2011年2月28日月曜日

第一章 復帰基台摂理時代 第三節 赤色(核心的内容)⑴より

第一章 復帰基台摂理時代
第三節 アブラハムの家庭を中心とする復帰摂理
(一)信仰基台
(二)実体基台
(三)メシヤのための基台
(四)アブラハムを中心とする復帰摂理が我々に見せてくれた教訓

アブラハムも、まず「信仰基台」を蕩減復帰し、その基台の上で、「実体基台」を蕩減復帰しなければならなかったのである。

(一)信仰基台
(1) 信仰基台を復帰する中心人物
アブラハムの家庭を中心とする復帰摂理において、「信仰基台」を復帰すべき中心人物は、正にアブラハムであった。

アブラハムはかつてノアの路程のために立てられたが、ハムの犯罪によってサタンに奪われてしまったすべての条件を、蕩減復帰した立場に立たなければ、ノアを中心とした「み旨」を継承することができなかったのである。

アブラハムは、ノアの身代わりであり、したがって、アダムの身代わりであるので、復帰したアダム型の人物であった。したがって、神はアダムとノアに祝福なさったように、アブラハムにも、子女を殖やして大いなる民族をつくり、祝福の基となれと、祝福なさったのである(創一二・2)。

(2) 信仰基台を復帰するための条件物
① アブラハムの象徴献祭
神は、アブラハムに鳩と羊と雌牛とを供え物としてささげるように命ぜられたが、これらは、とりもなおさず、アブラハムが「信仰基台」を復帰するための条件物であったのである(創一五・9)。

アブラハムは、「象徴献祭」をするために、いかなる信仰を立てたのかを調べてみることにしよう。
アブラハムは、第二人間始祖たるノアの立場を復帰しなければならなかった。したがって、またアダムの立場にも立たなければならないので、彼は「象徴献祭」をする前に、アダムの家庭の立場を復帰する象徴的蕩減条件を、初めに立てなければならなかった。

アブラハムの「象徴献祭」は、何を意味するものであろうか。

アダムの家庭で、カインとアベルの献祭を中心として復帰しようとしたすべてのことを、蕩減復帰できる象徴的な条件物をささげなければならなかった。また、彼はノアの家庭が箱舟を中心として復帰しようとしたすべてのことを、蕩減復帰できる象徴的な条件物を、供え物として神にささげなければならなかった。

アブラハムが象徴献祭としてささげた鳩と羊と雌牛とは、果たして何を象徴したのだろうか。この三つの象徴的な供え物は、三段階の成長過程を通じて完成する天宙を象徴するのである。すなわち、まずそのうち、鳩は蘇生を象徴したものである。

つぎに、羊は長成を象徴するのである。
つぎに、雌牛は完成を象徴するものである。

蘇生、長成、完成の三段階を象徴する鳩と羊と雌牛とを、一つの祭壇に載せて献祭したのは、ちょうどアダムの一代で、三段階の成長期間を完成しようとしたのと同様に、アダムの立場であるアブラハムを中心として蘇生のアダム、長成のノア、完成のアブラハムというように、み旨から見て三代にわたって蕩減復帰しようとした縦的な摂理を、一時に、横的に完成するためであった。

今、我々はアブラハムがこの「象徴献祭」をどのような仕方でささげたかを知らなければならない。
創世記一五章10節から13節までに記録されているみ言を見れば、アブラハムは、他の供え物はみな二つに裂いて祭壇の左右に置いたけれども、鳩だけは、裂かずにそのまま置いたので、荒い鳥がその死体の上に降り、アブラハムは、これを追い払ったと記されている。神はその日、日の入るころ、アブラハムに現れて、「あなたはよく心にとめておきなさい。あなたの子孫は他の国に旅びととなって、その人々に仕え、その人々は彼らを四百年の間、悩ますでしょう」(創一五・13)と言われた。アブラハムは裂くべき鳩を裂かなかったので、その上に荒い鳥が降り、それによって、イスラエル民族はエジプトに入り、四〇〇年間苦役するようになったのである。
それでは、鳩を裂かなかったことが、どうして罪になったのだろうか。

供え物を裂くということは、第一に、アダムの家庭において、善悪の母体であるアダムを善と悪の二つの表示体に分立するために、アベルとカインに分立させたのと同じ立場を復帰するためであった。第二には、ノアが洪水四十日で善と悪に分立させた立場を復帰するためであり、第三には、サタンの主管下にある被造世界から、善主権の世界を分立させる象徴的な条件を立てるためであった。さらに第四には、サタンとの血縁関係を通して入ってきた、死亡の血を流して、聖別する条件を立てるためであった。

アブラハムが鳩を裂かずにささげたことは、サタンのものをそのままささげた結果となり、結局、それはサタンの所有物であることを、再び、確認してやったと同様の結果をもたらしてしまったのである。
このように、蘇生を象徴する供え物である鳩がサタンの所有物として残るようになったので、蘇生の基台の上に立てられるべき長成と完成を象徴する羊と雌牛にも、やはりサタンが侵入したのである。したがって、この象徴献祭は、みなサタンにささげたという、結果に戻ってしまったので、鳩を裂かないことが罪となったのである。

象徴献祭の失敗は、どんな結果をもたらしたのだろうか。アブラハムの「象徴献祭」の失敗によって、その象徴献祭で蕩減復帰しようとしたすべてのものは失敗してしまった。その結果、アブラハムの子孫が、異邦のエジプトで、四〇〇年間苦役するようになったが、

アブラハムがこれに失敗したので、彼を中心とする摂理は、更にイサクからヤコブまで、三代にわたって延長されたのである。ゆえに、アブラハムの「象徴献祭」の失敗は、ノアの箱舟を中心とした「象徴献祭」と、カイン、アベルを中心とした「象徴献祭」の失敗を反復したことになってしまったのである。

2011年2月27日日曜日

第一章 復帰基台摂理時代 第二節 赤色(核心的内容)より

第二節 ノアの家庭を中心とする復帰摂理
(一)信仰基台
(二)実体基台
(三)ノアの家庭が見せてくれた教訓

創造目的を完成させようとする神のみ旨は変更することができず、したがって絶対的なものとして予定し摂理なさるので、神はアベルが天に対して忠誠を尽くした、その心情の基台の上に、その身代わりとしてセツを立てられたのである(創四・25)。そうして、その子孫からノアの家庭を選んでアダムの家庭の身代わりとして立て、新たな復帰摂理をなさったのである。

ノアの家庭も、まず「信仰基台」を復帰する蕩減条件を立て、その基台の上に、「実体基台」を復帰する蕩減条件を立てることによって、アダムの家庭が復帰できなかった「メシヤのための基台」を蕩減復帰しなければならなかったのである。
(一)信仰基台
(1) 信仰基台を復帰する中心人物
ノアの家庭を中心とする復帰摂理において、「信仰基台」を復帰すべき中心人物はノアであった。ゆえに、神はアダムによって成し遂げようとして、成し遂げることのできなかったみ旨を、身代わりとして成就せしめるために、アダムから一六〇〇年を経て、十代目にノアを召命されたのであった。
ノアは第二の人間始祖となるのである。

ノアは、世が神の前に乱れて、暴虐が地に満ちたとき呼ばれ(創六・11)、一二〇年間あらゆる罵倒と嘲笑を受けながらも、神の命令だけには絶対に服従して、平地ならばともかく、山の頂上に箱舟をつくったのである。それゆえに、神はこれを条件として、ノアの家庭を中心とする洪水審判を敢行なさることができたのである。このような意味において、ノアは第一の信仰の祖である。

ノアは、既にアベルが「象徴献祭」を神のみ意にかなうようにささげて、天に対し忠誠を尽くした、その心情の基台の上で呼ばれたのであるし、また、彼は血統的に見ても、アベルの身代わりとして選ばれたセツ(創四・25)の子孫であり、そればかりでなく、ノア自身も、神の目から見て義人であったので(創六・9)、彼は自ら箱舟をつくることによって、直接、神に「象徴献祭」をささげることができたのである。

(2) 信仰基台を復帰するための条件物
ノアが「信仰基台」を復帰するための条件物は、箱舟であった。それでは、その箱舟の意義はどのようなものであったのだろうか。ノアがアダムの身代わりとして、第二の人間始祖の立場に立つためには、アダムの堕落によってサタンの側に奪われた天宙を、蕩減復帰するための条件を立てなければならない。したがって、新天宙を象徴する何らかの条件物を供え物として、神の前にみ意にかなうようにささげなければならなかったのである。このような条件物として立てられたのが、すなわち箱舟であった。

箱舟が完成されたのちに、神は四十日間の洪水審判をなさったが、この審判の目的は何であったのだろうか。

神だけが対応して摂理することのできる対象を立てるために、サタンの相対となっている全人類を滅ぼす洪水審判の摂理をなさったのである。
また、聖書を見れば、その審判が終わろうとするとき、ノアが箱舟からからすと鳩を放ったという記録があるが、これを通して、神が将来どのような摂理をなさることを予示されたかを調べてみることにしよう。

四十日が終わるときに、箱舟を中心として見せてくださった行事は、神が天地創造を完了されたあとの全歴史路程を象徴的に表示されたものなのである。

ノアの家庭は、審判四十日で「信仰基台」を復帰するための条件物である箱舟を、神のみ意にかなうようにささげ、この基台を蕩減復帰することができたのである。

(二)実体基台
ノアは、箱舟を神のみ旨にかなう供え物としてささげ、「象徴献祭」に成功することによって「信仰基台」を蕩減復帰した。

この基台の上で、ノアの子セムとハムとが、各々カインとアベルの立場から、「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立てて、「実体献祭」に成功すれば、「実体基台」が成就されるようになっていた。

「実体献祭」の中心となるべき次子ハムが、アダムの家庭の「実体献祭」の中心であった次子アベルの立場を、復帰しなければならなかった。

ノアのときにはハムではなく、ノア自身が「象徴献祭」をささげたので、ハムが「象徴献祭」に成功したアベルの立場に立つためには、「象徴献祭」に成功したノアと、心情的に一体不可分の立場に立たなければならなかったのである。

ハムがその父親の裸体を恥ずかしがった行動によって、サタンが侵入できる条件が成立したので、その行動は犯罪となったのである。このような事情から、ハムは「実体献祭」をするためのアベルの立場を蕩減復帰できず、したがって、「実体基台」をつくることができなかったので、ノアを中心とする復帰摂理も無為に帰したのである。

2011年2月26日土曜日

第一章 復帰基台摂理時代 第一節 赤色(核心的内容)より

第一章 復帰基台摂理時代

第一節 アダムの家庭を中心とする復帰摂理
第二節 ノアの家庭を中心とする復帰摂理
第三節 アブラハムの家庭を中心とする復帰摂理

第一節 アダムの家庭を中心とする復帰摂理
アダムの家庭が「信仰基台」と「実体基台」とを復帰する蕩減条件を立てて、それによって「メシヤのための基台」をつくり、その上でメシヤを迎えるのでなければ、復帰摂理は成就できないのである。

第一節 アダムの家庭を中心とする復帰摂理
(一)信仰基台
(二)実体基台
(三)アダムの家庭におけるメシヤのための基台とその喪失
(四)アダムの家庭が見せてくれた教訓

(一)信仰基台
第一に、「信仰基台」を復帰するためには、それを蕩減復帰するための何らかの条件物がなければならない。
アダムの家庭で立てなければならない、そのみ言の代わりの条件物とは、すなわち供え物であった。

第二に、「信仰基台」を復帰するためには、その基台を復帰できる中心人物がいなければならない。

聖書の記録を見ると、アダムが供え物をささげたとは書かれておらず、カインとアベルのときから供え物をささげたとなっている。その理由はどこにあったのであろうか。
このような目的のために、神はアダムの二人の子を、各々善悪二つの表示体として分立されたのち、彼らに、神かサタンかのどちらか一方だけが各々対応することのできる、すなわち、一人の主人とのみ相対する、原理的な立場に立ててから、各自供え物をささげるように仕向けられたのである。
カインは愛の初めの実であるので、その最初のつまずきであった天使長との愛による堕落行為を表徴する悪の表示体として、サタンと相対する立場に立てられたのであり、アベルは愛の二番目の実であるがゆえに、その二番目の過ちであったアダムとの愛による堕落行為を表徴する善の表示体として、神と対応することができる立場に立てられたのである。

(二)実体基台
アダムの家庭において「実体基台」がつくられるためには、カインが「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立てることにより、神がその献祭を喜んで受け得るような条件を立てるべきだったのである。
堕落人間がその堕落性を脱ぐためには、蕩減復帰原理により、次に記録されているように、その堕落性本性をもつようになった経路と反対の経路をたどることによって、蕩減条件を立てなければならなかったのである。

堕落人間がその堕落性を脱ぐためには、蕩減復帰原理により、次に記録されているように、その堕落性本性をもつようになった経路と反対の経路をたどることによって、蕩減条件を立てなければならなかったのである。
天使長が、神の愛をより多く受けていたアダムを愛することができなかったことによって堕落したので、「神と同じ立場をとれない堕落性」が生じた。それゆえに、この堕落性を脱ぐためには、天使長の立場にいるカインがアダムの立場にいるアベルを愛して、神の立場にあるのと同じ立場をとるべきであったのである。
第二に、天使長が、神にもっと近かったアダムを仲保に立て、彼を通じて神の愛を受けようとはせず、かえってアダムの位置を奪おうとして堕落してしまったので、「自己の位置を離れる堕落性」が生じた。ゆえに、この堕落性を脱ぐためには、天使長の立場にいるカインがアダムの立場にいるアベルを仲保として、彼を通じて神の愛を受ける立場をとることにより、自分の位置を守るべきであったのである。

「主管性を転倒する堕落性」が生じた。したがって、人間がこの堕落性を脱ぐためには、天使長の立場にいるカインがアダムの立場にいるアベルに従順に屈伏して、彼の主管を受ける立場に立つことによって、主管性を正しく立てるべきであったのである。

「罪を繁殖する堕落性」が生じた。ゆえに、この堕落性を脱ぐためには、天使長の立場にいるカインが、自分よりも神の前に近く立っているアベルの相対となる立場をとり、アベルから善のみ言を伝え受けて、善を繁殖する立場に立つべきであったのである。
カインがアベルを殺害することによって、天使長が人間を堕落せしめた堕落性本性を反復するようになり、アダムの家庭が立てるべきであった「実体基台」は立てられなかった。したがって、アダムの家庭を中心とする復帰摂理は成し遂げられなかったのである。

(三)アダムの家庭におけるメシヤのための基台とその喪失
サタンが堕落人間を主管することによって、彼は人間が主管すべき万物世界までも主管するようになったのである。聖書に、万物が嘆息すると記録されている原因はここにある(ロマ八・22)。それゆえに、万物をもって「象徴献祭」をささげる第一の目的は、神の象徴的実体対象である万物を復帰するための蕩減条件を立てるところにある。

第二の目的は、実体人間を神の方に復帰するための、象徴的な蕩減条件を立てようとするところにある。

「実体献祭」は、実体人間を復帰するために、「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立てることを意味する。そして、カイン的な存在がアベル的な存在を実体として献祭し、子女を復帰するための蕩減条件を立てるようになれば、それがとりもなおさず、次に解明されているように、父母を復帰するための蕩減条件ともなるので、「実体献祭」はみ意にかなう献祭となるのである。
「堕落性を脱ぐための蕩減条件」はカインが代表して立てなければならないのであるが、これが、いかなるわけで、アダムの家庭全体が立てたのと同じ結果になるかということを我々は知らなければならない。

カインがアベルに従順に屈伏して「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立てることによって、カインとアベルが、共に子女として「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を成し遂げた立場に立ち得たはずであった。また、カインとアベルは、善悪の母体であるアダムを分立した存在であったので、彼らが「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立ててサタンを分立したならば、その父母であるアダムはサタンを分立した立場に立つことができるので、その子女たちよりも先に「実体基台」の上に立つようになり、「メシヤのための基台」をつくったはずなのである。このように、父母を復帰するための蕩減条件は、「象徴献祭」と「実体献祭」とによって立てることができるのである。

(四)アダムの家庭が見せてくれた教訓

アダムの家庭を中心とする復帰摂理の失敗は、結果的に見て、まず第一に、み旨成就に対する神の予定と人間の責任分担に対して、神がどのような態度をとられるかを見せてくれた。
第二に、カインがアベルを殺したが、その後、神はアベルの身代わりとしてセツを立て、新たな摂理をなさることによって、み旨に対する神の予定は絶対的であり、人間に対するその予定は相対的であることを見せてくださった。

第三には、カインとアベルの献祭で、堕落人間は常にアベル的な存在を求め、彼に従順に屈伏することによって、初めて天が要求するみ旨を、自分も知らないうちに成し遂げていくということを見せてくださった。

2011年2月25日金曜日

緒 論 赤色(核心的内容)より⑵

緒 論

(一)蕩減復帰原理
(二)復帰摂理路程
(三)復帰摂理歴史と「私」

(一)蕩減復帰原理
(2) メシヤのための基台
堕落人間が創造本然の人間に復帰するためには、「メシヤのための基台」を完成した基台の上でメシヤを迎え、原罪を取り除かなければならない。

アダムが創造目的を完成するためには、二つの条件を立てなければならなかった。その第一条件は「信仰基台」を造成することであったが、ここにおいては、もちろんアダムが「信仰基台」を造成する人物にならなければならなかったのである。その「信仰基台」を造成するための条件として、彼は善悪の果を食べてはならないと言われた神のみ言を守るべきであり、さらに、この信仰条件を立てて、その責任分担を完遂するところの成長期間を経なければならなかった。

第二の条件は、彼が「実体基台」を造成することであった。アダムが神のみ言を信じ、それに従順に従って、その成長期間を完全に全うすることにより「信仰基台」を立てることができたならば、彼はその基台の上で神と一体となり、「実体基台」を造成することによって、創造本性を完成した、み言の「完成実体」となり得たはずであった(ヨハネ一・14)。アダムがこのような「完成実体」となったとき、初めて彼は、神の第一祝福であった個性完成者となることができたはずである。

① 信仰基台
堕落人間が創造目的を成就し得る基準を復帰するためには、まず初めに、人間始祖が立てることのできなかった、その「信仰基台」を蕩減復帰しなければならない。そしてその「信仰基台」を復帰するためには、次のような三種類の蕩減条件を立てなければならないのである。

第一には、そのための「中心人物」がいなければならない。
その第二は、そのための「条件物」を立てなければならないということである。
その第三は、そのために「数理的な蕩減期間」を、立てなければならないということである。

② 実体基台
堕落人間は、どこまでもメシヤを通して原罪を取り除かなければ「完成実体」となることはできない。

堕落人間がメシヤを迎えて、原罪を取り除き、創造本性を復帰するための「実体基台」を立てるためには、まずその「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立てなければならないのである。

(二)復帰摂理路程
(1) 復帰摂理路程の時代的段階
ここでは、アダム以後今日に至るまでの全歴史路程における、時代的段階について概観してみることにしよう。

アダムからアブラハムまでの二〇〇〇年の期間は、信仰の父であるアブラハム一人を立てて、将来、復帰摂理を始めることができるその基台をつくる期間であったということができる。復帰摂理のみ業(役事)が、アブラハムから始められたという理由はここにあるのである。

アブラハムの象徴献祭の失敗によって、アダムからアブラハムに至るまでの二〇〇〇年の期間をサタンに奪われてしまったので、この期間を再び天の側に蕩減復帰する期間がなければならないのであるが、この期間がすなわちアブラハムからイエスが来られるときまでの二〇〇〇年期間であった。

アブラハムが象徴献祭に失敗したのと同様、ユダヤ人たちもイエスを十字架につけることによって、その民族的な献祭に失敗したために、アブラハム以後イエスまでの二〇〇〇年の期間は、再びサタンに奪われる結果となってしまった。ゆえに、サタンに奪われたこの二〇〇〇年期間を、再び天の側に蕩減復帰する二〇〇〇年の期間が必要となったのであるが、この期間がすなわち、イエス以後今日に至るまでの二〇〇〇年の期間だったのである。

(三)復帰摂理歴史と「私」
「私」という個性体はどこまでも復帰摂理歴史の所産である。したがって、「私」はこの歴史が要求する目的を成就しなければならない「私」なのである。それゆえに「私」は歴史の目的の中に立たなければならないし、また、そのようになるためには、復帰摂理歴史が長い期間を通じて、縦的に要求してきた蕩減条件を、「私」自身を中心として、横的に立てなければならない。そうすることによって、初めて「私」は復帰摂理歴史が望む結実体として立つことができるのである。

我々がこのような歴史的勝利者となるためには、預言者、義人たちに対してこられた神の心情と、彼らを召命された神の根本的な目的、そして彼らに負わされた摂理的使命が、果たしてどのようなものであったかということを詳細に知らなければならないのである。しかし、堕落人間においては、自分一人でこのような立場に立ち得る人間は一人もいない。それゆえに、我々は、復帰摂理の完成者として来られる再臨主を通して、それらのことに関するすべてを知り、また彼を信じ、彼に侍り奉り、彼と一つになることによって、彼と共に、復帰摂理歴史の縦的な蕩減条件を横的に立て得た立場に立たなければならないのである。

2011年2月24日木曜日

緒 論 赤色(核心的内容)より⑴

緒 論

(一)蕩減復帰原理
(二)復帰摂理路程
(三)復帰摂理歴史と「私」

復帰摂理とは、堕落した人間に創造目的を完成せしめるために、彼らを創造本然の人間に復帰していく神の摂理をいうのである。
人間は長成期の完成級において堕落し、サタンの主管下におかれるようになってしまった。したがって、このような人間を復帰するためには、まず、サタンを分立する摂理をなさらなくてはならないのである。
堕落人間がサタンを分立して、堕落以前の本然の人間として復帰するには、原罪を取り除かなければならない。ところで、この原罪は、人間が、その真の父母として来られるメシヤによって重生されるのでなければ、取り除くことはできないのである。それゆえに、堕落した人間はサタン分立の路程を通して、アダムとエバが成長した基準、すなわち、長成期の完成級まで復帰した型を備えた基台の上でメシヤを迎え、重生することによって、アダムとエバの堕落以前の立場を復帰したのち、メシヤに従って更に成長し、そこで初めて創造目的を完成することができるのである。このように復帰摂理は、創造目的を再び成就するための再創造の摂理であるから、どこまでも原理によって摂理されなければならない。それゆえに、これを復帰原理というのである。

(一)蕩減復帰原理
(1) 蕩 減 復 帰
元来、人間始祖が堕落しないで完成し、神と心情において一体となることができたならば、彼らは神のみに対して生活する立場におかれるはずであった。しかし、彼らは堕落してサタンと血縁関係を結んだので、一方ではまた、サタンとも対応しなければならない立場におかれるようになったのである。したがって堕落直後、まだ原罪だけがあり、他の善行も悪行も行わなかったアダムとエバは、神とも、またサタンとも対応することができる中間位置におかれるようになった。
このような中間位置にいる堕落人間を、神はどのようにしたらサタンから分立させることができるであろうか。サタンは元来、血統的な因縁をもって堕落した人間に対応しているのであるから、あくまでも人間自身が、神の前に出ることのできる一つの条件を立てない限り、無条件に彼を天の側に復帰させることはできないのである。一方においてサタンも、これまた人間の創造主が神であることを熟知しているので、堕落人間自身に再びサタンが侵入できる一つの条件が成立しない限りは、かかる人間を無条件に奪っていくことはできないのである。それゆえ、堕落人間は彼自身が善なる条件を立てたときには天の側に、悪なる条件を立てたときにはサタンの側に分立される。

「蕩減復帰」というのはどういう意味なのであろうか。どのようなものであっても、その本来の位置と状態を失ったとき、それらを本来の位置と状態にまで復帰しようとすれば、必ずそこに、その必要を埋めるに足る何らかの条件を立てなければならない。このような条件を立てることを「蕩減」というのである。
堕落人間がこのような条件を立てて、創造本然の位置と状態へと再び戻っていくことを「蕩減復帰」といい、蕩減復帰のために立てる条件のことを「蕩減条件」というのである。そして、このように蕩減条件を立て、創造本然の人間に復帰していく摂理のことを「蕩減復帰摂理」というのである。
それでは、蕩減条件はどの程度に立てなければならないのだろうか。この問いに対して、我々は次のような三つの種類のものを取りあげることができる。その第一は、同一のものをもって蕩減条件を立てることである。これは、失った本然の位置と状態と同一なる価値の条件を立てることによって、原状へと復帰することをいうのである。例えば、報償とか還償と呼ばれるものが、これに属する。

第二は、より小さいものをもって蕩減条件を立てる場合である。これは本然の位置と状態から失われたものよりも、もっと小さい価値の蕩減条件を立てることによって、原状へと復帰することを意味するのである。

第三には、より大きなものをもって蕩減条件を立てる場合である。これは、小さい価値をもって蕩減条件を立てるのに失敗したとき、それよりも大きな価値の蕩減条件を再び立てて、原状へと復帰する場合をいう。

蕩減条件をどのような方法で立てるかという問題である。どのようなものであっても、本来の位置と状態から離れた立場から原状へと復帰するためには、それらから離れるようになった経路と反対の経路をたどることによって蕩減条件を立てなければならない。
蕩減条件はだれが立てなければならないのであろうか。

人間の責任分担としてそれに必要な蕩減条件を、あくまでも人間自身が立てなければならないのである。

2011年2月23日水曜日

第七 章 キ リ ス ト 論. 赤色(核心的内容) 第三節,第四節より

第七章 キ リ ス ト 論

第三節 堕落人間とイエス
堕落した人間は、創造目的を完成した人間としての価値を備えていないので、自分より低級に創造された天使を仰ぎ見る程度の卑しい立場に落ちてしまった。しかし、イエスは創造目的を完成した人間としての価値をみな備えておられるので、天使をはじめ、すべての被造世界を主管する資格をもっておられたのである(コリント・一五・27)。また、堕落人間には原罪があるので、サタンの侵入できる条件がそのまま残っている。しかし、イエスには原罪がないので、サタンが侵入できる何らの条件もないのである。また、堕落人間は、神のみ旨とその心情を知ることができない。たとえ知ったとしても、それはごく部分的なものにすぎない。しかしイエスは、神のみ旨を完全に知っておられるとともに、その心情をも完全に体恤した立場において生活しておられるのである。


第四節 重生論と三位一体論
(一)重生論
(二)三位一体論

三位一体論は、今日に至るまで、神学界で一番解決し難い問題の中の一つとして論じられてきた。
重生論である。

(一)重生論
(1) 重生の使命から見たイエスと聖霊

イエスは、自分を訪ねてきたユダヤ人の官吏ニコデモに、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできないと言われた(ヨハネ三・3)。重生とは二度生まれるという意味である。

アダムとエバが創造理想を完成して、人類の真の父母となったならば、彼らから生まれた子女たちは原罪がない善の子女となり、地上天国をつくったであろう。しかし、彼らは堕落して人類の悪の父母となったので、悪の子女を生み殖やして、地上地獄をつくることになったのである。したがって、イエスが、ニコデモに言われたみ言どおり、堕落した人間は原罪がない子女として新たに生まれ直さなければ、神の国を見ることができないのである。

(2) ロゴスの二性性相から見たイエスと聖霊

ロゴスという言葉はギリシャ語で、み言、あるいは理法という意味をもっている。
ロゴスの二性性相が、神の形象的な実体対象として分立されたのが、アダムとエバであった

堕落人間を再び生み直してくださるために、イエスは、後のアダム(コリント・一五・45)として、生命の木の使命をもって(黙二二・14)人類の真の父として来られたのである。このように考えてくると、ここに後のエバとして、善悪を知る木の使命をもった人類の真の母が(黙二二・17)、当然いなければならないということになる。これがすなわち、堕落した人間を、再び生んでくださる真の母として来られる聖霊なのである。

(3) イエスと聖霊による霊的重生
コリント・一二章3節に記録されているみ言のように、聖霊の感動によって、イエスを救い主として信じるようになれば、霊的な真の父であるイエスと、霊的な真の母である聖霊との授受作用によって生ずる霊的な真の父母の愛を受けるようになる。そうすればここで、彼を信じる信徒たちは、その愛によって新たな命が注入され、新しい霊的自我に重生されるのである。これを霊的重生という。

(二)三位一体論
このとき、イエスと聖霊は、神を中心として一体となるのであるが、これがすなわち三位一体なのである。

もし、彼らが堕落しないで完成し、神を中心として、真の父母としての三位一体をつくり、善の子女を生み殖やしたならば、彼らの子孫も、やはり、神を中心とする善の夫婦となって、各々三位一体をなしたはずである。

しかし、アダムとエバが堕落して、サタンを中心として四位基台を造成したので、サタンを中心とする三位一体となってしまった。

イエスと聖霊とは、神を中心とする霊的な三位一体をつくることによって、霊的真の父母の使命を果たしただけで終わった。

イエスは自ら神を中心とする実体的な三位一体をつくり、霊肉共に真の父母となることによって、堕落人間を霊肉共に重生させ、彼らによって原罪を清算させて、神を中心とする実体的な三位一体をつくらせるために再臨されるのである。

2011年2月22日火曜日

第七 章 キ リ ス ト 論. 赤色(核心的内容) 第一節,第二節より

第七 章 キ リ ス ト 論

第一節 創造目的を完成した人間の価値
第二節 創造目的を完成した人間とイエス
第三節 堕落人間とイエス
第四節 重生論と三位一体論


神を中心とするイエスと聖霊との関係、イエスと聖霊と堕落人間との関係、重生と三位一体など、キリスト論に関する諸問題である。

第一節 創造目的を完成した人間の価値

創造目的を完成した人間、すなわち、完成したアダムの価値を、我々は次のような観点から論じてみよう。
第一に、神と完成した人間との二性性相的な関係から述べてみることにしよう。

イエスが言われたとおり、人間は天の父が完全であられるように、完全な人間となるのである(マタイ五・48)。ゆえに、創造目的を完成した人間は、どこまでも、神のような価値をもつようになる。
第二に、人間創造の目的を中心として、その価値を論じてみることにしよう。

神に内在しているある個性体の主体的な二性性相に対する刺激的な喜びを、相対的に起こすことができる実体対象は、その二性性相の実体として展開されたその一個性体しかないのである

ゆえに、創造目的を完成した人間はだれでもこの宇宙間において、唯一無二の存在である。釈迦が「天上天下唯我独尊」と言われたのは、このような原理から見て妥当である。
第三に、人間と被造世界との関係から見たその価値について調べてみることにしよう。

我々は、創造原理によって、人間の二性性相を実体で展開したのが被造世界である、という事実を知っている。したがって、人間の霊人体は無形世界を総合した実体相であり、その肉身は有形世界を総合した実体相である。ゆえに、創造目的を完成した人間は、天宙を総合した実体相となるのである。人間を小宇宙であるという理由はここにある。

人間は天宙的な価値をもっているからである。

第二節 創造目的を完成した人間とイエス
(一)生命の木復帰から見た完成したアダムとイエス
(二)創造目的の完成から見た人間とイエス
(三)イエスは神御自身であられるのだろうか

(一)生命の木復帰から見た完成したアダムとイエス

人類歴史は、エデンの園で失った生命の木を(創三・24)、歴史の終末の世界で復帰して(黙二二・14)、地上天国をつくろうとする復帰摂理の歴史である。我々は、エデンの園の生命の木と(創二・9)、終末の世界で復帰される生命の木とが(黙二二・14)、いかなる関係をもっているかを知ることによって、完成したアダムとイエスとの関係を知ることができるのである。

エデンの園の生命の木として象徴されている、完成されたアダムと、黙示録二二章14節に、生命の木として例えられているイエスとは、いずれも創造理想を完成した男性であるということからして、その点から見れば互いに何ら異なることがないということを、我々は知ることができる。したがって、創造本然の価値においても、その間に、何らの差異もあるはずがないのである。

(二)創造目的の完成から見た人間とイエス

我々は、ここにおいて、完成した人間とイエスとは、いかなる差異があるかという点を考察してみることにしよう。

神のような神性をもつはずの価値的な存在である。

完成した人間は、唯一無二の存在であり、全被造世界の主人であるがゆえに、彼なしには、天宙の存在価値も、完全になることはできないのである。したがって、人間は、天宙的な価値の存在である。イエスは、正に、このような価値をもっておられる方である。しかし、イエスがもっておられる価値がいくら大きいといっても、既に列挙したように、創造理想を完成した男性がもっている価値以上のものをもつことはできない。このようにイエスは、あくまでも創造目的を完成した人間として来られた方であることを、我々は否定できないのである。

テモテ・二章5節に、「神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである」

(三)イエスは神御自身であられるのだろうか

ピリポがイエスに、神を見せてくださいと言ったとき、イエスはピリポに、「わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか」(ヨハネ一四・9、10)と答えられた。

今までの多くの信仰者たちは、イエスを創造主、神であると信じてきた。

イエスも神と一体をなしているので、第二の神とはいえるが、神御自身になることはできない。