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2014年5月18日日曜日

霊界の実相と地上生活・第二章 霊界で見た暮らしと地上生活 3

九、 愛の根本の意味

 愛とは、文字どおり相手のために精誠と力を尽くす、心の状態を言いますが、愛には肉体的な肉的愛、無形の霊的な愛、信仰によるアガペー的な愛があります。

(1)  肉的愛

 肉的愛とは、男女が性的に結ばれる愛を言います。地上では、肉体が互いに会って愛し合い、ぶつかりながら感性を感じます。しかし、霊界で二人の男女が、どのように愛するかということは、地上ではよく理解できないでしょう。ここ天国で神様に近い高級な人同士でなされる肉的愛は、まるで一枚の絵のようです。二人が互いに愛するとき、二人の体は完全に一体となるので、地上で愛として感じるような感性とは異なり、霊肉共に完全な愛を感じるようになります。それは、無我の境地で有を創造するような、すなわち神秘の世界に接するような感性です。また、互いに愛するその場面を目で見ることもできます。

 地上での夫婦は、主に居間や寝室で愛しあいます。しかし霊界の天国では、明らかにそうではありません。居間でだけ愛するような隠された愛ではありません。広い野原で花が満開の中でも愛し、美しい大地の上でも、砕ける波の上でも愛の行為をします。鳥たちが歌う山の中、森の中でも愛します。それを見る者も、あまりに美しくて酔うようになります。

 地上でのように、見苦しいとか、恥ずかしいというような感情を感じず、美しく感じられ、平穏な心で見るのです。ところが地獄では正反対です。

 愛を隠れて行い、それを見る者たちは、悪口を言います。醜いと指差します。地獄での愛の場面は、地上生活と類似した点がたくさんあるのです。

(2) 霊的愛

 霊的愛とは、体と関係がないから、地上人には該当しないように思うかもしれませんが、地上人に絶対必要な愛です。体があってもなくても、人間には誰でも内なる人があるゆえに、内なる人をよく育てておかなければなりません。そうでなければ霊界に来て夫婦一体の完全な愛をなすのに、問題が多いのです。例えば、夫の内なる人はよく育っており、妻の内なる人は、よく育っていなかった夫婦がいるなら、その家庭には完全な愛がなされません。では、どのようになるのでしょうか。清らかで美しい愛はなされず、互いに愛したいから愛そうという肉的な発露によって愛するようになるのです。そのことを霊界でも感じます。

 それゆえ、こぢんまりとした寝室や場所を定めていきながら、限られた愛をするしかないのです。では、そのような人は、いつ完成した愛をすることができるのでしょうか?

 夫は妻のために、妻は夫のために愛そうとする心が、互いに一つになるとき、次第に完全な愛に成熟していくようになるのです。しかしそれは思うように早くできません。ですから、肉体をもった地上生活において完全な愛の実をよく育てなければならないのです。結論的に、地上生活の短い期間において、永遠の倉庫に貯蔵する完全な愛のために、祝福を受けなければなりません。

 また、夫婦は互いに耕し、磨き、育てて、完全な愛の実を結ぶべきなのです。

(3) アガペー的愛

 父母が子供を愛するのは無条件の愛であるように、神様が我々人間を創造なさるときにも、人間に無限の要素を賦与なさったのです。これはアガペー的な愛です。しかし、人間の堕落と時代的な流れにより、神様が下さった本然の愛の基準が堕落していったので、神様も人間も、地獄という所のために、胸の痛いことが多いのです。それゆえ、神様が下さった根本の愛の価値を知ることによって、地獄が崩れ、地獄解放の通が開かれるようになるのです。

 肉的愛、霊的愛は、夫婦の間においてなさなければならないのです。ところが、このような愛の関係が崩れることによって、人間は根本から揺らぐようになりました。神様が我々人間に与えようとなさった無限の要素が愛です。これは、与えてもまた与えたくなり、与えればいっそう大きくなるものですが、その根本が崩れたことで、今日人間救済の道が難しくなったのです。夫婦観を正しく立てて、互いに譲り合い、愛で一つになることで、人類の解放の道が開かれるようになり、永遠の国に地獄がなくなるようになるのです。

 したがって、人を信頼し、互いに愛しあえば、地獄という所はあり得ず、人類に戦争はあり得ないようになるのです。この根本を誤解して地上の人生を生きたために、霊界がこのように複雑になり、うめく地獄の刑罰が生じたのです。愛を愛らしく育てましょう。夫婦の愛と、神様が下さった根本の本然の愛を、我々がよく育てて、大切に保存しなければならないのです。

(一九九七年六月三十一日)

十、 地上人を通じた霊人たちの活動

(1) 地上人に対する霊人たちの協助

 霊界にいる霊人たちは、地上人の協助なしには、自分たちの位置から発展できません。すなわち、霊人たちは、地上にいるときの自分の人生の基準によって、霊界で永遠に暮らすのです。したがって、霊人たちは、地上にいるとき犯した罪を精算できなければ、霊界で永遠にその刑罰を受けて生きていくようになっています。

 例えば、地上で人を殺した人が霊界に来れば、霊界では恐ろしく、残忍な刑罰があります。すなわち、刃物で人を殺した者は、自分が刃物に刺されており、銃で人を殺した者は、自分の心臓に銃弾が撃ち込まれています。また、石で人を打ち殺した者は、自分に石が当たって目玉が抜け落ちて、血のあざができたままでいます。足で人を踏み殺した者は、自分が足で踏まれて、そのままうつ伏せになっています。また薬で人を殺した者は、自分が血を吐いて倒れており、斧や鎌で人を殺した者は、その凶器が自分の胸にそのまま刺さっているのです。

 霊人たちの中には、地上での自分の人生の姿を隠そうと努力する者もいますが、努力しても、隠されるものでは絶対ないのです。また、霊人たちが、地上生活を清算しようとしても、それもまた、思いどおりに行かないのです。多くの霊人たちは、現在よりもっとよく生きようとしますが、それもまた、願いどおりにはなりません。

 霊人たちは、地上を恋しがり、犯した罪を免れるために、あらゆることをしても、一度入力されたものは消えないのです。霊人たちは、みな一様に、地上で罪を犯したことを隠したり、消すのを願い、人に見られるのを恥ずかしがりますが、それを消して隠そうとしている姿まで見えるから、さらに悲惨です。

(2) 霊人たちはどのように協助するか

 霊人たちは、地上人を通じなければ、現在の自分の位置から解放され、苦痛を免れることはできません。また、犯した罪を脱ぐこともできません。そのために、自分の暮らしていた所に必ず訪ねていくのです。自分の後孫や関係のあった人を訪ねていって、信号を送り続けます。しかし、地上人がそれに気づかないために、家庭に病人が出たり、災難が起きたり、交通事故が起きたり、いろいろな異変が起きるのです。その原因が分かって、後孫たちが彼のために祈ったり、献金したりすれば、その功労の恵沢を受けて、自分のいる所から少し昇進するようになるのです。

 ところで、後孫たちが全く分からなければ、続けて事故が起きて死んだり、また事件が勃発して問題になったりすることが多くなります。それゆえ、信仰的に問題がないのに、大小の事件が連続的に起きる家庭は、間違いなく先祖に複雑な問題があると見るべきであり、祈祷を通じて信仰的に解決するのが、最も早い方法です。

 そのとき、心霊基準が低い占い師が解決しようとしても、霊界にいる霊人は、一時的に慰められるだけで、苦痛は根本的には解決されません。霊魂は慰安され、しばし静かになるが、時間が流れれば同じことです。それが神様を知る者と、知らない者との大きな差です。霊人たちは、地上人の助けなしには、自分の位置でいくら身悶えしても解決点がないために、霊人の苦痛がひどいほど、地上の後孫たちの暮らしは難しくなります。霊人たちは、霊界で地上人の協助を受けるために、いろいろな方法を用いて、地上の後孫たちに訪ねてきますが、地上の後孫たちが解決する方法を知らないために、だんだん家運が傾き、行く道が難しくなるなどの困難が繰り返されるのです。

 地上人の助けで昇進する霊人たちは、現在の自分の位置からもっとましな位置に移っていくので、自分の暮らしが楽になり、地上にいる後孫たちの暮らしもまた平和になります。

(3) 地上人と霊人との関係

 ここで、地上人と霊人との関係を調べてみましょう。

 地上人と霊人の関係は、まるで針と糸の関係のようです。すなわち、地上人と霊人の関係は、心と体の関係と同じです。また、地上人と霊人の関係は、夫婦の間のように、引き離そうとしても、引き離すことができない一体の関係を持っています。ゆえに、地上人は、肉体をもって生きるとき、すなわち、地上生活をする間、正しく暮らすべきなのは、当然の道理です。

 しかし、そのように暮らせなかったことを悟るのは、大抵肉体を既に失ってしまい霊人になってからです。肉体を持って、地上にいるとき、永遠の世界の準備をし、整理しながら、その日その日を正しく暮らすべきだという結論を伝えます。

 既に肉体を失ってしまった霊人のために、地上にいる後孫は、どのようにすべきでしょうか。地上から霊人のために祈ってあげてこそ、霊界にいる先祖の位置がよくなるのです。今日、真の御父母様が我々に氏族的メシヤになれと命令されたのは、大変な特赦です。自分の名によって、自分の先祖たちのために祈って、救い出すことができるということは、大変な恩赦であり、特赦です。それゆえ、先祖たちのために祈り、平安な位置に安着させてあげることで、自分の地上生活が平安になるのです。だから自分の先祖たちの救いは、自分がするのが当然です。真の御父母様が霊界に行かれてなされる苦労を少なくしてさしあげる道であることを心に留め、肉体をもった者として、地上生活をしっかりと締めくくらなければなりません。自分の先祖たちの救いのために、氏族的メシヤの使命をすべきなのは当然です。霊人たちの特赦の道になるのです。

 「霊界人と地上人との関係において、霊界の良い位置にいる、何の困難もない霊人も、地上人の助けや、恵沢や、祈祷が必要ですか?」とリポーターが聞くと、「人間は、霊と肉という二重構造でできているので、肉体を失った者は霊界で、肉体を持った者は地上で生きていくのが原則です。ところで、地上人に信号を送るのは、その理由があるのです。血統という因縁のために、良いことに信号を送ったり、悪いことに送ったりする。地上人は、これを原理的によく分別すべきであり、霊人たちは、地上人たちを混乱させてはいけません。血統の問題は、神様が干渉しない場合が多いので、我々人間は、神様の聖霊によって生まれ変わってこそ、正しい暮らしになるのです」とお答えになりました。

(4) 地上人と霊人との一致点

 地上人は体をもっていますが、思いどおりにできない場合が多いのです。霊人たちは体を失ったが、自分のいる所では自由なのです(自由な所は霊体の位置によって異なります)。地上人は、体をもっていますが、すべてが限定された生活です。しかし、霊人たちは、体はないが、無限の世界で活動します。また、地上人は、体をもっているが、そこが永遠の居所にはなれません。霊人たちは、体はないが、永遠の居所に落ち着いています。このように、地上人と霊人間の対比点をあげれば無限に多いのです。

 ここで地上人と霊人間の一致点を調べてみましょう。

 地上生活や霊人たちの生活は、すべてが片側だけを持っているために、片側だけしかなすことができません。では肉体と霊人の結実は、どのようにすれば完全な実を結ぶことができるでしょうか。地上生活において肉体と霊魂が分離する前に、地上での暮らしをよく締めくくってこそ、完全な実を結ぶようになるのです。

 ところで、霊魂がよく熟さないまま霊界に来るようになれば、問題が生じます。したがって、それを解決するために、先祖と後孫との関係は複雑になるのです。それゆえ、我々の地上の暮らしが、どれほど貴重なものかということを、もう一度肝に銘じなければなりません。

神様が備えてくださった美しい邸宅で、永遠に暮らすためには、肉身を中心とした片側だけの人生を目標として暮らしてはいけません。霊肉間に完全な実を結んで、結実の季節を喜んで迎える地上人の暮らしになるよう願います。

(一九九七年七月七日)

十一、 神様の愛の形態

(1) 真の父母の思想

 私、李相軒は、地上から霊界に来ましたが、真の御父母様の思想を接ぎ木させること以外には関心がありません。なぜなら、真の御父母様の思想以外には、もっと次元の高い思想がないということを悟ったからです。

(2) 愛がある人と愛がない人

 愛とは、人間が生まれるとき、神様から受けた一つの貴い要素です。しかし、これが人間をして、世の中に生まれながらにして二人の主人に仕える要素として作用しているのは残念な事実です。これが、我々人間において、不幸の始まりです。

 愛とは、肉体を通じた夫婦の愛だけをもって言うのではありません。人間には、本来の性稟の中で、生まれるときから持って出てきた高貴な贈り物(エキス)があります。それが愛です。

 ところで、人間は堕落によって、愛の本体を失ってしまいました。その結果、与えてくださった愛の上に、新しくペイントをして新しく造った人造の愛に変わってしまいました。愛とは、神様の性稟の中で最も重要な部分に位置しています。このような神様の愛を、我々人間は、分析することもできず、掘り下げてみることもできません。今、そのような神様の根本的な愛を、この国、霊界に来て、見たとおりに記録しようと思います。

(3) 神様の愛

 神様の愛は、描くことも、触ることも、表現することもできません。そして神様の愛は、我々の目で確認することもできません。神様の愛は、我々人間としては、理解しにくいからです。また神様の愛は、我々人間の頭脳で分析できないのです。

 神様の愛は、我々に無限に与えても、減らず、依然として全く同じです。神様の愛は、まるで蛇口をひねっておけば、水があふれ出てくるように、休まず続けてわき出しているのです。神様の愛は、我々人間が受けて、また受けても、嫌がる者はなく、受けて、また受けても腹いっぱいになった者はなく、もっと空腹な者のようになり、謙遜なります。神様の愛は、かさや重さで測定することができませんが、我々人間にたいして無限の快適な姿で変化しています。

 神様の愛は、全世界(全人類)が受けて、そのすべてを神様にお返しするとしても、神様の愛のかさがもっと大きいのです。では、神様が人間を愛されるその愛の尺度が、どのように表現されるでしょうか。神様は、目に見えも、触れることすらできません。そして、限定的な物体でも、ある個体の塊でも明らかにありません。ところで、人間は、神様の愛をどのように表現し、何で悟るのでしょうか?「李相軒を愛される神様」を分析しょうと思います。

 そのとき「李相軒」と呼ばれた。明らかに、私の耳に声が聞こえました。まばゆく明かるい光が、私の前後に、私の頭の上に放たれて照り返されます。その光の中で、不明の光の筋が私の心をとらえるが、それは表現することができません。私の能力では到底、表現しうるすべがありません。似たように表現するなら、まるで母の胸にうずくまった赤ん坊が、母の心臓の鼓動の音を聞きながら、母の目と視線が合うときにもつ、平穏感とでも言ったらよいでしょうか。これは、到底比喩ができないことですが、そのように言うしかありません。

 また、呼ばれる音声の変化によって、その美しい光彩も変わるが、ただ全身が溶け出すような恍惚感です。突然、瞬間的に、自分一人で立っています。明らかに神様が見えないからです。このように恍惚な光が、どのように瞬間、瞬間、人間に訪ねてこられるか不思議なばかりです。光として現れる神様の愛は、刻一刻異なっていました。大きな火、小さな火、丸々とした火、まるで地上で見た花火の光景のように輝く、燦爛とした光がいろいろな光彩になって、人間に愛の光として現れますが、その光を発する姿によって、感じられてくる感性も異なっていました。私が体験したこと以外に、他の者たちに現れる神様の姿を見ましたが、依然として神様は愛の本体であられました。

(4) 神様の姿は火であり光である

 光が愛の姿であると、何で判断するのでしょうか。神様の姿は、火であり光であるために、神様の光を見れば、人間の心の中に、愛の要素がそのまま作用します。まるで、電気のスイッチを押せば明かりがつくように、神様の光を見れば、愛が作動し、人間の心の中は、愛の塊りで和するようになるのです。

(5) 祝福の関門を広げた理由

 神様が、本来人間に願われる根本的なみ旨は、愛で創造された当時の姿そのものになるということです。しかし、人間の先祖の堕落で、その後孫たちは、初めから本性の愛をもって生まれることができませんでした。二重構造をもった人間、すなわち、二種類の指向性の心をもって生まれた人間なので、出発から誤った人間の構造が、神様の胸を痛めたのです。

 それゆえ、復帰摂理で言う人間の根本復帰と、神様の圏内から離れた二種類の指向性の心をもった人間の問題を解決するためには、再び生まれる重生の過程を経なければなりません。そうして、原罪のない人間の姿で生まれてこそ、本来神様が願われた愛の本体である本性の姿に似ることができ、この国、霊界に来て、神様の完全な愛を体験することができるのです。

 それで、重生の過程を経るには、正に真の御父母様から生まれ変わらなければいけないのです。これが祝福です。最近、祝福の関門を大きく広げて、大きな恵沢を下さる理由が、まさにここにあります。彼らは理解できないとしても、生まれ変わるという手続きを通じて、恵沢を受ければ、この国では祝福を受けた民になるのです。真の御父母様が生きているうちに、多くの民たちに限りない特赦の道を下さるのですが、それを受ける者は天国人となり、重生の過程を経た者となるのです。そのように、理由なく、地上の後孫と先祖が共に福を受ける期間であることを知るべきです。

(6) 愛は神様の最も大きな贈り物

 愛は、人間が世の中に生まれるとき、神様から受けた、神様の最も核心的な重要部分です。人間は、それをそのまま相続すべきものでした。しかし、それが誤ったことで、神様との関係が切れたので、これを回復するための方法は、人間が神様に似なければなりません。神様に似るための最も最善の方法は、神様の子女として、愛の本然の姿に帰らなければならないのです。

 愛、愛、愛、それはすべてに勝ち、すべてを溶かし、すべてをなすことができる根本の力です。愛だけが、人間が神様に受けた最も大きな贈り物であり、子供であるという証です。愛! 失った本然の愛を探すため、苦労して努力しなければならないのです。

 

霊界の実相と地上生活・第二章 霊界で見た暮らしと地上生活 2

五 霊界で見た中間霊界

(1) 中間霊界

 霊界で見た中間霊界は、地上で考えていたのとは違った所でした。地上で功労が多く、国家、世界に対して功績があった人たちの中で、神様に仕えなかったとか、宗教に対して関心がなかった人たちなど、地上で功績はあるが、信仰と関係ない人たちがたくさん集まる所です。

 ここでの暮らしは、天国のようでも、地獄のようでもなく、地上生活と似ていました。食事時間に例えれば、蔚房で働く人、御飯を炊く人、器を洗う人、食べ物を用意する人がいて、みんな共に苦労して、苦労した程度の代価をもらっている所です。

 また、人々の表情を見れば、天国では明るく、地獄では不安な顔ですが、ここではいつも休まずに熱心に働いて忙しい様子です。すべての人が熱心に暮らしながら福を受け、豊かに暮らしていますが、神様と宗教に対して関心さえない所です。

 ここで「統一思想」を講義しましたが、ある人が質問するに、『統一思想』とは、文字どおり思想を統一するということですが、人ごとに持っている思想が統一されれば、個体的な特性といったものがなくなって、まったく同じ人だけが暮らす世の中になりませんか」という、間抜けな質問をしました。ここでは、多くの時間をかけないと、伝道できないような感じがします。

 中間霊界とは、天国でも地獄でもなく、いろいろな階層が多いところです。そして、「統一思想」を理解させるのは難しく、「原理」も神様も理解させにくい所でした。一言で中間霊界といいますが、それは膨大な世界であるために、説明するのは大変です。

 中間霊界では、統一食口と一般人が、特別に区別されています。統一教会の信仰をしてここに来た食口の姿は、躍動感があり、難しい表情が全く見えません。また、平和な姿をしていて、とても熱心に活動します。例えば、ワークショップとか、宴会、ゲーム、和動会等、いつも忙しく楽しくしています。

 統一教会の食口でない他の一般人の姿は、それとはとても違います。彼らが生活する姿には、元気がなく、躍動感がありません。活動する姿は大抵受動的であり、怠惰で、仲間同士が集まって、退屈な顔をして暮らしています。

 ここで中間霊界に関して、統一食口と一般人の差について述べようと思います。

 我々食口たちは、能動的であり、活気に満ちて生活しているのに反して、一般人はそうではありません。なぜ受動的であり、つまらない退屈な顔をして暮らすかというと、彼らには望みとか、希望がないからです。しかし、中間霊界にいる我々統一食口たちは、神様の根本のみ旨を知って、そこで神様の特恵を待って暮らしているために、望みと希望をもっています。

 そのように同じ中間霊界といっても、我々統一食口たちがとどまっている所は、一般人たちがとどまっている所とは違うのです。しかし、気の毒にも、統一霊界圏に行けない食口たちもたくさんいます。その理由は以下のとおりです。

 第一に、祝福されても片方が脱線して、家庭をなせなかった。

 第二に、祝福されてもみ旨と関係なく暮らした。

 第三に、祝福されても軌道を離脱した暮らしだった。

 以上のような例が多いのです。

 彼らは食口といっても、名前だけでしたが、中間霊界に来ています。この食口たちは、神様や真の御父母様、興進様の特恵があるとき、公式的に恵沢を受けることができます。

 ここには食口の代表たちが、時々行って信仰指導や原理講義をしながら、レクリエーションもします。それゆえ、望みがあるのです。そしてまた、神様も興進様も、ここに関心をもっておられる姿をよく見ました。

 したがって、中間霊界とは、一般の人も来ることができ、我々食口たちもいる所ですが、特別に統一食口たちは、まるで特殊学級が別の教室に集まって、特別な指導を受けるように、意外な待遇を受けています。これは驚くべき事実です。

 祝福の意味は、地上に暮らすときはよく分からないでしょう。目に見えないからです。しかし、天の国では、とてつもなく特別な待遇を受ける条件になります。今、祝福の門が広がり、真の御父母様が、わずかな条件であらゆる人に祝福を下さるのは、すべての人に福を与えられるためなのです。その理由は、父母であられるからです。

 真の御父母様の地上生活は、多くの子供たちに福を与えてくださる期間です。それゆえ、我々は周りの人たちの鼻をつかんで引っ張っていってでも、祝福を受けさせなければなりません。それが彼らに福を与える道なのです。

(3) 楽園

 楽園は、天国と地獄の中間地点にある所だとすべての者が考えていました。しかし、ここ霊界で見た楽園は、地上で考えていたのと違っていました。楽園や、中間霊界は、地上で考えているようにきっちりと境界線を引いて説明することはできません。例えば、オーストラリアには、オーストラリア人だけ暮らしているのではないのと同じです。そこでは、いろいろの国の人たちがグループを形成して暮らすように、よく気が合う人たちが集まって暮らしています。

 例えば、コリアタウン、チャイナタウン、ジャパニーズタウンというように、中間霊界においても天国と地獄を除いたすべての霊人たちが、自分の階層、グループを形成しながら、仲間同士で集まって暮らしています。

一九九七年六月一日~七月二十八日)

六、 霊界で見た地上生活

(1) 貢献が多い地上人は霊界でどのように記録されるか

 地上生活とは、人間が霊界に来る前に、自分の人生をどのように生きたかという、生活それ自体がこの霊界に記録されていく過程です。例えば、地上で大統領として貢献をしたとしましょう。その人は、霊界でどのように記録されるでしょうか。

 自分個人のための人生ではなく、国家のために生きたので、その功績がこの国、霊界に記録されます。同時に、細々とした物質の不正、淫乱、誤った思想など、あらゆる記録が、まるで自分の自叙伝のように記録されます。

 このような暮らしの姿が、地上で最後に整理されるとき、霊界のどこに、どのように導かれるのでしょうか?

 神様が、無条件に現れて、「あなたは国の大統領として過ごしたから、どうぞこちらにいらっしゃい。御苦労だった」と言えば、どれほどいいでしょうか。しかし、とんでもありません。国の大統領もこの国に入ってくるときは、警護員の一人もなく来ます。自分の人生の基準の前に立つようになるのです。肉身の生命が終わったのち、少なくとも四十日が過ざてから、完全な霊界人になるのです。

 その人は、四十日間、地上と霊界を往来しながら、自分の居る所を定めます。定めるに際して、神様は介入しません。先祖たちが協助するにはするが、先祖たちも一〇〇パーセント協助できません。まるで風が吹けば、風のなすままに動いていくように、自分の居る所は、自分自ら探していくのです。誰も審判しません。それぞれ審判の位置が違うのです。そして自分の居所に行さ、落ち着けば、誰がさせるのでもないのに、自然に自分の引導者が現れて導くのです。

 霊界の級数によって、審判する雰囲気が違います。国の大統額を務めたために、全く恵沢がないのではありません。国に大きな貢献をしたことは、恵沢の条件になるとしても、自分の存在価値が善の立場に立てなかったなら、全く、断固とした処罰を受けるようになるからです。それが霊界です。

 それゆえ、この国、霊界では、大統領だとか、あるいは、一番下だというような階級的な差が、霊的基準を左右するのではありません。いかに正しく人生を生きたかという道徳的な基準が、その人の価値を評価する所です。

 「霊界では、学力の差による差別待遇はありませんか。地上では、学力のある人と、学力のない人の位置が違いますが、霊界ではどうですか? 学力がなくて末端で働く人たちは劣等意識を持ってはいませんか?」とリポーターが尋ねると、「霊界でも、自分の専攻によって、働く分野が違います。しかし、劣等意識というものは、地上とは違います。自分自身の人生の基準の価値を知らず、誤って暮らしたことが、最も恥ずかしさとして現れるのです。学力水準の差に左右される地上とは全く違います」と答えられました。

(2) 宗教人と非宗教人の差

 信仰をした人と、しなかった人の差は非常に大きいです。そこにも相当な階層があります。信仰をしていて、かつ善なる人は、本当に神様の霊界の恵沢を受けることができますが、信仰をしながら良心的でない人は、信仰をしなかった人と、ほとんど同じです。神様を知らない立場で、人生を生きた人はみな、神様と関係ない所にとどまるようになります。神様が特恵を施すときにも、非宗教人は、恵沢が与えられるのが遅いのです。

 天国にも特恵があるかと思うでしょう。神様が人間に聖霊によっての特恵を与えられ、人間を愛されるように、天国にも特恵があります。階層別に、自分の位置で自由の身となって、願う所へ移っていくときがあります。これは地上人の祈祷とも関係があります。そのときは、神様の命令によって移動するのです。

(3) 統一食口たちの位置は、他の宗教人たちとどのように違うか

 一言でいって、あまりにも大きな違いがあります。すなわち、霊界圏が違うのです。食口たちの各自の人生により、少しずつ違いはありますが、全体としての霊界圏の位置が違うのです。大きな違いというのは、神様に対しての位置のことです。

 神様の対話を感じることも、開くこともできない他の宗教人たちの領域があります。しかし、統一食口たちは、最初から大部分が神様と呼吸することができる位置にいます。ここでもいくつかの階層があります。グループによる差があるのです。申し訳ないことですが、李相軒が見た霊界を明らかにすることで、我々食口が地上の人生を整理することができるだけでなく、ここに正しく来るのに助けになるようなので、申し上げます。それが真の御父母様のための道だと考えるからです。

 三十六家庭の位置は大変なものです。家庭の階級においては最高です。しかしながら、最高の位置において赤裸々に自分の誤りをすべて露わにして生きていく苦しみとは、本当に表現しがたいものです。

 地上にいるとき、女性問題、公金問遺、その他の問題に引っ掛かった家庭は、地獄にいるのではなく、神様のそばにいながら、あらわになった姿で生きていかなくてはなりません。それは言葉で言えない苦しみです。

 例えば、他の女性と性関係を持っている場面が随時、皆の目に見えるのです。また、公金を自分勝手に使いながら、酒場に行って、女と堕落しながらお金をばらまく姿がはっきりと見えるのです。一言で、地獄よりもっと恐ろしい所です。

 その他の家庭が犯した罪も、罪の質によって階層がたくさんあります。しかし、大部分は、神様の近くにある霊界圏にいます。罪を犯した者たちが、集まっている監獄もあります。ここで罪人が集まって、自分の罪を蕩減する方法があれば、どれほどいいでしょうか? しかし、ここでは、自ら解決しうる罪の蕩減方法はないのです。

(4) 神様の特恵

 霊界人は、地上にいる後孫の祈祷、献金、奉仕などの功績を通じて、監獄の門が開かれれば、そこから出てくるようになります。その後、引導者が現れて、自分の位置に合うように導くのです。

 高位の家庭が、神様のそばで自分の罪をすべて蕩減して平安に生きていくときはいつでしょうか?自分が犯した罪を、後孫が蕩減してからのことです。後孫が祈祷して精誠を捧げれば、それを見る霊界人は、苦しくて逃げようとします。ところが、逃げていってもまた帰って来なければならない所が、自分の位置です。

 地上人の祈祷と精誠があれば、蕩減期間が短くなりますが、大部分はそれを知らないために、苦しみを受ける期間が長いのです。

 霊界で苦しみの期間が長ければ、地上の後孫は、知らず知らずのうちに、体の調子が悪くなります。先祖が苦しんでいるので、後孫も具合が悪くなるのです。つまり、先祖が犯した罪のために、後孫が罰を受けるのです。天道に逆らえば、行く道がありません。義の道に従って行くべきです。

(一九九七年六月九日)

七、 霊界人と地上人の生活

(1) 霊界人の暮らし

 霊界人は、地上の生活によって、霊界での自分の暮らしの位置が決定します。一か所に落ち着いていれば、特別な特恵がない限り、千年過ぎてもその位置で暮らすようになります。霊界の位置が平安な位置にいる人たちの後孫たちも平安に暮らしています。しかし、地上で自分の人生が過った人は、霊界に来ても地獄のような不便な所で暮らすようになり、後孫はいつも苦労し、さまざまな問題が生じるのです。

地獄の暮らしのように、霊界で苦痛を受けている人を見れば、その周囲は暗く、監獄のように自由がないのです。食べるものも、着るものもありません。そのような位置にいる者の後孫たちは、彼らの地上生活も開けていきません。そのため占いを見に行ったり、祈祷師を探したりします。そうして、先祖の問題が発見されると、祈って精誠を捧げます。そうすれば霊界にいる先祖が特恵を受けます。霊人は、その位置から移動したり、そこでの待遇が変わったりします。それは誰がそのようにするのでしょうか? それがきょう話そうとする主題です。

 地上では金を使ったり、権力の力も借りたりしますが、霊界にはそれがありません。風が吹き、花が咲さ、鳥が鳴くのは、誰かが命令したものではないように、自分が変わるのも、誰かの命令によるものではありません。自然に、自分が分かってそうするようになっています。霊界の罪人も、後孫たちが精誠を捧げれば、自然に自分が変わっていくことが分かります。

 地上でムーダン(巫女)が踊りを踊りながら先祖を呼び出すのは、その先祖にとって慰めになるだけで、位置を変えることにはなりません。しかし、次元の高い正しい祈祷によって特恵を受ければ、神様の命令によって天国の使者が訪ねてきて、より高い位置へ連れていきます。

(2) 地上人の暮らし

 それゆえ、地上の暮らしがとても重要です。霊界で特別な恵沢を受けて位置が上がっていくということは、時間がかかりすぎます。また無知なので、よく分からないのが常です。ですから、いつも永遠の世界に焦点を合わせて生活し、地上での人生を整理しながら暮らす人が、腎明な人です。

 どうせ来るようになるこの国、誰も避けることができないこの国は、必然的なものなのです。ですから、瞬間を誤って暮らす愚かな信仰者にならないよう願います。

 膨大なこの国の暮らしについては、すべてを表現することはできませんが、一言で要約すれば、自分の人生の実であり、結実です。自分の農作業の収穫です。もっと易しく言えば、罪を犯せば地獄に、善良に生きれば天国に行きます。永遠の世界のために正しく生きなければなりません。

(一九九七年六月十六日)

八、 地上人と霊界人との違う点

 ①  地上人

 まず、地上人について調べてみましょう。地上人は、肉身の目で見て、触って、行動します。地上人は、いつまでという限定された空間の中で、制約を受けて暮らしていきます。例えば、人間は、十年、二十年、六十年等々の期間にわたって暮らします。また、地上人は、自分が願ったとしても、すべてがなされるのではありません。

 地上人は、自分が考えている心を相手に正確に表すことがでさません。

 地上人は、食べたいけれど、自分が動かなければ、食べることがでさません。

 そして、地上人は、空間の中で行動するが、自分の理想の世界を描くとき、考えだけで終わります。

 また、地上人は、肉体的な苦痛を受けるとき、それを解決する方法について、よく分からないのです。例えば、信仰者は、祈祷などの方法で解決しようとする人もいますが、非信仰者は、病院に行って解決しようとします。

 ②  霊界人

 しかし、霊界人は違います。霊界人は、肉体的な制約がないために、自分の活動範囲が無限です。例えば、見るとか、触るとか、行動するということは、考えると同時に起こるために、時間がかからないのです。

 霊界人は、手を挙げて品物を移すとき、考えると同時になされるので、時間が短縮され、誰かの力を借りなくてもなされます。

 霊界人は、自分の思いが、考えようとしたとたんに相手に伝達されるので、特別な言語の表現は必要ありません。

 霊界人は、自分の論理展開が大変正確で明確だと感じられるとき、その伝達事項の正否によって、それが相手の顔にすぐに現れます。したがって、相手の気分の表現を自らが悟るようになるので、自分の事情も早く表現することができます。

 霊界人は、最初から人間は神様の被造物であるということをみな知っているために、神様の心を傷つけることはありません(これが天国人と地獄人の差です)。

 霊界人は、自分の分野で熱心に働けば、その場で最高の権威者になるとか、ある賞金が下りるとかいうことに対する欲望がないために、いつも平穏な顔をしています(この点は、天国と地獄との間に差があります)。

 すなわち、霊界人は、衣食住の問題の解決のために悩まされることがないために、顔の表情がいつも穏和で謙虚です。

 結論的に、地上人と霊界人の違う点を要約すれば、地上人は限定された空間の中で、限定された時間の制約を受けて暮らしていきます。すなわち、衣食住の問題を解決するために、忙しく活動するので、生さるのが大変で、苦しいが、霊界人は、制約する物がないために、無限に自由です。衣食住の問題のために、神経を使うことがないので、無限に明るく謙虚です。これは自分の肉身生活の結果が、天国人として結実した際に当てはまることです。

(1) 霊界で見た相対性原理

 『原理講論』や「統一思想」で論じられている相対性原理とは、相対が互いに授け受けすることにより授受作用し、合性一体化するとき、それを通じて喜びを受けることが、すなわち神様の創造原理の根本です。それについて霊界で見たものと、地上で見たものの違う点を話そうと思います。

 地上では、主体と対象が授受作用を通じて合性一体化すれば、一つになるので喜びます。ところが霊界では、授受作用を通じて合性一体化するとき、一つになって喜びを感じることが、地上とは少し違います。例えば、相手に与えて、相手が受け入れるのに、時間的に与えて受けるのではなく、考えとともにすぐに合性一体化するから、外見から見るときは、授受作用するように見えないのです。このような相対性原理による合性一体化は、完成した個体が集まった天国で起きることです。

(2) 霊界で見た授受作用

 授受作用の根本理論とは、互いがよく授けよく受けて、相対と愛で一つになることを願うことです。それが天国をなす根本です。

 天国における授受作用とは、文字どおり完全に一つになり、互いを眺めてみるだけでも授受作用になります。しかし地獄やそれ以外の所では、それぞれの階層によって、授受作用の差が大きいのです。

 それゆえ天国は、創造原理の根本理論である相対性原理から見れば、神様の創造目的の根本をなしている所です。それに対して地獄は、神様の根本理論を全く理解できないところなのです。したがって地獄に行って相対性原理一つだけでも伝道するのは、とても重要な課題です。地獄解放の問題は授受作用をよくなしていけば、なされるのです。この点は、地上と同じ点が多いと思います。 

(3) 地上生活と霊界生活との密接な関係

 地上での自分の人生の姿が霊界においてどのように整理されるのでしょうか?

 地上で善と悪の生活の基準によって、霊界において自分が行くべさ永遠の位置が定められます。地上生活の人生において、どのように誰を中心として生きたかによって、永遠の世界における神側、サタン側、無神論者の位置が決定されます。

 地上では個人の功労、国家観、世界観によって基準の差がありますが、永遠の世界では、国家観、世界観より、もっと重要なことが、個人の人格形成です。地上のように、自分がより高い位置で働いたために、高い位置に行くという考えは間違っています。

 それゆえ、地上生活での最も充実した甲斐のある人生とは、神様を中心として暮らすことです。個人の欲を捨て、ために生きる人生を目標にして暮らせば、永遠の世界に来て、頭を上げることができるようになります。

(4) 質問と答え

 ①娘の質問

 質問:生前に一度もよく仕えられなかった親不孝に対し、どのようにすればいいですか?

 答え:自分の位置で誠実に暮らしてくれることを願う。

 質問:子供たちに、一言お願いします。

 答え:つまらない説明をしたくない。父母が歩んできた道が正しいと思えば従って来なさい。

 ②リポーターの息子の質問

 質問:ミスコリアの顔と、不細工な顔が霊界に行けば、どのようになりますか?

 答え:地上でのきれいな額は、もちろんここでもきれいです。しかし、不細工な顔も、神様の光の中で、心の表現が顔に現れるので、無限に美しいのです。地獄に行った美人の顔と、天国に行った不細工な顔では、比較になりません。顔は地上でのように、丸い人は丸く、長い人は長いというように変わりはないが、地上の暮らしによって、霊界に来れば顔つきが変わるので、心を磨いて天国に来ようとする者が知恵深い人です。

 質問:大胆であったり小心な人が、霊界に行けばどのようになりますか?

 答え:大胆、小心は、神様の前に別に重要ではありません。大胆、小心に関係なく地上で天国に来るために努力しなさい。

 ③リポーターの質問

 質問:原稿に記録して呼んでくださいますか、考えながら呼んでくださいますか?

 答え:みな説明するということは、複雑で大変です。私が考えたらすぐに記録になって現れます。考えが正に記録されると見ればいいです。

(一九九七年六月二十三日)

 

霊界の実相と地上生活・第二章 霊界で見た暮らしと地上生活 1


一、 李相軒院長の昇華式場において

 私が李相軒です。私が李相軒です。「誰か」と聞かないでください。気分が悪いです。私が地上にいるとき、よく来てくれることを願いました。しかし、互いに難しかったでしょう。奥様!私が地上で果たせなかったことを、奥様を通して繰り広げようと思います。資格がないと言わないでください。

 「統一思想」は、お父様が我々に下さった救いの思想ですが、人々が理性をもって判断しようとします。考えが足りません。私の人生が「統一思想」を理解させようと苦労し、考えて努力してきたものだったのに、十分に果たせずに来ました。地上で早くできなかったので、霊界でいちいち私が調べて、もっと体系的に奥様にお伝えするので、地上で知らせてください。

 奥様! 地上にいるとき、あまりにも骨を折らせたことを私は知っています。だから今、私が天上で、鄭虎雄(チョン・ホウン)牧師の家庭を中心として、心から協助します。待ってください。神様は私の地上生活四十日は、必要ないと言われますが、私なりに、地上と天上を熱心に通いながら、体系化して連絡いたします。私の妻も、言いたいことがたくさんあるようですが……。

 奥様! 当分の間、少し苦しくても許してください。私が四十日間整理して、また来ます。オーストラリアに行かれるといっても、私は行くことができます。また来ます。ありがとうございます。

 今日、昇華式で皆が私の生涯の人生に、あまりにも身に余るお言葉を下さり、本当にありがとうございます。

(一九九七年三月二十四日)
 
二、 家族たちと自宅での追悼礼拝

(1) 父から愛する子供たちへ

 おまえたちがみな集まった場で直接に話したいことはたくさんあるが、時間がないので文章で父と母の便りを伝えようと思う。

 愛する子供たちよ!

 おまえたちが見ることができない国、一言で要約すれば、

 「地上の暮らしは何でもなかったな。
 何でもなかったな。
 何でもないのに……

 神様-、神様-!」

  これが天国の知らせだ。あまりに膨大で、表現し得る方法、表現能力が、この父にはない。神様は、見えない。この国でも、神様は見えない。

 しかし、あの太陽の光より、もつと明るいこの燦爛たる光、恍惚の光は、人間の頭脳、知性、理性では、表現する方法がない。

 それ以外は、光彩の中で赤裸々な私の人生が、神様の前にそのまま現れるので……。
まるで赤ん坊がお母さんの乳首をくわえて、お母さんと共にしている安堵感、平安感、幸福感というか。この中では、鍛冶屋が鉄を溶かし出すような……。愛の溶鉱炉と言えば表現にあたるだろうか?…。

  おお! 神様。どうしてこの世界が、我々の前にあったのですか。受け止めきれない、ほのかな香り、どこからか流れ出るのか分からない、美しいメロディー……。

  子供たちよ! この父が夜を明かして記録しても、表現することができない。これからおまえたちは、どんな人生を生きるのか、一度聞いてみよう。地上でどれほど生きるか、地上での暮らしの焦点をどこに置いて暮らすか、各自に聞いてみたい。

  父として、親として、頼みたいことがある。父が残した統一思想を見て、文鮮明先生が書かれた「原理」の本を精読して決定しなさい。皆読んだ後、それよりもっと大きな経典や先生の教えがあるなら、その道に行きなさい。

 しかし、それよりもっと大きな思想がないと思うなら、渾身の力を尽くして、み旨のために働きなさい。それ以上の頼みはない。

 その日、昇華式に参席した多くの方たちが、父に対して身に余る表現をたくさんした。子供たちとして、謙遜に受けてくれることを願うところだ。

 これから、この膨大な霊界の様子、論理的に体系的に整理して、この奥様が伝えるだろう。私がここに来た以上、気がかりであった無形世界のことを教授社会に綿密に知らせる。おまえたちも、この奥様こ協助しなさい。これからあなたたちが知りたがっていた事実を、また知らせよう。どのように生きるかを研究しなさい。おまえたちが執着している世界は、何でもない瞬間の世界であることを肝に銘じなさい。

父より

(2) 母から愛する子供たちへ

 会いたい子供たち! お父さんの話を一〇〇パーセント耳に留めて聞くようにお願いします。母として子供たちに願いたい内容は、兄弟同士しょっちゅう往来し、むつまじく過ごし、いつも周囲を振り返ってほしいということです。

 真の御父母様を研究するようにお願いします。この貴い知らせを伝え聞くことができるから、おまえたちはどれほビ幸せでしょうか。母として限りなく感謝するばかりです。

母より

(3) 李相軒先生に下さった神様のみ言
 ①李相軒、神の懐に来たことを祝う。
 ②「天国人」と言われる。
 ③李相軒は霊界人なのか地上人なのか、区別もなく歩き回っている。研究しようと無我夢中だ。

(一九九七年三月二十八日)

三、 霊界の姿と生活

 奥様、私は李相軒です。私を李相軒でないのではないか疑う瞬間に、とても自尊心が傷つきます。神様が認められるなら、信じて聞いてくださるとありがたいです。

(1) 霊界の姿

 霊界は目に見える現象世界とそっくりのようですが、霊界のその膨大な規模は、地上とは比較になりません。例えば、現象世界の自動車の姿は、限定されているが、霊界の自動車は、一台がいろいろな姿に変わります。前に行ってから後ろに行き、後ろに行ってから再び回ったりもします。回ったと思うと……。

 車が瞬間的に山を貫いたりもし、車を運転する運転手の思いどおりに車が動さます。まるで子供たちが見る空想映画や、神秘の宇宙世界の姿のような動さです。

「交通事故が起きないでしょうか」とリポーターが聞くと、「無秩序なようだが、徹底して法度を守る世界であるために交通事故はない」と語られました。

(2) 霊界の生活

 地上で暮らす人たちが、朝に起きて夜に寝るように、霊界生活においても、起きたり寝たりします。しかし、朝に起きて、夜に寝るというのではなく、朝も夜も考えによって変わるようになります。

 霊界を、地獄、天国、楽園という名を誰がつけたのか分かりませんが、本当に地獄、天国、楽園の生活の差はとてつもないものです。例えば、地獄にはこの世では見物することができない光景があります。

 女が下半身も隠さないまま裸体で立っていると一人の男がその女の下半身に触ります。すると別の女が、その男の下半身を触って、自分のものだと言いながらけんかするのです(雑多な者の集まり)。それでも恥ずかしい様子がなく、悠然と悪に染まつている姿です。

 下駄を履いた日本の女が走っていて転ぶと、他の女がその下駄を自分のものにしようとして隠します。下駄をなくした女が探していると、下駄を隠した女は、「知らない」と叫びます。すると周囲の人たちは「あの女が泥棒だ」と指さしながら、皆が走り寄って、ぶんなぐるのが常です。

 指をけがした老人が、手が不自由で食べ物をつかめないでいると、周囲の若者が、器ごと奪っていって、自分の口に放り込むような生活が行われる所です。

 髪を剃られた若い女が、髪の毛がないのを恥じて手拭いで頭を隠していると、人が通り過ぎるたびに、その手拭いをはぎ取って、手を拭いたり顔を拭いたりします。

 女が手拭いを奪われてから、取り返してまたかぶると、今度ははさみで切って半分は持っていき、半分だけ頭に投げ掛けてやるのです。そうすると、その女は、耽ずかしい姿を隠すことができず、絶えず暗い所を探していくのです。

(一九九七年五月二十三日)

四、 霊界で見た天国と地獄

(1) 天国は思いと行動が一つになる所

 天国という名詞がどこから出てきたのか、私は知らないが、すべてが天国とかエデンとかいう文字を書いている。天国(エデン)とは、思いと行動が正に一つになる所です。      
 例えば「今日、何かを食べたい」と考えれば、考えると同時に、自分の前に豪華な御馳走が準備されているのです。また「きょうは誰かと一緒に、どこかに行かなければならない」と考えれば、既にそこに行っているのです。「服を着ないで、人が裸になって歩けばどうか」と思うと、本当に素っ裸になった自分になってしまい、ひとしきり笑いました。

「目の見えない人と、日の見える人が、共に天国に来たら、見えない人と見える人との差はどうか」と考えたら、おじいさんと子供が私の前に立っていました。子供は盲人で、おじいさんは目のよく見える人だったが「天国にも盲人がいますか?」と聞くと、子供が「地上にいるときは盲人だったのですが、天国には盲人という表現もないばかりでなく、見えないものがありません。すべて見ることができます」と答えました。「おじいさんは見えるはずなのに、なぜここに来られたか」と言うと、「目で見ることができるものと、心で見ることができるものがある。」と答えながら、「目は見える物体だけ見るが、心で見るものは、その人に今現れないとしても、それはもっと明かるく見える」という難しい答えをしました。

 天国には、宝石よりもっと明かるい光がいつも周囲にあります。その明かるい光のために、お互い困難を覆うことができず、互いが読みとるようになるから、目と心によってすべてが分かるようになる所です。天国は光で表現するなら、輝く金髪、光り輝く恍惚の金の光とでも言えるかもしれません。いつも心が平和である所です。言葉では表現できなくて、説明することの難しい所が、まさに天国です。

(2) 地獄は天国から想像することができない所

 地獄は、お腹が空いて、つらさ、ねたみ、嫉妬、不便なものがあまりにも多い所です。いつもつらいから、けんかしかすることがないのです。すべて不便です。

 例えば、天国は安心して歩く自由があるが、地獄は自分の思いどおりになるものが一つもない所です。思いどおりにならないから、人のものを奪って来て、盗み食いします。

 地獄とは、人間の世の中で考えるより、ずっと想像しにくい所です。

(3) 相軒よ! それが愛である

 地上でお父様が愛の話を出されると、いつも「凸と凹」に関するみ言を語られたので、愛といえば「凸と凹」を考えるようになりましたが、愛というこの言葉が、いかにとてつもないものかということを知りました。

 神様の愛というものは、膨大に広がっています。経験したことを書いてみると、次のようです。

「相軒よ」と呼ばれるその声に、すべてが溶け出すような愛の感性を感じるのです。それは、どんな凶悪犯も、許すしかない感性をもたせるものです。愛の体臭や香りが、すべてを忘れさせる平安感、暖かさ、安堵感の音声を感じます。一言で「愛」という単語自体がふさわしくないのです。もう少し良い、もっと柔らかい言葉がないかという感じをもつようになります。

 歩むとき、言葉を話すとき、服を着るとき、「愛」という言葉自体に納得できず、考えて、また考えて、「愛」より愛をもっと濃く美しく表現する文句がないかと考えると、神様がおっしやるには、「相軒よ! それが愛だよ」と言われました。

「愛」という言葉一つだけ完璧に意味が分かるなら、地上には争いも苦難もなくなるはずです。「愛」という言葉は、それを完璧に解釈する者がいません。それが「愛」です。

(4) 天国と地獄の槻念

 天国とは、愛で一つになったまま、調和しながら暮らしていくから、あらゆる心配や気がかりがありえない所です。

 地獄とは、愛を忘れたまま、それが何か、わからない世界で暮らしていくから、争いながら、心配、気がかり、不平、不満に囲まれて、ぐるぐる回っています。

 要約すれば、天国は愛の至聖所であり、地獄は愛に背を向けた所です。易しく言えば、天国は愛しかなく、地獄は愛という言葉が芽も出さない所です。それゆえ、地獄の解放は、愛の芽を出して、愛の実を結んでこそ可能なのです。(きょうは興奮なさらずに統一思想研究院でお目にかかるときのように、落ち着いて静かに語られた。)

(一九九七年六月一日)

霊界の実相と地上生活・第一章 真のご父母様に捧げる文


一、 真の御父母様

   「父母様、小生の手紙をお受けになり、慰められますように」と祈られて、語り始められた。

 父母様、これまで玉体御健勝であられましたでしょうか。小生、相軒が涙で親不孝のお許しを願います。御苦労なさる父母様の前で、先にここに来るようになり、申し訳なさを禁じえないのでございます。

 これまで三百六十万双国際合同祝福式を完遂なさるために、連続する御苦労、この子はよく存じております。ここ天上でも、階層ごとに食口の幹部たちが回りながら、皆が大変努力しております。地で苦労しておられるので、ここ天上は私たちが整理して伝道しょうと努力しますが、根本は父母様が来られてこそ、まとめられるようでございます。御苦労なことを再び負わせてしまうようで、申し訳なく思うのでございます。

 天上の祝福式は、お父様がなさるべきことですが、多くの人たちが待機しており、期待しております。私どもは、地獄の門が開かれて、解放の喊声がわき起こるであろうと講義して回っています。私どもが最善を尽くして活動したと言いますが、お父様の前には何でもなく、ただお父様の御苦労を少しながら軽くしてさしあげるためでございます。

 お父様!小生が地上にいるとき、地上人たちが霊界の事実について質問すれば、口がふさがりました。学術セミナーのたびに、霊界について質問する人たちがいましたが、明快に答えられなかったのです。また、私自ら解くことができなかった謎のような問題が、霊界の事実でした。そしてついに地上で霊界論を整理できず、ここに来るようになったのです。

 それで、小生がこの国に来て、霊界の事実を詳しく整理して、地上に送ろうとするのは、第一に、地上に生きているすべての知性人たちの気がかりを解いてあげたいからであり、第二に、食口たちの地上の暮らしを助けたいからであり、第三に、父母様の困難を少しながら助けてさしあげたかったからでございます。先に来た罪責感のためでもあるのでございます。

 お父様!これまで、この小生が無我夢中で霊界を回りました。あちらこちらをくまなく探し、把握しょうと努力いたしました。今、私の努力を尽くして把握した内容を、地上にお送りしますので、誤った部分があれば、しかってくださいませ。

 これは、霊界の事実を明らかにすることで、食口たちに助けになることを願う心のためでございます。

 また、父母様が天上に来られれば、霊界を整理なさるのに、あまりに御苦労なことと存じ、地上人たちが罪を犯さずに来ることを願う心のためでございます。

 そして、神様がおかわいそうだからでございます。

 お父様!この幸福な所にお送りくださり、心から感謝申し上げます。親不孝な子に下賜された、「福人」という称号、実におそれ多いことでございます。許してくださった、私の地上の人生を、今整理しましたので、永遠の国であるここ天上で、熱心に地獄解放のために奮闘努力いたします。

 お父様、お母様!私たち夫婦、父母様の恩寵で良い所で楽に過ごすことをお許し願い、敬礼をお捧げいたします。長生きしてくださいませ。

 一九九七年八月二十一日
相軒拝

二、 愛する食口たちへ

 愛する食口たちに捧げます。

 愛する食口の皆様。どんな言葉をまず書くべさか……。誰も避けることのできないここ、誰もが行くしかない天道のこの道……。天上に来てみると、食口の皆様があまりにも思い出されます。どのようにすれば、天法に引っ掛からずに無事に通過して、皆神様の所に真っ直ぐに来ることができるか、と腐心しています。

 霊界の法に一度引っかかれば、容易に解くことができず、この永遠の国に来て、また苦労するようになります。食口の皆様、これまでどれほど御苦労が多かったでしょうか? 永遠の世界であるここ天上に来られたのちには、苦労から脱すべきでしょう。永遠の暮らしのために、瞬間の苦労を避けないでほしいとお願いしたいのです。良く生きなければなりません。誤って生きれば後孫が代わりに蕩減しなければならず、父母様が霊界を整理なさるとき、また胸の痛い事情をつくるようになります。

 愛する食口の皆様!

 私は李相軒です。「統一思想」を確立した李相軒です。私なりに熱心に霊界を観察したことを要約して、食口たちにお知らせいたします。よく読まれて、地上の暮らしをよく生きられるよう願います。そうして、神様の痛い傷をいやしてさしあげ、父母様が長生きされることを祈ってさしあげましょう。

 一句一句を皆がよく読まれるよう願います。その日その日の暮らしをチェックして生きていかなければなりません。これは先に来た食口として、助けをするためです。食口の皆様、すべての安寧を祈ります。

 

 一九九七年八月二十一日

             相軒拝


 

霊界の実相と地上生活(李相軒先生の生活・思想・信仰 )

http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Lynx/9732/Lee/
李相軒(イサンホン)先生は一九一四年九月五日、儒教の家庭に生まれ、一九五六年に統一教会に人教された後、三十六家庭の祝福を受け、真の御父母様の思想である「統一思想」と「勝共理論」を体系化されました。
先生は鮮文大学の碩座教授として在職しながら、第九回統一思想シンポジウムの開催中、享年八十二歳で昇華されました。
この本は、昇華された後、李相軒先生が見た霊界の実相について、地上の金英順(キムヨンスン)女史を通して伝達されたメッセージです。真の御父母様はアメリカの訓読の集いでこの本の初版を何回にもわたって訓読なさり、世界のすべての食口たちをして、霊界の実相をはっきり知り、み旨に対する責任を果たすように勧められました。以下は李相軒先生について知りたい読者のために、先生の生活と思想、そして信仰を簡単に紹介するものです。
 李相軒先生は咸鏡南道定平郡新上面禾洞里で儒学者である李秀永(イスヨン)氏の次男として生まれました。先生は韓国東洋哲学系の元老であり、高麗大学のアジア問題研究所を創設した李相殷(イサンウン)博士の実弟でもあります。父の李秀永氏は三・一万歳事件で収監された愛国の志士で、幼い時から先生に民族主義的な教育をなしました。
先生は高等普通学校の時、民族愛に燃えて、共産主義者の指導する民族主義運動に加担し、それによって日本の警察によるひどい拷問と牢獄の苦しみを経験されました。
普成(ボソン)高等普通学校を卒業し、セプランス医科大学に入学した先生は、次第に共産主義の唯物論に疑いを抱くようになり、真なる民族愛と人類愛とは何であるかについて心を傾けるようになりました。そのような思想的遍歴を経て、宗教に関心を向けるようになり、ついに統一教会に人教されるようになりました。その時、先生の年は四十二歳でした。先生は人教した時の心境について「原理は本当に素晴らしかったです。
原理をすべて聞き、三日ほどたった時、すでに私の大部分の難問題は解決されました。ちょっとやそっとのうれしさではありませんでした。とてもうれしくて、踊りだしたくなるほどでした」と証しされています。
 セブランス医科大学を卒業した後、人教する時まで、先生はセプランス医大病院、元山救世病院、永同救世軍病院、忠北道立永同医院、大韓警察病院等を経て、永同中央病院、李成内科病院を開業するなど、医師としての一すじの道を歩まれました。しかし文鮮明先生に出会い、その教えを受けた後、先生は、それまでとは全く違う人生の行路を開拓するようになりました。
 先生は文鮮明先生のみ言の中で、次元の高いすぐれた思想を発見するたびに感嘆し、思想的な内容について文先生に個人的に質問しながら、多くの教えを受けられました。そして先生は、文先生が一九五八年ごろ「将来、統一思想の時代が来る」と語られたみ言や、一九六二年の文先生のご聖誕日の前夜に「今から我々は共産主義理論に打ち勝つことのできる実力を養わなければならない」と語られたことを心の中に刻んで、文先生の思想を体系化しなければならないと決心されました。先生はその時の心境を次のように述懐されました。
 私の目に映る文鮮明先生の姿は、この世の人間の姿ではありませんでした。この方は驚くべき知恵の宝庫であり、限りない憐れみの愛をもっておられる聖人であり、受肉された神であり、人類を救うためにこられたメシヤだったのです。
その教えの一言一言は、実に玉のように貴重でした。この貴い玉をそのままにしておけば、ばらばらになってしまいそうでした。玉はつないでこそ宝であるという言葉にあるように、私は先生の思想を体系化しょうと決心しました。
 そのようにして生まれたのが「統一思想」と「勝共理論」です。先生は国内外の教授および各界の指導者に対して四十三回の統一思想セミナー、七回にわたる勝共理論セミナー、そして五百回余りの学術講演会を主宰されました。また「科学の統一のための国際会議」(ICUS)の統一思想分科会の名誉議長として、既存の学問を統一思想の基盤の上に定着させるために尽くされました。
 生前に、先生は統一思想の中に霊界論が執筆されなければならないと考えながら、それができなかつたことを残念に思っておられました。この本は、そのような先生の希望と真の御父母様に対する忠誠心が結実したものだといわざるをえません。 
(編集者注)