2014年5月18日日曜日

霊界の実相と地上生活(李相軒先生の生活・思想・信仰 )

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李相軒(イサンホン)先生は一九一四年九月五日、儒教の家庭に生まれ、一九五六年に統一教会に人教された後、三十六家庭の祝福を受け、真の御父母様の思想である「統一思想」と「勝共理論」を体系化されました。
先生は鮮文大学の碩座教授として在職しながら、第九回統一思想シンポジウムの開催中、享年八十二歳で昇華されました。
この本は、昇華された後、李相軒先生が見た霊界の実相について、地上の金英順(キムヨンスン)女史を通して伝達されたメッセージです。真の御父母様はアメリカの訓読の集いでこの本の初版を何回にもわたって訓読なさり、世界のすべての食口たちをして、霊界の実相をはっきり知り、み旨に対する責任を果たすように勧められました。以下は李相軒先生について知りたい読者のために、先生の生活と思想、そして信仰を簡単に紹介するものです。
 李相軒先生は咸鏡南道定平郡新上面禾洞里で儒学者である李秀永(イスヨン)氏の次男として生まれました。先生は韓国東洋哲学系の元老であり、高麗大学のアジア問題研究所を創設した李相殷(イサンウン)博士の実弟でもあります。父の李秀永氏は三・一万歳事件で収監された愛国の志士で、幼い時から先生に民族主義的な教育をなしました。
先生は高等普通学校の時、民族愛に燃えて、共産主義者の指導する民族主義運動に加担し、それによって日本の警察によるひどい拷問と牢獄の苦しみを経験されました。
普成(ボソン)高等普通学校を卒業し、セプランス医科大学に入学した先生は、次第に共産主義の唯物論に疑いを抱くようになり、真なる民族愛と人類愛とは何であるかについて心を傾けるようになりました。そのような思想的遍歴を経て、宗教に関心を向けるようになり、ついに統一教会に人教されるようになりました。その時、先生の年は四十二歳でした。先生は人教した時の心境について「原理は本当に素晴らしかったです。
原理をすべて聞き、三日ほどたった時、すでに私の大部分の難問題は解決されました。ちょっとやそっとのうれしさではありませんでした。とてもうれしくて、踊りだしたくなるほどでした」と証しされています。
 セブランス医科大学を卒業した後、人教する時まで、先生はセプランス医大病院、元山救世病院、永同救世軍病院、忠北道立永同医院、大韓警察病院等を経て、永同中央病院、李成内科病院を開業するなど、医師としての一すじの道を歩まれました。しかし文鮮明先生に出会い、その教えを受けた後、先生は、それまでとは全く違う人生の行路を開拓するようになりました。
 先生は文鮮明先生のみ言の中で、次元の高いすぐれた思想を発見するたびに感嘆し、思想的な内容について文先生に個人的に質問しながら、多くの教えを受けられました。そして先生は、文先生が一九五八年ごろ「将来、統一思想の時代が来る」と語られたみ言や、一九六二年の文先生のご聖誕日の前夜に「今から我々は共産主義理論に打ち勝つことのできる実力を養わなければならない」と語られたことを心の中に刻んで、文先生の思想を体系化しなければならないと決心されました。先生はその時の心境を次のように述懐されました。
 私の目に映る文鮮明先生の姿は、この世の人間の姿ではありませんでした。この方は驚くべき知恵の宝庫であり、限りない憐れみの愛をもっておられる聖人であり、受肉された神であり、人類を救うためにこられたメシヤだったのです。
その教えの一言一言は、実に玉のように貴重でした。この貴い玉をそのままにしておけば、ばらばらになってしまいそうでした。玉はつないでこそ宝であるという言葉にあるように、私は先生の思想を体系化しょうと決心しました。
 そのようにして生まれたのが「統一思想」と「勝共理論」です。先生は国内外の教授および各界の指導者に対して四十三回の統一思想セミナー、七回にわたる勝共理論セミナー、そして五百回余りの学術講演会を主宰されました。また「科学の統一のための国際会議」(ICUS)の統一思想分科会の名誉議長として、既存の学問を統一思想の基盤の上に定着させるために尽くされました。
 生前に、先生は統一思想の中に霊界論が執筆されなければならないと考えながら、それができなかつたことを残念に思っておられました。この本は、そのような先生の希望と真の御父母様に対する忠誠心が結実したものだといわざるをえません。 
(編集者注)

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