2014年5月18日日曜日

霊界の実相と地上生活・第二章 霊界で見た暮らしと地上生活 3

九、 愛の根本の意味

 愛とは、文字どおり相手のために精誠と力を尽くす、心の状態を言いますが、愛には肉体的な肉的愛、無形の霊的な愛、信仰によるアガペー的な愛があります。

(1)  肉的愛

 肉的愛とは、男女が性的に結ばれる愛を言います。地上では、肉体が互いに会って愛し合い、ぶつかりながら感性を感じます。しかし、霊界で二人の男女が、どのように愛するかということは、地上ではよく理解できないでしょう。ここ天国で神様に近い高級な人同士でなされる肉的愛は、まるで一枚の絵のようです。二人が互いに愛するとき、二人の体は完全に一体となるので、地上で愛として感じるような感性とは異なり、霊肉共に完全な愛を感じるようになります。それは、無我の境地で有を創造するような、すなわち神秘の世界に接するような感性です。また、互いに愛するその場面を目で見ることもできます。

 地上での夫婦は、主に居間や寝室で愛しあいます。しかし霊界の天国では、明らかにそうではありません。居間でだけ愛するような隠された愛ではありません。広い野原で花が満開の中でも愛し、美しい大地の上でも、砕ける波の上でも愛の行為をします。鳥たちが歌う山の中、森の中でも愛します。それを見る者も、あまりに美しくて酔うようになります。

 地上でのように、見苦しいとか、恥ずかしいというような感情を感じず、美しく感じられ、平穏な心で見るのです。ところが地獄では正反対です。

 愛を隠れて行い、それを見る者たちは、悪口を言います。醜いと指差します。地獄での愛の場面は、地上生活と類似した点がたくさんあるのです。

(2) 霊的愛

 霊的愛とは、体と関係がないから、地上人には該当しないように思うかもしれませんが、地上人に絶対必要な愛です。体があってもなくても、人間には誰でも内なる人があるゆえに、内なる人をよく育てておかなければなりません。そうでなければ霊界に来て夫婦一体の完全な愛をなすのに、問題が多いのです。例えば、夫の内なる人はよく育っており、妻の内なる人は、よく育っていなかった夫婦がいるなら、その家庭には完全な愛がなされません。では、どのようになるのでしょうか。清らかで美しい愛はなされず、互いに愛したいから愛そうという肉的な発露によって愛するようになるのです。そのことを霊界でも感じます。

 それゆえ、こぢんまりとした寝室や場所を定めていきながら、限られた愛をするしかないのです。では、そのような人は、いつ完成した愛をすることができるのでしょうか?

 夫は妻のために、妻は夫のために愛そうとする心が、互いに一つになるとき、次第に完全な愛に成熟していくようになるのです。しかしそれは思うように早くできません。ですから、肉体をもった地上生活において完全な愛の実をよく育てなければならないのです。結論的に、地上生活の短い期間において、永遠の倉庫に貯蔵する完全な愛のために、祝福を受けなければなりません。

 また、夫婦は互いに耕し、磨き、育てて、完全な愛の実を結ぶべきなのです。

(3) アガペー的愛

 父母が子供を愛するのは無条件の愛であるように、神様が我々人間を創造なさるときにも、人間に無限の要素を賦与なさったのです。これはアガペー的な愛です。しかし、人間の堕落と時代的な流れにより、神様が下さった本然の愛の基準が堕落していったので、神様も人間も、地獄という所のために、胸の痛いことが多いのです。それゆえ、神様が下さった根本の愛の価値を知ることによって、地獄が崩れ、地獄解放の通が開かれるようになるのです。

 肉的愛、霊的愛は、夫婦の間においてなさなければならないのです。ところが、このような愛の関係が崩れることによって、人間は根本から揺らぐようになりました。神様が我々人間に与えようとなさった無限の要素が愛です。これは、与えてもまた与えたくなり、与えればいっそう大きくなるものですが、その根本が崩れたことで、今日人間救済の道が難しくなったのです。夫婦観を正しく立てて、互いに譲り合い、愛で一つになることで、人類の解放の道が開かれるようになり、永遠の国に地獄がなくなるようになるのです。

 したがって、人を信頼し、互いに愛しあえば、地獄という所はあり得ず、人類に戦争はあり得ないようになるのです。この根本を誤解して地上の人生を生きたために、霊界がこのように複雑になり、うめく地獄の刑罰が生じたのです。愛を愛らしく育てましょう。夫婦の愛と、神様が下さった根本の本然の愛を、我々がよく育てて、大切に保存しなければならないのです。

(一九九七年六月三十一日)

十、 地上人を通じた霊人たちの活動

(1) 地上人に対する霊人たちの協助

 霊界にいる霊人たちは、地上人の協助なしには、自分たちの位置から発展できません。すなわち、霊人たちは、地上にいるときの自分の人生の基準によって、霊界で永遠に暮らすのです。したがって、霊人たちは、地上にいるとき犯した罪を精算できなければ、霊界で永遠にその刑罰を受けて生きていくようになっています。

 例えば、地上で人を殺した人が霊界に来れば、霊界では恐ろしく、残忍な刑罰があります。すなわち、刃物で人を殺した者は、自分が刃物に刺されており、銃で人を殺した者は、自分の心臓に銃弾が撃ち込まれています。また、石で人を打ち殺した者は、自分に石が当たって目玉が抜け落ちて、血のあざができたままでいます。足で人を踏み殺した者は、自分が足で踏まれて、そのままうつ伏せになっています。また薬で人を殺した者は、自分が血を吐いて倒れており、斧や鎌で人を殺した者は、その凶器が自分の胸にそのまま刺さっているのです。

 霊人たちの中には、地上での自分の人生の姿を隠そうと努力する者もいますが、努力しても、隠されるものでは絶対ないのです。また、霊人たちが、地上生活を清算しようとしても、それもまた、思いどおりに行かないのです。多くの霊人たちは、現在よりもっとよく生きようとしますが、それもまた、願いどおりにはなりません。

 霊人たちは、地上を恋しがり、犯した罪を免れるために、あらゆることをしても、一度入力されたものは消えないのです。霊人たちは、みな一様に、地上で罪を犯したことを隠したり、消すのを願い、人に見られるのを恥ずかしがりますが、それを消して隠そうとしている姿まで見えるから、さらに悲惨です。

(2) 霊人たちはどのように協助するか

 霊人たちは、地上人を通じなければ、現在の自分の位置から解放され、苦痛を免れることはできません。また、犯した罪を脱ぐこともできません。そのために、自分の暮らしていた所に必ず訪ねていくのです。自分の後孫や関係のあった人を訪ねていって、信号を送り続けます。しかし、地上人がそれに気づかないために、家庭に病人が出たり、災難が起きたり、交通事故が起きたり、いろいろな異変が起きるのです。その原因が分かって、後孫たちが彼のために祈ったり、献金したりすれば、その功労の恵沢を受けて、自分のいる所から少し昇進するようになるのです。

 ところで、後孫たちが全く分からなければ、続けて事故が起きて死んだり、また事件が勃発して問題になったりすることが多くなります。それゆえ、信仰的に問題がないのに、大小の事件が連続的に起きる家庭は、間違いなく先祖に複雑な問題があると見るべきであり、祈祷を通じて信仰的に解決するのが、最も早い方法です。

 そのとき、心霊基準が低い占い師が解決しようとしても、霊界にいる霊人は、一時的に慰められるだけで、苦痛は根本的には解決されません。霊魂は慰安され、しばし静かになるが、時間が流れれば同じことです。それが神様を知る者と、知らない者との大きな差です。霊人たちは、地上人の助けなしには、自分の位置でいくら身悶えしても解決点がないために、霊人の苦痛がひどいほど、地上の後孫たちの暮らしは難しくなります。霊人たちは、霊界で地上人の協助を受けるために、いろいろな方法を用いて、地上の後孫たちに訪ねてきますが、地上の後孫たちが解決する方法を知らないために、だんだん家運が傾き、行く道が難しくなるなどの困難が繰り返されるのです。

 地上人の助けで昇進する霊人たちは、現在の自分の位置からもっとましな位置に移っていくので、自分の暮らしが楽になり、地上にいる後孫たちの暮らしもまた平和になります。

(3) 地上人と霊人との関係

 ここで、地上人と霊人との関係を調べてみましょう。

 地上人と霊人の関係は、まるで針と糸の関係のようです。すなわち、地上人と霊人の関係は、心と体の関係と同じです。また、地上人と霊人の関係は、夫婦の間のように、引き離そうとしても、引き離すことができない一体の関係を持っています。ゆえに、地上人は、肉体をもって生きるとき、すなわち、地上生活をする間、正しく暮らすべきなのは、当然の道理です。

 しかし、そのように暮らせなかったことを悟るのは、大抵肉体を既に失ってしまい霊人になってからです。肉体を持って、地上にいるとき、永遠の世界の準備をし、整理しながら、その日その日を正しく暮らすべきだという結論を伝えます。

 既に肉体を失ってしまった霊人のために、地上にいる後孫は、どのようにすべきでしょうか。地上から霊人のために祈ってあげてこそ、霊界にいる先祖の位置がよくなるのです。今日、真の御父母様が我々に氏族的メシヤになれと命令されたのは、大変な特赦です。自分の名によって、自分の先祖たちのために祈って、救い出すことができるということは、大変な恩赦であり、特赦です。それゆえ、先祖たちのために祈り、平安な位置に安着させてあげることで、自分の地上生活が平安になるのです。だから自分の先祖たちの救いは、自分がするのが当然です。真の御父母様が霊界に行かれてなされる苦労を少なくしてさしあげる道であることを心に留め、肉体をもった者として、地上生活をしっかりと締めくくらなければなりません。自分の先祖たちの救いのために、氏族的メシヤの使命をすべきなのは当然です。霊人たちの特赦の道になるのです。

 「霊界人と地上人との関係において、霊界の良い位置にいる、何の困難もない霊人も、地上人の助けや、恵沢や、祈祷が必要ですか?」とリポーターが聞くと、「人間は、霊と肉という二重構造でできているので、肉体を失った者は霊界で、肉体を持った者は地上で生きていくのが原則です。ところで、地上人に信号を送るのは、その理由があるのです。血統という因縁のために、良いことに信号を送ったり、悪いことに送ったりする。地上人は、これを原理的によく分別すべきであり、霊人たちは、地上人たちを混乱させてはいけません。血統の問題は、神様が干渉しない場合が多いので、我々人間は、神様の聖霊によって生まれ変わってこそ、正しい暮らしになるのです」とお答えになりました。

(4) 地上人と霊人との一致点

 地上人は体をもっていますが、思いどおりにできない場合が多いのです。霊人たちは体を失ったが、自分のいる所では自由なのです(自由な所は霊体の位置によって異なります)。地上人は、体をもっていますが、すべてが限定された生活です。しかし、霊人たちは、体はないが、無限の世界で活動します。また、地上人は、体をもっているが、そこが永遠の居所にはなれません。霊人たちは、体はないが、永遠の居所に落ち着いています。このように、地上人と霊人間の対比点をあげれば無限に多いのです。

 ここで地上人と霊人間の一致点を調べてみましょう。

 地上生活や霊人たちの生活は、すべてが片側だけを持っているために、片側だけしかなすことができません。では肉体と霊人の結実は、どのようにすれば完全な実を結ぶことができるでしょうか。地上生活において肉体と霊魂が分離する前に、地上での暮らしをよく締めくくってこそ、完全な実を結ぶようになるのです。

 ところで、霊魂がよく熟さないまま霊界に来るようになれば、問題が生じます。したがって、それを解決するために、先祖と後孫との関係は複雑になるのです。それゆえ、我々の地上の暮らしが、どれほど貴重なものかということを、もう一度肝に銘じなければなりません。

神様が備えてくださった美しい邸宅で、永遠に暮らすためには、肉身を中心とした片側だけの人生を目標として暮らしてはいけません。霊肉間に完全な実を結んで、結実の季節を喜んで迎える地上人の暮らしになるよう願います。

(一九九七年七月七日)

十一、 神様の愛の形態

(1) 真の父母の思想

 私、李相軒は、地上から霊界に来ましたが、真の御父母様の思想を接ぎ木させること以外には関心がありません。なぜなら、真の御父母様の思想以外には、もっと次元の高い思想がないということを悟ったからです。

(2) 愛がある人と愛がない人

 愛とは、人間が生まれるとき、神様から受けた一つの貴い要素です。しかし、これが人間をして、世の中に生まれながらにして二人の主人に仕える要素として作用しているのは残念な事実です。これが、我々人間において、不幸の始まりです。

 愛とは、肉体を通じた夫婦の愛だけをもって言うのではありません。人間には、本来の性稟の中で、生まれるときから持って出てきた高貴な贈り物(エキス)があります。それが愛です。

 ところで、人間は堕落によって、愛の本体を失ってしまいました。その結果、与えてくださった愛の上に、新しくペイントをして新しく造った人造の愛に変わってしまいました。愛とは、神様の性稟の中で最も重要な部分に位置しています。このような神様の愛を、我々人間は、分析することもできず、掘り下げてみることもできません。今、そのような神様の根本的な愛を、この国、霊界に来て、見たとおりに記録しようと思います。

(3) 神様の愛

 神様の愛は、描くことも、触ることも、表現することもできません。そして神様の愛は、我々の目で確認することもできません。神様の愛は、我々人間としては、理解しにくいからです。また神様の愛は、我々人間の頭脳で分析できないのです。

 神様の愛は、我々に無限に与えても、減らず、依然として全く同じです。神様の愛は、まるで蛇口をひねっておけば、水があふれ出てくるように、休まず続けてわき出しているのです。神様の愛は、我々人間が受けて、また受けても、嫌がる者はなく、受けて、また受けても腹いっぱいになった者はなく、もっと空腹な者のようになり、謙遜なります。神様の愛は、かさや重さで測定することができませんが、我々人間にたいして無限の快適な姿で変化しています。

 神様の愛は、全世界(全人類)が受けて、そのすべてを神様にお返しするとしても、神様の愛のかさがもっと大きいのです。では、神様が人間を愛されるその愛の尺度が、どのように表現されるでしょうか。神様は、目に見えも、触れることすらできません。そして、限定的な物体でも、ある個体の塊でも明らかにありません。ところで、人間は、神様の愛をどのように表現し、何で悟るのでしょうか?「李相軒を愛される神様」を分析しょうと思います。

 そのとき「李相軒」と呼ばれた。明らかに、私の耳に声が聞こえました。まばゆく明かるい光が、私の前後に、私の頭の上に放たれて照り返されます。その光の中で、不明の光の筋が私の心をとらえるが、それは表現することができません。私の能力では到底、表現しうるすべがありません。似たように表現するなら、まるで母の胸にうずくまった赤ん坊が、母の心臓の鼓動の音を聞きながら、母の目と視線が合うときにもつ、平穏感とでも言ったらよいでしょうか。これは、到底比喩ができないことですが、そのように言うしかありません。

 また、呼ばれる音声の変化によって、その美しい光彩も変わるが、ただ全身が溶け出すような恍惚感です。突然、瞬間的に、自分一人で立っています。明らかに神様が見えないからです。このように恍惚な光が、どのように瞬間、瞬間、人間に訪ねてこられるか不思議なばかりです。光として現れる神様の愛は、刻一刻異なっていました。大きな火、小さな火、丸々とした火、まるで地上で見た花火の光景のように輝く、燦爛とした光がいろいろな光彩になって、人間に愛の光として現れますが、その光を発する姿によって、感じられてくる感性も異なっていました。私が体験したこと以外に、他の者たちに現れる神様の姿を見ましたが、依然として神様は愛の本体であられました。

(4) 神様の姿は火であり光である

 光が愛の姿であると、何で判断するのでしょうか。神様の姿は、火であり光であるために、神様の光を見れば、人間の心の中に、愛の要素がそのまま作用します。まるで、電気のスイッチを押せば明かりがつくように、神様の光を見れば、愛が作動し、人間の心の中は、愛の塊りで和するようになるのです。

(5) 祝福の関門を広げた理由

 神様が、本来人間に願われる根本的なみ旨は、愛で創造された当時の姿そのものになるということです。しかし、人間の先祖の堕落で、その後孫たちは、初めから本性の愛をもって生まれることができませんでした。二重構造をもった人間、すなわち、二種類の指向性の心をもって生まれた人間なので、出発から誤った人間の構造が、神様の胸を痛めたのです。

 それゆえ、復帰摂理で言う人間の根本復帰と、神様の圏内から離れた二種類の指向性の心をもった人間の問題を解決するためには、再び生まれる重生の過程を経なければなりません。そうして、原罪のない人間の姿で生まれてこそ、本来神様が願われた愛の本体である本性の姿に似ることができ、この国、霊界に来て、神様の完全な愛を体験することができるのです。

 それで、重生の過程を経るには、正に真の御父母様から生まれ変わらなければいけないのです。これが祝福です。最近、祝福の関門を大きく広げて、大きな恵沢を下さる理由が、まさにここにあります。彼らは理解できないとしても、生まれ変わるという手続きを通じて、恵沢を受ければ、この国では祝福を受けた民になるのです。真の御父母様が生きているうちに、多くの民たちに限りない特赦の道を下さるのですが、それを受ける者は天国人となり、重生の過程を経た者となるのです。そのように、理由なく、地上の後孫と先祖が共に福を受ける期間であることを知るべきです。

(6) 愛は神様の最も大きな贈り物

 愛は、人間が世の中に生まれるとき、神様から受けた、神様の最も核心的な重要部分です。人間は、それをそのまま相続すべきものでした。しかし、それが誤ったことで、神様との関係が切れたので、これを回復するための方法は、人間が神様に似なければなりません。神様に似るための最も最善の方法は、神様の子女として、愛の本然の姿に帰らなければならないのです。

 愛、愛、愛、それはすべてに勝ち、すべてを溶かし、すべてをなすことができる根本の力です。愛だけが、人間が神様に受けた最も大きな贈り物であり、子供であるという証です。愛! 失った本然の愛を探すため、苦労して努力しなければならないのです。

 

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