、因縁をつくりながら生きようとすることも、人間の生涯を成していく一つの要因ではなかろうかというのです。

 それでは、皆さんの心と体を中心として本当に故郷で生きてみたのでしょうか。これが問題です。故郷とはどのような所でしょうか。生まれてから学ぶことのできるものの中で八〇パーセント以上を教えてくれた教材が残っている所です。そこには、父母がいらっしゃるのです。

 お父さん、お母さんというものは、言葉は簡単です。お父さん、お母さんは誰にでもいるお父さん、お母さんですが、そのお父さん、お母さんに対する立場によって千態万状の価値基準が設定されるのです。私が悲しいときのお父さん、お母さんは私にとって慰労のお父さん、お母さんです。うれしいときのお父さん、お母さんはその喜びをより一層刺激してくれるお父さん、お母さんとなるのです。

 息子、娘が喜ぶ姿を見て悲しむ父母はいません。そのようなことを見るとき、悲しいときに共に同伴者となり、うれしいときに共に同伴者となって、私の物心がつく時まで、生活する一切の面倒を見てくれる主体者としての私の同伴者が父母なのです。

 すなわち、私が寂しいとき寂しさを慰労し、困難なときは困難なことを慰労してくれ、病気になれば病気になったことを心配し、慰労してくれながら、私が育って物心がつく時まで、私の心身を中心とした同伴者であったというのです。その同伴者が変化してしまえば、困るのです。同伴者として永遠に変わることがない立場に立っているのが、父母です。

 それゆえ、その変わらない父母を中心として、その父母にひもをつけておいて、私が遠くに行ったとしても再び戻ってきたいのです。また、良い所があれば、そこにお連れしたいのです。世界中、どんなに遠い所に行ったとしてもその中で良い所があれば、その良い所に自分だけ行きたいと思うのではなく、父母と共にそれを分かち合いたいというのです。

 どうしてそうなのでしょうか。父母は、変わることのない私の心と体の同伴者であるからです。私が寂しいとき、寂しさの中にいる私を慰労してくれる最大の同伴者が父母であり、私がうれしいとき、その喜びを共にたたえることのできる最大の同伴者が父母であるためです。人間は、変わることがない同伴者がいる所を中心として生きたいと思うのです。

 それでは、故郷には誰がいるのでしょうか。父母がいます。また、父母の上にはおじいさん、おばあさんがいます。おじいさん、おばあさんとお父さん、お母さんは違います。どちらが近いかと問われれば、分別がつかない時にはお父さん、お母さんのほうが近いと思うのですが、長い歴史をおいて、私たちのお父さん、お母さんは誰の保護を受けたのかと考えてみるときには、どうですか。私がお父さん、お母さんを変わることのない主体者として恋い慕うのと同様に、お父さん、お母さんもそうであるというのです。

 このように見るとき、人間の中心的先祖はどのようなお方でしょうか。私たちの先祖がいるのですが、その中で一番中心に立つ者が誰かというとき、それは私たち人間の根本となる先祖ではないのかというのです。その先祖に先祖がいたとすれば、そのお方はその先祖が父母として仕えた方ではないでしょうか。そのお方こそ、人間を創造された神様であり、私たちの父であられるのです。

 そのお方を通して、私たちの父母の心を永遠に引きつけることができ、私たちのおじいさん、おばあさんの心を永遠に引きつけることができ、数多くの先祖たちの心を引きつけることができるのであり、引きつけるだけでなく、それが一つに束ねられるのです。

◆故郷に対する懐かしさと「郷心」

 人はどんなに遠くに離れたとしても、根本を離れることはできません。変わることのない心情的、情緒的な根本を離れることができないようになっているのが私たち人間です。なぜならば、人間の根がそこから広がっていったからです。根を越えられる存在はいないので、故郷に対する懐かしさと「郷心」は、誰もがみなもっているのです。

 故郷は良い悪いを超えて、忘れられない所です。どこか海外に出るとか、遠い世界へと離れれば離れるほど、そこにいるとき雨が降れば、雨が降るという現象は同じなのですが、その雨に対する私の心は故郷との距離によって違ってくるのです。また、環境の与件によってもそれは異なってくるのです。皆さんが友達と会うとか、愛する人と同伴してそこにおいて暮らすとしても、故郷を離れた時には自分の妻も自分と同じ心情で故郷を慕い、感じてくれることを願うのです。また、自分の妻だけでなく、息子、娘も故郷に連れていき、心の深いところに大切にしまい込んである追憶を分かち合いたいと思うのです。

 このように見るとき、故郷というものは私の人生における重要な教育材料を八〇パーセント以上供給してくれる所であるために、私たち人間から故郷との因縁を断ち切ってしまうものは何もないではないかというのです。

 幼稚園時代、小学校時代、その次に中学高校時代、その次に大学、その次に社会に出ていき出世して成功したというとき、故郷を離れ遠くに行けば行くほど故郷と離れていくようですが、人々の心の中で一番忘れられないのが、幼稚園時代であるというのです。小学校に通ったときよりも、お母さん、お父さんの手に引かれながら幼稚園に行き、先生と歌を歌い、踊りを踊ったことが、物心がついたのちに回想すれば、より強く残っているというのです。中学校よりも小学校、高等学校よりも中学校、大学よりも高等学校がより思い出されるのです。そうであったのが、大学院だとか、博士コースに行くようになれば、だんだんと離れていくのです。

 それはどうしてでしょうか。幼い時には、家庭を中心としてお母さん、お父さんと兄弟だけを考えていたのが、大学を出て、どんどん大きくなっていきながら分別がつけば、どのようになるかというと、「私は何々にならなければならない」ということを中心として、外に向かって出ていこうとするのです。そのように外に出ていくようになれば、一つの中心との間の距離はだんだん遠くなるのです。

 しかしながら、故郷というものがあるために、どんなに出世したとしても、いくら博士になって成功したとしても、どこに行こうとするのですか。「ああ、私の妻と息子、娘のところに」と言うでしょうが、息子、娘を率いてどこに行くのですか。「錦衣還郷(故郷に錦を飾る)」という言葉があるように、故郷に行こうとするのです。人は、故郷を離れれば離れるほど寂しいものです。寂しくなるのです。

◆故郷に対する情緒

 このように私たちが人生を生きていく中において、皆さんはどのような環境の中にあるのかというのです。人が年を取れば、十代にはどうで、二十代にはどうだったというようになるのです。故郷でどうだったということ、故郷の何という山はどうで、何という山はどうだったということが回想されるのです。幼かったときそこを巡り歩きながら過ごしたこと、山に登って野生の花を摘み、あるいは山菜を摘んだりした、このような様々に感じた事実は心の中から取り去ってしまうことはできないのです。

 また、幼かったとき、自分の家の近くに栗の木があったとか、あるいはアカシアの木があったとすれば、その記憶がよみがえってくるのです。アカシアの木は、とげがたくさんある木なのですが、季節になると花が咲くのです。そのアカシアの花が咲くようになれば、その香りがどんなにかぐわしいか知れません。その香りは実に高尚な香りなのです。

 そのアカシアの木を、ただ眺めているだけではないのです。行くや否や、登っていくのです。かささぎは大概、その巣をアカシアの木にたくさん作ります。かささぎは利口な鳥です。アカシアの木は普通の木と違って実に丈夫なのです。それで、かささぎが巣を作るのですが、それも一番高い所に作るのです。

 皆さん、かささぎが鳴けば良い知らせがあるという言葉があるでしょう? 朝、「クワッ、クワッ、クワッ」と鳴けば、それが良くて、何がどうだこうだと言うでしょう? また、かささぎは気候について分かるのです。今年は雨が、どこにたくさん降るだろうということが分かるというのです。かささぎが巣の出入口をつけるのを見て、「あー、今年はどういった風が吹くな」ということを知ることができるというのです。そうして、「今年は台風が吹くので農作業が駄目だな」と分かるというのです。かささぎは、風が吹かない方に巣の出入口をつけるからです。

 そして、ひなを愛するその動物たちの母性愛、父性愛というものは大変なものです。ある時はそれを思うと痛々しいくらいなのです。普通の鳥たちを見れば、卵がかえるときに対面するのですが、会ってから数カ月しかたっていないとしても、その母性愛には差がありません。先生は幼かったとき鳥たちをたくさん捕まえてみたから、それをよく知っているのです。母性愛というものはつがいで暮らす鳩のような鳥だけでなく、どんな鳥であっても、みな同じなのです。

 特にかささぎのような鳥は、人が巣を降ろそうと登っていけば、来てつつくのです。それで、そのまま木に登っていけば問題となるのです。よく見てみると、巣を木の上に結い、その次には泥をくわえてきて繕い、わらくずをもってきてそこに置くのです。それを見れば、本当にひなを愛する心情が分かるのです。どこからか綿のようなもの、ふかふかしたものをもってきて巣を作るのですが、それは、人間が作った居間よりも優れているのです。

 そのようにして巣を作っておいて、雌がそこに入って卵を産むのです。かささぎの卵は本当にきれいです。薄く青みがかっているのですが、そこにひびが入ってひなが生まれるのです。先生はそれに関心があって毎日のように登っていきました。そうすると、一番最初はかささぎたちが大騒ぎするのです。しかし、毎日のように登ってきたとしても何の異常もないので、それからは、登っていくとかささぎたちも「クワッ、クワッ」とあいさつするのです。「また来たな、よく見ていきな」と言うのです。

 このようにして、登ったり降りたりしながら先生はずっと見守ってきたのですが、卵からかえってから鳥が育つのは本当に早いのです。そうして鳥に情が移っていったのです。そうすると、かささぎがひなを産んで出ていくようになると、どんなに悲しいか知れません。そのかささぎのひなたちがすっかり大きくなって飛んでいく時には涙が出てくるのです。それを見て、「私もかなり情が深いのだなあ」ということを感じました。そのようなアカシアの木、刺がはえていて見た目は良くない木ですが、自分が因縁をもったことは、一生の間忘れることはできません。

 また、小川がありました。先生が故郷にいたころ、そこに棲んでいる魚という魚はみな捕まえてみました。そこにはどじょうがいて、うなぎがいて、かにがいて、とても多くの淡水魚がいたのですが、それを全部捕まえるのです。

 それらを捕まえて放しておく大きな池があればいいのですが、なかったのです。近ごろは家でも魚を育てたりするでしょう? そんなことができる池があればどんなに良かっただろうかと思ったのです。全部捕まえてそこで育ててみれば楽しいのに、池がないのでそんなことができますか。

 それで、そのころは物心もついていなかったので、穴を掘って水たまりを作り、捕まえた魚をそこに入れておいたのです。そのころは、魚は水の中にいれば生きると思っていたのです。ところが、一晩すると全部死んでいたのです。それを見て、「真心を込めてお前を生かそうとしたのに、何で死んだのか」と言ったのです。その事情も知らずにです。

 それを見れば、先生は情的な人です。死んだ魚を見て、「お前のお母さんが泣くだろうなあ」と言ったのです。そう言いながら魚を見て泣くのです。「僕が泣いてあげるよ」と言いながら一人で泣くのです。そのようにしながら過ごしたすべてのことが思い出されるのです。成長するときにおいて、情緒的な多くの教材を残してくれる所が故郷です。

 山を眺めるときも、忘れられないすべての情緒的な網が張られています。また、小川を見るときもそうです。小川があればそこにも様々な魚が棲んでいて、多くの虫たちが棲んでいるのです。それらのものを学びの材料として活用しながら、自分が大きくなるときにおける知識を授けてもらうのです。故郷の山河にあるすべての動植物をはじめとする、自然界に関したものを教材とするのです。そのように、自分の内的な人間が育つ際の豊 饒性を身につけるための多くの材料を残してくれる所が故郷ではないかというのです。

◆故郷は心情の博物館

 ですから、人は誰でも故郷の山河を懐かしむのです。そうではありませんか。先生は自然が本当に好きでした。山に行き、座って昼寝をするのです。大きな木に寄り掛かり、自然の中で昼寝をするのです。そうしながら、山菜も採って食べたりして、こうしたすべてのことが忘れられません。

 そうしたことを見るとき、故郷は私たちが情緒的な人間として育つことができるよう、基本的な教材として私に提供されたものであると、このように考えるのです。

 皆さん、昔小学校に通っていたころ、机に穴が開いていたならば、それを今でも思い出すでしょう? どこがどうなっていて、どこがどうだということが思い出されるのと同様に、その山河にある木はすべて同じ木であっても、その木々の姿が自分の印象の中に残っているのです。それらのものが自分のすべての情緒的な面における追憶として残り、記憶に残る一つの教材として残された博物館であったのです。

 また、小さいころは他の村の子供たちとけんかしたりするでしょう? それで、鼻血が出ればお母さん、お父さんを探して行くでしょう? ところがお母さん、お父さんは、「こいつめ、なんでけんかをして、また鼻血を出して帰ってくるのか」としかるのです。

 母は息子が外でけんかをして殴られて帰ってくると、しかりつけるでしょう? そうしたことは大きくなって子供を育ててみれば、その心情を理解することができるのです。その時には「お母さんはなんであんなふうにするのか。鼻血が出ているのに、反対にしかりつけてくる」と思ったのですが、物心がついてみると、その時の母親をつかんで「母さんありがとう」と言うことができたなら、母親はどう思っただろうかと考えるのです。

 このように見てみると、そのすべての材料の中で一番忘れられない材料とは何でしょうか。それは情緒的な面のものです。

 うちの母親を思うと本当に哀れです。日帝の時代に田舎でたくさんの息子、娘を抱えて生活しようとすれば、近ごろのように金を出して買える安物のナイロンのようなものでもありますか。服などは全部木綿で作るのです。綿を植えて種を取り、機で織って服を作るのです。

 母の機織りは手際が良かったのです。普通の人の二倍以上を織りました。普通の人は布地四十尺を織ろうとすれば、一日に五尺ずつ織っても八日かかるのですが、母は一日半もあれば織ってしまうのです。忙しい時は一日に一疋(=二反)織るときもありました。

 そうして、母がたくさんの布地を織ると足が腫れて、それを先生に見せてくれました。その時、「足、痛くない、母さん? 一日中していたからどんなに痛いだろう?」と言うと、母は、「痛いもんか。それをしなくてどうやって生きるんだ」と言うのです。そうして、その足を見せて、「これ、見てみな」と言うので触ってみると、足がすっとへこんでいったのが忘れられません。そうしながらも、子供たちのためにそれをなんとも思わずに苦労したその母の姿、そのようなことが忘れられないのです。

 ですから、どこかに行けば行くほど、一番懐かしいのは母親です。その次に、自分が遊んだ兄弟たち、姉妹たちです。先生には二歳年上の姉がいました。その姉は、誰よりも先生のことを愛してくれました。私が何かなくて騒ぐと、自分のものをくれるのです。嫁入り前の時はそうではないですか。嫁に行く前にはみんな、小さなふろしき包みを持っていたのです。

 母に向かって、「何々が必要だ」と言っても、母がいつでもそれを準備できますか。そうすると、その姉は自分のふろしき包みをくまなく探って、私を呼んで「ほらほら、ここにある、ここにある」と、そのようにした思い出が浮かんでくるのです。そのようなすべてのものが情緒的な面において絡まり合って忘れることができないのです。小さかったときの、そのすべての印象がどんなに刺激的か知れません。

 ゆえに、自分の人格の素養を備えるにおいて、情緒的な面や生活的な面をそこで教わるのです。
 韓国人は、服のことについて他の所に行って教わりますか。故郷で全部教わるのではないですか。どのように着て、何が良いとか悪いとかいうものを、全部教わるのです。その次に、生活するすべてのこと、どのように生活するのかを、全部教わるのです。このようなことを見ると、そのすべてのことが、情緒的背景が、深い因縁と歴史をもっているために、それらを忘れてしまうことはできないのです。

 情が交流しながら、自分の一家のことを思い、子女を思う父母の愛がそこに残っているため、「私の心はそこから離れられない因縁をもっているのだ」というときには、母親がどんなに恋しいか知れません。

 それゆえに、故郷は自分の忘れられない教材であり、心情の中に残された博物館のようなものです。それで、故郷が忘れられないのです。

 また、故郷は自分が育っていくときの八〇パーセントの原資材を供給してくれる所です。自分の人格を中心として原資材を供給してもらうことにおいて、心情的分野を中心としては、どんな有名な大学の博士になったとしても、故郷以上に心情的材料を供給してくれる所はありません。

 なぜそうかといえば、故郷には父母がいて、おじいさんがいて、お姉さんがいるのですが、その人たちとの情緒的関係は永遠に従っていこうとするものだからです。一時ではないのです。死ぬ時までその心を抱いていくのです。

 自分の家族は、死んだのちにおいても忘れられないのです。一生の間、その胸に溶けてなくなるごとくに抱いていくのです。それは自分の一族も同じです。それゆえに、情緒的な面で、悠久なる因縁を中心として誰もが暮らす所であるために、故郷は貴いものなのです。その「貴い」ということは、変わることのない愛を中心として言う言葉です。

 先生が故郷を離れ、ソウルに来たとすれば、ソウルは異郷です。そこでは平 安道定 州の地が故郷の地となるのです。外国に出るようになると、どうなりますか。ソウルが故郷になるのです。また、外国に出ていけば、京畿道の人でも慶 尚道の人でも全羅道の人でも、みな自分の同胞となるのです。

 「同胞」と言えば、自分の国の人ということです。「自分の国」と言うときには母、父、兄、姉の年輩の人がすべて入るのです。誰もがお母さん、お父さんのことが好きなように、同胞に会えば風習も同じであり、生活環境も同じであるので、故郷で暮らすのと同じように感じるのです。どの地域の人であっても、困難なことがあれば、自分がお兄さんやお姉さんを助けてあげる心情で、助けてあげるようになるのです。

◆霊界と故郷

 それでは、皆さんが霊界に行くとすれば、どこを懐かしがるでしょうか。霊界に行けば、何千年前に生きた霊人たちとも会います。いつの時代の人かと聞いてみれば、「あなた方には分からない」と答えるのです。何千年前の人のことが、どうして分かりますか。そして、「どこの地域ですか」と聞いてみると、アジア地域だとかいうことは彼らは知っているのです。

 霊界も同じです。霊界に行っている人たちに故郷があるというときには、霊界が故郷ですか、地球星が故郷ですか。霊界に住みながらも故郷がどこかと聞けば、地球星のどこだと答えるというのです。なぜそうなのですか。地球星が自分の故郷とどれほど離れていますか。部落でいえば、数百万個の中の一つにしかならないのに、それを全部包括している地球星が自分の故郷であると答えるのです。なぜ? 自分の国を愛しているからです。

 国を愛することは、お母さん、お父さんを愛することであり、兄弟を愛することであり、自分の姓氏を愛することです。皆さんが自分の宗族(姓と本貫が同じ結縁集団)に出会うと、みんなうれしいでしょう? 金海金氏ならば、金海金氏がどんなに多くても、どこか異郷の地に行って金海金氏同士が出会えば、一人は殺人強盗で、もう一人は何かの強盗であったとしても、互いに信じ合うのです。それが理解できますか。それはどうしてですか。情緒的な距離が同位圏に立っているためです。

 それゆえに、霊界に行って誇ることとは何でしょうか。ほかにはありません。皆さんが霊界に行ったとき、神様が「お前、地上で何をしてきた」と問えば、「私はお金をたくさん使ってきました」と答えるのですか。どれくらい人を慕いながら生きたのか、ということが問題となるのです。それが重要なのです。

 十人の子供をもった父母がいるとすれば、その十人の子供たちが東西四方に散らばり生活しているその国は、父母にとって近いですか、遠いですか。どこであろうと、父母の心の中では近いというのです。ソ連にいるとすれば、ソ連が共産党の主体国であり、北韓にいるとすれば、北韓が共産党の主権国であるとしても、そこは遠くないのです。

 それゆえに、環境的国家の状況や文化の背景、あるいは社会的体制が相反する立場にあるとしても、父母の心はそれを克服、超越し、統一的感情で動くということを知ることができます。この世的に見れば、怨 讐視すべき環境にいるとしても、自分の息子がその地に埋まるようになるときには、その国は怨讐の国ではありません。息子がそこで世話になって生きたというときには、たとえ共産国家であるとしても憎くはないというのです。

 同じように、父母の心情をもって世界人類のために生きる人には、その人類が行って住むところが良いというのです。そうすれば、将来、自分が霊界に行くとき、そのすべての人々が自分に向かって子供が父母を慈しむように「ああ、あなた!」と、このように歓迎するのではないかというのです。

 霊界は時空を超越しています。「誰々に会いたい」と思えば、現れるのです。ただそれには精神統一が必要です。心と体のテレパシーが合わなくてはなりません。電波でいうと、電波が合えばラジオから音が出てくるのと同じです。そのように姿勢を整えれば、「誰かに会いたい」と思えばすぐに現れるのです。

 どのような姿で? 親しければ親しい姿をして、怨 讐であれば怨讐の姿で現れるのです。自分が一番忘れられない姿で現れるのです。そのような世界であるがゆえに、父母の心情をもって、慕わしい心情をもって、因縁を結んだ人々を中心として世界のすべての人々のために生きたというとき、霊界に行ったすべてのその愛情を受けた人々はみな、自分を擁護し、歓迎するというのです。そこには国家がありません。国家は一つです。ここには英国、フランス、イタリア、ドイツなどがありますが、そこは一つです。すべてなくなり、最後には情緒的な追憶だけが残るのです。

◆霊界での侍りの中心

 故郷には、自分のことを永遠に忘れられずに主体の立場から思う父母がいて、兄がいるのです。弟がどこか別の所に行ったからといって、兄が弟を忘れてしまいますか。「愛する弟はどこに行ったのか」と言うでしょう。また、姉さんがどこかに行ったとしても忘れてしまわないのです。

 情緒的な追憶の内縁というものは、それを克服する力がありません。ゆえに、人は愛から生まれ、愛を中心として生きるようになっています。このような結論を出すことができます。生まれてのちのすべての追憶の感情を振り返ってみるようになるとき、人は愛を中心として生きる人が幸福な人です。したがって、霊界に行くとき高い位置に生きたい人は、その誰よりも他の人のために涙をたくさん流す人とならなければなりません。父母の心情で、父母の体で。

 自分が裕福に暮らしているといって、心安らかに思ってはいけないというのです。山のてっぺんから見下ろして、「あれは我々のビルだ」と言って誇るなというのです。そのビルが目をむいて「お前たちがビルを建てるとき、国民を搾取し国を欺瞞し、自分勝手にして建てたものではないか!」と言うというのです。

 このように見るとき、先生は国と世界のためにこの道を歩んできました。過ぎ去りし先生の歴史がそうであるように、皆さんもそうでなければなりません。もらった人、負債を負った人は僕となるのです。主人にはなれません。負債を負う人は、主人になれないというのです。

 それゆえに、今でもそうですが、どこに行こうが、先生はその地域の一番高い所を探していきます。行って祈祷するのです。「この地域で生きて死んでいったすべての霊人たちが、この地域をどんなに愛しているでしょうか。私がここに来ましたので、愛していた善霊たちがいるからには、愛したいその心の前に架け橋となってあげよう」と祈祷するのです。

 そのようなとき、自分よりも愛の高さが低いのに「愛してあげたいから協助してくれ」と、このようにして協助してくれますか。協助できないのです。しかしながら、高い位置に立って「善なる霊たちよ、私が高い愛の心をもってこの地域を祝福しようとするので協助してくれ」と祈れば、役事するというのです。福を祈れば、その福を祈ったことがその地に植え付けられるのです。

 本性の手を広げ、「私の懐で今晩はゆっくり休みなさい」と言えるおじいさんの心、お母さん、お父さんの心、神様がいれば神様の心をもって深刻に寝床に入り、涙をぽろぽろと流すようになるとき、そこで生きて死んでいった善なる霊たちが見るときに、涙を流すでしょうか、流さないでしょうか。その地の山水は、それが分かるというのです。変わることのない山や変わることのない自然は、知っているというのです。地は、地の主人がどのような人であるかが分かるというのです。「私がこの地の上でお前が願った、歴史上のどんな人よりも父母の心情をもって第一歩を踏んだので、悲しかった過去の歴史を忘れ、私と共にきょうから新たなる世界に出発すべし!」と言えば、「アーメン」と言うことでしょう。天国は、そのような人たちが行くところです。

 それではあの世に行って、「霊界において歴史始まって以来、褒めたたえ侍ることができる人が現れた」となることができる、ナンバーワンの人とは誰でしょうか。死んでいった霊人たち、先祖たちのために、彼らの恨を解いてあげようとし、この地上の現在の曲折の責任を負って解いてあげようとし、将来、後代の後孫たちの前に恨めしいものを残さないために、自分の時代に愛を中心として清算してしまおうという人です。

 たとえ、東西南北に追われ、休むこともできず、夜寝ることもできずに追われてきたとしても、そのような方が、あの世では侍ることの中心になるということは、間違いありません。

 霊界に行き、誰かが大声を張り上げれば、既に分かるというのです。「あれはどういう声なのだなあ」と分かるのです。皆さんが愛の和音を備えた主人公となって、そのような功労をもった人となって、大声を張り上げれば雲の群れのように押し寄せてくるのです。そのような世界が、皆さんの前にある永遠なる生涯路程に待っているということを知らなければなりません。私たちは、無限なる世界を旅行しながら、神様の人格を探し求めていかなければならないのです。

◆愛の幸福

 皆さん、星の国に行きたくありませんか。数千億個にもなる星の国が私たちの活動舞台です。それでは、何をもてばそのような世界に行っても戻ってくることができるのでしょうか。神様を愛することです。その心情の母体のようなものを中心とすれば、拡大されてのち、戻ってきても疲れないのです。行ったとしても、戻ってくることを思えば疲れないというのです。

 愛する妻と子供たちを食べさせるために、お金を稼ごうと千里の道へと出発したとき、困難なことは無限にあるのですが、愛する妻と子供たちのことを思えば越えていけるのと同じように、どんなに無限なる世界へと活動舞台が広がったとしても、疲れずに自由自在に行った来たりすることができるのです。

 人生というものがそうではありませんか。寝て起きて、行って来て、良かったり悪かったりすることではありませんか。それでは、何を中心として寝て起きて、何を中心として行って来て、何を中心として良かったり悪かったりするのですか。女性たちが烈女になろうとすれば、寝て起きることが夫を中心としなければなりません。行ったり来たりすることも、何を中心とするのですか。夫です。その次に、良かったり悪かったりすることも何を中心とするのですか。自分中心ではありません。夫を中心としてです。それが幸福な人です。反対に、与えようとしても与えることができず、受けようとしても受けることができない人は、不幸な人です。

 何を中心として与えたり受けたりしたいですか。パンですか、餅ですか。友達同士において喜ぶものとは何ですか。顔ですか。手ですか。情であって、愛です。不幸な人は、与えようとしても与えることができず、受けようとしても受けることができないのです。

 しかし、夫が死んだそのような妻の立場に立っても、愛をもって高く大きなものを与えることができるときには、夫があの世に行っても復活させることができ、引き上げることができるのです。そのような妻となる道を歩んでいくならば、どんなにか幸福でしょうか。また、夫の立場からも、たとえ妻を失って寂しいとしても、それを越えて妻以上の大きな本然の心情をもって永遠なる基盤をつくり、その世界に行き、かわいそうな妻を解放させることができる夫がいるとすれば、その夫はどんなに堂々として立派でしょうか。そうすることができるのは、お金ではありません。権力でもありません。知識でもありません。ただひとえに、本質的に流れ出る父母の愛、本質的に流れ出る同胞愛、すべて愛です。

 皆さん、忠孝烈が儒教思想の核心ですが、忠の中心とは何ですか。その思想の本質は何ですか。愛です。君臣間の引き裂くことができない愛が、一体を成すのです。孝子とは何ですか。父子間にそのような愛がなくてはなりません。例えば、父母が年老いてしまい、子供は若いとしましょう。年を考えれば四十年、あるいは六十年の差があって相対化できないような遠い距離にあるのですが、子供が母を訪ねていき、そのしわくちゃな母の顔にとても若い子供の顔がくっつくのを見るとき、美しいですか、美しくありませんか。美しいというのです。

◆本郷を訪ねていこうとすれば

 「故郷」がきょうのみ言の題目ですが、私たちが永遠に安息し暮らすことができ、幸福の基盤を無限なる世界に拡大してもまた、無限なる世界に縮小させることができる力の母体である愛の王宮があるとすれば、誰でもそこに行って住みたくなるのです。そのような世界で生活したいというのです。そのような本郷の地、本郷の故郷をもちたいと思うでしょう?

 それでは、一方向性の世界に行き定着しようとするのですか、四方性の世界の故郷に行き定着するのでしょうか。それが、皆さんの人生に残った課題なのです。私たちの心の本来の心情的度量というものは無限です。球形体を東西南北、前後左右に拡大し、宇宙までも接することができる素質をもっているのです。そのように無限に拡大しようとするのが私たちの本性であるにもかかわらず、皆さんがそのような愛の本性の前にどれくらい協助してあげるのかというのです。深刻な問題です。

 東に西に、南に北に、前後左右に伸びたいと思う本性の愛の心情圏が私の本性であるにもかかわらず、私自身が力を与えて伸びていくことができる援助者となっているのか、それとも反対者となっているのかというのです。援助者となるときには、宇宙全体が私の故郷となるというのです。それでは、故郷を思うように祖国の地を思ってみたことがあるでしょうか。外国に行っているので、その立場を越えることを先生は発見しました。

 ですから、イエス様が「怨 讐を愛せよ」と言われたことは、イスラエル版図圏内で語られたものではありません。天上世界の道理を知り、大宇宙圏内の故郷を思う心をもってみるとき、部落で争ったことを許すことは問題ではないというのです。

 ゆえに、心情を中心として風霜をたくさん経験した人は、不幸な人ではありません。霊界が分かってみれば、そうなのです。貧乏だからといって不幸なのではありません。子供一人のために億千万金、どんな地をあげても買うことができない宝物の価値として、ひと月の自分の月謝を出す父母のその期待は天地が同和するというのです。貧乏が不幸なことではありません。そのような根気ある父母の子孫を通して、そのような母たちの系統を継いだその後代の中から、世界を愛することができる聖子が生まれたというのです。

 私たちは、故郷を訪ねていかなければなりません。肉的な故郷は自分が生まれた所ですが、霊的な故郷はあの世の世界です。肉的な故郷は横的な故郷ですが、霊的な故郷は縦的な故郷です。皆さんは横的な故郷をたどって世界を愛していってこそ、縦的な故郷を愛することができるのです。

 この地球で生きることは、横的な愛をなす訓練と同じです。「私は韓国人ですが、万民と結婚することができる」と、このように考えるとき、五色人類を自分の姉妹のように愛し、自分の妻のように愛したい心情がわくのです。それは、天の心情ではないですか。

 きょうの題目が「故郷」と言うからには、忘れてはならないことは、肉の故郷は自分が生まれた所ですが、霊の故郷もあるということです。それではこの霊が「霊的な故郷を捨てて肉的故郷に行こう」と、そのようには言わないのです。自分をすべて忘れてしまい、母、父、兄弟をすべて忘れてしまっても、「神様を愛せよ」と言うのです。

 心の故郷の福地を探し求めていくべき人生の行路の前に、落伍者とならないためにも、故郷を越え、この国を越えて、人類を越えて愛したのち、神様とあの世にいる先祖たちと将来の後孫を抱き愛していかなければなりません。そのような道を行く人々は、高い天の故郷において主人の位置にとどまるのです。それが天理原則です。

 皆さんも横的な人生行路を経て、縦的な天上世界の本郷の父を訪ねていき、その永遠なる父の家で幸福になることができる息子、娘となることを願います。それが故郷を訪ね求めていくすべての人々の希望の基地となることでしょう。




2013年4月25日木曜日

 真なる子女の道  一 真の人間観 より



第一節 本然の人間と真の人生の道
P.15
一 真の人間観

 神と人間にとって最も貴いもの
 神様は、エデンの園にアダムとエバをつくられましたが、神様にとって最も貴いものは何かというと、人間なのです。このように神様が人間を最も貴く思うその理由は何かというと、神様は愛の対象を必要とされるので人間を最も貴く思うのです。
 神様がどんなに愛を持っていても、愛することのできる対象がいなければ、愛を感じることはできないのです。愛は相対的関係においてのみ感じるのです。ですから、神様が人間を最も貴く思うのは、愛することのできる対象の位置、愛の対象の位置に人間が立っているからなのです。神様が最も貴く思うのは、人間以外にいないのです。
 それでは、その人間が最も貴く感じ、貴く思うことのできるものとは何でしょうか? それは、神様の愛を最も貴く思うというのです。人間は今まで、それが分からなかったのです。ですから、神様には人間の相対的愛が、人間には神様の主体的愛が最も貴いのです。(一九八六・三・二一)




 人間存在の起源と目的

P.16 
神様はなぜ人間をつくられたのかというと、愛を成就するためです。愛は神様から始まるのではありません。相対から探し出されるものなのです。愛は、相対がいなければ探し出せないのです。

 ですから、神様が最高に貴い愛を成就するためには、相対が必要なのです。神様も相対がいなければならなかったのです。それで、相対をつくられたのです。相対を通してのみ絶対的な愛を得ることができるので、神様ご自身も相対を探すのです。そして神様も、愛のために生きようとされるのです。神様も、愛のために存在するのです。このように、愛とは驚くべきものなのです。
 神様は、人間のために存在し、人間も神様のために存在するのです。ですから、真の愛というものは、「為に生きる」というところから始まるのです。本来、人間はどこから生まれてきたのでしょうか? それは、神様の愛から生まれたのです。愛のゆえに生まれたのです。愛が起源なのです。
 私たち人間が受け継いだ生命が貴いのではありません。神様の愛の理念を通して生命が生じたのです。生命よりも愛が先なのです。愛が根を張ったので、私たちの生命が生まれてきたのです。ですから、人間は愛によって生まれ、愛によって育ち、愛の相対に出会わなければならないのです。神様が一代目であるとすれば、人間は二代目ということになるのです。神様が自らの息子娘を愛するように、その愛を体恤することのできる立場に立たなければ、神様の前に完全な愛の対象になることはできないのです。(一九八六・三・二一)



 神が人間をつくられた理由

P.17
 神様がアダムとエバをつくられた目的はどこにあるのでしょうか? 人間の形状を見てご覧なさい。まず体を持っていますね。しかし、無形なる神様には体がありません。体を持っていなければ、霊界や地上世界を治めることはできないのです。ですから、神様が人間の父母として現れるためには、体を持っていなければならないのです。その体をまとって来る代表が誰かというと、アダムとエバだったのです。堕落しなかったアダムとエバの体を持って現れるのです。ですから、アダムとエバは人類の始祖であると同時に、天地を主宰する神様の実体となるのです。実体を持った神様、すなわち、永遠なる無形世界の神様の形状の代身者として、父母の立場で世界を統治する責任者がアダムとエバであったというのです。

 それでは、神様はどうしてアダムとエバをつくられたのでしょうか? 神様は実体世界をつくられた以上、実体世界の中心のアダムとエバの形状でもって、霊界と肉界を連結させようとしたのです。そういう意味で、神様はアダムとエバをつくられたのです。
 それで、霊界と肉界は何を中心としているのかというと、霊界の代表は神様であり、地上の代表はアダムとエバなのですが、これが連結されなければならないのです。ですからアダムが生きている間、彼の持つ形態は地上の国の王様なのです。分かりますか? 永遠なる王様なのです。そのように永遠なる王権を持って現れたのです。それで、エバが誰かというと、王妃なのです。永遠なる王妃権を代表した王妃として登場するのです。そして、永遠なる王権を代表した夫婦となって、霊界に行って神様の代身としての役割をするのです。
 それでは、神の国に、無形なる神様がひとりぼっちでいたとして何をするのでしょうか? 見えない神様では、何の役にも立たないというのです。人間の父母となるには、体を通して感じることができなければなりません。このように、人間と同じ体を持たなければならないので、神様はやむなくアダムとエバを二重的存在としてつくらざるをえなかったというのです。
 では、なぜ二重構造で人間をつくらざるをえなかったのかというと、無形なる神様と全く同じになろうとすれば、霊界に行くまでの一生の間に、心と体が一つになったという基準を立てなければならないのです。それができないまま霊界に行ったとすれば、その形状は、神様と一つになれないのです。実体的王権を持つ父母(アダム・エバ)が無形の父母である神様と一体になって、永遠なる天上世界で実体的王権を顕現させるために、アダムとエバを二重構造でつくられたというのです。
 神様も、アダムとエバに連結されなくては、地上との関係を結ぶ道がないのです。アダムとエバとの関係を結ぶことにおいてのみ、アダムとエバの息子娘とも関係を結ぶことができるのです。これは、自然に結ばれるようになっているのです。
 神様が人間をつくられた理由は、同じ父母の位置に立てるためだったのです。神様が体を得るためなのです。父母というのは、内外の父母を意味します。ですから外的な父母がアダムとエバであり、神様は内的な父母ということなのです。神様の体がアダムとエバであり、神様の心が私たちのいう神様なのです。その神様が、人類の父母なのです。本来の父母なのです。そして、その神様は、何人もいるのではありません。おひとりのみなのです。おひとりのみであるので、その方が入ることのできるアダムとエバを、二性性相を持つ分聖殿として立てておいて、神様はそこに入っていかれるのです。神様が入って作用すれば、アダムとエバは理想的作用ができるのです。神様が作用しなければ、神様のみ旨も何も分からなくなってしまうのです。
 そうしなければ、神様は人間との関係を結ぶ基盤を持つことができないのです。そのような本来の基盤が壊れてしまったので、神様が人間との関係を結ぶことが不可能になってしまったという結論が出てくるのです。ですから、どんなにこの地上に数多くの人間がいたとしても、神様とは関係のない存在になってしまったのです。


 人間の特権と価値
P.19
 神様は、愛のゆえに人間をつくられました。人間が万物と違う点は、神様の息子娘としてつくられたことです。人間は神様の直系の愛を受け得る対象としてつくられたということなのです。これが人間の特権なのです。

 人間は、神様の愛に対していかなる立場かというと、神様の愛の対象存在としてつくられたのです。神様は二性性相であり、プラス・マイナスという二性性相の主体となっているがゆえに、その主体の前に対象となるプラス・マイナスという形態を持つ物体が必要となるのです。そして、その形態は、主体の性稟に反対する形態であってはならないのです。主体のすべての性稟に対する相対性を備え持ち、愛という本質に必ずぴったりと合うことのできる、相対的形態でなければなりません。
 その相対的存在の人間は、神様と何で合うのかというと、愛以外のものでは合わないのです。愛にのみ、合うようになっているのです。神様には何の知識も、他の何ものも必要ないのです。ただ愛のみが必要なのです。ですから、愛にのみ合うようにできているのです。
 人間がこの宇宙の中心であり、被造世界の中心だというのは、神様が愛の理想を成すために、被造世界をつくられたからであり、愛なる神様の前に一番最初に中心の位置に立って愛を受け得る特権を持っているので、「人間は万物の霊長である」という言葉が成立するのです。霊長という言葉は、神様の相対的愛の圏内を除いてはありえないのです。万物と同じになってしまうのです。人間特有の価値は愛の特権を持つことであり、また、全被造世界を代表して、神様の前に一番最初に相対的立場に立って、この宇宙を支配できることです。そういう愛の因縁の位置に同参できる権威を持っているということなのです。それゆえ、人間は万物の何だというのですか? (霊長です)。ですから人間は、愛を除けばすべてを失ってしまうのです。(一九八四・七・一○)