2011年7月30日土曜日

平和を愛する世界人として 第一章 ご飯が愛である-幼少時代 3

牛を愛せば牛が見える 42

*目に入るものはすべてを知り尽くして初めて満足する性格だったので、何でも大まかに知ってそれで終わりということはありませんでした。「あの山の名前は?あの山には何があるのだろう?」という疑問が浮かぶと、必ず行ってみたものです。幼い頃、二十里 (約八キロメートル) 四方にある村々の山の頂という頂には全部登ってみました。その山に行く途中も行かない所がありませんでした。そうやってこそ朝日が照らすあそこに何があるかを心に思い浮かべ、心置きなく眺めることができるのであって、分からないと眺めるのも嫌になります。目に入るものは、その向こう側にあるものまですべて知らなければ気が済まず、我慢できませんでした。
*ですから、山に行って触ってみなかった花や木がありません。目で見るだけでは物足りず、花も木も触ってみたり、匂いを嗅いでみたり、口に入れてみたりしました。その香りと食感があまりに心地良くて、一日中草木の匂いを嗅いでいなさいと言われても嫌ではありませんでした。良き自然に魅了されて、外に行けば家に帰るのも忘れてしまい、野山を歩き回りました。太陽が沈んで薄暗くなっても恐ろしいとは思いませんでした。
*姉たちが山菜採りに行く時は、私が先頭になって山に登って、山菜をもぎ取りました。おかげで、味が良くて栄養価のある青菜も種類別に全部分かるようになりました。その中で、好物と言えば苦菜です。薬味を加えた醤油で和えて、ビビンバに入れてコチュジャンと混ぜて食べると、味が一級品でした。苦菜は、食べるとき口に含んでちょっと息を止めます。そうやって一呼吸置いてよく蒸らすうちに、苦菜の苦味が消えて、口の中に甘味が染み出してきます。そのコツがうまくつかめると、非常に美味しく苦菜を食べることができます。
*木登りも好きで、わが家にあった樹齢二百年の大きな栗の木を登り降りしました。村の入り口の外まで大きく広がった展望がどれだけ素晴らしいことか。木のてっぺんまで上がって、いつまでも降りようとしませんでした。
*ある時、夜中まで登っていたら、すぐ上の姉が眠らずに私を捜しに来て、危険だと大騒ぎしたことがあります。
「龍明、お願いだから降りてきなさい。夜遅いから、早く戻って寝なければ」
「眠くなったらここで寝ればいいよ」
姉に何を言われようと、私は栗の木の枝に座ってびくともしません。すると、腹を立てた姉が怒鳴りました。
「こら、猿!早く降りてこい!」
私が木登りを好んだのは申年生まれだったせいかもしれません。
*栗の木に毬栗が鈴生りに垂れ下がるようになると、あっちの木こっちの木と、折れた木の枝を使って毬栗をゆらゆら動かして回りました。毬栗がぽとぽと地面に落ちていくので、この遊びも本当に面白いものでした。都会暮らしの最近の子供たちがこういう面白さを知らないのは実に残念なことです。
*自由に空を飛び回る鳥も私の関心の対象でした。なかなかきれいな鳥が飛んでくると、雄はどうなっているのか、雌はどうなっているのかと、実地にいろいろ調べて研究しました。その頃は木や草や鳥の種類を教えてくれる本がなくて、自分で詳しく調べてみる以外方法はなかったのです。渡り鳥の後を追って山をあちこち捜し回ろうとし、おなかが空いても気になりませんでした。
*ある時、カササギがどうやって産卵するのかひどく気になって、朝な夕なカササギの巣がある木を登り降りしました。毎日のように木登りして観察したので、実際に卵を産む場面も見たし、カササギとも友達になりました。
「カッカッカッカッ」
カササギも初めは私を見ると、しきりに鳴いてやたらと騒いだのですが、後になるとじっとしていました。
*周辺の草むらの虫も私の友達でした。毎年夏の終わり頃になると、私の部屋の前にある柿の木のてっぺんでヒグラシが鳴きました。夏の間中ミンミンミンと耳痛く鳴いていたセミの声がぱったり途絶えて、ヒグラシが鳴き始めると、どれだけほっとするかしれません。もうすぐ蒸し暑い夏が去り、涼しい秋が来るという季節の変わり目を告げる鳴き声だったからです。
「カナ、カナカナカナカナ」
そうやってヒグラシが鳴くたびに、私は栗の木に登って考えました。
「そうだな。穴に入って鳴いたって誰も気がつかないさ。やっぱり、どうせ鳴くなら、ああいう高い所で鳴いたら村の人みんなに聞こえていいよなあ」
*ところで、分かってみると、ミンミンゼミもヒグラシもすべて(人に聞かせるためではなく)
愛のために鳴くのでした。ミンミンミンもカナカナカナも鳴き声は皆、連れ合いを呼ぶ信号だと知ってからは、虫の声が聞こえるたびに笑いが込み上げました。
「そうか、愛が恋しいというのか。熱心に鳴いて、素敵な連れ合いを見つけろよ」
このように自然界の生き物と友達になって、彼らと心を通わせる方法を少しずつ悟っていきました。
*故郷の家から十里(約四キロメートル)西に行くと黄海です。少し高い所に登るだけで広々とした海が見えるほど、海は近くにありました。溜め池がいくつもあって、そこに小川の水が流れ込んでいました。下水のにおいがする池に入り、中をあさって、ウナギとカニを上手に捕まえたものです。池の中のあらゆる場所を探って魚を捕まえてみると、どこにどんな魚が棲んでいるのかよく分かりました。ウナギはもともと広い所に腹ばいでじっとしているのが嫌いで、穴に隠れます。頭を穴に押し込んでも、長い体を全部は入れることができず、尻尾がちょこっと出ているのが普通です。その尻尾らしきものを口で噛んで捕まえれば間違いないのです。カニの棲む穴のような所に、ウナギは尻尾を出してじっと潜んでいました。わが家に来客があって、お客様がウナギの煮詰めたものを所望されたときは、十五里(約六キロメートル)の道をぶっ通しで走っていってウナギを五匹ほど捕まえてくるのは訳もないことでした。夏休みになれば一日に四十匹以上、いつも捕ってきたからです。46
*私が唯一嫌だったのは、牛に牧草を食べさせることでした。父から牛に食べさせてこいと言われると、向こう側の村の野原に牛をつないでおいて、その場から逃げてしまいました。しばらくの時間逃げて、心配になって戻ってみると、牛は相変わらずその場所につながれていました。半日近く過ぎても自分に食べさせてくれる人が来なければ、牛はモーと鳴きます。遠くで牛の鳴き声が聞こえてくると、私はいたたまれなくなって、「牛の奴め。あいつめ、あいつめ……」と言って苛立ちました。おなかが空いたと私を捜して鳴く声を、気にしないようにしても気になって仕方がなく、胸がつぶれる思いをしました。それでも、夕方遅くに行ってみると、怒って角で私を追い返そうとすることもなく喜んでいました。そんな牛を見るたびに、人間も大きな志の前では牛と同じでなければならないと考えました。愚直に時を待てば良いことに出会うようになるものです。
*わが家には、私がとてもかわいがっていた犬がいました。利口な犬で、学校から戻ってくると家の外の遠くまで迎えに来ました。私を見つけるとうれしそうにするので、いつも右手で触ってやりました。そのせいか、犬がたまたま私の左側に来ても、さっと回って右側に来て、私に顔をすりつけてきます。そのときは右手で顔を触って顔や頭をごしごししてやり、背中を撫でてやりました。そうしないと、キャンキャン吠えては付いてきて、私の周りをぐるぐる回るのです。
「こいつ、愛が何であるのか分かるのか。それほど愛がいいのか」
*動物も愛を知っています。雌鶏が雛をかえすために卵を抱いている姿を見たことがあるでしょうか。卵を抱いた雌鶏は、深刻そうな目をして、誰も近くに来ないように足を踏みならして、一日中座っています。雌鶏が嫌がるのは承知の上で、私は鶏小屋を随時出たり入ったりしました。入っていくと、雌鶏は怒って、首を真っすぐに立てて私を睨みつけます。私も負けじと睨み返します。あまり頻繁に出入りしたので、後になると、最初から私を相手にしなくなりました。しかし一度だけ、神経が高ぶったのか、卵を守ろうと足の爪を長く伸ばして、ピューンと飛んで私をつつこうとしたことがあります。結局、卵が気になってその場を離れられず、徒労に終わりましたが。47
*卵を抱いた雌鶏は、私がわざと近くに行って羽を触ってもぴくりともしませんでした。おなかの羽毛が抜けてしまうほど卵を守って座り続け、やがて雛を誕生させます。そうやって母子が愛でしっかりと一つになっているので、卵を抱いた雌鶏の権威の前では雄鶏も好き勝手なことはできません。「誰であろうと、ちょっとでも触ってみろ。黙っちゃいないぞ!」という天下の大王の権威を持っているのです。
*雌鶏が卵を抱いて守ることが愛であるように、豚が子を産むことも愛です。豚が出産する様子も見守りました。親豚がウーンと稔って力むと子豚がつるっと落ち、またウーンと捻って力むとつるっと出てきました。猫も犬も同様です。目も開けられない動物の子供たちが、ウーンと力むたびにこの世界に出てくるのを見ると、うれしくて自然と笑みがこぼれます。しかしながら、動物の死を見るのは実に悲しいことです。
*村から少し離れた所に屠畜場がありました。牛が屠畜場に足を踏み入れると、白丁(屠畜などに従事する当時の被差別民)が出てきて、腕ほどの太さの金槌で牛をドーンと一撃します。大きな牛がばたりと倒れて、すぐに皮を剥ぎ、足を取り外します。足を取り外した後でも、切られた箇所がずっとぴくぴくしているのです。生命が死にきれなくて生きているのです。それを見ると涙があふれて、わんわん泣きました。48
*私は幼い時から人並み外れているところがありました。神通力があるかのように、人々が知り得ないことをかなりよく言い当てました。幼い頃から、「雨が降る」と言えば間違いなく雨が降ったし、家の中に座って「あの上の村の誰々お爺さんが危ないだろう」と言えば、そのとおりになりました。そんな能力があったので、七歳の時から村々で見合いをしてあげるチャンピオンになりました。新郎と花嫁の写真を二枚だけ持ってくればすべて分かりました。「この結婚は良くない」と言ったのに結婚すれば、全部壊れてしまいました。そのように良縁を結んであげることを九十歳になるまでしたのですから、その人が座ったり、笑ったりするのをさっと見ただけで、すべて分かるようになりました。
*姉が今何をしているのかも、集中して思念してみるとすべて知ることができました。精神を統一し、集中して思念すれば、全部分かりました。ですから、姉たちは私を好きでありながらも、一方で私を恐れました。私が彼女たちの秘密を何でも知っていたからです。凄い神通力のように見えますが、実際のところ、これは別段驚くようなことではありません。取るに足りない蟻でさえも、梅雨の始まりを知って前もって避難するではありませんか。人間も自分の行く道を先んじて知らなければなりません。それを知るのはそれほど難しいことでもありません。カササギの巣を詳しく観察すれば、風がどこから吹いてくるかを知ることができます。どこからか風が吹いてくれば、カササギはその反対側に入口をさっと作っておきます。木の枝をくわえてごちゃごちゃと絡み合わせた後、雨水が入らないように巣の下と上に赤土をくわえてきて塗ります。そうしてから木の枝の端をすべて一つの方向に揃えます。家の軒のように雨水が一箇所にだけ流れるようにするのです。カササギにもこれだけの生きる知恵があるのに、人間に
なぜそういう能力がないのでしょうか。
*父と一緒に牛の市場に行って、「お父さん、あの牛は良くないから買っては駄目です。良い牛はうなじがしっかりして、前足が立派で、後ろと腰ががっしりしていなければならないのに、あの牛は全然そうじゃない」と言えば、必ずその牛は売れませんでした。父に「おまえはそんなことをどうやって知ったのか」と言われたので、私は「お母さんのおなかの中で学んで生まれました」と答えました。もちろんそれは、そんなふうに言ってみただけです。
*牛を愛すれば牛が見えるのです。この世で最も力強いのが愛であり、一番恐ろしいのは精神統一です。心を落ち着かせ静めていくと、心の奥深い所に心が安らぐ場があります。その場所まで私の心が入っていかなければなりません。心がそこに入って眠って目覚めるときには、精神がとても鋭敏になります。まさにその時、雑多な考えを排除して精神を集中すればすべてのことに通じます。疑問に思ったら、今すぐにでもやってみたらよいでしょう。この世のすべての生命は、自分たちを最も愛してくれるところに帰属しようとします。ですから、真に愛さないのに所有し支配することは偽りなので、いつかは吐き出すようになっているのです。

草むらの虫と交わす宇宙の話 50

*森の中にいれば心が澄んできます。木の葉がしきりにカサカサする音、風が葦を揺らす音、水場で鳴くカエルの鳴き声といった自然の音だけが聞こえ、何の雑念も生じません。そこで、心をがらんと開け、自然を全身で受け入れれば、自然と私は別々のものではなくなります。自然が私の中に入ってきて、私と完全に一つになるのです。自然と私の問の境界がなくなる瞬間、奥妙な喜びに包まれます。自然が私になり、私が自然になるのです。
*私はそのような経験を生涯大事にしまって生きてきました。今も目を閉じれば、いつでも自然と一つになる状態が訪れます。ある人は無我の状態だとも言いますが、私を完全に開放したところに自然が入ってきてとどまるのですから、事実は無我を超えた状態です。その状態で、自然が話しかける音を聞くのです。松の木が出す音、草むらの虫が発する音……。そうやって私たちは友達になります。
*私は、その村にどんな心性を持った人が住んでいるか、会ってみなくても知ることができます。村の野原に出て一晩過ごし、田畑で育つ穀物の言葉に耳を傾ければ、おのずと分かるようになります。穀物が嘆息するのか喜ぶのかを見れば、村人の人となりを知ることができるのです。
*韓国と米国、さらには北朝鮮で何度か監獄に入っても、他の人のように寂しいとかつらいとか思わなかったのも、すべてその場所で風の音を聞くことができ、共に暮らす虫たちと会話を交わすことができたからです。
「虫たちと一体どんな話をするんだ!」と疑うこともできますが、ちっぽけな砂粒一つにも世の中の道理が入っており、空気中に浮かぶ埃一つにも広大無辺な宇宙の調和が入っています。私たちの周りに存在するすべてのものは、想像もできないほどの複合的な力が結びついて生まれているのです。また、その力は密接に連関して相互につながっています。大宇宙のあらゆる存在物は、一つとして神の心情の外で生まれたものはありません。木の葉一枚揺れることにも宇宙の息遣いが宿っています。
*私は幼い頃から山や野原を飛び回って、自然の音と交感する貴重な能力を与えられました。自然はあらゆる要素が つのハーモニーをなして、偉大で美しい音を作り出します。誰一人として排除したり無視したりせず、どんな人でも受け入れて調和をもたらします。自然は、私が困難にぶつかるたびに私を慰めてくれたし、絶望して倒れるたびに私を奮い立たせました。大都市に生きる最近の子供たちは自然と親しむ機会すらありませんが、感性を教え育むことは知識を養うことより重要です。自然を感じる心がなく、感性が乾いた子供であるならば、誰が教育したところで何が変わるでしょうか。せいぜい世間に広まった知識を積み上げて個人主義者になるだけです。そんな教育では、物質を崇拝する唯物論者ばかりを作り出すことになってしまいます。
*春の雨はぽつぽつ降り、秋の雨はぱらぱら降る、その違いを感じることができなければなりません。自然との交感を楽しめる人であってこそ正しい人格が身に付くと言えます。道端に咲いたタンポポ一本が天下の黄金よりも貴いのです。自然を愛し、人を愛することのできる心を備えておくべきです。自然も、人も愛せない人は、神を愛することはできません。神が創造された万物は神ご自身を表す象徴的な存在であり、人は神に似た実体的な存在です。万物を愛することのできる人だけが神を愛することができます。

「日本人はどうぞ日本に帰りなさい」 53

*誤解のないように付け加えておくと、私は野山を歩き回って四六時中遊んでいたわけではありません。兄を助けて野良仕事も熱心にやりました。農村には、季節ごとにやらなければならない仕事がたくさんあります。田や畑を耕し、田植えをし、田畑の草取りもしなければなりません。草取りの中で最もつらいのが、粟の畑で雑草を取る作業です。種を蒔いた後、畝間の除草を三回はしないといけないのに、粟畑の除草は重労働で、一回やり終えるごとに腰が曲がるほどでした。サッマイモは赤土に植えて育てると味がなく、砂土に赤土を三分の一ほど混ぜた土壌で育てると甘いサツマイモを収穫できます。トウモロコシを育てるには、人糞の堆肥が最も良いため、手で糞をこねまわして粉末を作ることもしました。野良仕事を手伝ってみて、どうやれば良い豆や良いトウモロコシができるのか、どんな土に豆や小豆を植えればいいのか、自然と分かるようになりました。ですから、私は農夫の中の農夫です。
*平安道はキリスト教文物が早くから入ってきた所で、一九三〇年代、四〇年代にすでに農地が真っすぐに整理されていました。田植えをするときは、一竿を十二間に分けて一間 (普通、一間は六尺で約一・八ニメートル) ごとに目印を付けておき、この長い竿を少しずつ移動させて、二人で六列ずつ動きながら整然と苗を植えていきます。後に韓国に来てみると、竿もなく、ただ列の線を引いただけで、一列に数十人ずつ入って、じゃぶじゃぶと行ったり来たりして植えるやり方で、実にもどかしく見えました。足を指尺二つ分の幅に開けて立ち、素早く植えるのがコツです。私が農繁期に田植えを手伝っただけでも学費程度は十分稼ぐことができたのです。
*九歳になると、父は私を近所の書堂に送りました。書堂では、一日に本一ページだけ覚えればよいとされていました。三十分だけ集中して覚えて、訓長(先生)の前に立ってすらすら詠ずれば、その日の勉強は終わりです。
*年老いた訓長が昼食の前後三時間ほど昼寝に入ると、私は書堂を出て、野山を歩き回りました。山に行く日が増えれば増えるほど、草や実など食べ物の在り処にも精通するようになり、そうなると次第に食べる量が増えて、それだけで食の問題を解決しました。ですから、昼食や夕食は必要ないのです。その時から、私は家で昼食を取らずに山に行くようになりました。
*書堂に通って『論語』『孟子』を読み、漢字を学びましたが、文字はかなり上手に書きました。おかげで十一歳の時から、訓長に代わって、子供たちが手本にする書を書くようになりました。ところで、実を言うと私は書堂より学校に通いたかったのです。世の中は飛行機を造っているのに、「孔子曰く」「孟子曰く」でもないだろうと思ったからです。その時が四月で、父がすでに一年分の授業料を全額払った後でした。それを知りながら書堂をやめると決心して、父を説得しました。祖父も説得し、叔父までも説得しました。当時、普通学校に移ろうとすれば編入試験を受ける必要があり、試験に合格するには塾に入って勉強しなければなりませんでした。私はいとこまでけしかけて、圓峰の塾に入って、普通学校編入のための勉強を始めました。
*十四歳になった一九三四年、編入試験を受けて私立五山普通学校の三学年に入りました。入った時は人より遅れていましたが、勉強ができて五学年に飛び級しました。五山学校は家から二十里(約八キロメートル)も離れた所にあります。しかし、私は一日も休まず、毎日決まった時間に歩いて行きました。峠を越えると他の子供たちが待っていて、私が先に立ってサッサッサッと早足で歩いていくと、彼らは付いてくるのが大変そうでした。平安道の虎が出てくる恐ろしい山道を、そうやって歩いて通いました。
*五山学校は独立運動家である李昇薫先生が建てた民族学校です。日本語を教えないだけでなく、初めから日本語を使えないようにしました。しかし、私の考えは少し違っていて、敵を知ってこそ敵に勝つことができると考えました。それで、再び編入試験を受けて、今度は定州公立普通学校四学年に入りました。公立学校の授業はすべて日本語です。初登校の前夜、辛うじて片仮名と平仮名だけを覚えて登校しました。それでも、日本語が全然できなくて困り、一学年から四学年までの教科書を十五日以内に全部覚えました。そうやって初めて耳が通じたのです。
*おかげで、普通学校を卒業する頃には、日本語を流暢に話せるようになっていました。卒業式の日、定州邑 (邑は面の中で人口が多く商工業が盛んな地域を指し、日本では町にあたる) の主立った名士が皆、学校に集まってきました。私は志願して、彼らを前にして演説をしました。感謝の言葉を述べたのではありません。この先生はどうであり、あの先生はどうであり、学校制度にはこのような問題があって、この時代の指導者はこういう覚悟で臨むべきだ等々、批判的な演説を日本語で続けざまにやりました。
「日本人は一日も早く荷物をまとめて日本に帰りなさい。この地は、わが国の者たちが子々孫々にわたって生きていかなければならない先祖から受け継いだ遺産です!」
*そういう演説を、警察署長、郡守、面長すべてが集まった前でやりました。潤國大叔父の魂を受け継いで、あえて誰も言えない言葉をぶつけたのです。聴衆がどんなに驚いたかしれません。演壇を降りる時に見てみたら、彼らの顔は灰色に曇り、呆然としていました。
*問題はその後です。日本の警察は、その日から私を要注意人物としてマークし、私の行動をあれこれと監視し、うるさく付きまといました。後には、日本に留学しようとした際、警察署長が書類に判を押してくれなくて、ひどく苦労しました。日本に送るわけにはいかない要注意の青年として拒絶したのです。結局、警察署長と激しく争って、強く訴えた後になって、ようやく日本に渡って行くことができるようになりました。

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