2014年5月28日水曜日

「宇宙の根本を探して」

「宇宙の根本を探して」
文鮮明師 講演文
(96.08.01 世界平和家庭連合創設会議 閉会晩餐会 ワシントン・シェラトンホテル)

 尊敬するご来賓の皆様、そして紳士淑女の皆様!

 冷戦の終息とともに、平和と社会正義に対する新しい希望が急速度に地球全体に拡大しています。新しい世界的な現実を無視したり、直視することのできない指導者たちは、津波のように押し寄せる変化に押し流されてしまうことでしょう。

 今、私たちは新しい世紀への入り口に立ち、伝統的な思考方式を再検討し、新しい機会と価値観を受け入れるために、果敢に進んでいくべき時であると信じます。そのような意味で、私はきょう、生涯をかけて主唱してきた「世界平和の実現と真の家庭の価値」についてお話をすることができますことを大変な光栄に存じます。

 この世界には、男性と女性という二性が暮らしています。ところでこの両性は、互いにその立場を変えることはできません。皆様は、自らが願って男性、あるいは女性として生まれたのですか。それとも、願わないのにそのように生まれたのですか。私たちは、自分では考えもせず、願いもせず、そして原因はもちろん、結果や過程も知らないまま、そのように生まれたのです。

 人間がいくら偉大な存在であるといっても、それが原因的な存在ではなく、結果的な存在であるということを否定することができません。したがって、第一原因である存在がなければならないのです。すると、その第一原因とはだれでしょうか。男性でしょうか、女性でしょうか。その第一原因的な存在を神様と呼んでも、あるいはどのような名前で呼んでも構いませんが、その原因的な存在がなければならないのです。

 今宵、ここには世界的に著名なかたがたが集まっておられます。皆様は「神様はどこにいるのか。見せてくれれば、私は信じよう!」とおっしゃるかもしれませんが、少なくとも、その原因的な存在がなければならないことを否定すべきではないということに、前もって注意を喚起するものです。

 きょう、私は「宇宙の根本を探して」というテーマでお話ししいたします。私たちが、宇宙の根本を探し求めていけば神様に帰着しますが、そのおかたが、男性格と女性格の二つの性稟を所有しておられるということを理解しなければなりません。宇宙の出発の原因は、どのようになっているのでしょうか。神様に対しては、いまだ分からないとしても、私たち人間は男性と女性、そして主体と対象からなっています。鉱物界の分子を見れば、陽イオンと陰イオンから構成されており、植物界は雄しべと雌しべから、動物界は雄と雌から、そして人間は男性と女性から成っているということが分かります。

 存在界を調べれば、鉱物界、植物界、動物界、どの世界であっても、より次元が高い陽性と陰性が、より次元の低い陽性と陰性を吸収して、存在、発展しているということを知ることができます。なぜ、このような現象が生じるのでしょうか。このすべての存在世界には、万物の霊長である人間を完成させるべき責任があるからです。鉱物界を見ても陽性と陰性、すなわち主体と対象が、愛という概念のもとに互いに一体となって存在しています。同様に、植物界もすべて雄しべと雌しべとがあり、主体と対象が愛を中心として、一つに結合して存続しているのです。最近、医学会では病原菌にまでも陽性と陰性があると言っています。

 主体と対象、すなわち陽性と陰性が一つになるためには、何を中心として一つになるのでしょうか、キスすることによってでしょうか。愛は、概念であると同時に実在です。それでは、その愛が定着することのできる実在とは何でしょうか。ここには、各界の指導者のかたがた、フォード元大統領、ブッシュ前大統領等、名士のかたがたが集っていらっしゃいますが、自信があれば答えてみてください。皆様がご存じでないことがあると言うことです。男性が男性になり、女性が女性になるようにしているものが何であるかということを知らなかったというのです。それがまさしく生殖器なのです。それが嫌いな人はいますか。好きであるとすれば、どれくらい好きですか。今までは、それが善くないものであると考えていたとしても、これからは好ましく思わなければなりません。

 未来の世界は、どのような世界でしょうか。生殖器を絶対的に好ましく思う世界になるなら、その世界は善い世界でしょうか、悪い世界でしょうか。栄える世界でしょうか、滅びる世界でしょうか。冗談で言っているのではありません。神様が人間を創造なさる時、最も重要視して、精魂を込めてつくられた所はどこでしょうか。目ですか、鼻ですか。心臓でしょうか。それとも頭脳でしょうか。これらのものはすべて、死んでなくなってしまうのです。事実、そうなのではないでしょうか。

 世界平和のための家庭連合の目的は何でしょうか。道徳と宗教等、すべての分野を完全に超越し、夫婦が完全に一つとなって、神様までも拍手で歓迎することのできる人が暮らす世界があるとするなら、それはどのような世界になるでしょうか。男性と女性が生まれる時、彼らの生殖器の主人はだれなのでしょうか。夫の生殖器の主人は妻であり、妻の生殖器の主人は夫なのです。今日まで、人類は生殖器の主人が互いに取り替えられているということを知りませんでした。簡潔な真理です。これを否定することはできないというのです。千年、万年、歴史がいくら流れたとしても、この真理は変わりません。

 すべての男性は、それが自分のものであると考え、またすべての女性も、それが自分たちの所有であると考えているために、世の中がこのように滅びつつあるのです。互いに主人を間違って考えているということです。人はすべて、愛は絶対的であり、永遠なるものであると言いながら、それを夢のようにかなわないものであるとばかり考えています。しかし、その永遠の愛の主人が取り替えられているということをはっきりと知るなら、世の中はこのような状態にはならなかったはずです。博士や学者は数多くいますが、このたった一つのことを考えついた人がいないというのです。

 皆様は、このことを否定することができますか。皆様の父母、祖父母、曾祖父母、そして人類の先祖たるおかた、さらには宇宙の根本であられる神様に尋ねたとしても、すべて同意するようになっているのです。これは鉄則です。この真理こそ、宇宙が億万年過ぎたとしても原理原則として残るがゆえに鉄則なのです。そしてこの鉄則ゆえに、神様のみ前に立ったときに正しい人と間違った人の判定を受けるようになるということは当然なことなのです。

 そのように考えれば、旧約聖書に出てくるアダムとエバの堕落も、正にこの鉄則に背いたところに由来していることが分かるのです。アダムやエバは、自分たちの生殖器が自分たちの所有であると錯覚したのです。考えてみてください。神様が善悪を知る木の果を取って食べたからといって、アダムとエバを追い出すでしょうか。神様は、そのようないいかげんな神様ではありません。アダムとエバは、根本的な問題において過ちを犯して、宇宙のどこからも公認を受けることができなくなったので、追放されてしまったのです。鉱物界や、植物界や動物界の雄と雌もすべて、愛の相対のために自分の生殖器を保管しているということを、アダムとエバは分からなかったというのです。

 それでは、生殖器は何のために存在するのでしょうか。それは、愛のためです。愛を探し求めていくために、そのように雌雄として生まれたということです。神様の属性は何でしょうか。神様は絶対的であり、唯一、永遠不変であられるおかたです。そうであるならば、愛の主人はだれでしょうか。男性でもなく、女性でもありません。そのおかたが、正に神様であられます。愛と中心として、愛を通してのみ神様と人間が一つになるのです。なぜなら、神様にも人間にも愛が絶対に必要だからです。神様が必要とする愛とは、果たしてどのような愛でしょうか。それは、絶対的愛を願われるのです。皆様はどうですか。私たちも同じです。神様が絶対的愛、唯一の愛、不変の愛、永遠の愛を必要とされるように、私たち人間も絶対、唯一、不変、永遠なる愛を必要とするのです。皆、神様に似るべきなのです。

 神様ご自身が、男性格と女性格、陽性と陰性を持っておられるかたなので、そこから分立された実体対象として創造された人間も、男性と女性として創造されたのであり、彼らが結婚すれば、実体として神様に代わる陽性と陰性になるのです。このように結婚を通して、縦的な神様の愛が横的に完全統一されるように追求したものが、神様のみ旨であったのです。

 人間の体は、この地を代表した横的なものです。それがすなわち、肉身です。それとは反対に、良心はいつも縦的なものを愛し、縦的に高いものを探し求めるのです。したがって人間は、神様の縦的な基準と一つになることのできる点を探し求めていくべきです。その点は中心点でなければならず、正にこの点で男性と女性が共に出会うべきなのです。そうして、この中心点から生まれた人間は、愛とともに幼児期の成長過程を経て、兄弟姉妹の愛、そして夫婦の愛を経験しながら成長するのです。このとき、肉身を地を代表して成長するようになり、心は神様を中心として成熟して、最後に体と心が縦的、横的に一つになって、幸福の基地を築くようになるのです。そのような場所であるからこそ、絶対的な愛を中心として絶対的存在である神様も喜ばれ、その愛の対象対である夫婦も幸福になるのです。

 このように、上下の関係である父子の関係、東西の関係である夫婦関係、前後の関係である兄弟姉妹関係が一点を中心として完全に一つになるとき、理想的な球形を造るようになります。このようなことから、東洋では父子の関係のことを「一つの体」と言います。さらには夫婦関係も一体であり、兄弟姉妹も一体であると考えています。何を中心として、これらすべての関係が四方に球形を造るとき、これらすべてのことが可能になるのです。一点で出会って、球形を造るべきなのです。その点は一つです!一つであるので、統一が可能なのです。神様と人間も父子の関係にあるので、一つにならなければならないのです。それは真の愛を中心としてです。

 尊敬する指導者の皆様!

 人間の欲望とは、どれほど高いものを願うことでしょうか。皆様の心の欲望は、神様よりも高くなることさえ願うのです。いくらだめな人間であったとしても、神様よりも優れた世界の代表者になろうという欲望は持つことができるのです。もし、皆様が神様の愛する息子であるのなら、「お父様、お越しください!」と言うとき、神様は来られないでしょうか。皆様の妻がいくらだめな妻であるとしても、本当に愛しているなら、妻が呼ぶとき、夫はついていくのです。このように真の愛で一つになれば、妻が夫を呼んでもついていき、兄が呼べば弟がついていき、弟が呼べば兄がついていき、皆が絶対に離れたがらなくなるのです。

 神様も独りでおられた場合、寂しいでしょうか、寂しくないでしょうか。どうして分かりますか。紳士淑女の皆様、愛を持っていますか。生命を持っていますか。皆様の血統をつなぐことのできる精子と卵子、皆持っていますね? 良心も持っていますか。それならば、愛を見たことがありますか。生命、血統、良心を見たことがありますか。触ってみたことがありますか。その存在の現象は知っていますが、触ることも見ることもできないということを知らなければなりません。ただ、心で感じることによってのみ知ることができるのです。同じ論理で、神様がいるのか、いないのかというとき、または神様を見たのか、見なかったのかと問うとき、見なかったとは言うことはできないのです。

 何が重要なのでしょうか。見えるものですか、見えないものですか。見えないものが、より貴いということを知らなければなりません。お金、地位、名誉は見ること、または触ることができますが、愛、生命、血統、良心は見ることも触ることもできないのです。皆、持っているのに、なぜ見ることができないのでしょうか。それは、一つになっているからです。心と体が絶対的にバランスを保っていれば、感じることができないのです。

 皆様は、自分の目が瞬きするのを感じながら暮らしていますか。三時間も数え続けてみてください。また、息をするのを数えながら暮らしていますか。右手を左側の胸の上に当ててみてください。どのような音がしますか。鼓動の音、心臓の鼓動の音を感じます。皆様は、その鼓動の音を一日に何度くらい聞いていますか。聴診器で聞いてみると、爆弾が爆発するような音が聞こえるのに、私たちは1週間、一か月……。忙しいときは、何か月間もそれを感じないで暮らしているのです。考えてみてください! 小さな蠅が一匹頭の上にとまっただけでもすぐに感じる私たちが、何百倍も大きな鼓動の音を聞いても、なぜ感じることができないのかというのです。それは、一つになっているからなのです。

 格式あるこの檀上から、このような話をすれば失礼だと思われるかもしれませんが、実感のわく話なので、一つの例を挙げてみましょう。皆様も毎日、朝起きてトイレに行かれることでしょう。大便をするとき、マスクをして用を足されますか。笑いごとではなく、まじめな話です! もし、ほかの人がそばで用を足して、そのようなにおいを漂わせれば、すぐに鼻をふさいで何万里でも逃げ出すはずですが、なぜ自分の大便のにおいは、そのまま嗅いで、平気で座っていられるのでしょうか。それは、自分の体と一つになっているので、自分の大便は汚く感じないのです。

 皆様、幼いとき、鼻くそをほじくってなめてみたことがありますか。その味は甘かったですか、しょっぱかったですか。しょっぱいですって? その味を知っているところを見ると、皆、経験者ですね! なぜ、その鼻くそを汚く感じなかったのでしょうか。それは、それが正に私たちの体の一部分だったからなのです。世の中のだれも分からなかったことをレバレンド・ムーンが初めて発見したのです。皆様、咳をして痰が出れば、ごくっと飲み込んだりもするでしょう? ここに列席なさった大統領の皆様はいかがでしょうか。そのような経験はありませんか。取り澄ましていないで率直に答えてみてください。なぜ、汚く感じないのでしょうか。それは、皆、一つになっているからなのです。

 私たちは皆、朝、昼、晩と、毎日三食ずつ食べていますが、実は、私たちの口から三〇センチほど下りれば、そこには肥料工場があるのです。毎日、三食ずつ食べて、その肥料工場に原料を供給しているのです。ワァー! そのことを知ったあとでも、箸とスプーンが口に入りますか。おなかの中に肥料工場があることを知りながらも、そのことを感じないで私たちは生活しています。なぜ、感じられないのでしょうか。それは、一つになっているからです。愛、生命、血統、良心があっても、一つになっていて完全にバランスがとれていれば、感じることはできないのです。

 私たち人間がそうであるように、神様も愛、生命、血統、良心、すべて持っておられるのですが、独りではそれを感じることはできないのです。完全にバランスがとれているので、感じることができないのです。ですから、神様も相対が必要なのです。相対の必要性をここに見いだすことができるのです。男性でも女性でも、独りのときは愛を感じることはできませんが、男性の前に女性が現れ、女性の前に男性が現れるときには、相対的に刺激的な愛と血統が雷と稲妻のように衝撃をもたらして問題を引き起こすということを知らなければなりません。ですから、しっかりと気をつけなければなりません。このような真理を知らずに生きてきたのです。神様も絶対的に愛の相対が必要であるという論理を、人間が悟ることができなかったというのです。

 それならば、神様の愛の相対とはだれなのでしょうか。猿でしょうか。人間が結果的存在であるとするならば、猿がその原因的存在、すなわち私たちの先祖になれるのでしょうか。そんな夢のような話は、到底聞くに堪えません。アメーバから始まった生命体が人間に至るまでには、数千段階の愛の門を通過しなければならないのです。ただ無条件に上がっていきますか。とんでもないことです。すべての動物においても皆、同様です。種の区別は厳格です。だれも占領することはできないのです。

 唯物論を信奉する共産主義者たちが、猿が先祖であると信じ、猿と人間を交配させたとして、新しい生命体(人間)が生まれてくると思いますか。百年、千年続けたとしても徒労に終わります。なぜ、できないのでしょうか。これは、考えてみるべき問題です。

 それならば、神様も何を必要とされるのでしょうか。何かの器官をさらに必要とされるのでしょうか。それは、目でしょうか、手でしょうか。必要とされるのは、私たちが考える五官ではありません。神様は、男性格と女性格という二つの性稟を共に所有しておられますが、父として存在されるためには、男性各主体として存在されるかたなのです。

 このような基準から見るとき、神様も愛のパートナーが必要なのではないでしょうか。被造世界のだれが、果たして神様の愛のパートナーになるのでしょうか。男性独りででしょうか。女性独りだけでパートナーになれますか。神様はどんなパートナーを願われるでしょうか。お金のパートナーですか。知識のパートナーですか。権力のパートナーですか。違います! 神様は愛のパートナーを願われるので、夫と妻が生殖器を通して一つになる、その位置を中心として顕現され、人間と出会われるのです。

 その位置が、どうして神様を中心として一つになる位置なのでしょうか。愛は絶対的であり、男性と女性が絶対的に一つになることを願う所が、正にその位置であるからです。横的に見れば、陽性である男性がその中心に向かって近づき、陰性である女性がまた近づき、神様も男性の性格である陽性と女性の性格である陰性が合わさって、大きく陽性的立場で、大きな陰性と合わさって一つになるのです。それが、いつそのようになるかということが問題なのです。

 結婚とは何でしょうか。なぜ結婚が重要なのでしょうか。それは、結婚は、愛を探し求めていく道であるからです。愛する道、生命を創造する道であり、男性と女性の生命が一体となる道であり、男性と女性の血統が混ざる所なのです。結婚を通して歴史が生じ、ここから国が生じ、理想世界が始まるのです。これがなければ個人もなく、国もなく、理想世界もありません。このことが公式になっているのです。男性と女性は、絶対的に一つにならなければならず、父母と子供たちは、絶対的に神様と一つになり、神様を愛し、神様と共に生きた後に死んでそのまま霊界に行けば、そこが天国なのです。しかし、そのような人、そのような家庭、国家、世界、そのような人類が理想とする人がいないので、神様が理想とされる天国は、空いているのです。今まで亡くなった人類はすべて、地獄に落ちているのです。天国に入れなかったということです。

 このような観点から見るとき、イエス様も人類を救うための救世主として来られたのですが、昇天された後、天国には行けず、楽園に行っておられるということを知らなければなりません。天国に行くためには、家庭を築いて入らなければならないので、イエス様も再臨されることを願われたのです。イエス様も、結婚して家庭を築き、その家庭とともに神様に侍って暮らしてから、共に天国に入ることができるのであって、独りでは天国に入ることができないのです。ですから、聖書にも「あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなた方が地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう」(マタイ一八:18)と書かれているのです。地上で解決しなければなりません。地上で病気になったので、その病気になった場所で治さなければならないのです。

 今日、人類は堕落した後孫となって、堕落圏下に陥っているので、この圏を突破して上がらない限りは、天国に入ることはできないのです。堕落圏内にいる人間は、いかなる困難があっても、その圏を打ち破らなければならないのです。それゆえに、イエス様も「死なんとする者は生き、生きんとする者は死ぬ」(参照マタイ一〇:39)ということを言われたのです。この死の道を行くためには、全生命をかけて、突破して上がらなければならないのです。

 皆様の家庭は、堕落圏内の家庭なのです。氏族、国家も同様です。闘って勝たなければなりません。アダム家庭で覆されたのです。アダムとエバは、赤ん坊を生んだ後に追い出されたのでしょうか、追い出された後に赤ん坊を生んだのでしょうか。彼らは、追い出された後に、神様とは関係のない立場で子供を生んだのです。このようなことも知らずに、天国に行くことができるのでしょうか。とんでもないことです! 無知には理想はなく、完成もありません。目を覚ましてください! 私はこのように警告いたします。

 レバレンド・ムーンの話が正しいのか、間違っているのか祈祷してみてください。私がこの道を探し求めるために、どれほどの受難の道を歩んできたか、だれも知りません。罪なく監獄に六度も入るほどの苦難に遭い、探し求めてきた道です。ところが、他人の大切な子供たちを連れていって、このような真理を教え、短時間で方向転換させるので、皆、洗脳したというのです。無神論者には、神の存在を詳しく、科学的に理論的な基盤をもって証明してあげるので、無神論は崩れていくのです。それとは反対に、キリスト教徒たちは、自分たちが信じている教理と違うといって、異端だと責め立てながら、私たちを打ち据えようと大騒ぎしているのです。しかし、彼らが唱える異端が正当なのです!反対になるということを知らなければなりません。

 サタンが嫌うものは神側であり、神様が嫌われるものはサタン側であるということを知らなければなりません。全世界的にレバレンド・ムーンのことを好きな人が一人でもいましたか。皆様も、レバレンド・ムーンがどのようなことをしているか調べてみたのでここにいらっしゃったのであって、知らないまま、ただ来られたのですか。ワシントン・ポストもレバレンド・ムーンのことが分からないから反対するのであって、皆様のように知れば、それでも反対するでしょうか。反対することはできないのです。ワシントン・ポストが本当のことを知れば、ワシントン・タイムズよりもさらによく待遇することでしょう。

 思想的空白期におかれている旧ソ連の若い青年たちも、レバレンド・ムーンの思想を中心として出版された中学校、高等学校、大学校の教材を通して、そして、ひいては刑務所の囚人までも、その教材を通して思想武装をしているのです。ロシアの三千六百か所の学校で、レバレンド・ムーンの思想の教材を使っているのです。彼らは叫んでいます。「私たちはアメリカに先立たなければならない! レバレンド・ムーンに反対するアメリカに先立たなければならない!」と。西洋の腐敗した退廃風潮であるホモセクシャル、フリーセックスなどを収拾する道は、レバレンド・ムーンの思想だけであると彼らは信じ、急いでいるのです。アメリカよりも先にレバレンド・ムーンに従っていこうと叫んでいるのです。

 皆様! 神様のことが好きですか。レバレンド・ムーンがこのようなことがらを展開しているのを見つめられる神様は喜ばれるでしょうか。教皇庁の教えと今回の大会に参席されたロバート・シューラート牧師の教えが同じであることがありえますか。もちろん、大きく違います。そうであるとすれば、だれの教えが正しいのか神様に尋ねてください。イエス様と聖母マリヤにたいする皆様の理解が間違ったもとであると、いくら教えてさしあげたところで、それ自体が統一教会にとって利益になるということが何かあるのでしょうか。しかし、皆様が必ずや知るべき一つの事実は、「地上で解かなければ、天でも解くことができない」ということです。それを早くから知ったレバレンド・ムーンは、生涯をかけてこの道を歩んできたのです。

 皆様、イエス様は結婚をしなければならないのでしょうか。結婚しなければならなかったのです。イエス様は女性ですか、男性ですか。聖女がいるとするなら、イエス様も彼女と結婚をしたくないでしょうか。神様はエデンの園にアダムとエバを創造されながら、彼らに生殖器をもつことを共に許されたのですが、何のためにそうされたのでしょうか。彼らが成長すれば、神様は彼らを結婚させてくれるでしょうか、させてくれないのでしょうか。問題は、彼らの堕落にあります。堕落ゆえに血統が代わったのです。それゆえに神様は、彼らをエデンの園から追い出されたのです。本来、神様の体となって、神様にとっての婦人格にあるべきアダムとエバが堕落することによって、神様ご自身の体と理想を病に至らせ、恩讐になってしまったのですから、それをごらんになっていた神様の心情は、いかばかりのものであったでしょうか。堕落とは、自らを埋葬する墓です。他人のものを奪い取っていく行動です。言い換えれば、堕落はフリーセックスの根になり、個人主義の先祖になったのです。

 今日のアメリカは、どのような国ですか。極度の個人主義、過分なる私生活の追求、フリーセックス……このようなものを神様が好まれるでしょうか。過度の個人主義が追求するものは何でしょうか。彼らの話のとおりであるならば、天も地も、世界、国家、社会、家庭、ひいてはおじいさん、おばあさんまでも皆、放り出してしまい、父母と兄弟も失ったまま、ジプシーやヒッピーになって気の向くままにさまようというのです。そして、雨や雪が降れば、行くところがないので、自殺して一生を終えようという話ではないですか。

 しかし、人間の本心は極度の個人主義や、過分なる私生活の保証を願ってはいません。宇宙と国家、町や村、そして父母の愛を受けて暮らしたいというのが、私たちの本心が願うところです。しかし、そうではあり得ない反対の道を行くうちに、良心に火がつき、本心との相克を感じるようになって、むしろ薬でも飲んで自殺するほうがましであると判断し、自ら命を絶つという現象がだんだん増えていくのです。こうして、「自分のまいたものを刈り取る」(ガラテヤ六:7)という真理が的中するのを目撃するわけです。

 アダムとエバがエデンの園にどんな種をまいたのでしょうか。フリーセックスの種をまいたのです。それを否定することができますか。そうであったので、彼らは下半身を覆ったのです。小さな子供たちも、親が隠しておいた大切なお菓子を盗み食いして見つかれば、それを包み隠そうとするのが本性の作用ではないでしょうか。もし、善悪の果を取って食べたならば、その取って食べた手や口を覆うべきはずであるのに、どうして下半身を覆ったのかということです。

 レバレンド・ムーンは賢明な人間です。皆様に及ばない人間であるからこのようなことを言っているのではありません。堕落は淫乱によって引き起こされたということを否定することはできません。アダムとエバが堕落して落ちたものを救ってあげるためには、堕落した方向と百八十度反対方向の経路を通さなければ、救ってあげることはできないということは、至極、理論的なことです。堕落によって地獄行きの血統を受け継いだので、メシヤが来られなければならないのです。

 メシヤは、堕落前の神様が創造されたエデンの園という場所で家庭を築くことのできる主人としてこられるかたです。そのことをはっきりと知らなければなりません! 理論的に合わなければならないのです。メシヤはまず、神様に侍る家庭を築き、その家庭を通して国家を立てなければなりません。このように、家庭が問題なのです。メシヤの家庭を中心として、接ぎ木する摂理をしなければならなかったのです。この死亡の世界で、だれが自分を救ってくれるのかということが問題です。それゆえに反対を受けたのです。

 旧約時代は、「目には目、歯には歯」(出エ二一:24)という原則の下に蕩減してきました。イサクの妻であったリベカを見てください。長子であるエサウと夫までもだまし、次子であるヤコブに祝福を奪って与えた女性ではありませんか。そのような女性を、神様はなぜ愛されたのでしょうか。そのような神様のことを、どうして信じることができるというのでしょうか。今まで、これらの諸問題についてだれも理解することができませんでした。レバレンド・ムーンが初めて解いてさしあげているのです。レバレンド・ムーンだけが、神様の秘密を皆、知っているからです。

 それでは、どこから天国と地獄が分かれるのか調べてみましょう。空中ですか。どこでしょうか。それは、まさしく皆様の生殖器なのです! 深刻なことです。これが天地をひっくり返したのです。このことをだれが否定することができますか。レバレンド・ムーンが発表した原理の本、「堕落論」に説明がなされています。疑問に思うのであれば、神様に尋ねてみてください。皆様としては、夢にも想像することのできない内容と理論をもって体系だてられた、レバレンド・ムーンの原理の本に、だれも反対することはできません。

 レバレンド・ムーンが天国に行くのか、そうでないのか気になるのであれば、死んでみればいいのです。死んで霊界に行ってみれば、分かることです。今晩、私の話を聞いて気分を悪くされたのならば、割腹をしてでも霊界に行ってみてください。そうすれば分かることではないでしょうか。レバレンド・ムーンがこの道を探し出すために、死の道を何度も越えてきたことを、皆様は知らなければなりません。神様を数百回も泣かせた人が、レバレンド・ムーンです。有史以来、ほかのだれも、レバレンド・ムーンほど神様を愛した人はいません。ですから、いくらこの世界がレバレンド・ムーンを滅ぼそうとしても、私は絶対に滅びません。神様が保護してくださるからです。皆様もレバレンド・ムーンが教える真理圏内に入ってくれば、神様が共にあられて保護してくださいます。

 生殖器を、目の不自由な盲人のように、方向を失ったまま使用すれば地獄行きであり、反対にこれを神様の絶対愛に基準を合わせて使えば、天国に高い所に行くのです。これは明白な結論です。

 現在、青少年の問題が深刻です。エデンの園において、アダムとエバが青少年期に物陰で、淫乱によって堕落してフリーセックスの種をまいたので、刈り入れの時期である終わりの日には必ず、世界的に青少年たちのフリーセックスの風潮が蔓延する現象が現れるのです。終わりの日には、再臨主が神様の真の愛を中心として、堕落圏内に陥った人類を絶対愛圏内に引き上げ、救われるという戦略を、サタンは知っています。ですから、サタンはどこにも愛の基準を置くことができないので、アダムとエバを堕落させるときにそうしたように、全人類をフリーセックスに押しやって、裸になって皆、死んでいく方向に全世界を引っ張っていくのです。人類がすべて、天使長の後裔としての末路をたどるようになるのです。

 エデンの園においてサタンの支配圏内に陥ったアダムとエバの後孫が今日の人類なので、サタンは堂々と神様の前でも、この世界のすべての男性と女性を引っ張っていき、自分のやりたい放題になし得る権限を主張するというのです。神様は、サタンが何を願うかをご存じなのです。サタンは、フリーセックスを通して、ただの一人も神様の前に帰ることができないように、言い換えれば、全人類を完全にめちゃくちゃにして、地上地獄をつくろうとするのです。

 今日、私たちが生きているこの世界が、地上地獄になりつつある世界でなくて何でしょうか。したがって、このように地上地獄となったこの世界と百八十度異なる、正反対の道を求めていけば、天国に行く道があるのです。再臨主が来られて、この世界を救ってくださることにおいても、正にこのような百八十度反対の道を教えてくださって、天国に導いてくださるのです。

 それでは、フリーセックスの道と百八十度異なった正反対の道とは、どのような道なのでしょうか。偽りの父母が現れてつくった道がフリーセックスの道であるので、真の父母が現れて、この間違った道を正してあげなければならないのです。神様は、干渉なさることができません。この地上にいかなる主権や軍事力、経済力、政治力をもってしても、手をつけることのできない問題です。偽りの父母によって引き起こされたことであるので、真の父母がメスをもって手術しなければ、決して人類は救われる道がないのです。

 罪を犯した者が、その罪を蕩減しなければならないのです。家庭において結婚を間違ってしまって、血統が百八十度曲がってしまったために、真の父母が来られて結婚させ、百八十度反対の原状に戻してくださることによって、天国に行く道を開いてくださるようになるのです。

 神様がアダムとエバに期待されたことは、何であったのでしょうか。それは、絶対純潔の愛を期待されたのです。この場にお集まりの世界の指導者の皆様が、このような内容を知って帰られて、皆様がたの国で絶対純潔の愛を取り戻す運動を展開されれば、皆様の家庭と国は、そのまま天国に直行することができるということを、理解してくださるようお願いいたします。絶対純潔の愛が存在する所には、絶対相対が誕生するようになり、自動的にフリーセックス、ホモ、レスビアンという言葉は消えるようになるのです。

 このような運動を世界的に広げるために、レバレンド・ムーンは一生をささげて受難の道を克服してきました。しかし今や、勝利のファンファーレを鳴り響かせ、世界に号令することのできる時が来たので、天のみ前に感謝するものです。

 世界平和に向かい得る礎石を築くのも家庭であり、世界平和への道を破壊し得るのも家庭です。人類の希望と幸福の土台が破壊された所が、アダム家庭でした。したがって、きょう、このように世界平和家庭連合を創設し、皆様の家庭も、今からはサタン世界と百八十度異なる方向に行くことのできる道を開くようになったことを、天の前に感謝せざるを得ません。この道でなくしては、自由も幸福も理想もありません!

 皆様は今、絶対、唯一、不変、永遠の生殖器を中心として、これを基盤にして神様を求めていかれるようお願いいたします。この基盤が愛の基盤、生命の基盤、血統の基盤、良心の基盤にならなければならず、正にここから地上天国と天上天国が生じるということを理解されるべきです。

 すべての男女が、自分に所属した生殖器が、実は、自分のものではなく、その主人は自分の相対であるということを認定するようになれば、私たちは皆、頭を下げ、謙虚な姿勢で愛を受け入れるようになることでしょう。愛は、相対なしには来ないのです。相対から来るということを知らなければなりません。ですから、ために生きない所には、愛があり得ないのです。絶対的にために生きる所において、絶対愛を見いだすことができるということを肝に銘じられ、皆様も今からお帰りになれば、サタン世界との一戦を覚悟してくださるようにお願いいたします。

 どこに行かれても、テレビやその他の言論機関を通してレバレンド・ムーンの話を伝えてみてください。絶対に滅ぶことはありません。地獄と化したこの世界を、果たしてどんな力で変えることができるというのでしょうか。神様の愛、すなわち絶対、唯一、不変、永遠であられる神様の真の愛を中心として、私たちの生殖器も絶対、唯一、不変、永遠の基準に立てて生きていかなければ、そのことは不可能なのです。私たちの生殖器の本来の主人は、神様であられます。

 今、私たちは皆、共にこの目的のために前進しましょう。神様の真の愛を実践する前衛舞台になりましょう。今から家に帰られたら、夫と妻で共に、自分たちの生殖器が絶対、唯一、不変、永遠なる器官であることを互いに確認し、それが正に自分のものではなく、相手のものであり、相手が今までしっかりと保管してきたものが自分のものであると宣言し、お互いのために永遠に奉仕し、感謝しながら生きようと、誓ってください。そのような家庭であってこそ、永遠に神様が住まわれるようになり、そのような家庭を中心として世界的な家庭編成が成されるのです。

 そうして、皆様すべてが、共に次回の三百六十万双の祝福結婚式に参席され、地上天国に入籍する真の家庭となられますようにお願いいたします。

 ありがとうございました。アーメン!

「救援摂理史の原理観」

「救援摂理史の原理観」
(96.04.16 ワシントン・タイムズ財団創立大会 ワシントンDC)
 尊敬する内外の貴賓、高名なる紳士淑女の皆様。
今日、歴史的大変革の時代を迎え、レバレンド・ムーンと皆様が相まみえるようになったことを、神様に心から感謝するものです。

 神様は絶対者であられ、唯一、不変、永遠であられるお方です。
そのみ旨も同じなのです。人間アダム、エバが神様の愛で一体になったなら、万事は完全、完成なのです。ですから、神様の出発、目的とその過程も、そして原因と結果とその方向も絶対的なのです。

 人間始祖アダム、エバは無知から堕落し、混沌(こんとん)に陥りました。
個人的な無知と混沌から、家庭、国家、世界的無知と混沌に陥るようになりました。
この堕落圏を逃れるためのものが宗教と救援摂理の努力なのです。

 終わりの日にメシヤが来て、神側で見る絶対、唯一、不変、永遠なる原因と方向と結果をはっきり教えてあげ、無知と混沌世界を清算して本然の神様の懐に帰るべきなのがみ旨の完成です。
そのようにならなければ、終わりの日にすべての宗教も主義や思想も国家も皆滅びるようになるのです。

 今、私たち人類は、わずか数年で二十一世紀を迎え、二〇〇〇年代の新しい歴史時代に入るようになります。
このような重大な時点で、私は「救援摂理史の原理観」を主題としたお話で、新しい時代を準備する私たちの心を確認しようと思います。

 創造主と人間との真(まこと)の愛を中心として完全完成を願う神様は、人間と一体となる条件が必要でした。
それで、神様は人間始祖に下さる戒めが必要だったのです。
人間が成長期間を育って上がっていく未完成段階にいたことをご存じで、神様は子女である人間に最も貴い真の愛を相続させてあげようとなさる条件が、戒めでした。

本来、真の愛は経験を通して得て、体恤(たいじゅつ)を通して分かるようになっていました。真の愛は言葉や文、あるいは一般教育を通して体得できるものではありません。
生活を通してのみ、完全に体得するのです。赤ん坊としてつくられたアダムとエバは成長しながら、段階的に生活を通して経験をすることによって、真なる子女の心情、真なる兄弟の心情、真なる夫婦の心情、真なる父母の心情を体恤することによって完成するようになっています。
神様の真の愛を全体的に体得するとき、初めて創造目的を完成した理想的な人間になるのです。

 人は自分の愛する相対が、自分より何千万倍、いや無限大の価値的存在として生まれることを願います。
このように神様も、ご自身が愛する相対である人間が無限なる価値的存在になることを願われるのです。人間が完成すれば神性を成し、天の父が完全であるように、完全で神様的な価値を成すのです。

 神様が絶対者であられますが、真の愛の理想は一人では成されません。愛の理想は必ず相対を要求するからです。私たちはここで神様の真の愛と人間の真の愛の出発と完成が互いにいかなる連関をもっているかを知らなければなりません。
もし、神様が真の愛の絶対的な対象体として人間を立てずに、ほかの方法を通してご自身の真の愛の出発と完成を成そうとされたなら、どのようになるでしょうか。神様と人間の真の愛の理想は、おのおの動機が異なり、二つの愛の方向と目的は異なるしかなくなります。このようになるなら、神様の愛の理想は人間より上位のまたほかの愛の対象を立てて成さなければならず、一方で人間の愛の理想は神様と直接的な関係をもてなくなってしまいます。

 真の愛の主体者であられる神様は、その真の愛の相対として人間を立てました。
神様の愛の理想は人間を通してのみ完成されるのです。神様の創造目的は神人愛一体の絶対的愛の理想世界です。人間は神様の最高最善の愛の対象としてつくられました。
それゆえに、人間は創造物の中で唯一、神様の実体を身につけた対象です。
無形の神様の前に、見える体として生まれました。人間は完成すれば神様の宮になります。神様が自由に、また平安にいつも入ってきて、住まわれることのできる有形の実体です。

 絶対者である神様の真の愛の全体的な理想は、人間を通して父母と子息の縦的関係で実現完成します。

 神様はご自身の体としてアダムを先につくりました。アダムは神様の息子であると同時に、体をかぶった神様自身でもあります。その次に、アダムの相対者としてエバをつくって、横的な愛、すなわち夫婦の愛の理想を完成しようとしました。
エバは神様の娘であると同時に、神様の横的愛の理想を実体で完成すべき新婦でもあったのです。

 アダムとエバが完成して神様の祝福の下に結婚をし、初愛を結ぶその場は、すなわち神様が実体の新婦を迎える場なのです。
アダムとエバの夫婦の愛の理想が横的に結実するその場に、神様の絶対愛の理想が縦的に臨在、同参なさることによって、神様の真の愛と人間の真の愛が一点から縦横の基点を中心として出発し、一点で結実完成するようになるのです。

 神様の創造は必然でした。目的のない創造は仮想することができません。神様において創造が必要であった理由は、ただ一つ、真の愛の理想でした。最も簡単で低級な被造物から人間に至るまで、おのおの主体と対象、陽性と陰性のカップルで展開なさった理由も、愛の理想の下で相対関係を形成するためなのです。
創造物の愛の理想と神様の究極的な愛の理想は別個ではありません。人間世界の男性と女性の愛の完成を通して、神様の絶対愛が完成するようになさったのが、創造原理です。初めに人間をアダムとエバ一男一女として創造なさった理由もここにあります。

 神様の創造目的はアダムとエバが真の愛の主体であられた神様の戒めを守って真の人として完成することです。さらには神様の真の愛で一つとなった真なる夫婦になるのです。  
 また、彼らがその真の愛の中で息子・娘をもち、幸福に豊かに暮らすことのできる真の父母になることです。
アダムとエバが真の愛で完成することは、まさに神様が実体を身にまとう願いが成就するのです。そして、彼らが真なる夫婦として完成することは、まさに神様の絶対的な愛の理想の完成を意味します。

 次に、アダムとエバが善なる子女をもって真の父母になることは、まさに神様が永存の父母の位を実体的に確定し、また神様が人間の血統を通して子々孫々を繁栄なさることによって、天上天国の市民を無限に置かれたかった理想を成就なさろうとされたのです。

 ところが、人間始祖アダムとエバは堕落してしまいました。エデンから追われるとき、彼らは子女を抱えていませんでした。神様が追い出したアダムとエバをエデンの外まで訪ねてきて祝福し、結婚式をしてあげられたはずは絶対にありません。
全人類は神様の愛と関係なく繁殖した、追い出された先祖の後孫です。

 満場の内外貴賓の皆様!

 人類の堕落が木の実を取って食べた結果でありうるでしょうか。アダムとエバの堕落は神様の真の愛の理想に背いた不倫の犯罪です。守るべき戒めが必要だった堕落前のアダムとエバは、未完成段階、すなわち成長期間で堕落しました。蛇で表示された天使長の誘いを受け、エバが霊的に堕落し、そのエバがアダムを誘って(時ならぬ時に善悪の実を取って食べる)肉的な堕落をしてしまったのです。本然の園で神様と対話しながら、楽しくはしゃぎ回って暮らしていたアダムとエバが、死ぬことを顧みないでまで犯しうる可能性のある犯罪は、間違った愛の犯罪しかないのです。

 人類の先祖の初愛の結合は、神様自身の愛の完成でもあったので、当然、神様もアダムとエバも宇宙万象も、歴史を通して歓喜と祝福の中に酔う幸福な宴(うたげ)の連続でなければなりません。神様の愛と生命と血統が人間の中で出発をなしながら定着する幸福な儀式でなければなりません。
ところが、彼らは下半身を覆い、木のうしろに隠れて、不安に震えました。天道に逆らう偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統の根源をつくった不倫の関係を結んだからです。

 堕落したアダムとエバの後孫である全人類は、子々孫々、生まれる時から原罪があるようになります。
人類が個体の中に心と体の衝突を矛盾として感じるのも堕落に根源があり、愛の秩序が紊乱(びんらん)した社会の中で、本心が願わない生を生きていくのも、すべてここに由来しました。

 愛の理想を中心として見るとき、動植物の世界では、その愛の関係がすべて繁殖を前提にして初めて成されます。しかし、人間だけはその例外です。
人間は夫婦の愛の関係に自由を享受します。これが万物の霊長たる特権です。神様は息子・娘である人間が無限なる愛の喜びをもつように祝福しました。神様が許諾した真なる自由は、責任性を前提とします。

 もし、責任性なしに個々人が愛の自由だけ主張し、実践するなら、どれほど大きな混乱と破局が来るでしょうか。
至高なる愛の理想を成した人間の完成は、愛に対する責任性をもつときに可能なのです。

 その責任性は次の三つとして考えることができます。
第一に、人間は愛の自由を下さった神様に感謝しながら、自己修練、自己管理で自由な真の愛の主体になる責任です。
人において愛の責任性は法や耳目ゆえに守られるものではなく、神様との生命的縦的関係の中で自我主管、自己決断で守られるのです。

 第二に、相対に対する責任性です。人間は本性的に自らの相対の自分に対する愛が分けられることを願いません。
夫婦間の横的な愛の関係は、父母と子供の間の縦的な愛の関係と異なり、分けられればもはやその完全性が破壊されます。
これは夫婦間に絶対的な愛の一体を成すようになっている創造原理ゆえです。人は絶対に自分の相対のために生きるべき愛の責任性があります。

 第三に、子女に対する愛の責任性です。
子女たちの誇りと幸福の基地は父母の愛です。
子女たちは真の愛で和合一体化した父母を通して生命が生まれ、そのような愛の中で養育されることを願います。
父母の子女に対する最も貴い責任は、外的な養育だけではなく、彼らの霊性を完全にしてあげる真の愛の生命的な要素を提供することです。家庭が貴い理由はこのためです。生活的な経験を通して体得する真なる子供の心情、兄弟の心情、夫婦の心情、父母の心情は真なる家庭以外、そのどこでも得ることはできません。

 アダムとエバが神様を中心とした真の愛の夫婦を成せば、神様は理想となさったとおりに、ご自身の実体であるアダムの体の中にいましたまいながらエバを愛されるようになるのです。
さらにはアダムとエバは神様の実体をまとった真の父母となって、善なる愛、善なる生命、善なる血統の出発になったことでしょう。

 ところが、堕落によってアダムとエバはサタンの実体となって、悪なる夫婦、悪なる父母、悪なる先祖となってしまいました。彼らの結合は悪なる愛と悪なる生命と悪なる血統の根となってしまったのです。人類はすべてこの根に根源をおいたので、生まれるときからすべてが、神様の怨讐(おんしゅう)であり姦夫(かんぷ)であるサタンの後孫になり、悪なる父母の血統を受け継ぐようになってしまったのです。

 親愛なる紳士淑女の皆様!

 人類の先祖の堕落で真の愛の理想が崩れたとき、神様の苦痛がどれほど大きかったでしょうか。神様の子女になるべき人間たちが、本来の父母であるご自身が分からず、むしろサタンに仕えるのに、神様は救援歴史をしてこられたのです。絶対的な神様の創造理想も絶対的であるので、悲しい救援歴史をなさるしかありませんでした。神様の救援摂理は、失った真の愛の創造目的を再び回復する復帰摂理です。ですから、救援摂理は再創造摂理でもあります。

 このような点で、復帰摂理の根本はどうすれば創造理想を完成する人間の種、本然の赤ん坊の種を見いだせるかにあるようになります。神様が一番嫌う姦夫であるサタンの偽りの愛から由来した生命と血統を清算しなければなりません。神様の真の愛と生命と血統と一体になった救世主、真の父母をどのようにして生まれさせるかということです。

 人間の先祖が自分の責任分担を完遂できず、不倫なる血統関係を結んでサタンの主管を
受けるようになったので、神様が直接立って原状回復させることができないのです。神様は悪なる天使長側に回った人類を、条件なしに善なる立場から選ぶことも、打つこともできないのです。神様は善なる天使長的中心人物を立て、先に打たれながら蕩減(とうげん)条件を立てるようにして、奪ってくる作戦をしてこられました。しかし、サタンは先に打ち、奪われる立場になりました。第一次、第二次、第三次世界大戦はその例になります。先に打った側が滅びました。

 復帰摂理を概観すれば、母子協助の基盤が重要でした。ヤコブの時、モーセの時、イエス様の時、皆そうでした。堕落の張本人であるエバを代身する責任を果たすお母さんを立て、次子と母子協助をしながら、サタンの血統と生命を分立しようとする摂理が存在してきたからです。

 神様は、堕落によって人類を先占したサタンと血縁的に直結した長子に、直接対することがおできになりません。神様は善側を代表する次子を相対として条件を立たせ、悪側を代表する長子を屈服させることで善なる血統を復帰してこられました。

 アダム家庭で、神様は次子アベルを立てて長子カインを屈服させようという摂理をなさいました。堕落した母親ですが、そのエバによる兄弟を一つにしようとする努力があったでしょうが、結局はカインがアベルを殺害することによって救援摂理は終結を見ることができず、延長され始めたのです。

 ノアの時も、母子協助の基準はありましたが、本格的な母子協助の基準はリベカ・ヤコブの時からです。

 人類の堕落はアダム、エバ、天使長、このように三つの存在によって引き起こされました。天使長がエバを誘って霊的堕落をし、その次に堕落したエバがアダムを誘って肉的堕落をすることによって、神様を裏切ったのです。堕落した天使長がサタンになりました。救援摂理は復帰摂理であり、復帰の原則は百八十度反対の道を通してなされるのです。

 真の愛と生命の種をもったアダムを失った神様は、サタンの讒訴(ざんそ)条件がない新しい種をもった息子を探し立てなければなりません。創造の時アダムを先につくったように、再創造摂理である復帰摂理も堕落と無関係な息子を先に立てなければならないのです。これがメシヤ思想の根本です。

 メシヤはサタンの主管下にいる堕落した血統をもった人たちの生命を否定し、新しい生命の種を接ぎ木してあげるために来られる真の人であられます。根は神様に置きましたが、後(のち)のアダムとして来て、アダムによって引き起こされたものを清算しなければならないメシヤです。神様が、能力だけで役事する超人を、メシヤとして送ることのできない事情がここにあるのです。

 この地に神様の愛と生命の種をもって生まれる息子のために先にお母さんがいなければなりません。お母さんが息子を産むにしても、ただそのまま産むことはできないのです。必ず、復帰の公式を通して産まなければならないのです。
復帰摂理の中に現れた母子協助は、すべてが天の息子がサタンの讒訴を免れた新しい生命の種をもって着地するための準備であり、条件なのです。母子共にサタンの攻撃を免れることのできる条件を立てた土台の上で、サタンを代表する長子を屈服させることにより、サタンが先に占有した愛と生命と血統を復帰してこられたのです。

 神様の摂理の歴史を記録した聖書の中に、理解することのできない記録がたくさんあります。リベカが夫のイサクと長子のエサウをだまし、次子ヤコブを助けて彼に祝福を受けさせました。神様は一見不当に見える方法を用いたこの母子の側に立たれて、彼らに祝福を続けて上げました。

 アダムの家庭では、カインとアベルの兄弟が胎外で争って、次子のアベルがかえって殺されました。

 ヤコブは、アベル以後の善側に立った多くの人の犠牲と蕩減条件の基台の上に立ったので、先に占有したサタンにいっそう追いついて、双子の兄であるエサウを相手にするようになったのです。結果的にヤコブは、ヤボク川で天使を屈服させる霊的勝利の条件と実体の天使長の体であるエサウを屈服させることによって、歴史以来、初めて勝利したというイスラエルの祝福を受けるようになりました。しかし、その時は既に年が四十代でした。

 サタンの偽りの愛の種がエバの胎中にまかれて悪の生命が生まれたので、神様は母の胎中まで入っていって分別しておかなくては、天の息子が胎中で誕生することができないのです。ですから、ヤコブの勝利によっても、まだ分別されていない妊娠から四十代までの期間もサタンの分立がなされなければなりません。結果的にこの責任を任された偉大な母がタマルです。

 タマルはユダの長男のエルと結婚しましたが、エルは神様にふさわしい人ではなかったので死んでしまいました。当時の慣例に従い、ユダは次子のオナンをタマルに与えて子供を産むようにしましたが、オナンは生まれる子供が自分のものにならないことを知り、精を地に流しました。これが神様の前に罪となってオナンも死んでしまいました。タマルはユダの三番目の息子のシラと一緒になろうとしましたが、ユダはシラをタマルに与えませんでした。タマルによって二人の息子たちが死んだと考えたユダは、シラまで死んで家系が絶たれることを心配したからです。

 タマルは選民の血統を続けなければという一念から、売春婦に変装して、舅(しゅうと)であるユダを迎え、双子の赤ん坊を身ごもりました。赤ん坊たちが生まれる時、先に手を突き出して出ようとした長子の赤ん坊が再び入り、弟になるべき次子の赤ん坊が兄になって先に生まれたのですが、彼がペレヅです。タマルの胎中で長子と次子が争って、分立される胎中復帰がなされたのです。このような条件の上に、選民の血族を見て、二千年後にローマ帝国の国家基準に対峙(たいじ)するイスラエルの国家的土台の上に、メシヤを身ごもることができたのです。神様の息子の種が準備された母親の胎中に、サタンの讒訴なく根づかせることができるようになった国家的勝利の土台が造成されたのです。このような基盤の上に聖母マリヤが摂理の主流に登場するのです。

 ヨセフと婚約したマリヤは、自分の身を通してメシヤが生まれるという(ルカ一・31)ガブリエル天使長の驚くべきメッセージを受けました。処女の立場で赤ん坊を身ごもれば、死ぬしかないという当時の規則でしたが、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」と言いながら、絶対信仰で神様のみ意(こころ)を受け止めました。

 マリヤは親族であり、尊敬される大祭司長のザカリヤに相談しました。ザカリヤの家庭では、その夫人のエリサベツが神様の能力によって、妊娠したヨハネを胎中に身ごもったまま、マリヤに対して「あなたは女の中で祝福されたかた、あなたの胎の実も祝福されています。主の母上がわたしのところにきてくださるとは、何という光栄でしょう」(ルカ一・42~43)とイエス様の懐胎を証ししました。

 このようにして神様はマリヤとザカリヤとエリサベツをして、メシヤの誕生を一番先に知らせました。彼らはイエス様によく侍(はべ)り、神様のみ旨によく従わなければならない重大な使命をもった者たちでした。ザカリヤ夫婦はマリヤを自分たちの家にとどまらせました。イエス様はザカリヤの家庭で懐胎しました。エリサベツとマリヤの間柄は母親側のいとこの関係でしたが、摂理上では、姉(カイン)と妹(アベル)の関係でした。ザカリヤの前でエリサベツの助けを受けたマリヤは、レアとラケルがヤコブの家庭で母子が一体になれなかったのを国家的基準でザカリヤ家庭を通して蕩減する条件まで立てながら、イエス様を誕生させなければなりませんでした。

 歴史以来、初めて神様の息子の種、真の父となるべき種が、準備された母の胎中にサタンの讒訴条件なく着地したのです。それによって、地上に初めて、神様の初愛を独占することのできるひとり子が誕生するようになったのです。

 当時の法によって、容認されるはずもなく、また、常識でも考えることのできないことをマリヤが成し遂げなければなりませんでした。三人が全部霊的に感動したし、神様から来た啓示に従い、それが神様のみ旨であり、願いであることを無条件に信じ従わなければならなかったためでした。

 神様の息子はたとえ着地したといっても、サタンの世界の中で無事に育ってみ旨を成し遂げるためには、保護されるべき囲いが必要なのです。神様はザカリヤの家庭の三人にその基盤となってくれることを期待されました。三人が神様の息子を保護し、侍ることにどのように専念し、どれだけ長い間一つになったかについては、考えるべき点がたくさんあります。

 聖書には「マリヤは、エリサベツのところに三か月ほど滞在してから、家に帰った」(ルカ一・56)と記録してあります。その後、聖書で見る限り、マリヤとエリサベツとザカリヤは互いに行き来した記録がありません。ここからマリヤとイエス様の困難が始まります。ザカリヤ家庭は最後までイエス様の囲いにならなければなりませんでした。

 少し過ぎて、ヨセフはマリヤが子供を妊娠した事実を知るようになります。この時、彼の衝撃がどれほど大きかったでしょうか。愛する婚約者のマリヤが自分とは何の関係もない状態で、三か月間どこかへ行って帰ってきた時には子供を妊娠していたのですから、ヨセフがマリヤに、胎内にだれの赤ん坊を身ごもっているのかを追及するのは当然なことでした。

 その時、もしマリヤが正直に話してしまったなら、どんなことが起こったでしょうか。もし明らかにした場合には一族が滅亡するようになるのです。ですから、マリヤはただ「聖霊によって懐胎した」とだけ話したのです。

 マリヤのおなかが膨らんできて、周囲の人たちも妊娠したことが分かるようになりました。その時、ヨセフが自分は知らないことだと言ったならば、また、どうなったでしょうか。ヨセフは神様の啓示を信じ、妊娠が自身の責任であると擁護した義人でした。これによってマリヤは婚約期に妊娠したという嘲笑(ちょうしょう)は浴びたとしても、石を受けて死ぬことはなかったのです。

 マリヤを愛したヨセフは、初めはこのようにマリヤを守ってあげました。しかし、ヨセフの心の底には苦悶(くもん)がたくさんありました。特に、生まれたイエス様を見詰めるヨセフは、その父親に対する疑問と関連し、心の中の苦痛を頻繁に経験するようになりました。イエス様が大きくなると同時に、ヨセフとの関係が心情的に距離が生まれるようになり、このことによって、家庭に頻繁に紛争が起こったことは間違いのない事実です。
こうしてイエス様は私生児の立場で、ザカリヤ家庭の保護も受けられず、また、ヨセフとも難しい条件で、心情的に途方もなく寂しい立場で育ちました。

 メシヤの道を自覚するようになったイエス様は、孤独な事情が神様のみ旨を成すに当たって深刻な障害の要因であることを、独りもどかしく思いました。メシヤは真の父母であり、その使命のためには実体の新婦をお迎えにならなければなりません。天使長がアダムと兄妹のように育ったエバを、偽りの愛で堕落させたものを、根本的に復帰すべきイエス様です。

 従って、アダムを代身して神様の息子として来られたイエス様は、天使長型の妹を妻として迎えなければなりません。彼女がまさしくザカリヤの娘、洗礼ヨハネの妹なのです。サタンの権勢が主人の役割をする世の中で、このことが成されるためには、絶対的な信仰によって形成された保護基台がなければなりません。不幸にもイエス様の周辺では、このような土台がみな崩れてしまいました。

 もし、ザカリヤとエリサベツが神様の啓示と霊的な恩恵の下、初めにもった絶対的な信仰をずっともっていたなら、状況は全然違っていたことでしょう。彼らが責任を果たしたならば、マリヤは三か月後にその家を出たとしても、継続的に彼らと行き来し、相談したはずです。

 ザカリヤ家庭は、イエス様の誕生の後にも、地を代表して最も先頭に立ってメシヤを保護し侍りながら、証すべき人々として神様が選んだ家庭です。彼らは、イエス様を神様の息子として、メシヤとして、このうえない精誠を込めて侍るだけでなく、さらにまた、イエス様を通して神様のみ旨を受け、絶対的に従ったはずでした。また、イエス様のために生まれた洗礼ヨハネだったので、彼が悔い改めさせた民たちをして、イエス様を信じ救われるように導く責任を果たしたはずです。
しかし、不幸にも、ザカリヤもエリサベツも洗礼ヨハネもイエス様を神様の息子として証しだけしたのであって、侍り従った実績は何一つありませんでした。尊敬される祭司長のザカリヤが傍観し、洗礼ヨハネがイエス様と無関係な立場に立つようになることにより、かえってイエス様の行く道をもっと難しくしてしまい、民たちが従うことができないようにしてしまいました。ましてや、彼らが信仰を失い人間的な考えに流れたときに、イエス様が願われた新婦を迎えるのを助けるはずは絶対になかったのです。

 次に考えるべき点は、ヨセフとマリヤの関係がイエス様に及ぼした影響です。マリヤはエバとタマルを蕩減復帰すべき立場なので、ヨセフとは婚約関係でなければなりませんでした。しかし、摂理的に見れば、彼らの関係は夫婦ではありえません。ですから、彼らはイエス様が誕生する時まではもちろん、その後にも性関係を結んではならないのが神様の願いでした。ヨセフはマリヤに対して、イエス誕生の後にもずっと愛の心をもちました。
マリヤはヨセフと別れ、イエス様を神様の息子として育てたい気持ちがあったはずです。

 しかし、現実はそれを簡単には許しませんでした。本心ではだめだと思いながら、マリヤはヨセフと性的関係を結ぶようになって子女をもつことにより、エバの失敗を反復した結果となってしまいました。サタンはこれを条件として彼らに侵犯するようになりました。イエス一人を残して、すべてサタンの主管下に入っていった結果となったのです。イエスを守るべき父親も、母親も、アベル側の兄弟(洗礼ヨハネとその兄弟)も、カイン側の兄弟(ヨセフの子女)もすべてサタン側になってしまいました。

 人がサタンの侵犯を受ければ、もはや霊的に受けた恩恵と感動を失ってしまいます。神様に対する確信と感謝を失うようになります。すべてのものを人間的に考えるようになります。
これにより、マリヤまでイエス様が願われる結婚を助けられず、かえって反対してしまったのです。これが、イエス様が新婦を迎えて真の父母になれず、十字架の道を行かざるをえなかった直接的な原因になったのです。

 カナの婚姻の宴で、イエス様がマリヤに「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか」(ヨハネ二・4)と言ったのも、最も貴い摂理の要請であるイエス様の新婦を迎える仕事をなおざりにし、遠い親戚(しんせき)の婚姻の宴を手伝おうとするマリヤを責めた心情が表出されたものです。
「わたしの母とは、だれのことか。わたしの兄弟とは、だれのことか」(マタイ一二・48)と言われたみ言葉も、このような基準から理解しなければなりません。

 イエス様は母マリヤからも、ザカリヤ、エリサベツからも反対され、最後に洗礼ヨハネからも反対され、肉親の保護を受けながら使命を完遂することを断念するしかありませんでした。新しく霊的基盤を探して、再び復帰摂理をなさろうと出発したのがイエスの出家でした。出家したイエス様は行く所がありませんでした。
「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」(マタイ八・20)と嘆息されました。家門の基盤を失ったイエス様は、それを代身することのできる基盤を探しに出かけたのです。これがイエス様の三年路程でした。

 しかし、民族が不信し、弟子たちの心が弱くなって、サタンの侵犯を受けてしまったので、イエス様の基台は倒れ、十字架の道に行かれるしかありませんでした。本来、イエス様はメシヤとして地上に来て、弟子たちと万民を祝福され、罪のない天国を築かなければなりませんでした。ところが、不信をされて新婦を迎えられなかったので、真の父母になれず、その使命を完遂することができませんでした。

 それゆえ、再臨することを約束されました。再臨主はイエス様が果たせなかった神様の復帰摂理の根本を完成するためにこられます。すなわち、創造理想を完成すべき真なる本然の赤ん坊の種として来て、神様の真の愛、真の生命、真の血統の根源になる真の父母の理想を完成するためにこられます。
彼は既にイエスの時まで神側が勝利した根本摂理の土台の上に臨在されます。すなわち、イエス様が大人になられる時までの勝利的な基盤の上に真っすぐ立たれて、彼が果たせなかった新婦を探し、真の父母になられ、万民を救ってくださるのです。

 それゆえ、真の父母は血統を伝授する新しい結婚行事を通じ、全人類をして、神様の真の愛、真の生命、真の血統に接ぎ木して、真の人として救援し、さらには真なる家庭を成して地上天国を建設なさるのです。それゆえ、再臨主は肉身をもって来られて、新しい血統関係を編成しようとするのであり、これが国際合同結婚式なのです。

 アダム一家庭で失われたものを世界大家庭圏で蕩減することにより、アダム家庭で完成すべき真の長子権、真の父母権、真の王権を取り戻し、神様が主管なさる地上天国へと転換し、天上天国に入籍をして、神様を中心とした地上、天上王権時代に進入して、勝利と自由と幸福と統一の世界を復帰し、神様の創造理想である地上天国、天上天国を迎えるようになるのです。これが摂理史の原理観です。

 皆さんも将来、幸福な祝福を受けるようにお願いします。

 敬愛するこの国の指導者、そして内外貴賓の皆様! きょう、この夕べ、ワシントン・タイムズ財団創設を記念するために、来臨してくださった皆様にもう一度深い感謝をささげ、特にこの社会のための善なる業績により、ワシントン・タイムズ財団が授与する第一回受賞の栄光を受けられた皆様に、心からお祝いを申し上げます。ありがとうございました。

原理講論 目次

2014年5月20日火曜日

「双合十勝日」宣布 第一回「安侍日」 2004年5月5日 麗水・清海ガーデン

「双合十勝日」宣布
第一回「安侍日」 2004年5月5日 麗水・清海ガーデン

 「安侍日」です。安息日はなくなるのです。きょうが「先天時代」と「後天時代」に分かれる日です。「十勝日」とは何かというと、新しい時代を迎えて、四月を左手に、五月を右手にして一つにするのです。天地のすべてのものが十勝で一つになるのです。

「双合十勝日」宣布以降は「後天時代」

 上・中・下で三数になります。左・中・右、前・中・後まで合わせれば、三掛ける三で九です。そこに天宙・天地・天地人父母で十二数になります。十数を経て十二数に合わせ、すべてのものが双を成して一つになるので「十勝日」です。そして初めて「安侍日」を迎えたのです。

 すべてがその上に立つことにより、神の祖国と王国が生じ、神様が造られた一切の存在が神の国に帰一されるので、「先天時代」から「後天時代」に変わります。変わったということを、はっきりと知らなければなりません。

 「安侍日」宣布(四月十九日)後、八日間が三遍過ぎる五月十三日は、「神様王権即位式」を行ってから四十ヵ月になります。一から四時間、四日、四十日、四十ヵ月、それから四十年、四百年、四千年、すべてが連結されるのです。ですから、サタンが関与した一番目の数は最も悪いものであり、神様は二番目に対されたのです。逆さまになりました。

 一、二ではなく、二から一、三になったのです。これをすべて立て直すことにより、完全に解放時代になります。解放時代は飛んでいくのです。飛んでいって神様のみ座に行きます。今、四十数となって飛んでいくことにより、初めて神様のみ座と直結されるのです。

 堕落することによって逆さまになったすべての万物が一つになり、時間と日と年と世紀と千世、万世が、蕩減された勝利の数である十勝数としてすべて勝利したので、今からは、神様の王権のみ座と直結されるのです。

 それで、「先天時代」から「後天時代」が始まり、すべてのものが解放時代、完成時代に越えていきます。神様の所有圏内に入っていくのです。貴重な日です。安息日を送り出し、私たちは「安侍日」を迎えることができるのです。

 「安侍日」は八数です。四位基台の上で八数になるのです。八数の二倍が十六数ですが、「安侍日」を制定した日から、きょうが十六日目になる日です。八数を二回経たので、すべてのものがここに入ります。それで、一から十まで、すべて天の数として帰一できる立場になったので、双合十勝数なのです。その意味を知らなければなりません。そのような日を立てたのです。ですから、日の光を望むすべての万物は、神様の所有圏に回復されます。

天を称賛する話からしなさい

 さあ、そのような意味での最初の「安侍日」なので、歴史的な日です。また、きょうここでフィッシング大会をするのですが、それにより海と陸地が連結されます。先生の四十四周年の結婚記念日に、町内の人がみな参加して餅を用意しました。私は、ただ通り過ぎていくのですが、町内の人が大騒ぎしました。そしてまた、天の祝賀する出発において、麗水と順天が四十四周年を中心として因縁を結んだのです。

 町内の何人かの人が精誠を尽くして捧げたという事実は、全羅南北道において、教会を中心として市民たちを動員し、全羅南北道、慶尚南北道、忠清道、黄海道、平安南北道へ、このようにジグザグに上がっていって、また下りてくるのです。咸鏡道を中心として、一千万の離散家族がいます。その一千万は十数に該当するのです。この民族全体を中心としても八千万です。天地のすべての数理の一致圏を一つにした十勝数、勝利した十勝数を延長したものなのです。

 手の指は十でしょう? 十勝数、天地をぎゅっと握って、ひっくり返すのです。そのような勝利の日として記念するのが、きょうの「双合十勝日」なのです。「安侍日」を策定した日から、すべてのものが転換されるようになるのです。そのような意味で、すべてを知らなければなりません。説明をしなければならないのです。ですから、貴い揮毫です。歴史的な記念を表示する揮毫なので、侍さんの心に刻み、「十勝日」の上に立つ皆さんにならなければなりません。

 皆さんの良心と体が一つにならざるを得ません。うそをつくことはできないのです。私たちが会ってあいさつをするときも、冗談から始めてはいけません。天を中心として、天を称賛する意味で冗談のようなことを言うのはかまいませんが、サタンが喜ぶ冗談を言うことはできません。今まで下品な話をしました。今から私たちは、天が喜ぶ愛の言葉を語り、善の話をしなければなりません。生活も、すべてのことも、今から変わらなければなりません。

サタンの版図が崩れていく

 『天聖経』を四月十八日に天の聖書として捧げました。ついに天地の聖書として、指標と標準を定め、方向を設定したのです。出発と目的が一致する道を行くことができるようにし、復帰の理想圏の目的地と、生活圏まで教えたものが『天聖経』の内容です。ここからずれてはいけません。

 既成教会の人たちは、聖書をもって誇っていますが、私たちは、『天聖経』をもっています。その勝利の覇権が、どれほど恐ろしいか知らないというのです。自主的な主人の位置、中心の位置です。これがねじれれば、三六〇度、どこでもゆがむのです。垂直のまま行かなければなりません。そのような日を策定して、天侍日が始まったのです。「天勝日」と天侍日が始まり、安勝日と「安侍日」が始まったのです。そのようなことを理解して、今後の生活を、天が見て恥ずかしくないようにしなければなりません。

 地上の皆さんが、霊界の霊人よりも兄です。父母様に相談する生活をしなければなりません。先生が歩んだ生活を兄が守らなければならず、父母様の行った道と兄の行った道を、天上世界が手本にしなければなりません。先生の息子、娘も、先生の行った道を行こうとするので、霊界が弟の立場で従うのです。地上世界が天の国の手本になるのです。子女として手本となり、また父母の位置で神様に代わって手本となることができ、両世界を合わせた手本の基準を、私からすべて解いていかなければなりません。そのような責任が付与されたことを知らなければならないのです。深刻です。いい加減に生きることはできません。

 そのような覚悟をして参席しなければならないのです。きょう、この南側からずっと上がっていかなければなりません。ここは共産党の基地でした。麗水と順天では「南労党」と言ったでしょう。南側の国の労働党です。「南労党」とは何ですか。共産党は「北労党」と言わなければならないのに、「北労党」に「南労党」が滅ぼされたのです。それは金日成に捕まって滅びたのではなく、派閥闘争をする群れを通して、自分たち同士で処分したのです。それと同じように、全羅道と慶尚道を闘わせ、南側と北側を闘わせ、すべての版図をサタンが引っ張っていきました。今、それがすべて崩れていきます。

 一方通行です。祝福を平準化すれば、強制的にでもせざるを得ません。なぜですか。自分の家庭がめちゃくちゃなので、統一教会が嫌いでも、それを手本にすれば立ち直るのですから、やらざるを得ません。ですから、何が何でも接ぎ木してあげるのです。昼も夜も休まず、野生のオリーブの木を切り、真のオリーブの木の芽を接ぎ木して、自分の一族から野生のオリーブの木の芽がなくなり、そこには接ぎ木した真のオリーブの木の芽だけがあるようにしなければなりません。そのようにできるのが統班撃破です。

 血筋の根を抜き、逆さまになった木をまっすぐに立てるのです。そうでなければなりません。これがすべて地獄に入っていきました。これを逆さまに立てることにより、天上世界に転換されるのです。双合十勝圏の理想世界になるのです。十勝には、個人十勝、家庭十勝、すべてのものが入っていくのです。そのようなことを理解して、この日がどれほど重要なのかを覚えてくれるようにお願いします。

「双合十勝日」の縦的、横的な意義

 天勝の家庭盟誓がどれほど重要か分かりません。家庭盟誓で最後を締めくくったのです。今から皆さんは、家庭盟誓を中心として、皆さんの生活圏が宇宙を包括してしまわなければなりません。

 「双合十勝日」は、縦的な面においては、五月五日が、五数と五数が一つになって「十勝日」です。その次に、横的な面では、四月までの「先天時代」と五月からの「後天時代」の二つが合わさって転換されるのです。それで、「双合十勝日」なのです。

 蕩減復帰歴史をつづってきた歴史全体を見ても、文化の発展と文明の始まりは、どこだったでしょうか。熱帯時代です。それから秋の涼帯時代から寒帯時代へと逆さまに回ってきたというのです。神様としては、春を迎えることができませんでした。春と、天の国の夏を失ってしまったのです。温帯を失ってしまいました。

 寒帯圏の共産主義を消化して天が中心となることにより、今、初めて春を迎えることができるようになりました。これが神様の摂理史の初春です。初春を迎えて、越えていくのです。

 このような立場で見てみれば、天が、初めて春から出発し、夏から秋に越えていくのです。温帯文明・熱帯文明・諒帯文明・寒帯文明、このように回っていかなければならないのに、逆さまになりました。熱帯圏から涼帯、寒帯の共産主義へと逆さまに行ったのです。それが春の季節を迎え、温帯から熱帯、涼帯、寒帯へと回っていくことができるようになりました。

 歴史もそのようになっていたのですが、二つを一つにして勝利したのです。この手と同じです。(手のひらを合わせられる)

 このような日が制定されたことを知らなければなりません。蕩減時代の終焉、摂理時代の終結です。上下、周辺のすべてのものの秩序が定まり、神様を中心として、神の祖国と愛の平和王国時代が到来するのです。すべてのものがそこに接続することにより、地上・天上天国、開放された解放の天国、愛の天国が始まるのです! アーメン!

 「十勝日」は、五月五日です。そして、四月と五月を左手と右手でつかんで神様を中心として一つにし、「先天時代」を終わらせてしまうことによって、「後天時代」勝利の覇権的愛の主権世界を迎えるのです。ですから、万国平和の解放的神様が主人となる世界に帰るというのです! アーメン!

 それで「十勝日」が重要なのです。「十勝日」は、縦的には五月五日であり、横的には、四月と五月を神様が左手と右手で握り、上下に、前後に逆さまに回っていたものを、下を上にして反対に回すことにより、本然の世界に戻ってきて安着侍義ができる時代になるのです。ですから、「安侍日」を定めて記念するのです! アーメン!

関係がなければ関心をもってはならない

 自分に直接責任のない所では、話もせず、関心ももってはいけないのです。そうではないですか。近所に結婚する美人の女性がいても、自分と何の関係がありますか。自分と関係がないことに関心をもてば、破綻が生じるのです。自分が主人の役割を完全に果たしてから、ほかのものを願わなければなりません。主人の役割も果たせない人がそのようにすれば、どろぽうであり、詐欺師です。

 女性たちは、もっとそうです。周囲に少しでも目につく色があれば、「ああ、私もあれが欲しい。色とりどりで……」と言うのですが、色とりどりになっていれば良いのですか。どうして自分のものですか。中心がなければなりません。

 女性たちは、服を見れば、まだらで色とりどりのものを好むでしょう。ここ(祭壇の飾り)も三種類です。一つは白色、桃色、これは紫色ですか。これが天地の代表的な色です。木の実も三種類あります。野菜もありますが、野菜は、地の下に実るものではなく、地の上に実るものを供えなければなりません。

 餅も色を合わせなければなりません。このように見れば、九種類になるのではありません。これが何種類ですか。一、二、三、四です。三掛ける四で十二です。十二数です。ここに天地人父母がセンターになれば、このすべてのものが一つになるのです。それと同じ象徴です。

摂理史は経綸史により結ばれる

 それで、子丑寅卯の十二支の十二数と、甲乙丙丁の十干の十数だというのです。十二進法と十進法が一つになり、天地を引き継いでいくのです。このように、東洋哲学は明確です。東洋哲学には太陽暦と太陰暦があります。ですから、千歳暦(注:一日月星辰、節気を推算してつくった暦)があるのです。千年の歴史をつくっておいたというのです。閏月を定めて、二つがぴたっと当てはまるのです。相対が合うのです。すべてがそうです。偶然の一致ではありません。摂理史は、経綸史により、合徳一体圏の上で、すべてのものが連帯関係で結ばれます。

 合徳は、二つが一つになることですが、「徳」の字は何ですか。その中の「十」は宇宙を意味し、「四」は四位基台を意味するので、宇宙と四位基台に一心となった二人が「徳」ということです。「徳」とはどういう意味かと尋ねられれば、そのように説明するのです。二人が宇宙の四位基台の中で一心となった家庭を成し、その家庭の主人、家庭のおばさん、家庭の息子、娘を意味するのです。そのようになってこそ徳のある家の子孫どなり、主人になるのです。

 それで、「善」の字も「羊」です。善なるもの、正しいことを意味しています。「義」の字も「羊」の下に「我」と書きます。慈悲の「慈」という字も、「玄」が二つです。新しい天地を中心として、二つの相対が地にある心で一つになることを「慈悲」と言うのです。また、「仁」の字も二人です。「天」の字も二人でしょう?

 このような漢字を作った人は、東夷民族(注:中国で、東方に住む異民族を指していった言葉。黄河の中・下流地域に住む漢民族を「中華」と呼ぶのに対して、満州・朝鮮・日本などの民族を指した)です。甲骨文字を見れば、昔の韓国語、古語を使ったのです。ですから、中国の人たちが中国語を作ったのではなく、東夷民族が作ったというのです。啓示的な民族です。歴史が流れても、意味内容を、文字でそのまま表示した表意文字なので、そこに意味がすべて含まれています。

 犠牲の「犠(犧)」という字は、「牛」が左にあり、「羊」を中心として「秀」という字があり、羊を選んで捧げる、それが天の国の祭物になるということです。必ず「羊」が入っているというのです。そうではないですか。「羊」の下に「我」で、「義」という字です。義理堅いことを意味します。犠牲になることを知らない人は、義理堅い人ではないのです。それは詐欺師であり、どろぼうです。

 では、文総裁も詐欺師なのか、違うのか、私は分かりません。皆さんに対して詐欺を働き、どろぼうしたりはしません。「ため」に生きてあげ、すべてこのようにプラスしてあげるので、「先生!」と言って従ってくるのです。

 千里のすべてのものに、幻想的な存在世界に通じ得る内容を備えてこそ、名人になり、名物になるのです。芸術品や名物は、誰もが好むでしょう。これ(祭壇の食物)はどれほど素晴らしい芸術品ですか。これを私が一つでも作って食べれば、どれほど誇れるでしょうか。自分が作って食べたという事実! 作ることもできずに食べるのを好むのは、影の喜びです。実体の喜びではありません。神様が自分で作って食べる喜びを感じなければならないというのです。作ってもらったものを食べながら喜ぶのは、いけないというのです。実体を知らなければなりません。神様もそのような心があるというのです。

愛のために生まれ、愛のために生きる

 相対の価値を否定する自由圏はありません。これをすべて理論的に整理しておかなければなりません。そのような話も、すべて聞けば、「ああ、そうだなあ!」と理解できるのです。

 愛とは何でしょうか。愛の柱は生命です! 柱が必要だというのです。愛だけではいけません。柱になれる男性と女性の生命がなければなりません。生命の柱は何かというときは、血統だというのです。愛の柱は生命であり、生命の柱は血統であり、血統の柱は神様だ、このようになるのです。

 その話は簡単ですが、話を聞いただけでも気分が良いでしょう。その話が正しいか正しくないか、解いてみてください。愛の柱とは何ですか。男性と女性の生命でしょう、ほかにありますか。男性がいないのに、女性一人だけで愛が生まれますか。愛の柱は生命であり、生命の柱は何かというと血筋です。

 男性と女性が愛するのは息子、娘を生むためです。歴史を創造するためです。神様も創造されたので、私も神様のように、相対を中心として生命の柱である血統を連結するのです。血統の柱が何ですか神様の愛です。戻っていくというのです。このようにしておけば、天地のすべてのものが、さっと整理されます。愛の柱は生命なので、夫は妻を愛と同じように貴いと考えなければなりません。そのようにしなければ、柱がなくなります。妻も、愛と同じように夫を貴いと考えなければ、存在しなくなるのです。

 いくら生命をもっていると誇っても、血統がなければなりません。息子、娘が生まれて、赤ん坊から善男善女に成長できるようにするのです。その次には神様です。神様に似て、神様の赤ん坊時代、神様の子供時代、神様の青年時代、約婚時代、結婚時代、母の時代、祖母の時代、女王の時代、王の時代まで行くというのです。そのような論理が、すべて収拾されるのです。

 きょう、一つ覚えてください。愛の柱は何ですか。(生命です)。生命の柱は何ですか。(血統です)。血統の柱は何ですか。(神様の愛です)。柱というものは中心です。三六〇度の中で、柱はいくつですか。二つですか、一つですか。どのような柱ですか。愛のための柱です。父母のための愛の柱、子女のための愛の柱です。愛の柱を立てようとされる方なので、個人的中心、家庭的中心、氏族・民族・国家・世界的中心として、愛を中心として、生命を中心として、氏族を中心として愛さなければなりません。神様は愛の主人なので、万民が愛さなければ、いなくなるのです。ですから、愛のために生まれ、愛のために生きるという結論が明確になるのです。これを、きょう、贈り物として覚えておいてください。

 心と体が一つになった神様です。心と体が闘いません。心と体が闘えば、愛はなくなるのです。心と体が闘うでしょう? 闘う者たちには愛がありません。どろぼうであり、詐欺師として地獄に行くのです。私は、皆さんを利用しようとは思いません。「あの人はお金があり、立派な人が来た」と思って、よくしてあげたりはしません。すべて同じように扱います。

愛のために生命が生じ、生命のために愛が安着する

 愛の柱が下に下りてくるときには生命になるのであり、それから、生命の柱が下に下りてくるときには血統になるのです。下りてきたので、その次の血統の柱は、上がっていって神様に戻っていくのです。愛は、生命がなければなくなるのではないですか。愛はどのように生じますか。男性や女性がいなければ、愛も生じません。柱とは何ですか。中心になって全体を支えるものです。愛は男性と女性がいるから生じるのであって、男性一人がいなくても、その愛は逃げていくではないですか。

 愛の柱というものは、母胎となることができるものなのです。生命の柱は何ですか。息子、娘のほかにありますか。ですから、息子、娘のために父母が犠牲になるのではないですか。愛は、生命のために犠牲になるではないですか。神様も、息子、娘のために犠牲になられるでしょう。同じことです。

 父が貴いか、息子が貴いか。見て、どちらが立派かというとき、顔の良し悪しで決まるのではありません。愛の心のことを言うのです。「年を取った人よりも、幼い子供が天国に行く」と言いました。率直です。いくら母親がもじゃもじゃ頭で、こぶがついていても、母親の顔が好きで触るのは、赤ん坊しかいないのです。美人の母親だからといって好むのですか。おっぱいを飲みながら、触らない所がありますか。頭も触り、髪の毛も触り、すべて触るではないですか。つねったりもします。一番好きなものではないですか。

 ですから、愛は低い所に向かって流れていくのです。下りていけば、回らなければなりません。高い所に行って回ることができなければ、上がってはいかず、大きくなりません。「ため」に生きる愛はどんどん大きくなるという論理は、理論的にぴたっと当てはまるので、「ため」に生きる愛だけが宇宙を統一するという論理が成立するのです。

 愛のために生命が生じ、生命のために血統が生じ、血統のために愛が安着するのです。安着するとき、つかんで休むことができるようにするために、柱になるのです。そして、愛は下りていって回って上がっていくので、あとから神様の所に戻っていくのです。血統の基準(柱)は神様になるのです。そのように回っていかなければなりません。

「安侍日」を守る意義

 先ほども話しましたが、統一教会の摂理史観から文化の発源地を語るとき、熱帯地方で文化が出発し、その次に涼帯に行きました。「涼」の秋の季節の文明です。二十世紀の文明は、秋の季節の文明です。春の季節のように花が咲いてはいないのです。花が咲いて夏にならなければならないのですが、花もなく、春を切ってしまい、夏から始まり、秋の季節の時代に入っていったのです。西欧文明は、すべて北緯二三から六七度圏内にあります。ロンドンやドイツは、この中にあるのです。

 ですから、寒帯文明に来て、ヨーロッパを中心とする涼帯、秋の季節の文明は、冷風で完全に落ちていきます。枝まで腐り、すべて落ちていくのです。骨と皮ばかりが残ります。生命の種など、根本をすべて備えることができる因縁をもつ枝は、生き残るのです。

 春になれば、そこから新しい葉が出て、新しい花が咲き始めるのが四月であり、夏の月を迎えるのが今年の天一国四年です。それは四数です。その四月にすべてのことを清算し、五月の五数を中心として「双合十勝日」です。縦的な面では五月五日であり、横的な面では、左手で四月を握り、右手で五月を握ってすべてをひっくり返すので、「双合十勝日」から「安侍日」が始まるのです。心を安らかにして、お互いに愛で「ため」に生きる世界になるのです。

 私たちは、安息日の代わりに「安侍日」を守るのですが、その日は祝宴をして、そこに訪れる食口たちは、自分に良いものがあれば、一つでも持ってきて食口たちに分けてあげなければならず、またそうでなければ、お金を集めて貧しい人たちに分けてあげるのがよいのです。何か残せることをしてこそ、あの国、天上世界に行くときに、礼物の倉庫をもって神様にお捧げできる立場に立つので、「よくやった。よく来た」と神様が歓迎されるのです。

 天の国の祝宴を開ける大解放、釈放、天地が相続されて自分のものになるので、神様が私のお父様であり、私の主人であり、私のものになるのです。

霊界の霊人、『天聖経』に魅了

 先生は、文学的素質がたくさんあるでしょう? 十六歳で詠んだ一篇の詩に対して、世界詩人協会から一等賞を送ってきたのです。話を聞いてみれば、すべて筋が通っています。自分でじっと聞いてみると、自分でもおもしろいのです。「いやあ、学ぶことが多い。今から私が書いた説教集を覚えよう」と思うのです。

 村の真ん中に行って、らっぱを吹き、太鼓をたたき、笛を吹いて、三人だけでもついてくれば、いつでも宴会をすることができ、いつでも大会をして、いくらでも友達を集めることができると思うのです。昔、ギリシャのソフィスト(sophist)たちのように、どこに行っても弁論し、理論を語って勝てば、国や村が歓迎するようになるのです。そのようにできる内容が十分にあります。聞いてみなさい。霊界の霊人たちも、先生のみ言を聞いて、すっかり魅了されてしまったではないですか。

 皆さんが統一教会の先生が悪口を言われるようにしましたか、悪口を言われるようにしていませんか。全員、悪口を言われるようにした群れではないですか。アメリカでも、何千万里も離れたアメリカの地なのに、そこで統一教会を信じていた息子が車にひかれて死んだときには、「文総裁が捕まえて車にひかれるようにした」と新聞でたたいたのです。「おお、きれいに滅びるな、この国は」と思いました。このままでは間違いなく滅びます。事実ではないことを、うそをつき、事実のように言えば、滅びるのです。

 今からは、足の底で踏みつぶせば、粉になって飛んでいくようになるのです。無人境のような状態になるのです。状況が、何が何だか分からなくなるのです。アメリカ自体では、それを収拾することができません。今から私が離れれば、困ることになるでしょう。

今から真の父母が有名になるだろう

 最近も、だんだん食欲をなくしています。手術をしてから、まだ整備ができていません。お母様は、昔、私が好きで食べていたものを用意してくれるのですが、今はすべて食べたくありません。体質が改善されたのか、時代が変わったのか、この餅もよく食べ、食べられないものはなかったのですが、口に入れば、嫌ですべて吐き出したくなります。

 それで、それを無理やり食べれば、それが昼食なら、夕食は食べたいと思いません。それを、どうすべきかと考えます。「祝宴をやっている家に行き、歌を歌い、踊りを踊って汗を流せば、食べることができるだろう。そのように歓迎する家も、統一教会には何軒もないだろうが、統一教会の祝宴の日は、私が中心にならなければ行われず、皆さんにそのような気持ちもなく、そのようにすることができる時間もないので、おいしく食べる時間もないだろう」と考えるのです。それで、「ええい、運勢が良くなれ」と考えるのです。このような時代になるので、船に乗って行くよりも、だんだんとこのように飛行機、ヘリコプターに乗って行こうとするのです。それで、私はヘリコプターの専門家になろうと思うのです。

 昔の海の王の名前は何ですか。(張保皐です)。黒山島に行けば、張保皐の城があるそうです。張保皐というのか、何保皐というのか分かりませんが。

 私がそのように有名になるかもしれません。海で魚を捕まえることにかけては誰にも負けず、記録をもっています。ツナ・コンテストに行って、私が一等になりました。そして、「その賞金でアフリカの人たちを助けてあげなさい」と言ったのです。

一日一食を抜き、ほかの人に

 では、一日に三食食べれば、一食は誰かを接待してあげたいと思いますか、思いませんか。私たち統一教会でいえば、四位基台を考えるということです。そうではないですか。ですから、四位基台は、「ため」に生きる代表なので、「自分が三食食べるとすれば、一食を抜いてでも、ほかの人を食べさせてあげなければならない」という伝統がなければなりません。

 ですから、皆さんが食堂に行ったときに、隣におばあさんやおばさんが来て、自分は良いものを注文しているのに、安い物を注文しているとします。そのような人が二人、三人来れば、その安い物を注文している貧しいおばさんに、自分が注文した良いものを「食べなさい」と言ってあげるのです。そうすれば、その人が負債に思います。自分が食べる代わりにその人たちを助けてあげることにより、そのあとで、自分が良いものを食べても、喉が詰まらず、下痢もせず、胃が病気にならず、健康になるのです。

 そのようにして出てくれば、気分は悪くありません。財布をすべてはたいても、「今からひと月は、誰よりも良いものを自由に食べても、心に引っ掛からないなあ」と思うのです。そのように生きるのです。それは、立派な人ですか、愚かな人ですか。

 この全羅道と私と何の関係がありますか。麗水と順天は共産党の基地だったのですが、朴正煕のお兄さんまで私が解放してあげました。このような話は、聞いても分かりませんね。

 私が、韓国の三十の大財閥を中心として、一度招待しました。招待すると、その招待を受けて「私がお迎えに行きます」と答えた人が現代の鄭周永氏です。本社に訪ねていって幹部たちに会って話をしたのですが、「大統領に出馬するので助けてほしい」と言っていました。人は助けてあげても、お金を助けてあげてはいけません。

 そのとき安企部(注:安全企画部)で、「文総裁! 三億のお金をもらおうともしない。そのような人がいる! その人はどのような人なのか」と研究対象になりました。ですから、今でもびくともしないのです。すべて政治に引っ掛かっていくのですが、文総裁が引っ掛かっていきましたか。私一人だけ引っ掛からなかったでしよう。どろぼうしては駄目なのです。ところが、どろぼうして詐欺を働くやつだと烙印を押され、「ぷうっ、ぷうっ!」とされましたが、今では、「ぷうっ、ぷうっ!」とするのではなく、息を吸い込まなければならなくなっているのです。

 「千年岩」を一回歌ってみてください。それは、死ぬ臨終時に自分のことを考えながら、私はこのように生きたのか、ということを象徴する歌なのです。千年岩、万年岩というものは、統班撃破してきた歳月の四つ角で、それを見守るのです。統班撃破をして逝くのか、できずに逝くのかという問題です。峠を越えていくときは、それができなければ大変なことになるのです。そのような意味があるのです。よく聞いてください。聞いてみて、二回目は、「私は、この歌のようになる」と思い、思いきり歌いましょう。