2014年5月19日月曜日

第三章 原理から見た霊界の暮らし 3

十三、 宇宙主管と人間の価値

(1) 人間は全被造世界の主人公

 天地万物を創造された神様は、全被造世界の主人公として人間を造られました。しかし、人間の堕落によって、被遣物と人間の価値が逆転した立場になってしまいました。それゆえ、人間は神様の前に子供としての存在価値を失ってしまったのです。子女である人間のために造っておいた被造世界は、自ら成長し、繁殖しているが、天地万物の主人公が現れなかったので、神様の心はどんなに痛いことでしょう。この零落した位置を正して、神様の前に本軌道に進むということが、人間がなすべきことであります。

 ところで、真の御父母様を通じて祝福(重生)の価値基準の上に立つことによって、人間は万物の前に、主人として登場することができるようになりました。本来エデンの園で、神は人間に園のすべてのものを思いどおりにしなさいと祝福されました。それは人間に全被造世界に対する主管主の資格を賦与されたためです。祝福(重生)を通じて、このすべてを回復するようになり、園の主人公であり、宇宙の主管主の価値基準まで得るようになったのです。

 このようになった人間の価値基準はいかなるものでしょうか。それは、神様の子女としての資格を獲得するものであり、全被造世界の主人の資格を獲得するものです。神様は人間のために万物を造られましたが、その万物を眺めながら、人間が喜んでこそ、神様も喜ばれるのです。

(2) 人間と万物の応答の姿

 人間の喜びの対象は万物なので、人間と万物との授受作用がなされなければなりません。そうであるなら、宇宙の主人公である人間が、万物と受け答えする姿を、例を挙げてみます。

夫婦が一つになり、愛するとき、その周囲にある草木や花々や鳥たちは、すべてが受け答えます。

草木は、それぞれの美しい色で、ひときわ光を発します。うかれて、ひらひらと揺れます。鳥たちは、それぞれの美しい声をもって歌います。

かすめる風は、まるで絹織物のような柔らかい感じで受け答えします。

 このような場面が、燦爛たる姿で美しく目に映ります。その中で夫婦が愛し合うとき、神様は一筋の燦爛たる光彩で答えられます。美しく柔らかい服を着た宮殿の王妃様が愛するとき、どこからか聞こえてくるコムンゴ(琴に似た楽器)の旋律に従って愛する場面を映画で見ることができますが、それに比較することはできません。

 人間は、万物の主管主として、神様から受けたその多くの宝を、堕落によって感じることも、見ることもできなくなってしまいました。だが、完成した人間の価値基準に至るようになれば、そのすべての関係まで、再び回復するようになります。それゆえ、人間は宇宙の根本となる主人としての価値を再び悟って、神様の前に感謝と栄光を返すべきです。

(一九九七年八月八日)

十四、 宇宙主管と神様の愛

(1) 人間は神様の子女

 神様は、人間を子女として創造されましたが、その子女が神様の懐の中に帰って来ず、遠く彷徨するとき、子女に対するやるせない心情を捨てることがでさませんでした。そうして、(万物を通して)間接的に主管されるときがありました。それは、万物を眺められ、慰めを受けて耐えてこられたということです。神様は子女である人間が万物の前に主人公として現れるときに喜ばれるのです。

(2) 神様の喜びと愛

 美しい善男善女が、神様の前に現れて、神様に喜びと栄光をお返しするとき、周囲のすべての万物が和合するその姿を眺められる神様は、これらの万物はすべておまえたちのものだといって祝福なさろうとしました。

 一筋の燦爛たる光が、万物と受け答えします。そのように美しい世界の主人公が、まさに人間であることを再び確かめられます。そして、思いきり楽しめと祝福してくださいます。そのように、祝福された善男善女が、周囲を歩いていけば、すべての草木は、ひらひらと踊りを踊ります。

 人間は、ピーピー、チュンチュンさえずるいろいろな鳥たちの受け答える声、風の中から聞こえてくるメロディー、形容できない香りなど、華麗で恍惚の中で神様の愛を感じるのです。それゆえ、神様の真心のこもった愛の表現が、我々に与えられた被造世界であるので、被造世界の主人公として神様に対する愛を喜んでお返しすべきです。

(一九九七年八月八日)

十五、 完成した人間は神的価値

(1) 完成した人間は神様の相続者

 人間がまともに成長して、神様の子女として完全に認められるようになるとき、人間は神様の前に完全な子女になり、すべてを相続するようになります。すなわち神様の子女として、そして被造世界の主管主として認められた人間は、神様の前に無限の喜びの対象として立つようになります。そのような人間は、神様と共にいつも苦楽を共にすることで、神様の考えを察することができる心情的基準をもつようになり、神的価値基準をもつようになります。

(2) 神様と共に生きていく者

 それゆえ、完成した人間は、すなわち神的価値基準の立場にまで行くのであり、これが人間にたいする神様の最後の希望です。神様は、「すべてあなたのものであり、あなたがなしたのである」と祝福したいのであり、完全な人間の立場を願われるのです。それゆえ、その立場は、神様の光体の中でいつも神様と共に生きていく立場になります。

(一九九七年八月八日)

十六、 相対性原理から見たカインとアベル

(1) カインとアベルの関係

 相対性原理の根本は、既に何度か論じました。今、相対性原理から見たカインとアベルの関係が、霊界でどのように体系化されているかを明らかにしようと思います。カインがアベルを愛し、アベルに尊敬されることによって、二人が相対基準を合わせるようになるとき、神様は、カインにもアベルと全く同じ愛の恩賜を下さろうとしました。

 ところがカインはアベルを愛することより、むしろアベルの前に長子としての資格を誇り、驕慢になったのです。これがアベルの心を痛め、カインを憎む動機になり、神様の摂理の中で、また一つの悲運の歴史の一章を残す結果を招くようになりました。神様は、汚点を残したこの歴史の一こまを再蕩減するために、もう一度条件を立てるようにすることで、全人類に罪がないという立場で、救世主を迎える段階にまで率いてこられたのです。

 それゆえ相対性原理によって、主体にも対象にも、互いに与えようとする心が発露することにより、愛で一つになるようになったのであり、カインとアベルの関係において、本来堕落がなければ、殺したいほど憎いというような感情は生じなかったでしょう。互いに仕えながら尊敬し、「ため」に生きようとする力が強く作用したことでしょう。

(2) 天上でのカイン・アベルの関係

 天上にもカインとアベルの関係がはっきりとあります。目上の人と目下の人、階級が高い人と階級が低い人、神様の近くで愛をたくさん受ける人と少なく受ける人など、あらゆる階層のカインとアベルの関係が多くあります。

 例えば、目上の人と目下の人の間で、目上の人が目下の人を無視しながら、大声で命令するよりは、「今何をしているのですか?」と温情の心をもって尋ねるのです。

 それに対しても目下の人が「何か助けましょうか?」と言いながら、ほほえみの中で互いに心が行き交うのです。

 また、目下の人が目上の人に要求することがあるとき、「私は今このようなことが気がかりですが、答えていただけますか?」と尋ねると、目上の人は、大変な権威意識をもって、年上の体面を考えて答えるのではなく、まるで兄弟間の対話のように細やかに答えるのです。

 つけ加えると、神様は人間の主体・対象にだけ相対性原理を適用したのではありません。すべての存在の階層においても互いに「ため」に生き、互いに与えようとする愛の心を下さったのです。ところが、この関係が壊れることで、カイン・アベルの関係が生じるようになりました。地上が複雑になったので、霊界はさらに複雑になったのです。

 天国の理想は、まず地上でなされなければならず、そのような基盤の上で、天上が整理されるのです。

 対象の「ため」に生きようとする相対性原理の根本を再び整理して考え、実現する地上の暮らしになることを願うものです。

(一九九七年八月九日)

十七、 天国

(1) 天国

 天国とは簡単に言えば、個人主義、自己中心主義でない人たちが集まった所です。相手のために生きようとする心、無限に与えようとする心が充満した、共生、共栄、共義主義の世界だということができます。

(2) 地獄

地獄とは、自分の事情と、自分のことだけに執着する人たちが集まった所です。このような性向を持った人間たちが行く世界が地獄なのです。

(3) 永遠の世界

 一般的に、地上人の大部分は、人生の理想を、ただ肉身の快楽を追求することに置いています。それゆえ、神様が分からない人たちの地上生活は、地獄行さの練習場になりやすいのです。永遠の世界は、誰もが避けることができない道なので、永遠の世界に比べて短い地上生活を、一日一日点検しながら、人生を終えるべきです。

 永遠の世界の規範には、地上生活のような事情は通じません。事情というものが全くないところです。李相軒が地上人を助けたいというのは、このような事実を伝達することです。それが最高の贈り物だと思います。永遠のために瞬間を愚かに生きる者になるなと、頼んでまた頼みたいだけです。これが真の御父母様の前に孝行する道であります。霊界の整理が複雑になるためです。

(4) 天国は永遠に幸福なところ

 天国は、神様を中心として、仲間同士が互いに愛で一つになった所です。ここには、背の高い者も低い者も、顔の良い者も醜い者も、大統領を務めた者も守衛を務めた者も、金持ちも貧乏人も、多く学んだ者も学べなかった者も、互いの人格を尊重し、いつも謙虚で、いつも穏和で、いつもほほえみながら暮らしていく所です。何の困難も、うらやましさもない、永遠に幸福な所です。

(一九九七年八月九日)

李相軒院長が最後にくださったみ言
霊界の法は地上のように値引きは全くありません。この法度に引っかからない基準は、天上の生活ではなく、地上の生活です。いつも霊界の生活を準備する心で、私が行くべき霊界はどこだろうかという心で生きなければなりません。もし、この法度から逸脱すれば、自分の霊魂が行くべき所は、天道に従って、そのまま落とし穴に引っかかるしかありません。ですから、地上の生活を正しく生きなければなりません。

第四章 霊界で会った人たち
第五章 霊界で会った人たち(Ⅱ)

李相軒院長が最後にくださったみ言

  霊界の法は地上のように値引きは全くありません。この法度に引っかからない基準は、天上の生活ではなく、地上の生活です。いつも霊界の生活を準備する心で、私が行くべき霊界はどこだろうかという心で生きなければなりません。もし、この法度から逸脱すれば、自分の霊魂が行くべき所は、天道に従って、そのまま落とし穴に引っかかるしかありません。ですから、地上の生活を正しく生きなければなりません。

 

第三章 原理から見た霊界の暮らし 2


七、 万有原力

(1) 二性性相

 二性性相は、神様の性稟に似たすべての被造世界の姿を言います。この二つの性稟は、神様から賦与されたものです。そして、根本の力は、万有原力であり、この力の作用が、正に授受作用なのです。では、相対性原理とはまた何でしょうか。主体と対象は万有原力による授受作用の力によって互いに授け受けしようとします。例えば、磁石の引き合う力が作用するとき、最も究極的な力を「原理」では「二性性相の中和的主体である、万有原力である」と言います。根本は一つです。神様の根本となる力だと表現すれば、易しく理解できるでしょう。

 春夏秋冬の四季の変化の根本となる力を人間がつくったのではないように、被造世界や人間が動いていくすべての力の根本となる力は、唯一なる存在から賦与された一筋の力です。『原理講論』においていろいろな角度から説明している力の根本となる力は、我々人間が説明することができません。ただ無限であられる神、すなわち唯一なる人間の創造主であられる我が父なる神の力です。無限に膨大なこの霊界、到底知性で判断できず、肉眼でみな見ることもできず、捉えることもできず、説明することもできない無限の世界の主人公が、正に神様です。いくら研究しても、研究してみても、神様は表現ができず、描くこともできません。説明することができず、感覚や感情でも表現することができない方が神様であられます。

 李相軒は分析し、論理展開するのが好きだが、神様は裂かれも分析されもしない、無限の光の主人公であられます。きらびやかな光で、奥妙に摂理される方であられます。

(2) おお! 私の神様

 私は霊界に来れば、神様を分析することができるだろうと期待しました。しかし、霊界に来てみると、あまりに膨大で、感嘆詞ばかり連発して出てくるだけであり、分析するという私の思考が、無限に愚かに思われるだけです。「おお! 私の神様、この子供を許してくださいませ。何にも、どこにも、比較することができない神様であられます。神様の価値や存在は、もっぱらお一人だけである天の父であられるばかりです。おお! 私の神様、おお! 私の神様、おお! 私の神様、許してくださいませ」としか表現する道がありません。

 それゆえ、神様について掘り下げて知ろうとする者は、最高に愚かな者です。ただ「天のお父様!」というのが、最も腎明な者なので、『原理講論』でいうすべての力の根本の主人は、もっぱら天の父と表現できるだけだと考えればいいでしょう。

(一九九七年八月四日)

八、 相対のための人間の構造

(1) 人間の構造

 人間の構造は、個体として生きていくようになっていません。相対のために生きるように、構造自体がそのようになっているのです。すなわち、相対関係にある主体と対象が、互いによく授け受けして一体になった基台の上に、神様の力が運行されるとき、神様の最も大きな喜びの対象になるのです。

 我々人間は、大抵自分のために生きるのが当然のことのように考えながら生きています。しかし、個体的な人生は、神様の本来のみ旨とは距離が遠いものです。それゆえ、独身主義者は、神様の前に親不孝であり、霊界では恥ずかしい者の中の一人です。人間が独り住まいをすれば、神様の作品の中で最高の知性を込めて造った作品が、失敗作となります。

(2) 相対のための人生

 人間が神様の最高の傑作品であるなら、神様が人間に賦与されたまた一つの生稟があるのです。相対のためになろうという心の基礎がそうです。それは次のようです。

 ①相対を必要とする外的な姿の二重構造(相対が必要)

 ②相対のための内的な性稟と心の発露 

 例えば、凸凹の人間の生殖器を見ても分かります。それゆえ、人間は、神様が本来賦与してくださった「ために生きる」天道に従って人生を生きていくようになっているのです。それから離脱したり、反旗を翻せば、神様に逆らった罪を犯すことです。

 人間は地上で永遠に暮らすようになっておらず、本郷の家に来るとき、自分の住みかがなくなるのです。すなわち、さすらいの客になるのです。

 それゆえ、神様から賦与された生命の価値を貴重に思い、神様に仕えることと、為に生さる人生を地上生活でよくしなければならないのです。

(一九九七年八月四日)

九、 愛の媒介体と人間完成

(1) 愛の中心存在

 人間の構造が二重構造からなっているように、人間は、神様の前に絶対的に出ていこうとする愛の中心存在になるべきです。言い換えれば、人間以外のすべての存在も神によって造られたが、人間だけは神様が最高の知性を込めて造った傑作品なのです。したがって、人間は万物より神様の前にもっと大きな存在価値の基準をお返しすべきなのです。

 ところで、人間の堕落によって、それがなされ得なかったので、本来の位置に返そうという本性の指向性によって、人間は必ず神様の前に真なる子女としての役割を果たさなければならないのです。

 万物は神様から造られた被造物です。したがって、自分の存在価値を美として、また自らの成長によって、神様の前に捧げること以上のものではないのです。

(2) 愛の媒介体

 ところで神様は、特別に万物にない愛の価値を人間に賦与されました。その愛とは、独自的に生じるものではなく、主体と対象が合性体をなし、一つになることで、愛の根本価値が現れるようになるのです。愛の媒介体とは、神様の前に愛の中心体になり、神様を最高の喜びの場に迎えるべき子女としての資格を表すことです。それゆえ、人間は、神様の前に愛の最高の極致をささげ、神様を喜びの場にお迎えする愛の媒介体の役割をしなければならないのです。すなわち、人間として造られた価値基準を、神様の前にお返ししなければならないのです。人間は、神様を喜びの場に迎えてさしあげるための最善の人生を生きなければならないということです。そうするために、互いに愛さなければなりません。互いに一つになり、神様に栄光をお返しする子女としての道理を果たすべきです。これが完成した人間の姿なのです。

(一九九七年八月四日)

十、 真の愛と光の発光体

(1) 真の愛

 真の愛とは、本然のエデンの園で失ってしまった愛を、再び探して、神様と共に生きていこうとする本然の愛を言います。ところで、この愛の価値基準は、神様を中心とするとき、真の愛という名詞が付くのです。

 神様を離れた真の愛というものはあり得ません。エデンの園でアダムとエバが初愛の実を神様に捧げられなかったために、神様と人間の父子の関係が、多くの歳月の中で悲しみの歴史の中に流れてくるようになったのです。初愛の実をサタンに差し出したために、神様も最初のものを再び取り入れる作業をなさらなければならなくなりました。しかし、既に多くの罪悪の種が地上にまかれたために、神様はこの罪悪の実を収穫した後、殻だけの実と穀物を分別して取り入れようとなさるのです。

 ここで、最初の実を失ったために、再び奪って取り返してくる作戦が必要です。これが蕩減条件です。真の御父母様が地上に来られることによって、この公式が解かれるようになりました。神様が復帰摂理してこられた究極の目的は、失ってしまった子供を探すことにあるからです。人間は、真の愛の根本を悟り、神様の前に真の愛をお返ししなければならないのです。それで、真の御父母様を通じて祝福の基準を経て重生して、聖別された者だけが、神様の真の子女として登場することができるのです。したがって、祝福の過程を通過しなかった者は、最初の実の資格がありません。

 神様の前に本然の真の愛で導かれ、進んでいくには、真の御父母様から祝福された夫婦が愛の祝福家庭を成し、子女を繁殖し、四位基台をなさなければなりません。真の愛とは、神様を中心として夫婦が一つになり、父母と子女が愛で一つになるときの姿を言うのです。

(2) 真の愛の姿は光の発光体

 真の愛の姿が霊界では、完全な一つの体として調和をなします。それは大変な光体です。このとき現れる光体の光は、子女の姿としても見え、夫婦の姿としても見えるようになります。ここで根本となる光の発光体が、本当の真の愛の化身体であり、神様が我々に下さった真の愛です。もし夫婦が一つになれず、子女が一つになれないときは、完全な真の愛の光を発せないのです。

 我々が一般的に考えるとき、真の愛は、無限に与えて受けるアガペー的な愛を連想します。だが、真の愛は、神様を中心として、完全一体の四位基台がなされた愛を言うのです。

 それゆえ、祝福を受けることができずに重生しなかった者は、真の愛の隊列に同参することができません。また、天国に来ることができるチケットもありません。すべてが祝福の隊列に参与するよう努力しなければなりません。

(一九九七年八月七日)

十一、 本然の愛と本然の夫婦の姿

(1) 本然の愛

エデンの園で、アダムとエバが互いに愛するとき、神様が美しく御覧になるように創造されました。だが、人間の堕落により、神様はそのすべての愛を失ってしまわれました。したがって、神様の恨を慰め、喜びを再び取り戻してあげるべき責任が人間にあるのです。本然の愛とは、既に真の愛の主題で論じましたから、ここでは本然の愛の姿を列挙しようと思います。

 ①神様を中心とした夫婦の愛

 ②神様を中心とした子女の愛

 ③神様を中心とした真の愛

神様を中心とした真の愛がすなわち本然の愛です。

(2) 神様の前に出る本然の夫婦の姿

 本然の真の愛をなした者が、天国に来るときは、どのような姿で神様に会うのでしょうか。

 地上で新郎新婦が美しいドレスを着て、結婚式場に入っていくように、この国、霊界に来るのです。神様が迎える新郎新婦は、あまりにも美しく、我々が地上でよく考えるように、天から天使が降りてくるような幻想に浸りながら、善男善女が、美しいメロディーの中できらびやかな光を受け、神様の前に進んでいき、敬礼を捧げます。そして、燦爛たる光の光彩の中で、二人の夫婦が愛するのです。二人の夫婦が愛する姿は、まるで光の世界に一つになり、目がまぶしいほどです。その光の中で神様は、一筋の光のような愛でお包みになり、喜ばれるのです。

 夫婦が一緒に霊界に来るのでなければ、どのように愛するのか分かりません。そこで先に霊界に来ていた妻が夫を迎えて神様の前に出ていきます。これは、季相軒が神様の前に出ていった姿を紹介したのです。「エデンの園でなしたかった神様の本然の愛がこれだったな」という思いがしました。

(一九九七年八月七日)

十二、 相対性原理の基本と本然の夫婦の暮らし

(1) 相対性原理の基本

 本然の愛とは、神様がエデンの園で求めようとなさった愛を言うが、ここで相対性原理と何の関係があるのだろうか。

 相対性原理の基本は、相対のために授け受けしようとすることです。ここで「本然の愛から見た相対性原理」とは、天国理想郷に向かっていく善男善女たちの姿について話そうとするのです。

(2) 相対性原理から見た本然の夫婦の暮らし

 相対性原理から見た本然の夫婦の暮らしとは何か。例えば、夫婦が食卓に座って御飯を食べるとき、妻が夫にすすめたい食べ物があれば、妻の考えと同時にその食べ物が夫の前に置かれます。主体である夫が対象である妻に感謝し、返礼しようとすれば、その考えを妻が予知して笑うのです。

 ところで、地獄で食べ物を分けて食べる姿を見ると、相手の考えを互いが察し得ないのです。まるで労働の現場や監獄などで見るように、おなかが空くと先にたくさん食べようと争うようです。

 天国では、夫婦が考えて、言って、行動すること自体が、互いに眺めてみて、視線さえ見ても分かるのです。与えようとする心を、互いに察するために、まるで磁石に羅針盤がついていくようです。ここには、自分を中心とした利己的な心がありません。

 それゆえ、いつも謙虚な姿勢であり、互いに尊敬する姿勢によって平穏な微笑みを浮かべて暮らしています。本然の愛の恍惚の光の中で、楽しく踊り、互いに授け受けようという心で暮らしていく世界です。地上で本然の愛の理想を夢見ながら、熱心に暮らしていく夫婦愛の中で、神様に合格する人生を生きていくことを願うところです。

(一九九七年八月八日)

第三章 原理から見た霊界の暮らし 1

一、 主体と対象と霊界の法

(1) 主体

 主体が対象に向かって何か与えようとする力の作用は、人間が肉体をもっているとき、現実に現れるようになりますが、これを「原理」では万有原力と表現したところがあります。

 ところで、主体と対象が、互いに授け受けする授受作用の力は万有原力であり、万有原力の根本となった力の主人公が、正に神様です。神様から賦与されるその力は、主体が対象に与える力や、対象が主体に返す根源的な力として作用します。また、自ら発揮するのではなく、原因者である神様から賦与されたものとして、この力によって、私たちは存在しています。

 それゆえ、存在界のすべての根源的な力は、主体と対象が相対基準をなしていくとき発揮する力の作用として存在します。いかなるものでも独自的に、自ら存在するものはありません。生存ということ自体が、主体と対象間に授け受けする力としてなされるのです。それゆえ、天上においても地上においても、すべて存在するための存在の力は、主体と対象間に授け受けする過程の中で現れます。

 ここで霊界から見た主体と対象の力の作用を記録するなら、ここ霊界では、神様が主体になり、我々人間の霊人体は対象の立場に立つようになるとき、人間に命令されるその瞬間の神様の力が、全ての霊人たちに反映するのです。まるで、一つの影のように、一致するようになるのです。

 例えば、神様が、「李相軒!」と言いながら、何かを命令なされば、対象である私には、自ら命令に引かれていく本性が生じてきます。「神様、なぜそうなのですか、よく分かりません、理解ができません」などの疑問が全く生じず、ただそのまま自ら引かれていくようになります。これは、まるで磁石のN極とS極が引かれていく形態と言うべきでしょうか?

 霊人体の授受の回路がこのようになされいくのは、主体の力のゆえであり、対象も同じ姿で引かれていきます。これが本来の根本の授受原理、すなわち根本の力です。

 主体が対象に与える力や、対象が主体に返す力の中で、どちらが強いか弱いかというのが間題ではないのです。互いに同一の力を与えて受けるかということが、より根本の問題です。ここで万有原力の力を、神様から賦与されたなら、我々人間も神様から賦与された姿そのままで生きていくのが、本来のみ旨です。それゆえ、万有原力の根本となる力は、主体と対象が相対基準をなすとき、互いが同一の力によって作用してこそ、円満な授受作用になります。

 例えば、夫婦(主体と対象)、動物(雄と雌)、植物(雄しべと雌しべ)など、すべてが相対基準をなしていくとき、繁殖の力が生じるのですが、ここで互いに相いれなければ、力の作用は起さません。それゆえ、我々人間が存在するのに必要な力の根本となる力の主人公が、神様であられるので、神様を自分の心の中に迎えて生活しようという考えをもつようになれば、主体の力を正しく受けて、対象にも同じ力で反映するようになるのです。

(2) 対象

対象において、主体から受けようとする根本となる力を受けると同時に、返そうとする力が、自ら発光体のように起きなければなりません。これは、主体が神様から受けた根本となる力の主人公として現れるとき、対象も同じ力を受けることができるということです。それゆえ、主体と対象は、独自的に自分が先にとか、相手が先にというのではなく、同一の位置で授け受けるべきです。相対基準の高低を問うことができないのです。

 例えば、夫婦間において。主体と対象が互いに一つになれないときに起きる相反作用は、神様から賦与された根源的な力ではありません。これは惰性から受けたものなので、主体も対象もすべて神様から来る根源的な力を失い、レールから脱線したのと同じです。神様の主管圏内から脱するようになるのです。対象は、主体の根源的な力の作用によって反映するので、主体に向かって返そうとする本然の力から離れてはいけないのです。対象が主体に向かう力から離れようとするとき、対象は対象の力が、授受の回路をなすように、努力しなければならないのです。

 もう一つの例を挙げれば、夫婦は主体と対象の関係ですが、主体が誤ったとき、対象が主体の立場に立つようになります。そうすると、対象と主体の位置が変わるので、そこから本然の立場になるまでには、時間がかかるのです。ですが、対象さえ離れなければ、主体も対象も正しく立つようになります。

(3) 主体と対象が一つになること

 主体と対象が、互いによく授けよく受けてこそ、本然の存在的価値の力を発揮します。しかし、一方が誤って、主体が対象になり、対象が主体になると、本然の位置に移っていくまで 他方が正しく立たなければなりません。もしそうでなければ、神様から賦与された根原的な力は、離れてしまうか、失われてしまいます。それゆえ、主体と対象は、よく授け、よく受けるために、根本となる力の主人公である神様によく仕えることを願わなければならないのです。存在世界は、すべてが主体と対象の力によって生存しているので、主体と対象が一つにならなければ、すべてが破滅するのです。すべてが死の道に至るようになるのです。

 主体と対象は、ただ一つになるために努力しなければなりません。究極的な本然の力を失ったり、惰性に染まりはしないかと、いつも点検しながら、永遠の世界に向かって小川の橋を渡っていくように、一歩ずつ前進してこそ、賢明な暮らしになるのです。

(4) 霊界の法は原則そのまま

 多くの人たちは、神様の根本となる力が、万有原力の力だと思っています。しかし、この力の作用をどのように自分が所有するかは、よく考えていません。地上の人生を生きていく間、本然の力の価値をよく悟らなければなりません。本然のレールの上にいるとき、根本となる力が発揮されるのであって、レールから脱線すれば、本然の力の発光体は反映しません。レールの上を走っていくとき、そのレールをよく見ながら、行かなければなりません。ここの霊界の法は断固たるものです。許しがありません。

 地上では、認めてやったり、愛で大目に見たりもします。親子間であるために、どうすることもできず大目に見る場合もありますが、霊界の法には、親子間でも大目に見る法がないのです。法であるからややこしいのではなく、原則そのままです。

 愛の神様というのに、なぜ大目に見ることができないかという疑いがあるでしょうが、根源である愛の主体であられるために、大目に見るようになれば、株序が破壊されるのです。永遠の世界のために、大目に見ることができないのです。すなわち、子供を愛するためにといって、お許しにならないのです。それゆえ、我々はすべて永遠のために、瞬間をうまく整えなければなりません。

 このように李相軒が言うのは、これから真の御父母様が霊界を整理なさるとき、父母様を助けてさしあげようという、子女の道理を果たすためです。子女ならば、父母様に孝行し、父母様の困難を助けてさしあげる人生を生きるべきではないですか。

(一九九七年七月二十一日)

二、 三対象目的と夫婦完成

(1) 三対象目的

 三対象目的は、我々人間が神様から造られるとき受けた、神様の貴い祝福であり贈り物です。これは、人間が神様の前に出ていくための前提条件として生じた原理です。ところで、人間は堕落によって人間相互間に授け受けする愛と美、夫婦間に授け受けする愛と美の原理が壊れました。したがって、人間の先祖アダム・エバのときから誤った三対象目的を、再び正して立てて、本然の位置に回復しなければならないのです。

 神様を中心として、夫婦が愛と美を授け受けしなければならないのに、サタンを中心として愛と美を授け受けすることによって、本然の授受の回路が壊れたのです。それゆえ、神様は、人間を通じて三対象目的の価値基準を再び回復して、愛の天国理想をなそうとされるのです。

(2) 夫婦の完成

 神様が私たち人間に下さった祝福の中の一つは、子女繁殖です。これは、何らの条件なく与えてまた与えてくださるアガペー的な愛です。その愛が地上の暮らしの中では、うまく体恤されないのです。しかし、涸れることのない地下水の泉のように、無限に与えて、また与えようとなさる愛の大王が、正に神様であられます。

 我々夫婦も、神様の愛に似て、与えて、また与え、ただ与えてくださる神様の愛と一つになるとき、愛と実の価値基準は、神様の前に価値あるものとして捧げられるようになるのです。そのように、神様の愛のとおりに、愛を実践しながら、授受作用をして暮らす夫婦が、地上にどれほどいるでしょうか。

 ここ霊界の天国は、夫婦の愛が神様を中心として、愛と美を授受しながら暮らす、美しい所です。三対象目的の基準を皆で捧げる所です。それゆえ、夫婦の愛には偽りの愛があり得ません。神様を中心として、授け受けする愛なので、最高のもの、最上の愛の価値基準としてお返ししなければなりません。また、夫婦は、地上で生きていく間、三対象目的を中心とした神様の真の愛で、完全に一致する人生を生きなければなりません。そうでなくては、霊界に行っても、愛の天国を所有することはできません。

三、 堕落性と重生

(1) 堕落性

 堕落性とは、神様が本来願われる原理軌道から脱線した心的状態を言います。ところで、どのようにすれば、人間はこの堕落性を脱いで、本来の原理軌道を再び回復することがでさるでしょうか?神様が、我々人間を何の理由も条件もなく愛されるのは、ただ子供であるためです。人間が、本来神様が願われた軌道から脱線したのなら、本来どおりに再び帰ることにより、子供の立場で訪ねていかなければなりません。したがって、本然の立場を取り戻すためには、ある条件がなくてはいけません。

 人間は、神様の子女として造られたが、本軌道から離脱することによって、もう一人の主人に仕えるようになりました。二人の主人に対している人間は、神様が主人となることを完全に悟らなければなりません。すなわち、二人の主人を相手にする立場を清算した後、神様の懐に帰ってきてこそ、完全復帰になるのです。

(2) 重生

 完全復帰とは、それほどやさしいものではありません。既に原理軌道から脱線することにより、神様の子供の立場から離れた人間には、堕落の血が流れているので、その血統を整理しなくてはいけないのです。すなわち、人間は、再び生まれなければなりません。ところで、生まれ変わるためには、重生の価値基準を知らなければなりません。その重生の価値を深く説明するなら、汚れた自分の血統を、完全に聖別したのち、神様の愛を伝授されなければならないのです。再び生まれなければならないということです。

 再び生まれるためには、既に生まれた自分の体が、母の腹中に再び入って出てこなければならないという結論ですが、それこそ蜃気楼のような冗談ではないかと思うかもしれません。しかし、原理的に見るとき、我々人間は、小さい価値の蕩減条件を立てて、神様の前に(再び生まれたという立場で)出ることができます。そのためには、仲保者がいなければならないのです。

 その仲保者が真の御父母様であられます。人間は、真の御父母様を通じないで神様の前に出ていくことができる条件がありません。したがって、堕落性は真の御父母様を通じてのみ脱ぐことができ、人間は真の御父母様を通じて、神的な価値基準の本来の軌道に立って子供として登場することができるのです。

 我々はサタンから堕落性を受けましたが、自分自らの努力によって堕落性を脱ぐということは、誤った考えです。真の御父母様から受けた祝福の価値を悟るようになるとき、はじめて堕落性を脱ぐことが可能になります。それゆえ、祝福の価値基準は、いろいろなみ旨を内包しています。真の父母の価値もまた、驚くべき事実です。そのことを、この国、霊界に来て初めて深く悟るようになるのです。

(一九九七年七月二十八日)

四、 四位基台と真の御父母様

(1) 四位基台

 四位基台とは、神様を中心として主体と対象が一つになり、その基盤の上で子供を繁殖する基盤を言います。神様の創造目的の根本土台の上で、主体と対象のみ旨に合わせて、子女として造られた人間は、神様の愛の圏内でよく成長し、本来願われたみ旨のとおりに、創造理想を成さなければなりません。

 サタン主管圏になった世界が、神の主管圏の世界に完全に復帰されるとき、神様が本来願われた理想世界が成されるのです。神様は、復帰摂理を通じて、天国建設のみ旨を地上になされるために、人間を探してこられました。したがって、地上人間たちが、子女の立場で神様の懐の中にまっすぐに来るようになるとき、神様を中心とした永遠の天上天国の世界がなされるのです。

(2) 天上天下の真の父母様

 神様が成そうとした理想世界は、人間の堕落によりサタン世界に変わりました。そうなることで、復帰歴史の過程は複雑にもつれるようになったのです。復帰歴史は、もつれた歴史の一こま一こまを解いていくことで、神様の主管圏に移っていくようになります。この摂理に結末をつけるための主人が、この地に来られることによって、天国建設は始まるのです。その方が、まさに真の父母であられます。

 真の御父母様から始まった人類の救いの歴史が、歴史発展に貢献したのは絶大です。このような根本のみ旨を立て、地上と霊界に永遠の理想を飾ることができるようになるのです。地上におられる真の御父母様は、地上だけの真の父母ではなく、天上天下の真の父母であられるので、霊界の、永遠の安息の主人、天国理想の主人公になられます。したがって、霊界にいるすべての階層の数多くの霊人たちは、真の御父母様が霊界に来られて成されるようになる理想世界建設を待ち、それを希望として暮らしているのです。ところが、霊級の高い霊たちは、到来する希望の世界を知っていますが、下級にいる霊人たちは、恐ろしいこの刑罰の世界が、どのように変わっていくのか分からないのです。かれらには希望もなく、待つこともありません。ただ、苦痛の連続だけです。

 それゆえ、地上で地獄の行列が多くなれば、霊界が複雑になり、霊界が複雑になれば、真の御父母様が霊界に来られた後の、苦労と苦難の時間が多くなるのです。しかし、条件がなくても与えられる祝福を受けるようになれば、地獄行きは免れます。ですから永遠の世界の建設の先頭に立つ旗手になりましょう。それが孝行の道理を果たす道になるのです。ゆえに四位基台完成は、すなわち天国理想の完成です。天国理想の完成は、真の御父母様の前に孝行することです。

(一九九七年七月三十一日)

五、 天国理想と天国の関門

(1) 天国

 天国は、神様の子女であることを認められた者たちが集まった所です。彼らが天国の主人です。天国の実現は、自分の思いと行動が、ただ自分のためのものではなく、「ために生きる人生」を生きようとする思想を持った者たちによりなされるのです。天国では、どんなことをするのでしょうか。誰かのために、あるいは誰かのゆえに行うのではなく、自らの謙虚な姿で行動する所であり、行動の発露が生じる所なのです。

 天国には、囲いがあるでしょうか。「来い」と言う者がいたり、「行け」という者がいる所ではないのです。誰かが命令する所ではなく、自ら神様の息遣いを知って、行動する所なのです。天国には階層がありません。誰が高いとか、誰が低いなど、目上の人、目下の人が特にないのです。ここは、最高と最低の階層を言うのではありません。最高の位置にいる者も、最低の位置にいる者も、互いに愛する心で一つになっているために、地上のように目上の人に手をもむ目下の人のもの悲しい姿はありません。それゆえ、天国の理想を成した者は、神様の理想を知って行動し、本質的な神様の深いみ旨を悟って暮らしていく者です。また、霊界の法は、大変厳格です。コンピューターの精密さのように検閲は厳しいものです。ですから地上で天国の理想郷を眺めて暮らすことを努力しなければなりません。

(2) 相対性原理と天国理想郷

 相対性原理の理論は、授受作用の原理により説明することができます。授受作用の本来の意味は、よく授けよく受けることだけがすべてではなく、誰を中心として与えて受けるかが根本であることを知るべきです。主体と対象が、互いに自分の位置で、自分の理想だけを追求してはいけません。受受の回路を通じて、根本の力の主人公が追求する理想に向かっていくとき、それがすなわち、神様に向かう天国理想の正しい道案内であることを悟らなければなりません。

 相対性原理の主体的力は、対象に向かうとき生じ、対象の力は主体に向かうとき生じるのです。この二つの力は、神様に向かってまっすぐに進んでいこうとする相対性原理の基本になる力であり、根本の力なので、天国理想郷は、相対性原理が実現された本郷であると言えます。

(3) 天国の関門

 天国に入ってくるまでには、通過すべき門が多いのです。天国は自分が生きていた人生の実を取り入れる倉庫です。ここでは、どれくらいの賞金をもらうことができる袋になるかという、重量を量ってみるのです。すなわち、善と悪の重さを比較してみるのです。

 地上での暮らしが誰のためのものだったか、ということが問われます。すなわち、①神様のための人生だったか、②自分個人のための人生だったか、③どのような国家観や世界観で地上に何を残してきたか、ということが問題となります。また、通過すべさ関門が、あまりにも多いだけではなく、詳細に細部に検査されるようになります。まるで、漢江の水が消毒薬で浄水されて、濾してまた濾して我々の食卓に来るように、天国に入ってくるまで通過すべき関門が多くあります。

 守衡のおじさんのような方が立って、あなたは何番ホームに入るかと聞くのではありません。自分自らが、まるで磁石に引かれていくように、あちこちに通過しながら行くようになるのです。その関門を通過するたびに、自分の犯した罪のために拒否されるとき、その苦痛は本当に形容し難いほどに苦しく、不安であり、恥ずかしいのです。

 通過する所々に階層があります。我々が地上で言うように天国、楽園、地獄に区分するだけではなく、階層が多いのです。では、どのようにすれば、無事に通過して天国に来るのでしょうか。自分の罪のために通過できない階層があるなら、そこで払うべき蕩減の期間が過ぎてこそ、神様の特恵、後孫の功労、祈祷、献金、奉仕などの条件で通過することがでさるのです。真の御父母様が来られて、全体の関門の通過基準が新しく立てられるのを望みながら、霊界人たちは待っています。父母様の仕事が多くならないかと、甚だ恐ろしくなります。

(一九九七年八月七日)

六、 四位基台造成と愛の一体理想

(1) 四位基台造成と二性性相

 四位基台とは、神様を中心とした夫婦が、愛を中心として一つになり、子女を繁殖することですが、それが『原理講論』の主要な核心です。しかし、霊界から見た四位基台造成とは、『原理講論』よりずっと面白く、神秘的なものだと言うことができます。四位基台とは、神様を中心として夫婦が一つになり、子女を繁殖することですが、夫婦が愛するときは、完全に一体となり、主体と対象という区別がありません。完全に一つの体をなすようになるのです。その上に神様の愛が覆ってしまうので、我々の目に確認されるものは、ただきらびやかな光の光彩だけです。美しさそれ自体だけが目に見えるのです。

(2) 愛の-体理想

 では、子女の愛はどのように見えるのでしょうか。夫婦が愛すれば、一体になるように、子女の愛も完全一体になってしまうのです。つまり、子女と父母が完全に愛で一つになります。明らかに、父、母、子女の三人ですが、愛で一つになるときは、三人の姿が個体として見えないのです。父の姿として、母の姿として、子女の姿として現れますが、対話をするときは、再びそれぞれ三人としても見えるのです。

 四位基台を造成するという言葉は、神様を中心として一つになれば、完全な一体の姿になるために、地上のように四つの存在として見えないのです。それゆえ、二性性相として一つになった夫婦は、一つの体をなしたような姿で暮らしていくのです。これが天上の最高基準にある霊人たちの姿です。しかし、主体と対象が一つになれない存在は、決して一体の姿ではありません。神様のきらびやかな光彩も見ることができないのです。天国の関門を通過した者だけが、そのような姿を持つことができるのです。それゆえ、四位基台の根本は、神様を中心として、夫婦という二性性相が愛で一体をなすことなのです。すなわち、四位基台は、神様の究極的な目的であり、神様が力(愛)で運行されうる基盤になり、根本的な力(愛)の基台になるのです。

(一九九七年八月四日)

2014年5月18日日曜日

霊界の実相と地上生活・第二章 霊界で見た暮らしと地上生活 3

九、 愛の根本の意味

 愛とは、文字どおり相手のために精誠と力を尽くす、心の状態を言いますが、愛には肉体的な肉的愛、無形の霊的な愛、信仰によるアガペー的な愛があります。

(1)  肉的愛

 肉的愛とは、男女が性的に結ばれる愛を言います。地上では、肉体が互いに会って愛し合い、ぶつかりながら感性を感じます。しかし、霊界で二人の男女が、どのように愛するかということは、地上ではよく理解できないでしょう。ここ天国で神様に近い高級な人同士でなされる肉的愛は、まるで一枚の絵のようです。二人が互いに愛するとき、二人の体は完全に一体となるので、地上で愛として感じるような感性とは異なり、霊肉共に完全な愛を感じるようになります。それは、無我の境地で有を創造するような、すなわち神秘の世界に接するような感性です。また、互いに愛するその場面を目で見ることもできます。

 地上での夫婦は、主に居間や寝室で愛しあいます。しかし霊界の天国では、明らかにそうではありません。居間でだけ愛するような隠された愛ではありません。広い野原で花が満開の中でも愛し、美しい大地の上でも、砕ける波の上でも愛の行為をします。鳥たちが歌う山の中、森の中でも愛します。それを見る者も、あまりに美しくて酔うようになります。

 地上でのように、見苦しいとか、恥ずかしいというような感情を感じず、美しく感じられ、平穏な心で見るのです。ところが地獄では正反対です。

 愛を隠れて行い、それを見る者たちは、悪口を言います。醜いと指差します。地獄での愛の場面は、地上生活と類似した点がたくさんあるのです。

(2) 霊的愛

 霊的愛とは、体と関係がないから、地上人には該当しないように思うかもしれませんが、地上人に絶対必要な愛です。体があってもなくても、人間には誰でも内なる人があるゆえに、内なる人をよく育てておかなければなりません。そうでなければ霊界に来て夫婦一体の完全な愛をなすのに、問題が多いのです。例えば、夫の内なる人はよく育っており、妻の内なる人は、よく育っていなかった夫婦がいるなら、その家庭には完全な愛がなされません。では、どのようになるのでしょうか。清らかで美しい愛はなされず、互いに愛したいから愛そうという肉的な発露によって愛するようになるのです。そのことを霊界でも感じます。

 それゆえ、こぢんまりとした寝室や場所を定めていきながら、限られた愛をするしかないのです。では、そのような人は、いつ完成した愛をすることができるのでしょうか?

 夫は妻のために、妻は夫のために愛そうとする心が、互いに一つになるとき、次第に完全な愛に成熟していくようになるのです。しかしそれは思うように早くできません。ですから、肉体をもった地上生活において完全な愛の実をよく育てなければならないのです。結論的に、地上生活の短い期間において、永遠の倉庫に貯蔵する完全な愛のために、祝福を受けなければなりません。

 また、夫婦は互いに耕し、磨き、育てて、完全な愛の実を結ぶべきなのです。

(3) アガペー的愛

 父母が子供を愛するのは無条件の愛であるように、神様が我々人間を創造なさるときにも、人間に無限の要素を賦与なさったのです。これはアガペー的な愛です。しかし、人間の堕落と時代的な流れにより、神様が下さった本然の愛の基準が堕落していったので、神様も人間も、地獄という所のために、胸の痛いことが多いのです。それゆえ、神様が下さった根本の愛の価値を知ることによって、地獄が崩れ、地獄解放の通が開かれるようになるのです。

 肉的愛、霊的愛は、夫婦の間においてなさなければならないのです。ところが、このような愛の関係が崩れることによって、人間は根本から揺らぐようになりました。神様が我々人間に与えようとなさった無限の要素が愛です。これは、与えてもまた与えたくなり、与えればいっそう大きくなるものですが、その根本が崩れたことで、今日人間救済の道が難しくなったのです。夫婦観を正しく立てて、互いに譲り合い、愛で一つになることで、人類の解放の道が開かれるようになり、永遠の国に地獄がなくなるようになるのです。

 したがって、人を信頼し、互いに愛しあえば、地獄という所はあり得ず、人類に戦争はあり得ないようになるのです。この根本を誤解して地上の人生を生きたために、霊界がこのように複雑になり、うめく地獄の刑罰が生じたのです。愛を愛らしく育てましょう。夫婦の愛と、神様が下さった根本の本然の愛を、我々がよく育てて、大切に保存しなければならないのです。

(一九九七年六月三十一日)

十、 地上人を通じた霊人たちの活動

(1) 地上人に対する霊人たちの協助

 霊界にいる霊人たちは、地上人の協助なしには、自分たちの位置から発展できません。すなわち、霊人たちは、地上にいるときの自分の人生の基準によって、霊界で永遠に暮らすのです。したがって、霊人たちは、地上にいるとき犯した罪を精算できなければ、霊界で永遠にその刑罰を受けて生きていくようになっています。

 例えば、地上で人を殺した人が霊界に来れば、霊界では恐ろしく、残忍な刑罰があります。すなわち、刃物で人を殺した者は、自分が刃物に刺されており、銃で人を殺した者は、自分の心臓に銃弾が撃ち込まれています。また、石で人を打ち殺した者は、自分に石が当たって目玉が抜け落ちて、血のあざができたままでいます。足で人を踏み殺した者は、自分が足で踏まれて、そのままうつ伏せになっています。また薬で人を殺した者は、自分が血を吐いて倒れており、斧や鎌で人を殺した者は、その凶器が自分の胸にそのまま刺さっているのです。

 霊人たちの中には、地上での自分の人生の姿を隠そうと努力する者もいますが、努力しても、隠されるものでは絶対ないのです。また、霊人たちが、地上生活を清算しようとしても、それもまた、思いどおりに行かないのです。多くの霊人たちは、現在よりもっとよく生きようとしますが、それもまた、願いどおりにはなりません。

 霊人たちは、地上を恋しがり、犯した罪を免れるために、あらゆることをしても、一度入力されたものは消えないのです。霊人たちは、みな一様に、地上で罪を犯したことを隠したり、消すのを願い、人に見られるのを恥ずかしがりますが、それを消して隠そうとしている姿まで見えるから、さらに悲惨です。

(2) 霊人たちはどのように協助するか

 霊人たちは、地上人を通じなければ、現在の自分の位置から解放され、苦痛を免れることはできません。また、犯した罪を脱ぐこともできません。そのために、自分の暮らしていた所に必ず訪ねていくのです。自分の後孫や関係のあった人を訪ねていって、信号を送り続けます。しかし、地上人がそれに気づかないために、家庭に病人が出たり、災難が起きたり、交通事故が起きたり、いろいろな異変が起きるのです。その原因が分かって、後孫たちが彼のために祈ったり、献金したりすれば、その功労の恵沢を受けて、自分のいる所から少し昇進するようになるのです。

 ところで、後孫たちが全く分からなければ、続けて事故が起きて死んだり、また事件が勃発して問題になったりすることが多くなります。それゆえ、信仰的に問題がないのに、大小の事件が連続的に起きる家庭は、間違いなく先祖に複雑な問題があると見るべきであり、祈祷を通じて信仰的に解決するのが、最も早い方法です。

 そのとき、心霊基準が低い占い師が解決しようとしても、霊界にいる霊人は、一時的に慰められるだけで、苦痛は根本的には解決されません。霊魂は慰安され、しばし静かになるが、時間が流れれば同じことです。それが神様を知る者と、知らない者との大きな差です。霊人たちは、地上人の助けなしには、自分の位置でいくら身悶えしても解決点がないために、霊人の苦痛がひどいほど、地上の後孫たちの暮らしは難しくなります。霊人たちは、霊界で地上人の協助を受けるために、いろいろな方法を用いて、地上の後孫たちに訪ねてきますが、地上の後孫たちが解決する方法を知らないために、だんだん家運が傾き、行く道が難しくなるなどの困難が繰り返されるのです。

 地上人の助けで昇進する霊人たちは、現在の自分の位置からもっとましな位置に移っていくので、自分の暮らしが楽になり、地上にいる後孫たちの暮らしもまた平和になります。

(3) 地上人と霊人との関係

 ここで、地上人と霊人との関係を調べてみましょう。

 地上人と霊人の関係は、まるで針と糸の関係のようです。すなわち、地上人と霊人の関係は、心と体の関係と同じです。また、地上人と霊人の関係は、夫婦の間のように、引き離そうとしても、引き離すことができない一体の関係を持っています。ゆえに、地上人は、肉体をもって生きるとき、すなわち、地上生活をする間、正しく暮らすべきなのは、当然の道理です。

 しかし、そのように暮らせなかったことを悟るのは、大抵肉体を既に失ってしまい霊人になってからです。肉体を持って、地上にいるとき、永遠の世界の準備をし、整理しながら、その日その日を正しく暮らすべきだという結論を伝えます。

 既に肉体を失ってしまった霊人のために、地上にいる後孫は、どのようにすべきでしょうか。地上から霊人のために祈ってあげてこそ、霊界にいる先祖の位置がよくなるのです。今日、真の御父母様が我々に氏族的メシヤになれと命令されたのは、大変な特赦です。自分の名によって、自分の先祖たちのために祈って、救い出すことができるということは、大変な恩赦であり、特赦です。それゆえ、先祖たちのために祈り、平安な位置に安着させてあげることで、自分の地上生活が平安になるのです。だから自分の先祖たちの救いは、自分がするのが当然です。真の御父母様が霊界に行かれてなされる苦労を少なくしてさしあげる道であることを心に留め、肉体をもった者として、地上生活をしっかりと締めくくらなければなりません。自分の先祖たちの救いのために、氏族的メシヤの使命をすべきなのは当然です。霊人たちの特赦の道になるのです。

 「霊界人と地上人との関係において、霊界の良い位置にいる、何の困難もない霊人も、地上人の助けや、恵沢や、祈祷が必要ですか?」とリポーターが聞くと、「人間は、霊と肉という二重構造でできているので、肉体を失った者は霊界で、肉体を持った者は地上で生きていくのが原則です。ところで、地上人に信号を送るのは、その理由があるのです。血統という因縁のために、良いことに信号を送ったり、悪いことに送ったりする。地上人は、これを原理的によく分別すべきであり、霊人たちは、地上人たちを混乱させてはいけません。血統の問題は、神様が干渉しない場合が多いので、我々人間は、神様の聖霊によって生まれ変わってこそ、正しい暮らしになるのです」とお答えになりました。

(4) 地上人と霊人との一致点

 地上人は体をもっていますが、思いどおりにできない場合が多いのです。霊人たちは体を失ったが、自分のいる所では自由なのです(自由な所は霊体の位置によって異なります)。地上人は、体をもっていますが、すべてが限定された生活です。しかし、霊人たちは、体はないが、無限の世界で活動します。また、地上人は、体をもっているが、そこが永遠の居所にはなれません。霊人たちは、体はないが、永遠の居所に落ち着いています。このように、地上人と霊人間の対比点をあげれば無限に多いのです。

 ここで地上人と霊人間の一致点を調べてみましょう。

 地上生活や霊人たちの生活は、すべてが片側だけを持っているために、片側だけしかなすことができません。では肉体と霊人の結実は、どのようにすれば完全な実を結ぶことができるでしょうか。地上生活において肉体と霊魂が分離する前に、地上での暮らしをよく締めくくってこそ、完全な実を結ぶようになるのです。

 ところで、霊魂がよく熟さないまま霊界に来るようになれば、問題が生じます。したがって、それを解決するために、先祖と後孫との関係は複雑になるのです。それゆえ、我々の地上の暮らしが、どれほど貴重なものかということを、もう一度肝に銘じなければなりません。

神様が備えてくださった美しい邸宅で、永遠に暮らすためには、肉身を中心とした片側だけの人生を目標として暮らしてはいけません。霊肉間に完全な実を結んで、結実の季節を喜んで迎える地上人の暮らしになるよう願います。

(一九九七年七月七日)

十一、 神様の愛の形態

(1) 真の父母の思想

 私、李相軒は、地上から霊界に来ましたが、真の御父母様の思想を接ぎ木させること以外には関心がありません。なぜなら、真の御父母様の思想以外には、もっと次元の高い思想がないということを悟ったからです。

(2) 愛がある人と愛がない人

 愛とは、人間が生まれるとき、神様から受けた一つの貴い要素です。しかし、これが人間をして、世の中に生まれながらにして二人の主人に仕える要素として作用しているのは残念な事実です。これが、我々人間において、不幸の始まりです。

 愛とは、肉体を通じた夫婦の愛だけをもって言うのではありません。人間には、本来の性稟の中で、生まれるときから持って出てきた高貴な贈り物(エキス)があります。それが愛です。

 ところで、人間は堕落によって、愛の本体を失ってしまいました。その結果、与えてくださった愛の上に、新しくペイントをして新しく造った人造の愛に変わってしまいました。愛とは、神様の性稟の中で最も重要な部分に位置しています。このような神様の愛を、我々人間は、分析することもできず、掘り下げてみることもできません。今、そのような神様の根本的な愛を、この国、霊界に来て、見たとおりに記録しようと思います。

(3) 神様の愛

 神様の愛は、描くことも、触ることも、表現することもできません。そして神様の愛は、我々の目で確認することもできません。神様の愛は、我々人間としては、理解しにくいからです。また神様の愛は、我々人間の頭脳で分析できないのです。

 神様の愛は、我々に無限に与えても、減らず、依然として全く同じです。神様の愛は、まるで蛇口をひねっておけば、水があふれ出てくるように、休まず続けてわき出しているのです。神様の愛は、我々人間が受けて、また受けても、嫌がる者はなく、受けて、また受けても腹いっぱいになった者はなく、もっと空腹な者のようになり、謙遜なります。神様の愛は、かさや重さで測定することができませんが、我々人間にたいして無限の快適な姿で変化しています。

 神様の愛は、全世界(全人類)が受けて、そのすべてを神様にお返しするとしても、神様の愛のかさがもっと大きいのです。では、神様が人間を愛されるその愛の尺度が、どのように表現されるでしょうか。神様は、目に見えも、触れることすらできません。そして、限定的な物体でも、ある個体の塊でも明らかにありません。ところで、人間は、神様の愛をどのように表現し、何で悟るのでしょうか?「李相軒を愛される神様」を分析しょうと思います。

 そのとき「李相軒」と呼ばれた。明らかに、私の耳に声が聞こえました。まばゆく明かるい光が、私の前後に、私の頭の上に放たれて照り返されます。その光の中で、不明の光の筋が私の心をとらえるが、それは表現することができません。私の能力では到底、表現しうるすべがありません。似たように表現するなら、まるで母の胸にうずくまった赤ん坊が、母の心臓の鼓動の音を聞きながら、母の目と視線が合うときにもつ、平穏感とでも言ったらよいでしょうか。これは、到底比喩ができないことですが、そのように言うしかありません。

 また、呼ばれる音声の変化によって、その美しい光彩も変わるが、ただ全身が溶け出すような恍惚感です。突然、瞬間的に、自分一人で立っています。明らかに神様が見えないからです。このように恍惚な光が、どのように瞬間、瞬間、人間に訪ねてこられるか不思議なばかりです。光として現れる神様の愛は、刻一刻異なっていました。大きな火、小さな火、丸々とした火、まるで地上で見た花火の光景のように輝く、燦爛とした光がいろいろな光彩になって、人間に愛の光として現れますが、その光を発する姿によって、感じられてくる感性も異なっていました。私が体験したこと以外に、他の者たちに現れる神様の姿を見ましたが、依然として神様は愛の本体であられました。

(4) 神様の姿は火であり光である

 光が愛の姿であると、何で判断するのでしょうか。神様の姿は、火であり光であるために、神様の光を見れば、人間の心の中に、愛の要素がそのまま作用します。まるで、電気のスイッチを押せば明かりがつくように、神様の光を見れば、愛が作動し、人間の心の中は、愛の塊りで和するようになるのです。

(5) 祝福の関門を広げた理由

 神様が、本来人間に願われる根本的なみ旨は、愛で創造された当時の姿そのものになるということです。しかし、人間の先祖の堕落で、その後孫たちは、初めから本性の愛をもって生まれることができませんでした。二重構造をもった人間、すなわち、二種類の指向性の心をもって生まれた人間なので、出発から誤った人間の構造が、神様の胸を痛めたのです。

 それゆえ、復帰摂理で言う人間の根本復帰と、神様の圏内から離れた二種類の指向性の心をもった人間の問題を解決するためには、再び生まれる重生の過程を経なければなりません。そうして、原罪のない人間の姿で生まれてこそ、本来神様が願われた愛の本体である本性の姿に似ることができ、この国、霊界に来て、神様の完全な愛を体験することができるのです。

 それで、重生の過程を経るには、正に真の御父母様から生まれ変わらなければいけないのです。これが祝福です。最近、祝福の関門を大きく広げて、大きな恵沢を下さる理由が、まさにここにあります。彼らは理解できないとしても、生まれ変わるという手続きを通じて、恵沢を受ければ、この国では祝福を受けた民になるのです。真の御父母様が生きているうちに、多くの民たちに限りない特赦の道を下さるのですが、それを受ける者は天国人となり、重生の過程を経た者となるのです。そのように、理由なく、地上の後孫と先祖が共に福を受ける期間であることを知るべきです。

(6) 愛は神様の最も大きな贈り物

 愛は、人間が世の中に生まれるとき、神様から受けた、神様の最も核心的な重要部分です。人間は、それをそのまま相続すべきものでした。しかし、それが誤ったことで、神様との関係が切れたので、これを回復するための方法は、人間が神様に似なければなりません。神様に似るための最も最善の方法は、神様の子女として、愛の本然の姿に帰らなければならないのです。

 愛、愛、愛、それはすべてに勝ち、すべてを溶かし、すべてをなすことができる根本の力です。愛だけが、人間が神様に受けた最も大きな贈り物であり、子供であるという証です。愛! 失った本然の愛を探すため、苦労して努力しなければならないのです。

 

霊界の実相と地上生活・第二章 霊界で見た暮らしと地上生活 2

五 霊界で見た中間霊界

(1) 中間霊界

 霊界で見た中間霊界は、地上で考えていたのとは違った所でした。地上で功労が多く、国家、世界に対して功績があった人たちの中で、神様に仕えなかったとか、宗教に対して関心がなかった人たちなど、地上で功績はあるが、信仰と関係ない人たちがたくさん集まる所です。

 ここでの暮らしは、天国のようでも、地獄のようでもなく、地上生活と似ていました。食事時間に例えれば、蔚房で働く人、御飯を炊く人、器を洗う人、食べ物を用意する人がいて、みんな共に苦労して、苦労した程度の代価をもらっている所です。

 また、人々の表情を見れば、天国では明るく、地獄では不安な顔ですが、ここではいつも休まずに熱心に働いて忙しい様子です。すべての人が熱心に暮らしながら福を受け、豊かに暮らしていますが、神様と宗教に対して関心さえない所です。

 ここで「統一思想」を講義しましたが、ある人が質問するに、『統一思想』とは、文字どおり思想を統一するということですが、人ごとに持っている思想が統一されれば、個体的な特性といったものがなくなって、まったく同じ人だけが暮らす世の中になりませんか」という、間抜けな質問をしました。ここでは、多くの時間をかけないと、伝道できないような感じがします。

 中間霊界とは、天国でも地獄でもなく、いろいろな階層が多いところです。そして、「統一思想」を理解させるのは難しく、「原理」も神様も理解させにくい所でした。一言で中間霊界といいますが、それは膨大な世界であるために、説明するのは大変です。

 中間霊界では、統一食口と一般人が、特別に区別されています。統一教会の信仰をしてここに来た食口の姿は、躍動感があり、難しい表情が全く見えません。また、平和な姿をしていて、とても熱心に活動します。例えば、ワークショップとか、宴会、ゲーム、和動会等、いつも忙しく楽しくしています。

 統一教会の食口でない他の一般人の姿は、それとはとても違います。彼らが生活する姿には、元気がなく、躍動感がありません。活動する姿は大抵受動的であり、怠惰で、仲間同士が集まって、退屈な顔をして暮らしています。

 ここで中間霊界に関して、統一食口と一般人の差について述べようと思います。

 我々食口たちは、能動的であり、活気に満ちて生活しているのに反して、一般人はそうではありません。なぜ受動的であり、つまらない退屈な顔をして暮らすかというと、彼らには望みとか、希望がないからです。しかし、中間霊界にいる我々統一食口たちは、神様の根本のみ旨を知って、そこで神様の特恵を待って暮らしているために、望みと希望をもっています。

 そのように同じ中間霊界といっても、我々統一食口たちがとどまっている所は、一般人たちがとどまっている所とは違うのです。しかし、気の毒にも、統一霊界圏に行けない食口たちもたくさんいます。その理由は以下のとおりです。

 第一に、祝福されても片方が脱線して、家庭をなせなかった。

 第二に、祝福されてもみ旨と関係なく暮らした。

 第三に、祝福されても軌道を離脱した暮らしだった。

 以上のような例が多いのです。

 彼らは食口といっても、名前だけでしたが、中間霊界に来ています。この食口たちは、神様や真の御父母様、興進様の特恵があるとき、公式的に恵沢を受けることができます。

 ここには食口の代表たちが、時々行って信仰指導や原理講義をしながら、レクリエーションもします。それゆえ、望みがあるのです。そしてまた、神様も興進様も、ここに関心をもっておられる姿をよく見ました。

 したがって、中間霊界とは、一般の人も来ることができ、我々食口たちもいる所ですが、特別に統一食口たちは、まるで特殊学級が別の教室に集まって、特別な指導を受けるように、意外な待遇を受けています。これは驚くべき事実です。

 祝福の意味は、地上に暮らすときはよく分からないでしょう。目に見えないからです。しかし、天の国では、とてつもなく特別な待遇を受ける条件になります。今、祝福の門が広がり、真の御父母様が、わずかな条件であらゆる人に祝福を下さるのは、すべての人に福を与えられるためなのです。その理由は、父母であられるからです。

 真の御父母様の地上生活は、多くの子供たちに福を与えてくださる期間です。それゆえ、我々は周りの人たちの鼻をつかんで引っ張っていってでも、祝福を受けさせなければなりません。それが彼らに福を与える道なのです。

(3) 楽園

 楽園は、天国と地獄の中間地点にある所だとすべての者が考えていました。しかし、ここ霊界で見た楽園は、地上で考えていたのと違っていました。楽園や、中間霊界は、地上で考えているようにきっちりと境界線を引いて説明することはできません。例えば、オーストラリアには、オーストラリア人だけ暮らしているのではないのと同じです。そこでは、いろいろの国の人たちがグループを形成して暮らすように、よく気が合う人たちが集まって暮らしています。

 例えば、コリアタウン、チャイナタウン、ジャパニーズタウンというように、中間霊界においても天国と地獄を除いたすべての霊人たちが、自分の階層、グループを形成しながら、仲間同士で集まって暮らしています。

一九九七年六月一日~七月二十八日)

六、 霊界で見た地上生活

(1) 貢献が多い地上人は霊界でどのように記録されるか

 地上生活とは、人間が霊界に来る前に、自分の人生をどのように生きたかという、生活それ自体がこの霊界に記録されていく過程です。例えば、地上で大統領として貢献をしたとしましょう。その人は、霊界でどのように記録されるでしょうか。

 自分個人のための人生ではなく、国家のために生きたので、その功績がこの国、霊界に記録されます。同時に、細々とした物質の不正、淫乱、誤った思想など、あらゆる記録が、まるで自分の自叙伝のように記録されます。

 このような暮らしの姿が、地上で最後に整理されるとき、霊界のどこに、どのように導かれるのでしょうか?

 神様が、無条件に現れて、「あなたは国の大統領として過ごしたから、どうぞこちらにいらっしゃい。御苦労だった」と言えば、どれほどいいでしょうか。しかし、とんでもありません。国の大統領もこの国に入ってくるときは、警護員の一人もなく来ます。自分の人生の基準の前に立つようになるのです。肉身の生命が終わったのち、少なくとも四十日が過ざてから、完全な霊界人になるのです。

 その人は、四十日間、地上と霊界を往来しながら、自分の居る所を定めます。定めるに際して、神様は介入しません。先祖たちが協助するにはするが、先祖たちも一〇〇パーセント協助できません。まるで風が吹けば、風のなすままに動いていくように、自分の居る所は、自分自ら探していくのです。誰も審判しません。それぞれ審判の位置が違うのです。そして自分の居所に行さ、落ち着けば、誰がさせるのでもないのに、自然に自分の引導者が現れて導くのです。

 霊界の級数によって、審判する雰囲気が違います。国の大統額を務めたために、全く恵沢がないのではありません。国に大きな貢献をしたことは、恵沢の条件になるとしても、自分の存在価値が善の立場に立てなかったなら、全く、断固とした処罰を受けるようになるからです。それが霊界です。

 それゆえ、この国、霊界では、大統領だとか、あるいは、一番下だというような階級的な差が、霊的基準を左右するのではありません。いかに正しく人生を生きたかという道徳的な基準が、その人の価値を評価する所です。

 「霊界では、学力の差による差別待遇はありませんか。地上では、学力のある人と、学力のない人の位置が違いますが、霊界ではどうですか? 学力がなくて末端で働く人たちは劣等意識を持ってはいませんか?」とリポーターが尋ねると、「霊界でも、自分の専攻によって、働く分野が違います。しかし、劣等意識というものは、地上とは違います。自分自身の人生の基準の価値を知らず、誤って暮らしたことが、最も恥ずかしさとして現れるのです。学力水準の差に左右される地上とは全く違います」と答えられました。

(2) 宗教人と非宗教人の差

 信仰をした人と、しなかった人の差は非常に大きいです。そこにも相当な階層があります。信仰をしていて、かつ善なる人は、本当に神様の霊界の恵沢を受けることができますが、信仰をしながら良心的でない人は、信仰をしなかった人と、ほとんど同じです。神様を知らない立場で、人生を生きた人はみな、神様と関係ない所にとどまるようになります。神様が特恵を施すときにも、非宗教人は、恵沢が与えられるのが遅いのです。

 天国にも特恵があるかと思うでしょう。神様が人間に聖霊によっての特恵を与えられ、人間を愛されるように、天国にも特恵があります。階層別に、自分の位置で自由の身となって、願う所へ移っていくときがあります。これは地上人の祈祷とも関係があります。そのときは、神様の命令によって移動するのです。

(3) 統一食口たちの位置は、他の宗教人たちとどのように違うか

 一言でいって、あまりにも大きな違いがあります。すなわち、霊界圏が違うのです。食口たちの各自の人生により、少しずつ違いはありますが、全体としての霊界圏の位置が違うのです。大きな違いというのは、神様に対しての位置のことです。

 神様の対話を感じることも、開くこともできない他の宗教人たちの領域があります。しかし、統一食口たちは、最初から大部分が神様と呼吸することができる位置にいます。ここでもいくつかの階層があります。グループによる差があるのです。申し訳ないことですが、李相軒が見た霊界を明らかにすることで、我々食口が地上の人生を整理することができるだけでなく、ここに正しく来るのに助けになるようなので、申し上げます。それが真の御父母様のための道だと考えるからです。

 三十六家庭の位置は大変なものです。家庭の階級においては最高です。しかしながら、最高の位置において赤裸々に自分の誤りをすべて露わにして生きていく苦しみとは、本当に表現しがたいものです。

 地上にいるとき、女性問題、公金問遺、その他の問題に引っ掛かった家庭は、地獄にいるのではなく、神様のそばにいながら、あらわになった姿で生きていかなくてはなりません。それは言葉で言えない苦しみです。

 例えば、他の女性と性関係を持っている場面が随時、皆の目に見えるのです。また、公金を自分勝手に使いながら、酒場に行って、女と堕落しながらお金をばらまく姿がはっきりと見えるのです。一言で、地獄よりもっと恐ろしい所です。

 その他の家庭が犯した罪も、罪の質によって階層がたくさんあります。しかし、大部分は、神様の近くにある霊界圏にいます。罪を犯した者たちが、集まっている監獄もあります。ここで罪人が集まって、自分の罪を蕩減する方法があれば、どれほどいいでしょうか? しかし、ここでは、自ら解決しうる罪の蕩減方法はないのです。

(4) 神様の特恵

 霊界人は、地上にいる後孫の祈祷、献金、奉仕などの功績を通じて、監獄の門が開かれれば、そこから出てくるようになります。その後、引導者が現れて、自分の位置に合うように導くのです。

 高位の家庭が、神様のそばで自分の罪をすべて蕩減して平安に生きていくときはいつでしょうか?自分が犯した罪を、後孫が蕩減してからのことです。後孫が祈祷して精誠を捧げれば、それを見る霊界人は、苦しくて逃げようとします。ところが、逃げていってもまた帰って来なければならない所が、自分の位置です。

 地上人の祈祷と精誠があれば、蕩減期間が短くなりますが、大部分はそれを知らないために、苦しみを受ける期間が長いのです。

 霊界で苦しみの期間が長ければ、地上の後孫は、知らず知らずのうちに、体の調子が悪くなります。先祖が苦しんでいるので、後孫も具合が悪くなるのです。つまり、先祖が犯した罪のために、後孫が罰を受けるのです。天道に逆らえば、行く道がありません。義の道に従って行くべきです。

(一九九七年六月九日)

七、 霊界人と地上人の生活

(1) 霊界人の暮らし

 霊界人は、地上の生活によって、霊界での自分の暮らしの位置が決定します。一か所に落ち着いていれば、特別な特恵がない限り、千年過ぎてもその位置で暮らすようになります。霊界の位置が平安な位置にいる人たちの後孫たちも平安に暮らしています。しかし、地上で自分の人生が過った人は、霊界に来ても地獄のような不便な所で暮らすようになり、後孫はいつも苦労し、さまざまな問題が生じるのです。

地獄の暮らしのように、霊界で苦痛を受けている人を見れば、その周囲は暗く、監獄のように自由がないのです。食べるものも、着るものもありません。そのような位置にいる者の後孫たちは、彼らの地上生活も開けていきません。そのため占いを見に行ったり、祈祷師を探したりします。そうして、先祖の問題が発見されると、祈って精誠を捧げます。そうすれば霊界にいる先祖が特恵を受けます。霊人は、その位置から移動したり、そこでの待遇が変わったりします。それは誰がそのようにするのでしょうか? それがきょう話そうとする主題です。

 地上では金を使ったり、権力の力も借りたりしますが、霊界にはそれがありません。風が吹き、花が咲さ、鳥が鳴くのは、誰かが命令したものではないように、自分が変わるのも、誰かの命令によるものではありません。自然に、自分が分かってそうするようになっています。霊界の罪人も、後孫たちが精誠を捧げれば、自然に自分が変わっていくことが分かります。

 地上でムーダン(巫女)が踊りを踊りながら先祖を呼び出すのは、その先祖にとって慰めになるだけで、位置を変えることにはなりません。しかし、次元の高い正しい祈祷によって特恵を受ければ、神様の命令によって天国の使者が訪ねてきて、より高い位置へ連れていきます。

(2) 地上人の暮らし

 それゆえ、地上の暮らしがとても重要です。霊界で特別な恵沢を受けて位置が上がっていくということは、時間がかかりすぎます。また無知なので、よく分からないのが常です。ですから、いつも永遠の世界に焦点を合わせて生活し、地上での人生を整理しながら暮らす人が、腎明な人です。

 どうせ来るようになるこの国、誰も避けることができないこの国は、必然的なものなのです。ですから、瞬間を誤って暮らす愚かな信仰者にならないよう願います。

 膨大なこの国の暮らしについては、すべてを表現することはできませんが、一言で要約すれば、自分の人生の実であり、結実です。自分の農作業の収穫です。もっと易しく言えば、罪を犯せば地獄に、善良に生きれば天国に行きます。永遠の世界のために正しく生きなければなりません。

(一九九七年六月十六日)

八、 地上人と霊界人との違う点

 ①  地上人

 まず、地上人について調べてみましょう。地上人は、肉身の目で見て、触って、行動します。地上人は、いつまでという限定された空間の中で、制約を受けて暮らしていきます。例えば、人間は、十年、二十年、六十年等々の期間にわたって暮らします。また、地上人は、自分が願ったとしても、すべてがなされるのではありません。

 地上人は、自分が考えている心を相手に正確に表すことがでさません。

 地上人は、食べたいけれど、自分が動かなければ、食べることがでさません。

 そして、地上人は、空間の中で行動するが、自分の理想の世界を描くとき、考えだけで終わります。

 また、地上人は、肉体的な苦痛を受けるとき、それを解決する方法について、よく分からないのです。例えば、信仰者は、祈祷などの方法で解決しようとする人もいますが、非信仰者は、病院に行って解決しようとします。

 ②  霊界人

 しかし、霊界人は違います。霊界人は、肉体的な制約がないために、自分の活動範囲が無限です。例えば、見るとか、触るとか、行動するということは、考えると同時に起こるために、時間がかからないのです。

 霊界人は、手を挙げて品物を移すとき、考えると同時になされるので、時間が短縮され、誰かの力を借りなくてもなされます。

 霊界人は、自分の思いが、考えようとしたとたんに相手に伝達されるので、特別な言語の表現は必要ありません。

 霊界人は、自分の論理展開が大変正確で明確だと感じられるとき、その伝達事項の正否によって、それが相手の顔にすぐに現れます。したがって、相手の気分の表現を自らが悟るようになるので、自分の事情も早く表現することができます。

 霊界人は、最初から人間は神様の被造物であるということをみな知っているために、神様の心を傷つけることはありません(これが天国人と地獄人の差です)。

 霊界人は、自分の分野で熱心に働けば、その場で最高の権威者になるとか、ある賞金が下りるとかいうことに対する欲望がないために、いつも平穏な顔をしています(この点は、天国と地獄との間に差があります)。

 すなわち、霊界人は、衣食住の問題の解決のために悩まされることがないために、顔の表情がいつも穏和で謙虚です。

 結論的に、地上人と霊界人の違う点を要約すれば、地上人は限定された空間の中で、限定された時間の制約を受けて暮らしていきます。すなわち、衣食住の問題を解決するために、忙しく活動するので、生さるのが大変で、苦しいが、霊界人は、制約する物がないために、無限に自由です。衣食住の問題のために、神経を使うことがないので、無限に明るく謙虚です。これは自分の肉身生活の結果が、天国人として結実した際に当てはまることです。

(1) 霊界で見た相対性原理

 『原理講論』や「統一思想」で論じられている相対性原理とは、相対が互いに授け受けすることにより授受作用し、合性一体化するとき、それを通じて喜びを受けることが、すなわち神様の創造原理の根本です。それについて霊界で見たものと、地上で見たものの違う点を話そうと思います。

 地上では、主体と対象が授受作用を通じて合性一体化すれば、一つになるので喜びます。ところが霊界では、授受作用を通じて合性一体化するとき、一つになって喜びを感じることが、地上とは少し違います。例えば、相手に与えて、相手が受け入れるのに、時間的に与えて受けるのではなく、考えとともにすぐに合性一体化するから、外見から見るときは、授受作用するように見えないのです。このような相対性原理による合性一体化は、完成した個体が集まった天国で起きることです。

(2) 霊界で見た授受作用

 授受作用の根本理論とは、互いがよく授けよく受けて、相対と愛で一つになることを願うことです。それが天国をなす根本です。

 天国における授受作用とは、文字どおり完全に一つになり、互いを眺めてみるだけでも授受作用になります。しかし地獄やそれ以外の所では、それぞれの階層によって、授受作用の差が大きいのです。

 それゆえ天国は、創造原理の根本理論である相対性原理から見れば、神様の創造目的の根本をなしている所です。それに対して地獄は、神様の根本理論を全く理解できないところなのです。したがって地獄に行って相対性原理一つだけでも伝道するのは、とても重要な課題です。地獄解放の問題は授受作用をよくなしていけば、なされるのです。この点は、地上と同じ点が多いと思います。 

(3) 地上生活と霊界生活との密接な関係

 地上での自分の人生の姿が霊界においてどのように整理されるのでしょうか?

 地上で善と悪の生活の基準によって、霊界において自分が行くべさ永遠の位置が定められます。地上生活の人生において、どのように誰を中心として生きたかによって、永遠の世界における神側、サタン側、無神論者の位置が決定されます。

 地上では個人の功労、国家観、世界観によって基準の差がありますが、永遠の世界では、国家観、世界観より、もっと重要なことが、個人の人格形成です。地上のように、自分がより高い位置で働いたために、高い位置に行くという考えは間違っています。

 それゆえ、地上生活での最も充実した甲斐のある人生とは、神様を中心として暮らすことです。個人の欲を捨て、ために生きる人生を目標にして暮らせば、永遠の世界に来て、頭を上げることができるようになります。

(4) 質問と答え

 ①娘の質問

 質問:生前に一度もよく仕えられなかった親不孝に対し、どのようにすればいいですか?

 答え:自分の位置で誠実に暮らしてくれることを願う。

 質問:子供たちに、一言お願いします。

 答え:つまらない説明をしたくない。父母が歩んできた道が正しいと思えば従って来なさい。

 ②リポーターの息子の質問

 質問:ミスコリアの顔と、不細工な顔が霊界に行けば、どのようになりますか?

 答え:地上でのきれいな額は、もちろんここでもきれいです。しかし、不細工な顔も、神様の光の中で、心の表現が顔に現れるので、無限に美しいのです。地獄に行った美人の顔と、天国に行った不細工な顔では、比較になりません。顔は地上でのように、丸い人は丸く、長い人は長いというように変わりはないが、地上の暮らしによって、霊界に来れば顔つきが変わるので、心を磨いて天国に来ようとする者が知恵深い人です。

 質問:大胆であったり小心な人が、霊界に行けばどのようになりますか?

 答え:大胆、小心は、神様の前に別に重要ではありません。大胆、小心に関係なく地上で天国に来るために努力しなさい。

 ③リポーターの質問

 質問:原稿に記録して呼んでくださいますか、考えながら呼んでくださいますか?

 答え:みな説明するということは、複雑で大変です。私が考えたらすぐに記録になって現れます。考えが正に記録されると見ればいいです。

(一九九七年六月二十三日)

 

霊界の実相と地上生活・第二章 霊界で見た暮らしと地上生活 1


一、 李相軒院長の昇華式場において

 私が李相軒です。私が李相軒です。「誰か」と聞かないでください。気分が悪いです。私が地上にいるとき、よく来てくれることを願いました。しかし、互いに難しかったでしょう。奥様!私が地上で果たせなかったことを、奥様を通して繰り広げようと思います。資格がないと言わないでください。

 「統一思想」は、お父様が我々に下さった救いの思想ですが、人々が理性をもって判断しようとします。考えが足りません。私の人生が「統一思想」を理解させようと苦労し、考えて努力してきたものだったのに、十分に果たせずに来ました。地上で早くできなかったので、霊界でいちいち私が調べて、もっと体系的に奥様にお伝えするので、地上で知らせてください。

 奥様! 地上にいるとき、あまりにも骨を折らせたことを私は知っています。だから今、私が天上で、鄭虎雄(チョン・ホウン)牧師の家庭を中心として、心から協助します。待ってください。神様は私の地上生活四十日は、必要ないと言われますが、私なりに、地上と天上を熱心に通いながら、体系化して連絡いたします。私の妻も、言いたいことがたくさんあるようですが……。

 奥様! 当分の間、少し苦しくても許してください。私が四十日間整理して、また来ます。オーストラリアに行かれるといっても、私は行くことができます。また来ます。ありがとうございます。

 今日、昇華式で皆が私の生涯の人生に、あまりにも身に余るお言葉を下さり、本当にありがとうございます。

(一九九七年三月二十四日)
 
二、 家族たちと自宅での追悼礼拝

(1) 父から愛する子供たちへ

 おまえたちがみな集まった場で直接に話したいことはたくさんあるが、時間がないので文章で父と母の便りを伝えようと思う。

 愛する子供たちよ!

 おまえたちが見ることができない国、一言で要約すれば、

 「地上の暮らしは何でもなかったな。
 何でもなかったな。
 何でもないのに……

 神様-、神様-!」

  これが天国の知らせだ。あまりに膨大で、表現し得る方法、表現能力が、この父にはない。神様は、見えない。この国でも、神様は見えない。

 しかし、あの太陽の光より、もつと明るいこの燦爛たる光、恍惚の光は、人間の頭脳、知性、理性では、表現する方法がない。

 それ以外は、光彩の中で赤裸々な私の人生が、神様の前にそのまま現れるので……。
まるで赤ん坊がお母さんの乳首をくわえて、お母さんと共にしている安堵感、平安感、幸福感というか。この中では、鍛冶屋が鉄を溶かし出すような……。愛の溶鉱炉と言えば表現にあたるだろうか?…。

  おお! 神様。どうしてこの世界が、我々の前にあったのですか。受け止めきれない、ほのかな香り、どこからか流れ出るのか分からない、美しいメロディー……。

  子供たちよ! この父が夜を明かして記録しても、表現することができない。これからおまえたちは、どんな人生を生きるのか、一度聞いてみよう。地上でどれほど生きるか、地上での暮らしの焦点をどこに置いて暮らすか、各自に聞いてみたい。

  父として、親として、頼みたいことがある。父が残した統一思想を見て、文鮮明先生が書かれた「原理」の本を精読して決定しなさい。皆読んだ後、それよりもっと大きな経典や先生の教えがあるなら、その道に行きなさい。

 しかし、それよりもっと大きな思想がないと思うなら、渾身の力を尽くして、み旨のために働きなさい。それ以上の頼みはない。

 その日、昇華式に参席した多くの方たちが、父に対して身に余る表現をたくさんした。子供たちとして、謙遜に受けてくれることを願うところだ。

 これから、この膨大な霊界の様子、論理的に体系的に整理して、この奥様が伝えるだろう。私がここに来た以上、気がかりであった無形世界のことを教授社会に綿密に知らせる。おまえたちも、この奥様こ協助しなさい。これからあなたたちが知りたがっていた事実を、また知らせよう。どのように生きるかを研究しなさい。おまえたちが執着している世界は、何でもない瞬間の世界であることを肝に銘じなさい。

父より

(2) 母から愛する子供たちへ

 会いたい子供たち! お父さんの話を一〇〇パーセント耳に留めて聞くようにお願いします。母として子供たちに願いたい内容は、兄弟同士しょっちゅう往来し、むつまじく過ごし、いつも周囲を振り返ってほしいということです。

 真の御父母様を研究するようにお願いします。この貴い知らせを伝え聞くことができるから、おまえたちはどれほビ幸せでしょうか。母として限りなく感謝するばかりです。

母より

(3) 李相軒先生に下さった神様のみ言
 ①李相軒、神の懐に来たことを祝う。
 ②「天国人」と言われる。
 ③李相軒は霊界人なのか地上人なのか、区別もなく歩き回っている。研究しようと無我夢中だ。

(一九九七年三月二十八日)

三、 霊界の姿と生活

 奥様、私は李相軒です。私を李相軒でないのではないか疑う瞬間に、とても自尊心が傷つきます。神様が認められるなら、信じて聞いてくださるとありがたいです。

(1) 霊界の姿

 霊界は目に見える現象世界とそっくりのようですが、霊界のその膨大な規模は、地上とは比較になりません。例えば、現象世界の自動車の姿は、限定されているが、霊界の自動車は、一台がいろいろな姿に変わります。前に行ってから後ろに行き、後ろに行ってから再び回ったりもします。回ったと思うと……。

 車が瞬間的に山を貫いたりもし、車を運転する運転手の思いどおりに車が動さます。まるで子供たちが見る空想映画や、神秘の宇宙世界の姿のような動さです。

「交通事故が起きないでしょうか」とリポーターが聞くと、「無秩序なようだが、徹底して法度を守る世界であるために交通事故はない」と語られました。

(2) 霊界の生活

 地上で暮らす人たちが、朝に起きて夜に寝るように、霊界生活においても、起きたり寝たりします。しかし、朝に起きて、夜に寝るというのではなく、朝も夜も考えによって変わるようになります。

 霊界を、地獄、天国、楽園という名を誰がつけたのか分かりませんが、本当に地獄、天国、楽園の生活の差はとてつもないものです。例えば、地獄にはこの世では見物することができない光景があります。

 女が下半身も隠さないまま裸体で立っていると一人の男がその女の下半身に触ります。すると別の女が、その男の下半身を触って、自分のものだと言いながらけんかするのです(雑多な者の集まり)。それでも恥ずかしい様子がなく、悠然と悪に染まつている姿です。

 下駄を履いた日本の女が走っていて転ぶと、他の女がその下駄を自分のものにしようとして隠します。下駄をなくした女が探していると、下駄を隠した女は、「知らない」と叫びます。すると周囲の人たちは「あの女が泥棒だ」と指さしながら、皆が走り寄って、ぶんなぐるのが常です。

 指をけがした老人が、手が不自由で食べ物をつかめないでいると、周囲の若者が、器ごと奪っていって、自分の口に放り込むような生活が行われる所です。

 髪を剃られた若い女が、髪の毛がないのを恥じて手拭いで頭を隠していると、人が通り過ぎるたびに、その手拭いをはぎ取って、手を拭いたり顔を拭いたりします。

 女が手拭いを奪われてから、取り返してまたかぶると、今度ははさみで切って半分は持っていき、半分だけ頭に投げ掛けてやるのです。そうすると、その女は、耽ずかしい姿を隠すことができず、絶えず暗い所を探していくのです。

(一九九七年五月二十三日)

四、 霊界で見た天国と地獄

(1) 天国は思いと行動が一つになる所

 天国という名詞がどこから出てきたのか、私は知らないが、すべてが天国とかエデンとかいう文字を書いている。天国(エデン)とは、思いと行動が正に一つになる所です。      
 例えば「今日、何かを食べたい」と考えれば、考えると同時に、自分の前に豪華な御馳走が準備されているのです。また「きょうは誰かと一緒に、どこかに行かなければならない」と考えれば、既にそこに行っているのです。「服を着ないで、人が裸になって歩けばどうか」と思うと、本当に素っ裸になった自分になってしまい、ひとしきり笑いました。

「目の見えない人と、日の見える人が、共に天国に来たら、見えない人と見える人との差はどうか」と考えたら、おじいさんと子供が私の前に立っていました。子供は盲人で、おじいさんは目のよく見える人だったが「天国にも盲人がいますか?」と聞くと、子供が「地上にいるときは盲人だったのですが、天国には盲人という表現もないばかりでなく、見えないものがありません。すべて見ることができます」と答えました。「おじいさんは見えるはずなのに、なぜここに来られたか」と言うと、「目で見ることができるものと、心で見ることができるものがある。」と答えながら、「目は見える物体だけ見るが、心で見るものは、その人に今現れないとしても、それはもっと明かるく見える」という難しい答えをしました。

 天国には、宝石よりもっと明かるい光がいつも周囲にあります。その明かるい光のために、お互い困難を覆うことができず、互いが読みとるようになるから、目と心によってすべてが分かるようになる所です。天国は光で表現するなら、輝く金髪、光り輝く恍惚の金の光とでも言えるかもしれません。いつも心が平和である所です。言葉では表現できなくて、説明することの難しい所が、まさに天国です。

(2) 地獄は天国から想像することができない所

 地獄は、お腹が空いて、つらさ、ねたみ、嫉妬、不便なものがあまりにも多い所です。いつもつらいから、けんかしかすることがないのです。すべて不便です。

 例えば、天国は安心して歩く自由があるが、地獄は自分の思いどおりになるものが一つもない所です。思いどおりにならないから、人のものを奪って来て、盗み食いします。

 地獄とは、人間の世の中で考えるより、ずっと想像しにくい所です。

(3) 相軒よ! それが愛である

 地上でお父様が愛の話を出されると、いつも「凸と凹」に関するみ言を語られたので、愛といえば「凸と凹」を考えるようになりましたが、愛というこの言葉が、いかにとてつもないものかということを知りました。

 神様の愛というものは、膨大に広がっています。経験したことを書いてみると、次のようです。

「相軒よ」と呼ばれるその声に、すべてが溶け出すような愛の感性を感じるのです。それは、どんな凶悪犯も、許すしかない感性をもたせるものです。愛の体臭や香りが、すべてを忘れさせる平安感、暖かさ、安堵感の音声を感じます。一言で「愛」という単語自体がふさわしくないのです。もう少し良い、もっと柔らかい言葉がないかという感じをもつようになります。

 歩むとき、言葉を話すとき、服を着るとき、「愛」という言葉自体に納得できず、考えて、また考えて、「愛」より愛をもっと濃く美しく表現する文句がないかと考えると、神様がおっしやるには、「相軒よ! それが愛だよ」と言われました。

「愛」という言葉一つだけ完璧に意味が分かるなら、地上には争いも苦難もなくなるはずです。「愛」という言葉は、それを完璧に解釈する者がいません。それが「愛」です。

(4) 天国と地獄の槻念

 天国とは、愛で一つになったまま、調和しながら暮らしていくから、あらゆる心配や気がかりがありえない所です。

 地獄とは、愛を忘れたまま、それが何か、わからない世界で暮らしていくから、争いながら、心配、気がかり、不平、不満に囲まれて、ぐるぐる回っています。

 要約すれば、天国は愛の至聖所であり、地獄は愛に背を向けた所です。易しく言えば、天国は愛しかなく、地獄は愛という言葉が芽も出さない所です。それゆえ、地獄の解放は、愛の芽を出して、愛の実を結んでこそ可能なのです。(きょうは興奮なさらずに統一思想研究院でお目にかかるときのように、落ち着いて静かに語られた。)

(一九九七年六月一日)

霊界の実相と地上生活・第一章 真のご父母様に捧げる文


一、 真の御父母様

   「父母様、小生の手紙をお受けになり、慰められますように」と祈られて、語り始められた。

 父母様、これまで玉体御健勝であられましたでしょうか。小生、相軒が涙で親不孝のお許しを願います。御苦労なさる父母様の前で、先にここに来るようになり、申し訳なさを禁じえないのでございます。

 これまで三百六十万双国際合同祝福式を完遂なさるために、連続する御苦労、この子はよく存じております。ここ天上でも、階層ごとに食口の幹部たちが回りながら、皆が大変努力しております。地で苦労しておられるので、ここ天上は私たちが整理して伝道しょうと努力しますが、根本は父母様が来られてこそ、まとめられるようでございます。御苦労なことを再び負わせてしまうようで、申し訳なく思うのでございます。

 天上の祝福式は、お父様がなさるべきことですが、多くの人たちが待機しており、期待しております。私どもは、地獄の門が開かれて、解放の喊声がわき起こるであろうと講義して回っています。私どもが最善を尽くして活動したと言いますが、お父様の前には何でもなく、ただお父様の御苦労を少しながら軽くしてさしあげるためでございます。

 お父様!小生が地上にいるとき、地上人たちが霊界の事実について質問すれば、口がふさがりました。学術セミナーのたびに、霊界について質問する人たちがいましたが、明快に答えられなかったのです。また、私自ら解くことができなかった謎のような問題が、霊界の事実でした。そしてついに地上で霊界論を整理できず、ここに来るようになったのです。

 それで、小生がこの国に来て、霊界の事実を詳しく整理して、地上に送ろうとするのは、第一に、地上に生きているすべての知性人たちの気がかりを解いてあげたいからであり、第二に、食口たちの地上の暮らしを助けたいからであり、第三に、父母様の困難を少しながら助けてさしあげたかったからでございます。先に来た罪責感のためでもあるのでございます。

 お父様!これまで、この小生が無我夢中で霊界を回りました。あちらこちらをくまなく探し、把握しょうと努力いたしました。今、私の努力を尽くして把握した内容を、地上にお送りしますので、誤った部分があれば、しかってくださいませ。

 これは、霊界の事実を明らかにすることで、食口たちに助けになることを願う心のためでございます。

 また、父母様が天上に来られれば、霊界を整理なさるのに、あまりに御苦労なことと存じ、地上人たちが罪を犯さずに来ることを願う心のためでございます。

 そして、神様がおかわいそうだからでございます。

 お父様!この幸福な所にお送りくださり、心から感謝申し上げます。親不孝な子に下賜された、「福人」という称号、実におそれ多いことでございます。許してくださった、私の地上の人生を、今整理しましたので、永遠の国であるここ天上で、熱心に地獄解放のために奮闘努力いたします。

 お父様、お母様!私たち夫婦、父母様の恩寵で良い所で楽に過ごすことをお許し願い、敬礼をお捧げいたします。長生きしてくださいませ。

 一九九七年八月二十一日
相軒拝

二、 愛する食口たちへ

 愛する食口たちに捧げます。

 愛する食口の皆様。どんな言葉をまず書くべさか……。誰も避けることのできないここ、誰もが行くしかない天道のこの道……。天上に来てみると、食口の皆様があまりにも思い出されます。どのようにすれば、天法に引っ掛からずに無事に通過して、皆神様の所に真っ直ぐに来ることができるか、と腐心しています。

 霊界の法に一度引っかかれば、容易に解くことができず、この永遠の国に来て、また苦労するようになります。食口の皆様、これまでどれほど御苦労が多かったでしょうか? 永遠の世界であるここ天上に来られたのちには、苦労から脱すべきでしょう。永遠の暮らしのために、瞬間の苦労を避けないでほしいとお願いしたいのです。良く生きなければなりません。誤って生きれば後孫が代わりに蕩減しなければならず、父母様が霊界を整理なさるとき、また胸の痛い事情をつくるようになります。

 愛する食口の皆様!

 私は李相軒です。「統一思想」を確立した李相軒です。私なりに熱心に霊界を観察したことを要約して、食口たちにお知らせいたします。よく読まれて、地上の暮らしをよく生きられるよう願います。そうして、神様の痛い傷をいやしてさしあげ、父母様が長生きされることを祈ってさしあげましょう。

 一句一句を皆がよく読まれるよう願います。その日その日の暮らしをチェックして生きていかなければなりません。これは先に来た食口として、助けをするためです。食口の皆様、すべての安寧を祈ります。

 

 一九九七年八月二十一日

             相軒拝