2011年7月29日金曜日

平和を愛する世界人として 第一章 ご飯が愛である-幼少時代

第一章 ご飯が愛である-幼少時代



誰とでも友達になる 24

*私は心に決めたことがあれば、すぐに実行に移さなければ気が済まない性格です。そうしないと夜も眠れませんでした。やむなく夜が明けるのを待たなければならないときは、 晩中まんじりともしないで壁をしきりに掻きました。掻きすぎて壁がすっかりぼろぼろになり、夜の間に土の屑がうずたかく積もるほどでした。悔しいことがあれば夜遅くでも外に飛び出して、相手を呼んでひとしきり喧嘩もしたので、そんな息子を育てる両親の心労は重なるばかりでした。
*特に、間違った行動は見過ごしにできず、子供たちの喧嘩があると、まるで近所の相談役にでもなったかのように、必ず間に入って裁定し、非のある方を大声で怒鳴ったりしました。ある時は、近所で勝手気ままに横暴を働く子供のお祖父さんを訪ねて、「お祖父さん、お宅の孫がこんなひどいことをしたので、ちゃんと指導してください」とはっきり忠告したこともあります。
*行動は荒っぽく見えても、本当は情が深い子供でした。遅くまで祖母のしぼんだおっぱいを触って寝入るのを好みましたが、祖母も孫の甘えをはねつけはしませんでした。嫁に行った姉の家に遊びに行き、姑をつかまえて、餅を作ってほしい、鶏を屠ってほしいとねだっても嫌われなかったのは、私の中に温かい情があると大人たちが知っていたからです。
*とりわけ私は、動物を世話することにかけては並外れていました。家の前の木に巣を作った鳥が水を飲めるように水たまりを作ってやったり、物置から粟を持ってきて庭にサーッと撒いたりしました。初めは人が近づくと逃げていった鳥たちも、餌をくれるのは愛情の表れだと分かったのか、いつの間にか私を見ても逃げなくなりました。魚を飼ってみようと思って、魚を捕って水たまりを作って入れておいたことがあります。餌も一つまみ入れてやりましたが、次の日、起きてみると皆死んでいました。きちんと育てたかったのに、力なく水に浮かぶ姿を見ると、ひどく胸がふさがって一日中泣きました。
*父は数百筒もの養蜂を手がけていました。大きな蜂筒に蜂の巣の基礎になる原板の小草を折り目細かくはめ込んでおくと、そこにミッバチが花の蜜を運んできて、蜜蝋を分泌し、巣を作って蜜を貯蔵します。好奇心旺盛だった私は、ミツバチが巣を作る様子を見ようと蜂筒の真ん中に顔を押し込んで刺されてしまい、顔が挽き臼の下に敷く筵みたいに腫れ上がったことがあります。
*蜂筒の原板をこっそり引き抜いて隠し、きつ叱られれたこともありました。ミツバチが巣を作り終えると、父は原板を集めて何層にも積んでおくのですが、その原板にはミッバチが分泌した蜜蝋が付いていて、油の代わりに火を付けることもできました。ところが、私はその高価な原板をカランコロンとひっくり返しては、石油がなくて火を灯せない家々に、蝋燭に使ってくださいと分け与えたのです。そんなふうに自分勝手に人情を施して、父からこっぴどく叱られました。
*十二歳の時のことでした。その頃は娯楽といえるようなものがなくて、せいぜいユンノリ(朝鮮半島に伝わるすごろくに似た遊び)か将棋、そうでなければ闘牋(花札が普及する前に行われていた賭博の一種)があったぐらいです。
*私は大勢で交わって遊ぶのが好きで、昼はユンノリや凧揚げなどをし、夕方から近所の闘牋場に頻繁に出入りしました。闘牋場で一晩過ごせば百二十ウォンほどのまとまったお金は稼げます。私は三ゲームもやればそれだけ稼ぎました。陰暦の大みそかや正月十五日頃が闘牋場の最盛期です。そういう日は、巡査が来ても大目に見て、捕まえることはしません。私は大人たちが興じている闘牋場に行って、一休みしてから、明け方頃にぴたっと三ゲームだけやりました。そうやって稼いだお金で水飴を丸ごと買って、「おまえも食べていけよ。おまえもどうだ」と言って、近所中の子供たちに分け与えました。そのお金を絶対に、自分のために使うとか、悪事を働くのに使ったりはしませんでした。
*義理の兄が家に来れば、財布のお金を自由に出して使いました。そうしていいとあらかじめ許可をもらっていたからです。義理の兄のお金で、かわいそうな子供たちに飴玉も買ってあげ、水飴も買ってあげました。
*どの村でも、暮らし向きがいい人もいれば悪い人もいました。貧しい友達が弁当に粟飯を包んでくるのを見ると、やるせなくて自分のご飯が食べられず、友達の粟飯と交換して食べました。私は、裕福で大きな家に住む子供よりは、生活が苦しくてご飯を食べられない子供とより親しかったし、何としてでもその子の空腹の問題を解決しようとしました。それこそが私の一番好きな遊びだったからです。年齢は幼くても、すべての人の友達に、いや、友達以上にもっと心の奥深くでつながった人にならなければならないと思いました。
*村人の中に欲の深い男性が一人いました。村の真ん中にそのおじさんのマクワウリ畑があって、夏になると甘い匂いが漂い、畑の近くを通る村の子供たちは食べたくてうずうずします。それなのに、おじさんは道端の番小屋に座って、マクワウリを一つも分け与えようとしません。ある日、「おじさん、いつか一度、マクワウリを思いっ切り取って食べてもいいでしょ」と私が尋ねると、おじさんは「いいとも」と快く答えました。そこで私は、「マクワウリを食べたい者は袋を一つずつ持って、夜中の十二時にわが家の前にみんな集まれ!」と子供たちを呼び集めました。それからマクワウリ畑に群れをなして行き、「みんな、心配要らないから、好きなように一畝ずつ全部取れ!」と号令をかけました。子供たちは歓声を上げて畑に走って入っていきあっという間に数畝分を取ってしまいました。その晩、おなかの空いた村の子供たちは、萩畑に座って、マクワウリをおなかが破裂しそうになるくらい食べました。
*次の日は大騒ぎです。おじさんの家を訪ねていくと、蜂の巣をつついたようでした。おじさんは私を見るやいなや、「この野郎、おまえがやったのか。マクワウリの農作業を台無しにしたのはおまえか!」と言って、顔を真っ赤にしてつかみかからんばかりの勢いでした。私は何を言われても動じないで、「おじさん、思い切り食べてもいいと言ったじゃないですか。食べたくてたまらないみんなの気持ちが僕にはよく分かるんです。食べたい食べたいと思っている子供たちに、マクワウリを一つずつ分けてやるのと、絶対に一つもやらないのと、どっちがいいんですか!」と問い詰めました。すると、かんかんになって怒っていたおじさんも、「そうだ、おまえが正しい」と言って引き下がりました。

私の人生の明確な羅針盤 29

*私たちの本貫は全羅道羅州の東にある南平です。曾祖父文禎紘は高祖父文成学の息子で、三兄弟の末弟でした。曾祖父にも致國、信國、潤國の三兄弟の息子がおり、私たちの祖父は長兄に当たります。
*祖父の致國は学校にも通わず書堂 (日本の寺子屋に似た私塾)にも行ったことがないため、字は一つも知りませんでしたが、聞いただけで『三国志』をすべて暗記するほど集中力がずば抜けていました。『三国志』だけではありません。誰かが面白い話をすると、それを全部頭に入れてすらすらと暗唱しました。何でも一度だけ聞くと全部覚えてしまいます。祖父に似て、父も四百ページ以上ある「讃美歌』をすべて暗記して歌いました。
*祖父は「無条件に与えて生きなさい」という曾祖父の遺言によく従いましたが、財産を守ることはできませんでした。末弟の潤國大叔父が一族の財産を抵当に取られて、すっかりなくしてしまったからです。それからというもの、家族、親族の苦労は並大抵ではありませんでした。しかし、祖父も父も、潤國大叔父を一度も怨みませんでした。なぜなら、賭博に手を出して財産を失ったわけではなかったからです。大叔父が家の財産を担保にして借りたお金は、すべて上海臨時政府(一九一九年四月に上海で組織された亡命政府。正式には大韓民国臨時政府)に送られました。当時、七万円といえば大金でしたが、大叔父はその大金を独立運動の資金に使い果たしてしまったのです。
*潤國大叔父は朝鮮耶蘇教長老会神学校を卒業した牧師です。英語と漢学に秀でたインテリでした。徳彦面 (面は日本の村に相当する行政区分で、郡の下、里の上に位置する) の徳興教会をはじめとして三つの教会の担当牧師を務め、崔南善先生などと共に一九一九年の三・一独立宣言文を起案しました。独立宣言文に署名するキリスト教代表十六人のうち徳興教会の関係者が三人になると、大叔父は民族代表の立場を自ら降りました。すると、五山学校(民族意識の高揚と人材育成を目的とした初等。中等教育機関) の設立に志を同じくした南岡・李昇薫先生は、潤國大叔父の両手を握って涙を流し、万一、事に失敗したならば、後を引き受けてほしいと頼んだといいます。
*故郷に戻ってきた大叔父は、万歳を叫んで街路にあふれ出てきた人々に太極旗 (現在の大韓民国の国旗で、元は一八八三年に朝鮮国の国旗として公布されたもの) 数万枚を印刷して配りました。そして同年三月八日、定州郡の五山学校の校長と教員、学生二千人以上、各教会信徒三千人以上、住民四千人以上と会合し、阿耳浦面事務所の裏山で独立万歳のデモを率いて逮捕されました。大叔父は二年の懲役刑を宣告され、義州の監獄でつらい獄中生活を送りました。翌年、特赦で出監したものの、日本の警察の迫害が激しくて一箇所に留まることができず、あちこちに身を隠していました。
*警察の拷問を受けた大叔父の体には、竹槍で刺されて、ぼこっとへこんだ大きな傷跡がありました。鋭くとがった竹槍で両足と脇腹を刺す拷問を受けても、大叔父はついに屈しなかったといいます。激しい拷問にもまるで言うことを聞かないので、警察が、独立運動さえしなければ郡守(郡の首長)の職でもやろうと懐柔してきたりもしました。すると、かえって「私がおまえら泥棒の下で郡守の職に飛びつくとでも思ったのか」とすさまじい剣幕で、大声で怒鳴りつけたといいます。
*私が十七歳頃のことです。潤國大叔父がわが家にしばらく滞在していると知って、独立軍の関係者が訪ねてきたことがありました。独立運動の資金が不足して援助を乞いに、雪が降り注ぐ夜道を歩いてきたのでした。父は寝ている私たち兄弟が目を覚まさないように掛け布団で顔を覆いました。すでに眠気が吹っ飛んでいた私は、掛け布団を被って両目を大きく見開いたまま、横になって大人たちの話し声に聞き耳を立てました。母はその夜、鶏を屠り、スープを煮て、彼らをもてなしました。
*父がかけた掛け布団の下で息を殺して聞いた大叔父の言葉は、今も耳の奥に生き生きと残っています。大叔父は「死んでも国のために死ぬなら福になる」と話していました。また、「いま目の前に見えるのは暗黒であるが、必ず光明の朝が来る」とも話していました。拷問の後遺症から体はいつも不自由でしたが、声だけは朗々としていました。
「あんなに偉大な大叔父がなぜ監獄に行かなければならなかったのだろう。われわれが日本よりもっと力が強ければ、そうはならなかったのに……」と、もどかしく思った気持ちもよく覚えています。
*迫害を避けて他郷を転々とし、連絡が途絶えた潤國大叔父の消息を再び聞くようになったのは、一九六八年、ソウルにおいてでした。従弟の夢に現れて、「私は江原道の施善の地に埋められている」と言ったそうです。従弟が夢で教えられた住所を訪ねていってみると、大叔父はすでに十年前に亡くなっていて、その地には、雑草が生い茂った墓だけが堂々と残っていました。私は潤國大叔父の遺骨を京畿道披州に移葬しました。
*一九四五年八月十五日の光復以後、共産党が牧師や独立運動家をむやみやたらと殺害する事件が起きました。大叔父は幸いにも難を逃れ、家族に迷惑をかけないように共産党を避けて、三八度線を越えて南の旌善に向かいました。しかし、家族も親族もその事実を全く知らずにいました。旌善の深い山奥で書を売って生計を立て、後には書堂を建てて学問を教えたといいます。大叔父に学問を学んだ弟子たちの言葉によれば、平素は即興で漢詩を作って楽しんだそうです。そうして書いた詩を弟子たちが集めておいて、全部で百三十首以上になりました。

「南北平和」

在前十載越南州
流水光陰催白頭
故園欲去安能去
別界薄遊為久游
袗稀長着知當夏
闘紈扇動揺畏及秋
南北平和今不遠
候簷児女莫深愁

*十年前、北の故郷を離れて南に越えてきた
流水のように歳月が経ち、私の頭は白くなった
北の故郷に帰りたいが、どうして帰ることができようか
しばし他郷に留まるつもりが、長い間留まることになった
葛布の衣を着ると、暑さで夏が来たことを感じ
扇子をあおぎながら、もうすぐ秋が訪れると思う
南北の平和は遠からずやって来るので
軒下で待つ人々よ、あまり心配するな

*家族から離れて、見知らぬ旌善の地に生活しながらも、潤國大叔父の心は憂国の真情に満ちていました。大叔父はまた、「蕨初立志自期高 私慾未嘗容一毫(初め志を立てるときは自ら進んで高い目標を掲げ、私欲は体に生えた黒くて太い毛の先程度でも許してはならない)」という詩句も残しました。独立運動に従事した功績が韓国政府から認められたのは非常に遅く、一九七七年に大統領表彰、一九九〇年に建国勲章が追叙されました。
*数多い試練に直面しながらも、一心不乱に国を愛してきた大叔父の心が見事に表現された詩句を、私は今も時々口ずさみます。最近になって、年を取れば取るほど潤國大叔父のことを思い出すのです。国の行く末を心配したその人の心が、切々と私の心深くに入り込んできます。私は大叔父自作の「大韓地理歌」をわが信徒たちにすべて教えました。北は自頭山から南は漢ラ山まで、一つの曲調で歌い通すと、心の中がすっきりする味わいがあって、今も彼らと楽しく歌ったりします。

「大韓地理歌」

東半球に突出した大韓半島は、東洋三国の要地に位置し、
北は広漠たる満州平野であり、東は深く青い東海だ。

南は島の多い大韓の海があり、西は深く黄金の黄海だ。
三面の海の水中に積まれた海産物、魚類貝類数万種は水中の宝だ。

北端に鎮座する民族の基、白頭山は、鴨緑江と豆満江の二大河の水源となり、
東西に分流して両海に注がれ、中国とソ連との境界がはっきりと見える。

半島中央の江原道に輝く金剛山、世界的な高原の名は大韓の誇り、
南方の広大な海に聳え立つ済州の漢ラ山、往来する漁船の標識ではないか。

大同、漢江、錦江、全州の四大平野は、三千万民同胞の衣食の宝庫であり、
雲山、順安、扮川、載寧の四大鉱山は、私たち大韓の光彩ある地中の宝だ。

京城、平壌、大邸、開城の四大都市は、私たち大韓の光彩ある中央の都市だ。
釜山、元山、木浦、仁川の四大港口は、内外の貿易船の集中地だ。

大京城を中心として延びた鉄道線、京義と京釜の二大幹線を連結し、
京元と湖南の両支線が南北に伸び、三千里江山を周遊するのに十分だ。

歴代朝廷の繁栄を物語る古跡は、檀君、箕子二千年の建都地平壌。
高麗始祖太祖王建の松都開城、李朝朝鮮五百年の始王地京城。

一千年の文明を輝かせた新羅、朴赫居世始祖の村、名勝地慶州。
山水の風景、絶景の忠清扶余は、百済初代温 王の創造古跡地。

未来を開拓する統一の群れよ、文明の波は四海を打つ。
寒村、山邑の平民は古い頭を拭い去り、未来の世界に猛進しよう。

やると言えばやる「一日泣き」の強情っばり 36

*父はお金を貸して踏み倒されることはあっても、返してもらうことには無頓着な人でした。しかし、自分がお金の入り用があって借金したときは、返済の約束は、牛を売り、家の柱を抜いてでも必ず守る人でした。父はいつも、「小手先の企みで真理を曲げることはできない。真というものは、そんな企みに屈するものではない。小手先の企みで何をしようと、数年も経たずにぼろが出るものだ」と言っていました。父は風采が良かったばかりか、米俵を背負って階段をのっしのっしと上がっていくほど逞しい体の持ち主でした。私が九十歳(数え)になっても世界を股に掛けて活動できるのは、父から譲り受けた体力のおかげです。
*讃美歌「あの高い所に向かって」を好んで歌った母も、並の女性ではありませんでした。真っすぐで、豪胆で、荒っぽいのが母の性格でした。額や頭のつるりとしたところに加えて、性格もそのまま受け継いだ私は、我が強く、この母にしてこの息子ありと言えそうです。
*幼い頃、私のあだ名は一日泣き」でした。一度泣き始めると、一日中泣いてようやく泣き止むところから付いたあだ名です。泣くときは、一大事でも起こったかのようにわんわん泣いて、寝ている者が皆起き出してくるほどだったといいます。じっと座って泣いたのではありません。部屋の中で、ひっくり返って、跳ね回りながら騒ぎを起こして、体のあちこちに傷ができ、皮膚が切れて、部屋のそこらじゅうが血だらけになるほど泣いたそうです。幼い時からとても気性の激しいところがありました。
*一度決心すると絶対に譲歩しませんでした。どんなことがあっても譲歩しませんでした。もちろん物心がつく前のことです。過ちを犯したのは私だと分かっていても、母が何か指摘すると、「違う。絶対違う1」と言ってぶつかりました。「間違っていました」と一言で済むのに、死んでもその言葉を口にしませんでした。しかし母も負けてはいません。「さあ、親が答えなさいというのに答えないのか!」と言って叩くのです。ある時などは、何回叩かれたか分からないほど叩かれて気絶してしまいました。それでも私は降伏しませんでした。すると今度は、目の前でおいおい泣き始めるではありませんか。その姿を見ても、まだ間違っていたとは言いませんでした。
*我が強いだけに勝負欲も強くて、どんなことでも、死んでも負けるものかという気持ちでいました。大げさではなくて、「五山の家の小さな目。あいつは一度やると言ったら必ずやる奴だ」と村の大人の誰もが認めるほどでした。何歳の時だったか、私に鼻血を出させて逃げていった子供の家に一月も通い詰めたあげく、その子と会って、親からは謝罪を受け、餅まで一抱えもらってきたのを見て、大人たちも舌を巻きました。
*だからといって、気力だけで勝とうとしたのではありません。同じ年頃の子供たちよりもはるかに体も大きく、力も強かったので、村には腕相撲で私にかなう者がいませんでした。ところが、三歳年上の子に相撲で負けたことがあり、その時はひどく腹が立って我慢がなりませんでした。そこで、毎日山に登り、アカシアの木の皮が剥がれるほど木にぶつかって稽古し、力を付けて、六カ月後にはその子に勝ってしまいました。
わが家は子供が多い家系です。私の上に兄が一人、姉が三人、下に弟と妹が八人いました。幼い頃は兄弟が多くいて、本当に良かったと思います。兄弟姉妹、いとこ、またいとこ、全員呼び集めたら何でもできました。それでも歳月が過ぎてみると、広い世界に私一人が残った気分です。
*一九九一年末、北朝鮮に八日間ほど行く機会がありました。四十六年ぶりに故郷に行ってみると、大勢いた兄弟と母はすでに亡くなり、姉一人と妹一人だけが生きていました。子供の頃、母のように私の世話をしてくれた姉は七十を過ぎたお婆さんになっていたし、あれほどかわいかった妹もすでに六十を過ぎて、顔は雛だらけでした。
*あの頃は、この妹をなんだかんだとよくからかったものです。「孝善、おまえの新郎になる奴は目が一つしかないそ!」と言って逃げると、「何ですって!そんなこと、お兄さんがどうして分かるの?」と言いながら追いかけてきて、小さな拳で私の背中をパンパン叩きました。十七歳になった年に、孝善が叔母の紹介で見合いをしました。その日、朝早くから起きて、髪をきれいに整え、美しく化粧した孝善は、家の内外を掃除して新郎となるかもしれない人を待っていました。「孝善、おまえそんなに嫁に行きたいのか?」とからかうと、化粧した顔が赤く染まって、その姿が何とも言えずかわいらしかったです。
*北朝鮮を訪問して十数年が過ぎた今は、あの時私と会って、胸が痛くなるほど泣いた姉も亡くなり、妹一人が残っているだけというのですから、切なくて、心がすっかり萎れてしまうようです。
*手先が器用だった私は、靴下や服の類は自分で編んで着ていました。寒くなれば帽子もすいすい編んで被りました。編み物の腕前は女たちよりも上で、姉にも教えてあげたし、孝善の襟巻きも私が編んでやりました。針仕事も好きでした。熊の足裏のように大きく分厚い手で、下着も自分で作って着たのです。「荒織りの木綿」を置いて、それをさっと半分に折って、型を取って寸法に合わせて裁断した後、裁縫をすると、自分の体にぴったりのものができました。母の足袋もそうやって作って差し上げたところ、母は「おやおや、二番目の子が遊びでしていると思ったら、母さんの足にぴたっと合ってるね」と言って、喜んでくれました。
*孝善の下には妹が四人もいました。母は十三人の子供を産んで、五人の子供に先立たれています。母が憔悸したのは言うまでもありません。生活に余裕がない上、子供がそんなにも多くて、母は言葉で言い尽くせないほどの苦労をしました。
*その当時、娘を嫁に出すとか嫁をもらうときには、木綿を織らなければなりませんでした。綿花から取り出した綿を糸車に入れて糸を紡ぎますが、糸車に入れる際のほぐした綿の固まりを平安道の言葉で「トケンイ」と言います。子供たちが一人、二人と結婚するたびに、「荒織りの木綿」のように柔らかく美しい木綿が、母の厚ぼったい手を通して作られました。人1 倍手際が良くて、普通の人が一日に三、四枚織る布を、母は十枚も二十枚も織り出しました。姉を嫁に出すというので、速いときは一日に一疋(二反)織ることもありました。決意すれば何でもさっとやってしまう母の性急な性格によく似て、私も何でもさっとやってしまう性分です。
*今もそうですが、私は幼い頃からどんな食べ物でもよく食べました。トウモロコシもよく食べ、生のキュウリもよく食べ、生のジャガイモや空豆もよく食べました。二十里(約八キロメートル) 離れている母の実家の畑に蔓が伸びているのがあって、何かと尋ねてみたら「チクァ」という返事でした。その村ではサツマイモを「チクァ」と言ったのです。掘って食べてみると、後味が素晴らしく良くて、籠に入れて持ってきて一人で全部食べました。翌年からは、サツマイモの季節になると、しばしば母の実家に走って行きました。「お母さん、しばらくの問どこそこに行ってきますよ」と言って、二十里の道を一息で走って行き、サツマイモを食べたのです。
*故郷では、五月はジャガイモの蓄えが底を尽きかける一番大変な時期です。冬の間はずっとジャガイモばかり食べて、春になって六月頃に麦を収穫するとジャガイモ暮らしは終わりを告げます。麦は最近のように食べやすくした平麦ではなく、丸麦でしたが、それなりに美味しく食べました。丸麦を二日ほど水でふやかしてご飯を炊くと、スプーンでぎゅうぎゅう押さえたとき、飯粒が弾けて散らばります。それにコチュジャン(唐辛子みそ)をさっと混ぜて一口食べると、麦が口の端からしきりに飛び出してきます。そこで、口をむっと閉じて、もぐもぐと食べた覚えがあります。
*アマガエルもたくさん捕って食べました。昔の田舎では、子供たちが麻疹にかかるか病気になるかして顔がやつれていれば、アマガエルを食べさせました。太ももがぱんぱんに張った大きなアマガエルを三、四匹捕まえて、カボチャの葉に包んで焼くと、蒸し器で蒸したようにふかふかしてとても美味しいのです。味からすればスズメの肉、キジの肉にも劣りません。広い野原を飛び回っていたクイナはもちろん、まだらでかわいい山鳥の卵もたくさん焼いて食べました。このように、自然界には神様が下さった食べ物があふれていることを、山や野原を歩き回って知っていきました。

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