2014年5月19日月曜日

第三章 原理から見た霊界の暮らし 2


七、 万有原力

(1) 二性性相

 二性性相は、神様の性稟に似たすべての被造世界の姿を言います。この二つの性稟は、神様から賦与されたものです。そして、根本の力は、万有原力であり、この力の作用が、正に授受作用なのです。では、相対性原理とはまた何でしょうか。主体と対象は万有原力による授受作用の力によって互いに授け受けしようとします。例えば、磁石の引き合う力が作用するとき、最も究極的な力を「原理」では「二性性相の中和的主体である、万有原力である」と言います。根本は一つです。神様の根本となる力だと表現すれば、易しく理解できるでしょう。

 春夏秋冬の四季の変化の根本となる力を人間がつくったのではないように、被造世界や人間が動いていくすべての力の根本となる力は、唯一なる存在から賦与された一筋の力です。『原理講論』においていろいろな角度から説明している力の根本となる力は、我々人間が説明することができません。ただ無限であられる神、すなわち唯一なる人間の創造主であられる我が父なる神の力です。無限に膨大なこの霊界、到底知性で判断できず、肉眼でみな見ることもできず、捉えることもできず、説明することもできない無限の世界の主人公が、正に神様です。いくら研究しても、研究してみても、神様は表現ができず、描くこともできません。説明することができず、感覚や感情でも表現することができない方が神様であられます。

 李相軒は分析し、論理展開するのが好きだが、神様は裂かれも分析されもしない、無限の光の主人公であられます。きらびやかな光で、奥妙に摂理される方であられます。

(2) おお! 私の神様

 私は霊界に来れば、神様を分析することができるだろうと期待しました。しかし、霊界に来てみると、あまりに膨大で、感嘆詞ばかり連発して出てくるだけであり、分析するという私の思考が、無限に愚かに思われるだけです。「おお! 私の神様、この子供を許してくださいませ。何にも、どこにも、比較することができない神様であられます。神様の価値や存在は、もっぱらお一人だけである天の父であられるばかりです。おお! 私の神様、おお! 私の神様、おお! 私の神様、許してくださいませ」としか表現する道がありません。

 それゆえ、神様について掘り下げて知ろうとする者は、最高に愚かな者です。ただ「天のお父様!」というのが、最も腎明な者なので、『原理講論』でいうすべての力の根本の主人は、もっぱら天の父と表現できるだけだと考えればいいでしょう。

(一九九七年八月四日)

八、 相対のための人間の構造

(1) 人間の構造

 人間の構造は、個体として生きていくようになっていません。相対のために生きるように、構造自体がそのようになっているのです。すなわち、相対関係にある主体と対象が、互いによく授け受けして一体になった基台の上に、神様の力が運行されるとき、神様の最も大きな喜びの対象になるのです。

 我々人間は、大抵自分のために生きるのが当然のことのように考えながら生きています。しかし、個体的な人生は、神様の本来のみ旨とは距離が遠いものです。それゆえ、独身主義者は、神様の前に親不孝であり、霊界では恥ずかしい者の中の一人です。人間が独り住まいをすれば、神様の作品の中で最高の知性を込めて造った作品が、失敗作となります。

(2) 相対のための人生

 人間が神様の最高の傑作品であるなら、神様が人間に賦与されたまた一つの生稟があるのです。相対のためになろうという心の基礎がそうです。それは次のようです。

 ①相対を必要とする外的な姿の二重構造(相対が必要)

 ②相対のための内的な性稟と心の発露 

 例えば、凸凹の人間の生殖器を見ても分かります。それゆえ、人間は、神様が本来賦与してくださった「ために生きる」天道に従って人生を生きていくようになっているのです。それから離脱したり、反旗を翻せば、神様に逆らった罪を犯すことです。

 人間は地上で永遠に暮らすようになっておらず、本郷の家に来るとき、自分の住みかがなくなるのです。すなわち、さすらいの客になるのです。

 それゆえ、神様から賦与された生命の価値を貴重に思い、神様に仕えることと、為に生さる人生を地上生活でよくしなければならないのです。

(一九九七年八月四日)

九、 愛の媒介体と人間完成

(1) 愛の中心存在

 人間の構造が二重構造からなっているように、人間は、神様の前に絶対的に出ていこうとする愛の中心存在になるべきです。言い換えれば、人間以外のすべての存在も神によって造られたが、人間だけは神様が最高の知性を込めて造った傑作品なのです。したがって、人間は万物より神様の前にもっと大きな存在価値の基準をお返しすべきなのです。

 ところで、人間の堕落によって、それがなされ得なかったので、本来の位置に返そうという本性の指向性によって、人間は必ず神様の前に真なる子女としての役割を果たさなければならないのです。

 万物は神様から造られた被造物です。したがって、自分の存在価値を美として、また自らの成長によって、神様の前に捧げること以上のものではないのです。

(2) 愛の媒介体

 ところで神様は、特別に万物にない愛の価値を人間に賦与されました。その愛とは、独自的に生じるものではなく、主体と対象が合性体をなし、一つになることで、愛の根本価値が現れるようになるのです。愛の媒介体とは、神様の前に愛の中心体になり、神様を最高の喜びの場に迎えるべき子女としての資格を表すことです。それゆえ、人間は、神様の前に愛の最高の極致をささげ、神様を喜びの場にお迎えする愛の媒介体の役割をしなければならないのです。すなわち、人間として造られた価値基準を、神様の前にお返ししなければならないのです。人間は、神様を喜びの場に迎えてさしあげるための最善の人生を生きなければならないということです。そうするために、互いに愛さなければなりません。互いに一つになり、神様に栄光をお返しする子女としての道理を果たすべきです。これが完成した人間の姿なのです。

(一九九七年八月四日)

十、 真の愛と光の発光体

(1) 真の愛

 真の愛とは、本然のエデンの園で失ってしまった愛を、再び探して、神様と共に生きていこうとする本然の愛を言います。ところで、この愛の価値基準は、神様を中心とするとき、真の愛という名詞が付くのです。

 神様を離れた真の愛というものはあり得ません。エデンの園でアダムとエバが初愛の実を神様に捧げられなかったために、神様と人間の父子の関係が、多くの歳月の中で悲しみの歴史の中に流れてくるようになったのです。初愛の実をサタンに差し出したために、神様も最初のものを再び取り入れる作業をなさらなければならなくなりました。しかし、既に多くの罪悪の種が地上にまかれたために、神様はこの罪悪の実を収穫した後、殻だけの実と穀物を分別して取り入れようとなさるのです。

 ここで、最初の実を失ったために、再び奪って取り返してくる作戦が必要です。これが蕩減条件です。真の御父母様が地上に来られることによって、この公式が解かれるようになりました。神様が復帰摂理してこられた究極の目的は、失ってしまった子供を探すことにあるからです。人間は、真の愛の根本を悟り、神様の前に真の愛をお返ししなければならないのです。それで、真の御父母様を通じて祝福の基準を経て重生して、聖別された者だけが、神様の真の子女として登場することができるのです。したがって、祝福の過程を通過しなかった者は、最初の実の資格がありません。

 神様の前に本然の真の愛で導かれ、進んでいくには、真の御父母様から祝福された夫婦が愛の祝福家庭を成し、子女を繁殖し、四位基台をなさなければなりません。真の愛とは、神様を中心として夫婦が一つになり、父母と子女が愛で一つになるときの姿を言うのです。

(2) 真の愛の姿は光の発光体

 真の愛の姿が霊界では、完全な一つの体として調和をなします。それは大変な光体です。このとき現れる光体の光は、子女の姿としても見え、夫婦の姿としても見えるようになります。ここで根本となる光の発光体が、本当の真の愛の化身体であり、神様が我々に下さった真の愛です。もし夫婦が一つになれず、子女が一つになれないときは、完全な真の愛の光を発せないのです。

 我々が一般的に考えるとき、真の愛は、無限に与えて受けるアガペー的な愛を連想します。だが、真の愛は、神様を中心として、完全一体の四位基台がなされた愛を言うのです。

 それゆえ、祝福を受けることができずに重生しなかった者は、真の愛の隊列に同参することができません。また、天国に来ることができるチケットもありません。すべてが祝福の隊列に参与するよう努力しなければなりません。

(一九九七年八月七日)

十一、 本然の愛と本然の夫婦の姿

(1) 本然の愛

エデンの園で、アダムとエバが互いに愛するとき、神様が美しく御覧になるように創造されました。だが、人間の堕落により、神様はそのすべての愛を失ってしまわれました。したがって、神様の恨を慰め、喜びを再び取り戻してあげるべき責任が人間にあるのです。本然の愛とは、既に真の愛の主題で論じましたから、ここでは本然の愛の姿を列挙しようと思います。

 ①神様を中心とした夫婦の愛

 ②神様を中心とした子女の愛

 ③神様を中心とした真の愛

神様を中心とした真の愛がすなわち本然の愛です。

(2) 神様の前に出る本然の夫婦の姿

 本然の真の愛をなした者が、天国に来るときは、どのような姿で神様に会うのでしょうか。

 地上で新郎新婦が美しいドレスを着て、結婚式場に入っていくように、この国、霊界に来るのです。神様が迎える新郎新婦は、あまりにも美しく、我々が地上でよく考えるように、天から天使が降りてくるような幻想に浸りながら、善男善女が、美しいメロディーの中できらびやかな光を受け、神様の前に進んでいき、敬礼を捧げます。そして、燦爛たる光の光彩の中で、二人の夫婦が愛するのです。二人の夫婦が愛する姿は、まるで光の世界に一つになり、目がまぶしいほどです。その光の中で神様は、一筋の光のような愛でお包みになり、喜ばれるのです。

 夫婦が一緒に霊界に来るのでなければ、どのように愛するのか分かりません。そこで先に霊界に来ていた妻が夫を迎えて神様の前に出ていきます。これは、季相軒が神様の前に出ていった姿を紹介したのです。「エデンの園でなしたかった神様の本然の愛がこれだったな」という思いがしました。

(一九九七年八月七日)

十二、 相対性原理の基本と本然の夫婦の暮らし

(1) 相対性原理の基本

 本然の愛とは、神様がエデンの園で求めようとなさった愛を言うが、ここで相対性原理と何の関係があるのだろうか。

 相対性原理の基本は、相対のために授け受けしようとすることです。ここで「本然の愛から見た相対性原理」とは、天国理想郷に向かっていく善男善女たちの姿について話そうとするのです。

(2) 相対性原理から見た本然の夫婦の暮らし

 相対性原理から見た本然の夫婦の暮らしとは何か。例えば、夫婦が食卓に座って御飯を食べるとき、妻が夫にすすめたい食べ物があれば、妻の考えと同時にその食べ物が夫の前に置かれます。主体である夫が対象である妻に感謝し、返礼しようとすれば、その考えを妻が予知して笑うのです。

 ところで、地獄で食べ物を分けて食べる姿を見ると、相手の考えを互いが察し得ないのです。まるで労働の現場や監獄などで見るように、おなかが空くと先にたくさん食べようと争うようです。

 天国では、夫婦が考えて、言って、行動すること自体が、互いに眺めてみて、視線さえ見ても分かるのです。与えようとする心を、互いに察するために、まるで磁石に羅針盤がついていくようです。ここには、自分を中心とした利己的な心がありません。

 それゆえ、いつも謙虚な姿勢であり、互いに尊敬する姿勢によって平穏な微笑みを浮かべて暮らしています。本然の愛の恍惚の光の中で、楽しく踊り、互いに授け受けようという心で暮らしていく世界です。地上で本然の愛の理想を夢見ながら、熱心に暮らしていく夫婦愛の中で、神様に合格する人生を生きていくことを願うところです。

(一九九七年八月八日)

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