2014年5月18日日曜日

霊界の実相と地上生活・第二章 霊界で見た暮らしと地上生活 2

五 霊界で見た中間霊界

(1) 中間霊界

 霊界で見た中間霊界は、地上で考えていたのとは違った所でした。地上で功労が多く、国家、世界に対して功績があった人たちの中で、神様に仕えなかったとか、宗教に対して関心がなかった人たちなど、地上で功績はあるが、信仰と関係ない人たちがたくさん集まる所です。

 ここでの暮らしは、天国のようでも、地獄のようでもなく、地上生活と似ていました。食事時間に例えれば、蔚房で働く人、御飯を炊く人、器を洗う人、食べ物を用意する人がいて、みんな共に苦労して、苦労した程度の代価をもらっている所です。

 また、人々の表情を見れば、天国では明るく、地獄では不安な顔ですが、ここではいつも休まずに熱心に働いて忙しい様子です。すべての人が熱心に暮らしながら福を受け、豊かに暮らしていますが、神様と宗教に対して関心さえない所です。

 ここで「統一思想」を講義しましたが、ある人が質問するに、『統一思想』とは、文字どおり思想を統一するということですが、人ごとに持っている思想が統一されれば、個体的な特性といったものがなくなって、まったく同じ人だけが暮らす世の中になりませんか」という、間抜けな質問をしました。ここでは、多くの時間をかけないと、伝道できないような感じがします。

 中間霊界とは、天国でも地獄でもなく、いろいろな階層が多いところです。そして、「統一思想」を理解させるのは難しく、「原理」も神様も理解させにくい所でした。一言で中間霊界といいますが、それは膨大な世界であるために、説明するのは大変です。

 中間霊界では、統一食口と一般人が、特別に区別されています。統一教会の信仰をしてここに来た食口の姿は、躍動感があり、難しい表情が全く見えません。また、平和な姿をしていて、とても熱心に活動します。例えば、ワークショップとか、宴会、ゲーム、和動会等、いつも忙しく楽しくしています。

 統一教会の食口でない他の一般人の姿は、それとはとても違います。彼らが生活する姿には、元気がなく、躍動感がありません。活動する姿は大抵受動的であり、怠惰で、仲間同士が集まって、退屈な顔をして暮らしています。

 ここで中間霊界に関して、統一食口と一般人の差について述べようと思います。

 我々食口たちは、能動的であり、活気に満ちて生活しているのに反して、一般人はそうではありません。なぜ受動的であり、つまらない退屈な顔をして暮らすかというと、彼らには望みとか、希望がないからです。しかし、中間霊界にいる我々統一食口たちは、神様の根本のみ旨を知って、そこで神様の特恵を待って暮らしているために、望みと希望をもっています。

 そのように同じ中間霊界といっても、我々統一食口たちがとどまっている所は、一般人たちがとどまっている所とは違うのです。しかし、気の毒にも、統一霊界圏に行けない食口たちもたくさんいます。その理由は以下のとおりです。

 第一に、祝福されても片方が脱線して、家庭をなせなかった。

 第二に、祝福されてもみ旨と関係なく暮らした。

 第三に、祝福されても軌道を離脱した暮らしだった。

 以上のような例が多いのです。

 彼らは食口といっても、名前だけでしたが、中間霊界に来ています。この食口たちは、神様や真の御父母様、興進様の特恵があるとき、公式的に恵沢を受けることができます。

 ここには食口の代表たちが、時々行って信仰指導や原理講義をしながら、レクリエーションもします。それゆえ、望みがあるのです。そしてまた、神様も興進様も、ここに関心をもっておられる姿をよく見ました。

 したがって、中間霊界とは、一般の人も来ることができ、我々食口たちもいる所ですが、特別に統一食口たちは、まるで特殊学級が別の教室に集まって、特別な指導を受けるように、意外な待遇を受けています。これは驚くべき事実です。

 祝福の意味は、地上に暮らすときはよく分からないでしょう。目に見えないからです。しかし、天の国では、とてつもなく特別な待遇を受ける条件になります。今、祝福の門が広がり、真の御父母様が、わずかな条件であらゆる人に祝福を下さるのは、すべての人に福を与えられるためなのです。その理由は、父母であられるからです。

 真の御父母様の地上生活は、多くの子供たちに福を与えてくださる期間です。それゆえ、我々は周りの人たちの鼻をつかんで引っ張っていってでも、祝福を受けさせなければなりません。それが彼らに福を与える道なのです。

(3) 楽園

 楽園は、天国と地獄の中間地点にある所だとすべての者が考えていました。しかし、ここ霊界で見た楽園は、地上で考えていたのと違っていました。楽園や、中間霊界は、地上で考えているようにきっちりと境界線を引いて説明することはできません。例えば、オーストラリアには、オーストラリア人だけ暮らしているのではないのと同じです。そこでは、いろいろの国の人たちがグループを形成して暮らすように、よく気が合う人たちが集まって暮らしています。

 例えば、コリアタウン、チャイナタウン、ジャパニーズタウンというように、中間霊界においても天国と地獄を除いたすべての霊人たちが、自分の階層、グループを形成しながら、仲間同士で集まって暮らしています。

一九九七年六月一日~七月二十八日)

六、 霊界で見た地上生活

(1) 貢献が多い地上人は霊界でどのように記録されるか

 地上生活とは、人間が霊界に来る前に、自分の人生をどのように生きたかという、生活それ自体がこの霊界に記録されていく過程です。例えば、地上で大統領として貢献をしたとしましょう。その人は、霊界でどのように記録されるでしょうか。

 自分個人のための人生ではなく、国家のために生きたので、その功績がこの国、霊界に記録されます。同時に、細々とした物質の不正、淫乱、誤った思想など、あらゆる記録が、まるで自分の自叙伝のように記録されます。

 このような暮らしの姿が、地上で最後に整理されるとき、霊界のどこに、どのように導かれるのでしょうか?

 神様が、無条件に現れて、「あなたは国の大統領として過ごしたから、どうぞこちらにいらっしゃい。御苦労だった」と言えば、どれほどいいでしょうか。しかし、とんでもありません。国の大統領もこの国に入ってくるときは、警護員の一人もなく来ます。自分の人生の基準の前に立つようになるのです。肉身の生命が終わったのち、少なくとも四十日が過ざてから、完全な霊界人になるのです。

 その人は、四十日間、地上と霊界を往来しながら、自分の居る所を定めます。定めるに際して、神様は介入しません。先祖たちが協助するにはするが、先祖たちも一〇〇パーセント協助できません。まるで風が吹けば、風のなすままに動いていくように、自分の居る所は、自分自ら探していくのです。誰も審判しません。それぞれ審判の位置が違うのです。そして自分の居所に行さ、落ち着けば、誰がさせるのでもないのに、自然に自分の引導者が現れて導くのです。

 霊界の級数によって、審判する雰囲気が違います。国の大統額を務めたために、全く恵沢がないのではありません。国に大きな貢献をしたことは、恵沢の条件になるとしても、自分の存在価値が善の立場に立てなかったなら、全く、断固とした処罰を受けるようになるからです。それが霊界です。

 それゆえ、この国、霊界では、大統領だとか、あるいは、一番下だというような階級的な差が、霊的基準を左右するのではありません。いかに正しく人生を生きたかという道徳的な基準が、その人の価値を評価する所です。

 「霊界では、学力の差による差別待遇はありませんか。地上では、学力のある人と、学力のない人の位置が違いますが、霊界ではどうですか? 学力がなくて末端で働く人たちは劣等意識を持ってはいませんか?」とリポーターが尋ねると、「霊界でも、自分の専攻によって、働く分野が違います。しかし、劣等意識というものは、地上とは違います。自分自身の人生の基準の価値を知らず、誤って暮らしたことが、最も恥ずかしさとして現れるのです。学力水準の差に左右される地上とは全く違います」と答えられました。

(2) 宗教人と非宗教人の差

 信仰をした人と、しなかった人の差は非常に大きいです。そこにも相当な階層があります。信仰をしていて、かつ善なる人は、本当に神様の霊界の恵沢を受けることができますが、信仰をしながら良心的でない人は、信仰をしなかった人と、ほとんど同じです。神様を知らない立場で、人生を生きた人はみな、神様と関係ない所にとどまるようになります。神様が特恵を施すときにも、非宗教人は、恵沢が与えられるのが遅いのです。

 天国にも特恵があるかと思うでしょう。神様が人間に聖霊によっての特恵を与えられ、人間を愛されるように、天国にも特恵があります。階層別に、自分の位置で自由の身となって、願う所へ移っていくときがあります。これは地上人の祈祷とも関係があります。そのときは、神様の命令によって移動するのです。

(3) 統一食口たちの位置は、他の宗教人たちとどのように違うか

 一言でいって、あまりにも大きな違いがあります。すなわち、霊界圏が違うのです。食口たちの各自の人生により、少しずつ違いはありますが、全体としての霊界圏の位置が違うのです。大きな違いというのは、神様に対しての位置のことです。

 神様の対話を感じることも、開くこともできない他の宗教人たちの領域があります。しかし、統一食口たちは、最初から大部分が神様と呼吸することができる位置にいます。ここでもいくつかの階層があります。グループによる差があるのです。申し訳ないことですが、李相軒が見た霊界を明らかにすることで、我々食口が地上の人生を整理することができるだけでなく、ここに正しく来るのに助けになるようなので、申し上げます。それが真の御父母様のための道だと考えるからです。

 三十六家庭の位置は大変なものです。家庭の階級においては最高です。しかしながら、最高の位置において赤裸々に自分の誤りをすべて露わにして生きていく苦しみとは、本当に表現しがたいものです。

 地上にいるとき、女性問題、公金問遺、その他の問題に引っ掛かった家庭は、地獄にいるのではなく、神様のそばにいながら、あらわになった姿で生きていかなくてはなりません。それは言葉で言えない苦しみです。

 例えば、他の女性と性関係を持っている場面が随時、皆の目に見えるのです。また、公金を自分勝手に使いながら、酒場に行って、女と堕落しながらお金をばらまく姿がはっきりと見えるのです。一言で、地獄よりもっと恐ろしい所です。

 その他の家庭が犯した罪も、罪の質によって階層がたくさんあります。しかし、大部分は、神様の近くにある霊界圏にいます。罪を犯した者たちが、集まっている監獄もあります。ここで罪人が集まって、自分の罪を蕩減する方法があれば、どれほどいいでしょうか? しかし、ここでは、自ら解決しうる罪の蕩減方法はないのです。

(4) 神様の特恵

 霊界人は、地上にいる後孫の祈祷、献金、奉仕などの功績を通じて、監獄の門が開かれれば、そこから出てくるようになります。その後、引導者が現れて、自分の位置に合うように導くのです。

 高位の家庭が、神様のそばで自分の罪をすべて蕩減して平安に生きていくときはいつでしょうか?自分が犯した罪を、後孫が蕩減してからのことです。後孫が祈祷して精誠を捧げれば、それを見る霊界人は、苦しくて逃げようとします。ところが、逃げていってもまた帰って来なければならない所が、自分の位置です。

 地上人の祈祷と精誠があれば、蕩減期間が短くなりますが、大部分はそれを知らないために、苦しみを受ける期間が長いのです。

 霊界で苦しみの期間が長ければ、地上の後孫は、知らず知らずのうちに、体の調子が悪くなります。先祖が苦しんでいるので、後孫も具合が悪くなるのです。つまり、先祖が犯した罪のために、後孫が罰を受けるのです。天道に逆らえば、行く道がありません。義の道に従って行くべきです。

(一九九七年六月九日)

七、 霊界人と地上人の生活

(1) 霊界人の暮らし

 霊界人は、地上の生活によって、霊界での自分の暮らしの位置が決定します。一か所に落ち着いていれば、特別な特恵がない限り、千年過ぎてもその位置で暮らすようになります。霊界の位置が平安な位置にいる人たちの後孫たちも平安に暮らしています。しかし、地上で自分の人生が過った人は、霊界に来ても地獄のような不便な所で暮らすようになり、後孫はいつも苦労し、さまざまな問題が生じるのです。

地獄の暮らしのように、霊界で苦痛を受けている人を見れば、その周囲は暗く、監獄のように自由がないのです。食べるものも、着るものもありません。そのような位置にいる者の後孫たちは、彼らの地上生活も開けていきません。そのため占いを見に行ったり、祈祷師を探したりします。そうして、先祖の問題が発見されると、祈って精誠を捧げます。そうすれば霊界にいる先祖が特恵を受けます。霊人は、その位置から移動したり、そこでの待遇が変わったりします。それは誰がそのようにするのでしょうか? それがきょう話そうとする主題です。

 地上では金を使ったり、権力の力も借りたりしますが、霊界にはそれがありません。風が吹き、花が咲さ、鳥が鳴くのは、誰かが命令したものではないように、自分が変わるのも、誰かの命令によるものではありません。自然に、自分が分かってそうするようになっています。霊界の罪人も、後孫たちが精誠を捧げれば、自然に自分が変わっていくことが分かります。

 地上でムーダン(巫女)が踊りを踊りながら先祖を呼び出すのは、その先祖にとって慰めになるだけで、位置を変えることにはなりません。しかし、次元の高い正しい祈祷によって特恵を受ければ、神様の命令によって天国の使者が訪ねてきて、より高い位置へ連れていきます。

(2) 地上人の暮らし

 それゆえ、地上の暮らしがとても重要です。霊界で特別な恵沢を受けて位置が上がっていくということは、時間がかかりすぎます。また無知なので、よく分からないのが常です。ですから、いつも永遠の世界に焦点を合わせて生活し、地上での人生を整理しながら暮らす人が、腎明な人です。

 どうせ来るようになるこの国、誰も避けることができないこの国は、必然的なものなのです。ですから、瞬間を誤って暮らす愚かな信仰者にならないよう願います。

 膨大なこの国の暮らしについては、すべてを表現することはできませんが、一言で要約すれば、自分の人生の実であり、結実です。自分の農作業の収穫です。もっと易しく言えば、罪を犯せば地獄に、善良に生きれば天国に行きます。永遠の世界のために正しく生きなければなりません。

(一九九七年六月十六日)

八、 地上人と霊界人との違う点

 ①  地上人

 まず、地上人について調べてみましょう。地上人は、肉身の目で見て、触って、行動します。地上人は、いつまでという限定された空間の中で、制約を受けて暮らしていきます。例えば、人間は、十年、二十年、六十年等々の期間にわたって暮らします。また、地上人は、自分が願ったとしても、すべてがなされるのではありません。

 地上人は、自分が考えている心を相手に正確に表すことがでさません。

 地上人は、食べたいけれど、自分が動かなければ、食べることがでさません。

 そして、地上人は、空間の中で行動するが、自分の理想の世界を描くとき、考えだけで終わります。

 また、地上人は、肉体的な苦痛を受けるとき、それを解決する方法について、よく分からないのです。例えば、信仰者は、祈祷などの方法で解決しようとする人もいますが、非信仰者は、病院に行って解決しようとします。

 ②  霊界人

 しかし、霊界人は違います。霊界人は、肉体的な制約がないために、自分の活動範囲が無限です。例えば、見るとか、触るとか、行動するということは、考えると同時に起こるために、時間がかからないのです。

 霊界人は、手を挙げて品物を移すとき、考えると同時になされるので、時間が短縮され、誰かの力を借りなくてもなされます。

 霊界人は、自分の思いが、考えようとしたとたんに相手に伝達されるので、特別な言語の表現は必要ありません。

 霊界人は、自分の論理展開が大変正確で明確だと感じられるとき、その伝達事項の正否によって、それが相手の顔にすぐに現れます。したがって、相手の気分の表現を自らが悟るようになるので、自分の事情も早く表現することができます。

 霊界人は、最初から人間は神様の被造物であるということをみな知っているために、神様の心を傷つけることはありません(これが天国人と地獄人の差です)。

 霊界人は、自分の分野で熱心に働けば、その場で最高の権威者になるとか、ある賞金が下りるとかいうことに対する欲望がないために、いつも平穏な顔をしています(この点は、天国と地獄との間に差があります)。

 すなわち、霊界人は、衣食住の問題の解決のために悩まされることがないために、顔の表情がいつも穏和で謙虚です。

 結論的に、地上人と霊界人の違う点を要約すれば、地上人は限定された空間の中で、限定された時間の制約を受けて暮らしていきます。すなわち、衣食住の問題を解決するために、忙しく活動するので、生さるのが大変で、苦しいが、霊界人は、制約する物がないために、無限に自由です。衣食住の問題のために、神経を使うことがないので、無限に明るく謙虚です。これは自分の肉身生活の結果が、天国人として結実した際に当てはまることです。

(1) 霊界で見た相対性原理

 『原理講論』や「統一思想」で論じられている相対性原理とは、相対が互いに授け受けすることにより授受作用し、合性一体化するとき、それを通じて喜びを受けることが、すなわち神様の創造原理の根本です。それについて霊界で見たものと、地上で見たものの違う点を話そうと思います。

 地上では、主体と対象が授受作用を通じて合性一体化すれば、一つになるので喜びます。ところが霊界では、授受作用を通じて合性一体化するとき、一つになって喜びを感じることが、地上とは少し違います。例えば、相手に与えて、相手が受け入れるのに、時間的に与えて受けるのではなく、考えとともにすぐに合性一体化するから、外見から見るときは、授受作用するように見えないのです。このような相対性原理による合性一体化は、完成した個体が集まった天国で起きることです。

(2) 霊界で見た授受作用

 授受作用の根本理論とは、互いがよく授けよく受けて、相対と愛で一つになることを願うことです。それが天国をなす根本です。

 天国における授受作用とは、文字どおり完全に一つになり、互いを眺めてみるだけでも授受作用になります。しかし地獄やそれ以外の所では、それぞれの階層によって、授受作用の差が大きいのです。

 それゆえ天国は、創造原理の根本理論である相対性原理から見れば、神様の創造目的の根本をなしている所です。それに対して地獄は、神様の根本理論を全く理解できないところなのです。したがって地獄に行って相対性原理一つだけでも伝道するのは、とても重要な課題です。地獄解放の問題は授受作用をよくなしていけば、なされるのです。この点は、地上と同じ点が多いと思います。 

(3) 地上生活と霊界生活との密接な関係

 地上での自分の人生の姿が霊界においてどのように整理されるのでしょうか?

 地上で善と悪の生活の基準によって、霊界において自分が行くべさ永遠の位置が定められます。地上生活の人生において、どのように誰を中心として生きたかによって、永遠の世界における神側、サタン側、無神論者の位置が決定されます。

 地上では個人の功労、国家観、世界観によって基準の差がありますが、永遠の世界では、国家観、世界観より、もっと重要なことが、個人の人格形成です。地上のように、自分がより高い位置で働いたために、高い位置に行くという考えは間違っています。

 それゆえ、地上生活での最も充実した甲斐のある人生とは、神様を中心として暮らすことです。個人の欲を捨て、ために生きる人生を目標にして暮らせば、永遠の世界に来て、頭を上げることができるようになります。

(4) 質問と答え

 ①娘の質問

 質問:生前に一度もよく仕えられなかった親不孝に対し、どのようにすればいいですか?

 答え:自分の位置で誠実に暮らしてくれることを願う。

 質問:子供たちに、一言お願いします。

 答え:つまらない説明をしたくない。父母が歩んできた道が正しいと思えば従って来なさい。

 ②リポーターの息子の質問

 質問:ミスコリアの顔と、不細工な顔が霊界に行けば、どのようになりますか?

 答え:地上でのきれいな額は、もちろんここでもきれいです。しかし、不細工な顔も、神様の光の中で、心の表現が顔に現れるので、無限に美しいのです。地獄に行った美人の顔と、天国に行った不細工な顔では、比較になりません。顔は地上でのように、丸い人は丸く、長い人は長いというように変わりはないが、地上の暮らしによって、霊界に来れば顔つきが変わるので、心を磨いて天国に来ようとする者が知恵深い人です。

 質問:大胆であったり小心な人が、霊界に行けばどのようになりますか?

 答え:大胆、小心は、神様の前に別に重要ではありません。大胆、小心に関係なく地上で天国に来るために努力しなさい。

 ③リポーターの質問

 質問:原稿に記録して呼んでくださいますか、考えながら呼んでくださいますか?

 答え:みな説明するということは、複雑で大変です。私が考えたらすぐに記録になって現れます。考えが正に記録されると見ればいいです。

(一九九七年六月二十三日)

 

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