2011年4月12日火曜日

第六章 再 臨 論

第六章 再 臨 論
第一節 イエスはいつ再臨されるか
第二節 イエスはいかに再臨されるか
第三節 イエスはどこに再臨されるか
第四節 同時性から見たイエス当時と今日
第五節 言語混乱の原因とその統一の必然性

イエスは、再臨するということを明確に言われた(マタイ一六・27)。しかし、その日とそのときは、天使もイエスもだれも知らないと言われた(マタイ二四・36)。それゆえ、今までイエスがいつ、どのようにして、どこに来られるかということに関しては、それについて知ろうとすることそれ自体が無謀なことのように考えられてきた。
しかしながら、イエスが繰り返し、「ただ父だけが知っておられる」と言われた事実や、アモス書三章7節において、「まことに主なる神はそのしもべである預言者にその隠れた事を示さないでは、何事をもなされない」と言われたみ言などを総合して考えると、その日、そのときを知っておられる神は、イエスの再臨に関するあらゆる秘密を、必ず、ある預言者に知らせてから摂理されるであろうということを、知ることができる。

神は、イエスの再臨に関しても、終末のときには神の霊をすべての人に注ぐと約束されたように(使徒二・17)、光の中にいるすべての信徒たちを通じて、耳と目とをもっている人たちには、必ず見ることができ、聞くことができるように、啓示してくださることは明らかである。

第一節 イエスはいつ再臨されるか

イエスが再臨されるときのことを、我々は終末という。ところで、現代がすなわち終末であるということに関しては、既に前編の人類歴史の終末論において明らかにした。したがって、我々は、現代がとりもなおさず、イエスの再臨なさるときであるということを知ることができるのである。

蕩減復帰の原則から見れば、前時代を実体的な同時性をもって蕩減復帰する再蕩減復帰摂理時代(新約時代)の二〇〇〇年が終わるころに、イエスが再臨されるであろうということを、我々は知ることができるのである。

我々は、第一次世界大戦が終了したあとから再臨期が始まったと見なければならないのである。


第二節 イエスはいかに再臨されるか
(一)聖書を見る観点
(二)イエスの再臨は地上誕生をもってなされる
(三)雲に乗って来られるという聖句は何を意味するのか
(四)イエスはなぜ雲に乗って再臨されると言われたのか

(一)聖書を見る観点
神は、時ならぬ時に、時のことを暗示して、いかなる時代のいかなる環境にある人でも、自由にその知能と心霊の程度に応じて、神の摂理に対応する時代的な要求を悟るようにさせるため、すべての天倫に関する重要な問題を、象徴と比喩とをもって教示してこられたのである(ヨハネ一六・25)。
聖書を解釈するに当たっては、その観点をどこにおくかということが、最も重要な問題であるといわなければならない。

(二)イエスの再臨は地上誕生をもってなされる

ルカ福音書一七章24節から25節を見ると、イエスは将来、彼が再臨されるときに起こる事柄を予想されながら、「人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない」と言われたのであった。

イエスは、このような御自身を顧みられるとき、再臨なさるときにもまた、初臨のときと同様、天だけを仰ぎ見ながらメシヤを待ち焦がれるであろうところのキリスト教信徒たちの前に、地上から誕生された身をもって、盗人のように現れるなら(黙三・3)、再び彼らに異端者として追われ、苦しみを受けることが予想されたので、そのようにこの時代の人々から捨てられなければならないと言われたのであった。

ルカ福音書一八章8節を見ると、イエスが、「あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさばいてくださるであろう。しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」と言われたみ言がある。

将来再臨されるときにおいても、すべての信徒たちが、イエスが雲に乗って再臨されるものと信じ、天だけを眺めるであろうから、御自分が再び地上に肉身をもって現れるなら、彼らも必ずこのユダヤ人たちと同じく、信仰という言葉さえも見られないほどに不信仰に陥るであろうということを予想されて、そのように嘆かれたのであった。

再び我々は、イエスが、マタイ福音書七章22節から23節にかけて、「その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』」と言われたみ言のあるのを見いだす。

創造原理において詳しく述べたように、神は無形、有形の二つの世界を創造されたのち、その祝福のみ言のとおりに、二つの世界を主管させるために、人間を霊人体と肉身との二つの部分をもって創造されたのであった。しかしながら、アダムが堕落し、

今まで地上において霊肉共に完成し、無形、有形二つの世界を主管することによって、それらを一つに和動し得た人間は、一人もいなかったのである。したがって、このような基準の完成実体として再臨されるイエスは、霊体であってはならないのである。初臨のときと同様、霊肉共に完成した存在として来られ、全人類を霊肉併せて彼に接がせて、一つの肢体となるようにすることによって(ロマ一一・17)、彼らが霊肉共に完成し、無形、有形二つの世界を主管するようになさしめなくてはならないのである。

彼が再臨されても、初臨のときと同様、地上天国をつくられ、そこで全人類の真の親となられ、また王とならなければならないのである。それゆえに、イエスは再臨されるときにも、初臨のときと同様、肉身をもって地上に誕生されなければならないのである。
また、人間の贖罪は、彼が地上で肉身をつけている場合にのみ可能なのである(前編第一章第六節(三)(3))。それゆえに、イエスは、この目的を達成するため、肉身をもって降臨されなければならなかったのである。

今まで調べてきた、あらゆる論証に立脚してみるとき、イエスの再臨が、地上に肉身をもって誕生されることによってなされるということは、だれも疑う余地のないものといわなければならない。

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