2014年5月19日月曜日

第三章 原理から見た霊界の暮らし 3

十三、 宇宙主管と人間の価値

(1) 人間は全被造世界の主人公

 天地万物を創造された神様は、全被造世界の主人公として人間を造られました。しかし、人間の堕落によって、被遣物と人間の価値が逆転した立場になってしまいました。それゆえ、人間は神様の前に子供としての存在価値を失ってしまったのです。子女である人間のために造っておいた被造世界は、自ら成長し、繁殖しているが、天地万物の主人公が現れなかったので、神様の心はどんなに痛いことでしょう。この零落した位置を正して、神様の前に本軌道に進むということが、人間がなすべきことであります。

 ところで、真の御父母様を通じて祝福(重生)の価値基準の上に立つことによって、人間は万物の前に、主人として登場することができるようになりました。本来エデンの園で、神は人間に園のすべてのものを思いどおりにしなさいと祝福されました。それは人間に全被造世界に対する主管主の資格を賦与されたためです。祝福(重生)を通じて、このすべてを回復するようになり、園の主人公であり、宇宙の主管主の価値基準まで得るようになったのです。

 このようになった人間の価値基準はいかなるものでしょうか。それは、神様の子女としての資格を獲得するものであり、全被造世界の主人の資格を獲得するものです。神様は人間のために万物を造られましたが、その万物を眺めながら、人間が喜んでこそ、神様も喜ばれるのです。

(2) 人間と万物の応答の姿

 人間の喜びの対象は万物なので、人間と万物との授受作用がなされなければなりません。そうであるなら、宇宙の主人公である人間が、万物と受け答えする姿を、例を挙げてみます。

夫婦が一つになり、愛するとき、その周囲にある草木や花々や鳥たちは、すべてが受け答えます。

草木は、それぞれの美しい色で、ひときわ光を発します。うかれて、ひらひらと揺れます。鳥たちは、それぞれの美しい声をもって歌います。

かすめる風は、まるで絹織物のような柔らかい感じで受け答えします。

 このような場面が、燦爛たる姿で美しく目に映ります。その中で夫婦が愛し合うとき、神様は一筋の燦爛たる光彩で答えられます。美しく柔らかい服を着た宮殿の王妃様が愛するとき、どこからか聞こえてくるコムンゴ(琴に似た楽器)の旋律に従って愛する場面を映画で見ることができますが、それに比較することはできません。

 人間は、万物の主管主として、神様から受けたその多くの宝を、堕落によって感じることも、見ることもできなくなってしまいました。だが、完成した人間の価値基準に至るようになれば、そのすべての関係まで、再び回復するようになります。それゆえ、人間は宇宙の根本となる主人としての価値を再び悟って、神様の前に感謝と栄光を返すべきです。

(一九九七年八月八日)

十四、 宇宙主管と神様の愛

(1) 人間は神様の子女

 神様は、人間を子女として創造されましたが、その子女が神様の懐の中に帰って来ず、遠く彷徨するとき、子女に対するやるせない心情を捨てることがでさませんでした。そうして、(万物を通して)間接的に主管されるときがありました。それは、万物を眺められ、慰めを受けて耐えてこられたということです。神様は子女である人間が万物の前に主人公として現れるときに喜ばれるのです。

(2) 神様の喜びと愛

 美しい善男善女が、神様の前に現れて、神様に喜びと栄光をお返しするとき、周囲のすべての万物が和合するその姿を眺められる神様は、これらの万物はすべておまえたちのものだといって祝福なさろうとしました。

 一筋の燦爛たる光が、万物と受け答えします。そのように美しい世界の主人公が、まさに人間であることを再び確かめられます。そして、思いきり楽しめと祝福してくださいます。そのように、祝福された善男善女が、周囲を歩いていけば、すべての草木は、ひらひらと踊りを踊ります。

 人間は、ピーピー、チュンチュンさえずるいろいろな鳥たちの受け答える声、風の中から聞こえてくるメロディー、形容できない香りなど、華麗で恍惚の中で神様の愛を感じるのです。それゆえ、神様の真心のこもった愛の表現が、我々に与えられた被造世界であるので、被造世界の主人公として神様に対する愛を喜んでお返しすべきです。

(一九九七年八月八日)

十五、 完成した人間は神的価値

(1) 完成した人間は神様の相続者

 人間がまともに成長して、神様の子女として完全に認められるようになるとき、人間は神様の前に完全な子女になり、すべてを相続するようになります。すなわち神様の子女として、そして被造世界の主管主として認められた人間は、神様の前に無限の喜びの対象として立つようになります。そのような人間は、神様と共にいつも苦楽を共にすることで、神様の考えを察することができる心情的基準をもつようになり、神的価値基準をもつようになります。

(2) 神様と共に生きていく者

 それゆえ、完成した人間は、すなわち神的価値基準の立場にまで行くのであり、これが人間にたいする神様の最後の希望です。神様は、「すべてあなたのものであり、あなたがなしたのである」と祝福したいのであり、完全な人間の立場を願われるのです。それゆえ、その立場は、神様の光体の中でいつも神様と共に生きていく立場になります。

(一九九七年八月八日)

十六、 相対性原理から見たカインとアベル

(1) カインとアベルの関係

 相対性原理の根本は、既に何度か論じました。今、相対性原理から見たカインとアベルの関係が、霊界でどのように体系化されているかを明らかにしようと思います。カインがアベルを愛し、アベルに尊敬されることによって、二人が相対基準を合わせるようになるとき、神様は、カインにもアベルと全く同じ愛の恩賜を下さろうとしました。

 ところがカインはアベルを愛することより、むしろアベルの前に長子としての資格を誇り、驕慢になったのです。これがアベルの心を痛め、カインを憎む動機になり、神様の摂理の中で、また一つの悲運の歴史の一章を残す結果を招くようになりました。神様は、汚点を残したこの歴史の一こまを再蕩減するために、もう一度条件を立てるようにすることで、全人類に罪がないという立場で、救世主を迎える段階にまで率いてこられたのです。

 それゆえ相対性原理によって、主体にも対象にも、互いに与えようとする心が発露することにより、愛で一つになるようになったのであり、カインとアベルの関係において、本来堕落がなければ、殺したいほど憎いというような感情は生じなかったでしょう。互いに仕えながら尊敬し、「ため」に生きようとする力が強く作用したことでしょう。

(2) 天上でのカイン・アベルの関係

 天上にもカインとアベルの関係がはっきりとあります。目上の人と目下の人、階級が高い人と階級が低い人、神様の近くで愛をたくさん受ける人と少なく受ける人など、あらゆる階層のカインとアベルの関係が多くあります。

 例えば、目上の人と目下の人の間で、目上の人が目下の人を無視しながら、大声で命令するよりは、「今何をしているのですか?」と温情の心をもって尋ねるのです。

 それに対しても目下の人が「何か助けましょうか?」と言いながら、ほほえみの中で互いに心が行き交うのです。

 また、目下の人が目上の人に要求することがあるとき、「私は今このようなことが気がかりですが、答えていただけますか?」と尋ねると、目上の人は、大変な権威意識をもって、年上の体面を考えて答えるのではなく、まるで兄弟間の対話のように細やかに答えるのです。

 つけ加えると、神様は人間の主体・対象にだけ相対性原理を適用したのではありません。すべての存在の階層においても互いに「ため」に生き、互いに与えようとする愛の心を下さったのです。ところが、この関係が壊れることで、カイン・アベルの関係が生じるようになりました。地上が複雑になったので、霊界はさらに複雑になったのです。

 天国の理想は、まず地上でなされなければならず、そのような基盤の上で、天上が整理されるのです。

 対象の「ため」に生きようとする相対性原理の根本を再び整理して考え、実現する地上の暮らしになることを願うものです。

(一九九七年八月九日)

十七、 天国

(1) 天国

 天国とは簡単に言えば、個人主義、自己中心主義でない人たちが集まった所です。相手のために生きようとする心、無限に与えようとする心が充満した、共生、共栄、共義主義の世界だということができます。

(2) 地獄

地獄とは、自分の事情と、自分のことだけに執着する人たちが集まった所です。このような性向を持った人間たちが行く世界が地獄なのです。

(3) 永遠の世界

 一般的に、地上人の大部分は、人生の理想を、ただ肉身の快楽を追求することに置いています。それゆえ、神様が分からない人たちの地上生活は、地獄行さの練習場になりやすいのです。永遠の世界は、誰もが避けることができない道なので、永遠の世界に比べて短い地上生活を、一日一日点検しながら、人生を終えるべきです。

 永遠の世界の規範には、地上生活のような事情は通じません。事情というものが全くないところです。李相軒が地上人を助けたいというのは、このような事実を伝達することです。それが最高の贈り物だと思います。永遠のために瞬間を愚かに生きる者になるなと、頼んでまた頼みたいだけです。これが真の御父母様の前に孝行する道であります。霊界の整理が複雑になるためです。

(4) 天国は永遠に幸福なところ

 天国は、神様を中心として、仲間同士が互いに愛で一つになった所です。ここには、背の高い者も低い者も、顔の良い者も醜い者も、大統領を務めた者も守衛を務めた者も、金持ちも貧乏人も、多く学んだ者も学べなかった者も、互いの人格を尊重し、いつも謙虚で、いつも穏和で、いつもほほえみながら暮らしていく所です。何の困難も、うらやましさもない、永遠に幸福な所です。

(一九九七年八月九日)

李相軒院長が最後にくださったみ言
霊界の法は地上のように値引きは全くありません。この法度に引っかからない基準は、天上の生活ではなく、地上の生活です。いつも霊界の生活を準備する心で、私が行くべき霊界はどこだろうかという心で生きなければなりません。もし、この法度から逸脱すれば、自分の霊魂が行くべき所は、天道に従って、そのまま落とし穴に引っかかるしかありません。ですから、地上の生活を正しく生きなければなりません。

第四章 霊界で会った人たち
第五章 霊界で会った人たち(Ⅱ)

李相軒院長が最後にくださったみ言

  霊界の法は地上のように値引きは全くありません。この法度に引っかからない基準は、天上の生活ではなく、地上の生活です。いつも霊界の生活を準備する心で、私が行くべき霊界はどこだろうかという心で生きなければなりません。もし、この法度から逸脱すれば、自分の霊魂が行くべき所は、天道に従って、そのまま落とし穴に引っかかるしかありません。ですから、地上の生活を正しく生きなければなりません。

 

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