2013年4月25日木曜日

 真なる子女の道  一 真の人間観 より



第一節 本然の人間と真の人生の道
P.15
一 真の人間観

 神と人間にとって最も貴いもの
 神様は、エデンの園にアダムとエバをつくられましたが、神様にとって最も貴いものは何かというと、人間なのです。このように神様が人間を最も貴く思うその理由は何かというと、神様は愛の対象を必要とされるので人間を最も貴く思うのです。
 神様がどんなに愛を持っていても、愛することのできる対象がいなければ、愛を感じることはできないのです。愛は相対的関係においてのみ感じるのです。ですから、神様が人間を最も貴く思うのは、愛することのできる対象の位置、愛の対象の位置に人間が立っているからなのです。神様が最も貴く思うのは、人間以外にいないのです。
 それでは、その人間が最も貴く感じ、貴く思うことのできるものとは何でしょうか? それは、神様の愛を最も貴く思うというのです。人間は今まで、それが分からなかったのです。ですから、神様には人間の相対的愛が、人間には神様の主体的愛が最も貴いのです。(一九八六・三・二一)




 人間存在の起源と目的

P.16 
神様はなぜ人間をつくられたのかというと、愛を成就するためです。愛は神様から始まるのではありません。相対から探し出されるものなのです。愛は、相対がいなければ探し出せないのです。

 ですから、神様が最高に貴い愛を成就するためには、相対が必要なのです。神様も相対がいなければならなかったのです。それで、相対をつくられたのです。相対を通してのみ絶対的な愛を得ることができるので、神様ご自身も相対を探すのです。そして神様も、愛のために生きようとされるのです。神様も、愛のために存在するのです。このように、愛とは驚くべきものなのです。
 神様は、人間のために存在し、人間も神様のために存在するのです。ですから、真の愛というものは、「為に生きる」というところから始まるのです。本来、人間はどこから生まれてきたのでしょうか? それは、神様の愛から生まれたのです。愛のゆえに生まれたのです。愛が起源なのです。
 私たち人間が受け継いだ生命が貴いのではありません。神様の愛の理念を通して生命が生じたのです。生命よりも愛が先なのです。愛が根を張ったので、私たちの生命が生まれてきたのです。ですから、人間は愛によって生まれ、愛によって育ち、愛の相対に出会わなければならないのです。神様が一代目であるとすれば、人間は二代目ということになるのです。神様が自らの息子娘を愛するように、その愛を体恤することのできる立場に立たなければ、神様の前に完全な愛の対象になることはできないのです。(一九八六・三・二一)



 神が人間をつくられた理由

P.17
 神様がアダムとエバをつくられた目的はどこにあるのでしょうか? 人間の形状を見てご覧なさい。まず体を持っていますね。しかし、無形なる神様には体がありません。体を持っていなければ、霊界や地上世界を治めることはできないのです。ですから、神様が人間の父母として現れるためには、体を持っていなければならないのです。その体をまとって来る代表が誰かというと、アダムとエバだったのです。堕落しなかったアダムとエバの体を持って現れるのです。ですから、アダムとエバは人類の始祖であると同時に、天地を主宰する神様の実体となるのです。実体を持った神様、すなわち、永遠なる無形世界の神様の形状の代身者として、父母の立場で世界を統治する責任者がアダムとエバであったというのです。

 それでは、神様はどうしてアダムとエバをつくられたのでしょうか? 神様は実体世界をつくられた以上、実体世界の中心のアダムとエバの形状でもって、霊界と肉界を連結させようとしたのです。そういう意味で、神様はアダムとエバをつくられたのです。
 それで、霊界と肉界は何を中心としているのかというと、霊界の代表は神様であり、地上の代表はアダムとエバなのですが、これが連結されなければならないのです。ですからアダムが生きている間、彼の持つ形態は地上の国の王様なのです。分かりますか? 永遠なる王様なのです。そのように永遠なる王権を持って現れたのです。それで、エバが誰かというと、王妃なのです。永遠なる王妃権を代表した王妃として登場するのです。そして、永遠なる王権を代表した夫婦となって、霊界に行って神様の代身としての役割をするのです。
 それでは、神の国に、無形なる神様がひとりぼっちでいたとして何をするのでしょうか? 見えない神様では、何の役にも立たないというのです。人間の父母となるには、体を通して感じることができなければなりません。このように、人間と同じ体を持たなければならないので、神様はやむなくアダムとエバを二重的存在としてつくらざるをえなかったというのです。
 では、なぜ二重構造で人間をつくらざるをえなかったのかというと、無形なる神様と全く同じになろうとすれば、霊界に行くまでの一生の間に、心と体が一つになったという基準を立てなければならないのです。それができないまま霊界に行ったとすれば、その形状は、神様と一つになれないのです。実体的王権を持つ父母(アダム・エバ)が無形の父母である神様と一体になって、永遠なる天上世界で実体的王権を顕現させるために、アダムとエバを二重構造でつくられたというのです。
 神様も、アダムとエバに連結されなくては、地上との関係を結ぶ道がないのです。アダムとエバとの関係を結ぶことにおいてのみ、アダムとエバの息子娘とも関係を結ぶことができるのです。これは、自然に結ばれるようになっているのです。
 神様が人間をつくられた理由は、同じ父母の位置に立てるためだったのです。神様が体を得るためなのです。父母というのは、内外の父母を意味します。ですから外的な父母がアダムとエバであり、神様は内的な父母ということなのです。神様の体がアダムとエバであり、神様の心が私たちのいう神様なのです。その神様が、人類の父母なのです。本来の父母なのです。そして、その神様は、何人もいるのではありません。おひとりのみなのです。おひとりのみであるので、その方が入ることのできるアダムとエバを、二性性相を持つ分聖殿として立てておいて、神様はそこに入っていかれるのです。神様が入って作用すれば、アダムとエバは理想的作用ができるのです。神様が作用しなければ、神様のみ旨も何も分からなくなってしまうのです。
 そうしなければ、神様は人間との関係を結ぶ基盤を持つことができないのです。そのような本来の基盤が壊れてしまったので、神様が人間との関係を結ぶことが不可能になってしまったという結論が出てくるのです。ですから、どんなにこの地上に数多くの人間がいたとしても、神様とは関係のない存在になってしまったのです。


 人間の特権と価値
P.19
 神様は、愛のゆえに人間をつくられました。人間が万物と違う点は、神様の息子娘としてつくられたことです。人間は神様の直系の愛を受け得る対象としてつくられたということなのです。これが人間の特権なのです。

 人間は、神様の愛に対していかなる立場かというと、神様の愛の対象存在としてつくられたのです。神様は二性性相であり、プラス・マイナスという二性性相の主体となっているがゆえに、その主体の前に対象となるプラス・マイナスという形態を持つ物体が必要となるのです。そして、その形態は、主体の性稟に反対する形態であってはならないのです。主体のすべての性稟に対する相対性を備え持ち、愛という本質に必ずぴったりと合うことのできる、相対的形態でなければなりません。
 その相対的存在の人間は、神様と何で合うのかというと、愛以外のものでは合わないのです。愛にのみ、合うようになっているのです。神様には何の知識も、他の何ものも必要ないのです。ただ愛のみが必要なのです。ですから、愛にのみ合うようにできているのです。
 人間がこの宇宙の中心であり、被造世界の中心だというのは、神様が愛の理想を成すために、被造世界をつくられたからであり、愛なる神様の前に一番最初に中心の位置に立って愛を受け得る特権を持っているので、「人間は万物の霊長である」という言葉が成立するのです。霊長という言葉は、神様の相対的愛の圏内を除いてはありえないのです。万物と同じになってしまうのです。人間特有の価値は愛の特権を持つことであり、また、全被造世界を代表して、神様の前に一番最初に相対的立場に立って、この宇宙を支配できることです。そういう愛の因縁の位置に同参できる権威を持っているということなのです。それゆえ、人間は万物の何だというのですか? (霊長です)。ですから人間は、愛を除けばすべてを失ってしまうのです。(一九八四・七・一○)











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