2011年3月6日日曜日

第二章 モーセとイエスを中心とする復帰摂理 第二節(二)⑵③

赤色(核心的内容)
③ 幕屋を中心とする復帰摂理

我々は先に、石板と幕屋と契約の箱とを受けるようになったそのいきさつを、知らなければならない。イスラエル民族は、アマレクと戦って勝利したのち、三カ月目の初めに、シナイの荒野に到着した(出エ一九・1)。

モーセは、シナイ山で断食する間に、神から契約の箱と幕屋についての指示を受けた(出エ二五~三一)。そして四十日間の断食が終わったとき、モーセは十戒を記録した二つの石板を神から受けたのである(出エ三一・18)。

モーセが石板を持ってシナイ山から下り、イスラエルの民の前に出てきたとき、彼らはアロンをして金の子牛をつくらせ、それが、イスラエル民族をエジプトから導きだした神であると言って拝んでいたのであった(出エ三二・4)。これを見たモーセは大いに怒って、手に持っていた二つの石板を山の下に投げつけ、壊してしまったのである(出エ三二・19)。

このみ言を聞いたモーセが、再び四十日四十夜を断食したとき、神は彼の石板に再び十戒を記録してくださった(出エ三四・28)。モーセがこの石板をもって、再びイスラエル民族の前に現れたとき、初めて彼らはモーセを信じ、彼に仕えるようになって、契約の箱をつくり、幕屋を建設したのである(出エ三五~四〇)。

(イ) 石板、幕屋、契約の箱などの意義とその目的

石板は何を意味するものであろうか。

み言を記録した二つの石板は、復帰したアダムとエバとの象徴体であって、将来、み言の実体として来られるイエスと聖霊とを象徴したのであった。
幕屋にはどういう意義があるのであろうか。
神殿はイエスの形象的な表示体であるといわなければならない。

幕屋はイエスの象徴的な表示体なのである。
契約の箱とはいったい何であろうか。
契約の箱は、大きくは天宙の、そして、小さくは幕屋の縮小体であると見なすことができる。
神が石板と幕屋と契約の箱とを下し給うた目的は、いったいどこにあるのだろうか。

イスラエル民族はみな不信に流れてしまった。そしてついには、モーセまでが不信の行動をとるかもしれないという立場に陥ってしまったのである。ここにおいて神は、たとえ人間は変わっても変わることのできないある信仰の対象を立てなければならなかったのである。

(ロ) 幕屋のための基台

メシヤを迎えるためには「メシヤのための基台」がつくられなければならないのと同様に、象徴的なメシヤである幕屋を迎えるためにも、「幕屋のための基台」がつくられなければならない。したがって、この基台を立てるためには、幕屋のための「信仰基台」と、幕屋のための「実体基台」とを立てなければならない、ということはいうまでもない。

モーセが、幕屋のための神のみ言を信奉し、断食の祈りをもって「四十日サタン分立期間」をみ意にかなうように立てれば、幕屋のための「信仰基台」がつくられるようになっていたのである。また、イスラエル民族が、幕屋のための「信仰基台」の上で、幕屋理想を立てていくモーセに、信仰をもって従順に屈伏すれば、幕屋のための「堕落性を脱ぐための蕩減条件」が立てられ、したがって、幕屋のための「実体基台」もつくられるようになっていたのであった。ここにおいて、幕屋というのは、その中に入っている石板と契約の箱とを含めていうのである。

(a) 第一次 幕屋のための基台

モーセは、このときから四十日四十夜の間断食したのである(出エ二四・18)。それは、既に前のところで詳しく論じたように、イスラエル民族が紅海を渡ったのち、再び不信に陥るのを見られた神が、モーセをして「四十日サタン分立期間」を立てるようにせられ、それによって、象徴的なメシヤである幕屋のための「信仰基台」を立たしめるためであった。

幕屋を建てるために、「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立てて、幕屋のための「実体基台」をつくるときにおいても、イスラエル民族は、モーセが「四十日サタン分立期間」を経て幕屋を建てるときまで、彼を信じ、彼に仕え、彼に従わなければならなかったのであった。ところが彼らは、モーセが断食の祈りをあげていた期間に、みな不信に陥ってしまい、アロンに金の子牛をつくらせ、それがイスラエルの民をエジプトから導きだした神であると言って拝んでいたのである(出エ三二・4)。その結果、イスラエル民族は、幕屋のために立てなければならなかった「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立てられず、したがって幕屋のための「実体基台」もつくることができなかったのである。

イスラエル民族のこのような不信仰は、モーセが「四十日サタン分立期間」を立てたのち、その民をしてモーセに従わせ、「幕屋のための基台」をつくろうとされた神の摂理を挫折させてしまったのである。したがって、「幕屋のための基台」をつくろうとされた摂理は、打ち続くイスラエルの不信仰により、二次から更に三次にまで延長されてきたのであった。

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