2014年5月18日日曜日

霊界の実相と地上生活・第二章 霊界で見た暮らしと地上生活 1


一、 李相軒院長の昇華式場において

 私が李相軒です。私が李相軒です。「誰か」と聞かないでください。気分が悪いです。私が地上にいるとき、よく来てくれることを願いました。しかし、互いに難しかったでしょう。奥様!私が地上で果たせなかったことを、奥様を通して繰り広げようと思います。資格がないと言わないでください。

 「統一思想」は、お父様が我々に下さった救いの思想ですが、人々が理性をもって判断しようとします。考えが足りません。私の人生が「統一思想」を理解させようと苦労し、考えて努力してきたものだったのに、十分に果たせずに来ました。地上で早くできなかったので、霊界でいちいち私が調べて、もっと体系的に奥様にお伝えするので、地上で知らせてください。

 奥様! 地上にいるとき、あまりにも骨を折らせたことを私は知っています。だから今、私が天上で、鄭虎雄(チョン・ホウン)牧師の家庭を中心として、心から協助します。待ってください。神様は私の地上生活四十日は、必要ないと言われますが、私なりに、地上と天上を熱心に通いながら、体系化して連絡いたします。私の妻も、言いたいことがたくさんあるようですが……。

 奥様! 当分の間、少し苦しくても許してください。私が四十日間整理して、また来ます。オーストラリアに行かれるといっても、私は行くことができます。また来ます。ありがとうございます。

 今日、昇華式で皆が私の生涯の人生に、あまりにも身に余るお言葉を下さり、本当にありがとうございます。

(一九九七年三月二十四日)
 
二、 家族たちと自宅での追悼礼拝

(1) 父から愛する子供たちへ

 おまえたちがみな集まった場で直接に話したいことはたくさんあるが、時間がないので文章で父と母の便りを伝えようと思う。

 愛する子供たちよ!

 おまえたちが見ることができない国、一言で要約すれば、

 「地上の暮らしは何でもなかったな。
 何でもなかったな。
 何でもないのに……

 神様-、神様-!」

  これが天国の知らせだ。あまりに膨大で、表現し得る方法、表現能力が、この父にはない。神様は、見えない。この国でも、神様は見えない。

 しかし、あの太陽の光より、もつと明るいこの燦爛たる光、恍惚の光は、人間の頭脳、知性、理性では、表現する方法がない。

 それ以外は、光彩の中で赤裸々な私の人生が、神様の前にそのまま現れるので……。
まるで赤ん坊がお母さんの乳首をくわえて、お母さんと共にしている安堵感、平安感、幸福感というか。この中では、鍛冶屋が鉄を溶かし出すような……。愛の溶鉱炉と言えば表現にあたるだろうか?…。

  おお! 神様。どうしてこの世界が、我々の前にあったのですか。受け止めきれない、ほのかな香り、どこからか流れ出るのか分からない、美しいメロディー……。

  子供たちよ! この父が夜を明かして記録しても、表現することができない。これからおまえたちは、どんな人生を生きるのか、一度聞いてみよう。地上でどれほど生きるか、地上での暮らしの焦点をどこに置いて暮らすか、各自に聞いてみたい。

  父として、親として、頼みたいことがある。父が残した統一思想を見て、文鮮明先生が書かれた「原理」の本を精読して決定しなさい。皆読んだ後、それよりもっと大きな経典や先生の教えがあるなら、その道に行きなさい。

 しかし、それよりもっと大きな思想がないと思うなら、渾身の力を尽くして、み旨のために働きなさい。それ以上の頼みはない。

 その日、昇華式に参席した多くの方たちが、父に対して身に余る表現をたくさんした。子供たちとして、謙遜に受けてくれることを願うところだ。

 これから、この膨大な霊界の様子、論理的に体系的に整理して、この奥様が伝えるだろう。私がここに来た以上、気がかりであった無形世界のことを教授社会に綿密に知らせる。おまえたちも、この奥様こ協助しなさい。これからあなたたちが知りたがっていた事実を、また知らせよう。どのように生きるかを研究しなさい。おまえたちが執着している世界は、何でもない瞬間の世界であることを肝に銘じなさい。

父より

(2) 母から愛する子供たちへ

 会いたい子供たち! お父さんの話を一〇〇パーセント耳に留めて聞くようにお願いします。母として子供たちに願いたい内容は、兄弟同士しょっちゅう往来し、むつまじく過ごし、いつも周囲を振り返ってほしいということです。

 真の御父母様を研究するようにお願いします。この貴い知らせを伝え聞くことができるから、おまえたちはどれほビ幸せでしょうか。母として限りなく感謝するばかりです。

母より

(3) 李相軒先生に下さった神様のみ言
 ①李相軒、神の懐に来たことを祝う。
 ②「天国人」と言われる。
 ③李相軒は霊界人なのか地上人なのか、区別もなく歩き回っている。研究しようと無我夢中だ。

(一九九七年三月二十八日)

三、 霊界の姿と生活

 奥様、私は李相軒です。私を李相軒でないのではないか疑う瞬間に、とても自尊心が傷つきます。神様が認められるなら、信じて聞いてくださるとありがたいです。

(1) 霊界の姿

 霊界は目に見える現象世界とそっくりのようですが、霊界のその膨大な規模は、地上とは比較になりません。例えば、現象世界の自動車の姿は、限定されているが、霊界の自動車は、一台がいろいろな姿に変わります。前に行ってから後ろに行き、後ろに行ってから再び回ったりもします。回ったと思うと……。

 車が瞬間的に山を貫いたりもし、車を運転する運転手の思いどおりに車が動さます。まるで子供たちが見る空想映画や、神秘の宇宙世界の姿のような動さです。

「交通事故が起きないでしょうか」とリポーターが聞くと、「無秩序なようだが、徹底して法度を守る世界であるために交通事故はない」と語られました。

(2) 霊界の生活

 地上で暮らす人たちが、朝に起きて夜に寝るように、霊界生活においても、起きたり寝たりします。しかし、朝に起きて、夜に寝るというのではなく、朝も夜も考えによって変わるようになります。

 霊界を、地獄、天国、楽園という名を誰がつけたのか分かりませんが、本当に地獄、天国、楽園の生活の差はとてつもないものです。例えば、地獄にはこの世では見物することができない光景があります。

 女が下半身も隠さないまま裸体で立っていると一人の男がその女の下半身に触ります。すると別の女が、その男の下半身を触って、自分のものだと言いながらけんかするのです(雑多な者の集まり)。それでも恥ずかしい様子がなく、悠然と悪に染まつている姿です。

 下駄を履いた日本の女が走っていて転ぶと、他の女がその下駄を自分のものにしようとして隠します。下駄をなくした女が探していると、下駄を隠した女は、「知らない」と叫びます。すると周囲の人たちは「あの女が泥棒だ」と指さしながら、皆が走り寄って、ぶんなぐるのが常です。

 指をけがした老人が、手が不自由で食べ物をつかめないでいると、周囲の若者が、器ごと奪っていって、自分の口に放り込むような生活が行われる所です。

 髪を剃られた若い女が、髪の毛がないのを恥じて手拭いで頭を隠していると、人が通り過ぎるたびに、その手拭いをはぎ取って、手を拭いたり顔を拭いたりします。

 女が手拭いを奪われてから、取り返してまたかぶると、今度ははさみで切って半分は持っていき、半分だけ頭に投げ掛けてやるのです。そうすると、その女は、耽ずかしい姿を隠すことができず、絶えず暗い所を探していくのです。

(一九九七年五月二十三日)

四、 霊界で見た天国と地獄

(1) 天国は思いと行動が一つになる所

 天国という名詞がどこから出てきたのか、私は知らないが、すべてが天国とかエデンとかいう文字を書いている。天国(エデン)とは、思いと行動が正に一つになる所です。      
 例えば「今日、何かを食べたい」と考えれば、考えると同時に、自分の前に豪華な御馳走が準備されているのです。また「きょうは誰かと一緒に、どこかに行かなければならない」と考えれば、既にそこに行っているのです。「服を着ないで、人が裸になって歩けばどうか」と思うと、本当に素っ裸になった自分になってしまい、ひとしきり笑いました。

「目の見えない人と、日の見える人が、共に天国に来たら、見えない人と見える人との差はどうか」と考えたら、おじいさんと子供が私の前に立っていました。子供は盲人で、おじいさんは目のよく見える人だったが「天国にも盲人がいますか?」と聞くと、子供が「地上にいるときは盲人だったのですが、天国には盲人という表現もないばかりでなく、見えないものがありません。すべて見ることができます」と答えました。「おじいさんは見えるはずなのに、なぜここに来られたか」と言うと、「目で見ることができるものと、心で見ることができるものがある。」と答えながら、「目は見える物体だけ見るが、心で見るものは、その人に今現れないとしても、それはもっと明かるく見える」という難しい答えをしました。

 天国には、宝石よりもっと明かるい光がいつも周囲にあります。その明かるい光のために、お互い困難を覆うことができず、互いが読みとるようになるから、目と心によってすべてが分かるようになる所です。天国は光で表現するなら、輝く金髪、光り輝く恍惚の金の光とでも言えるかもしれません。いつも心が平和である所です。言葉では表現できなくて、説明することの難しい所が、まさに天国です。

(2) 地獄は天国から想像することができない所

 地獄は、お腹が空いて、つらさ、ねたみ、嫉妬、不便なものがあまりにも多い所です。いつもつらいから、けんかしかすることがないのです。すべて不便です。

 例えば、天国は安心して歩く自由があるが、地獄は自分の思いどおりになるものが一つもない所です。思いどおりにならないから、人のものを奪って来て、盗み食いします。

 地獄とは、人間の世の中で考えるより、ずっと想像しにくい所です。

(3) 相軒よ! それが愛である

 地上でお父様が愛の話を出されると、いつも「凸と凹」に関するみ言を語られたので、愛といえば「凸と凹」を考えるようになりましたが、愛というこの言葉が、いかにとてつもないものかということを知りました。

 神様の愛というものは、膨大に広がっています。経験したことを書いてみると、次のようです。

「相軒よ」と呼ばれるその声に、すべてが溶け出すような愛の感性を感じるのです。それは、どんな凶悪犯も、許すしかない感性をもたせるものです。愛の体臭や香りが、すべてを忘れさせる平安感、暖かさ、安堵感の音声を感じます。一言で「愛」という単語自体がふさわしくないのです。もう少し良い、もっと柔らかい言葉がないかという感じをもつようになります。

 歩むとき、言葉を話すとき、服を着るとき、「愛」という言葉自体に納得できず、考えて、また考えて、「愛」より愛をもっと濃く美しく表現する文句がないかと考えると、神様がおっしやるには、「相軒よ! それが愛だよ」と言われました。

「愛」という言葉一つだけ完璧に意味が分かるなら、地上には争いも苦難もなくなるはずです。「愛」という言葉は、それを完璧に解釈する者がいません。それが「愛」です。

(4) 天国と地獄の槻念

 天国とは、愛で一つになったまま、調和しながら暮らしていくから、あらゆる心配や気がかりがありえない所です。

 地獄とは、愛を忘れたまま、それが何か、わからない世界で暮らしていくから、争いながら、心配、気がかり、不平、不満に囲まれて、ぐるぐる回っています。

 要約すれば、天国は愛の至聖所であり、地獄は愛に背を向けた所です。易しく言えば、天国は愛しかなく、地獄は愛という言葉が芽も出さない所です。それゆえ、地獄の解放は、愛の芽を出して、愛の実を結んでこそ可能なのです。(きょうは興奮なさらずに統一思想研究院でお目にかかるときのように、落ち着いて静かに語られた。)

(一九九七年六月一日)

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