2011年3月20日日曜日

第三章 摂理歴史の各時代とその年数の形成 第三節 p454~


第三節 復帰摂理時代を形成する各時代とその年数
(一)エジプト苦役時代四〇〇年
(二)士師時代四〇〇年
(三)統一王国時代一二〇年
(四)南北王朝分立時代四〇〇年
(五)ユダヤ民族捕虜および帰還時代二一〇年
(六)メシヤ降臨準備時代四〇〇年

赤色(核心的内容)より
第三節 復帰摂理時代を形成する各時代とその年数

復帰摂理時代は、象徴的同時性の時代である復帰基台摂理時代を、形象的な同時性で蕩減復帰する時代である。

(一)エジプト苦役時代四〇〇年第三節 復帰摂理時代を形成する各時代とその年数
アブラハムの献祭失敗により、その基台は、更にサタンの侵入を受けたのである。ここに及んで、神は、サタンに奪われたその四〇〇年の基台を再び立てるため、イスラエル民族をして、サタンを再分立するエジプト苦役期間四〇〇年間を歩ましめ給うたのである(創一五・13)。この時代を、エジプト苦役時代と称する

(二)士師時代四〇〇年

イスラエル民族が、エジプトからカナンの地に帰ってきたのち、サウル王が即位するまでは、約四〇〇年の期間であったことが分かるのである。この期間を士師時代と称する。

(三)統一王国時代一二〇年

イスラエル民族が、士師時代四〇〇年で、エジプト苦役の四〇〇年を蕩減復帰した基台の上に立ったのち、サウル王がユダヤ民族の最初の王として即位し、彼の在位四十年で、モーセのパロ宮中四十年を蕩減復帰することにより、「信仰基台」を立てて、神殿を建設しなければならなかったのである。しかし、サウル王の不信によって(サムエル上一五・11~23)、モーセのときと同様に、神殿建設の目的は、ダビデ王四十年、ソロモン王四十年に延長され、統一王国時代一二〇年をつくるようになったのである。

(四)南北王朝分立時代四〇〇年

統一王国時代が、北朝イスラエルと南朝ユダに分立されたのち、ユダヤ民族がバビロンへ捕虜として捕らわれていくまでの、四〇〇年の南北王朝分立時代であったのである。

(五)ユダヤ民族捕虜および帰還時代二一〇年

北朝イスラエルが、彼らの不信により、アッシリヤへ捕虜として捕らわれたのち、南朝ユダもまた不信に陥ったので、バビロニアの王ネブカデネザルによって捕虜として捕らえられた。このときから彼らは、バビロンで七十年間捕虜になっていたが、バビロニアがペルシャによって滅ぼされたのち、ペルシャ王クロスの詔書によって解放された。

彼らは預言者マラキを中心として彼の預言によって(マラキ四・5)、メシヤを迎えるための準備期に入った。このときが、彼らがバビロンに捕らえられてから二一〇年目に当たり、解放されはじめてから約一四〇年になるときであった。この時代を総合して、ユダヤ民族の捕虜および帰還時代というのである。

(六)メシヤ降臨準備時代四〇〇年

ユダヤ民族が、バビロンで解放され、カナンの地に帰郷したのち、神殿と城壁を再建して、預言者マラキの預言により、メシヤを迎えるべき民族として立ってから、イエスが誕生なさるまでの四〇〇年期間を、メシヤ降臨準備時代というのである。

第四節 復帰摂理延長時代を形成する各時代とその年数
(一)ローマ帝国迫害時代四〇〇年
(二)教区長制キリスト教会時代四〇〇年
(三)キリスト王国時代一二〇年
(四)東西王朝分立時代四〇〇年
(五)法王捕虜および帰還時代二一〇年
(六)メシヤ再降臨準備時代四〇〇年

復帰摂理延長時代は、形象的同時性の時代である復帰摂理時代を、実体的な同時性として蕩減復帰する時代である。ゆえに、この時代においては、復帰摂理時代を形成する各時代と、その年数を、そのまま蕩減復帰するようになるのである。

(一)ローマ帝国迫害時代四〇〇年

ユダヤ民族が、イエスを生きた供え物としてささげる献祭において、失敗したために成し遂げられなかった「信仰基台」を蕩減復帰するために、キリスト教信徒たちにも、エジプト苦役時代のような時代がくるようになったのである。この時代がすなわち、ローマ帝国迫害時代の四〇〇年であったのである。ローマ帝国の過酷な迫害が終わって、コンスタンチヌス大帝がキリスト教を公認したのが西暦三一三年であり、テオドシウス一世がキリスト教を国教として定めたのが西暦三九二年であった。

(二)教区長制キリスト教会時代四〇〇年

実体的同時性の時代である復帰摂理延長時代においても、この士師時代四〇〇年を蕩減復帰する時代がなければならない。これが、すなわち、キリスト教がローマ帝国の国教として公認されたのち、西暦八〇〇年チャールズ大帝が即位するまでの、士師に該当する教区長によって導かれた、教区長制キリスト教会時代四〇〇年期間なのである。

(三)キリスト王国時代一二〇年

この時代を蕩減復帰するために、西暦八〇〇年チャールズ大帝が即位したのち、後日、彼の王統が絶えて、選挙王制となり、九一九年ヘンリー一世がドイツ王位につくまで一二〇年間にわたるキリスト王国時代がくるようになったのである。

(四)東西王朝分立時代四〇〇年

復帰摂理延長時代においても、この時代を蕩減復帰する時代がなければならない。これが、すなわち、キリスト王国時代が過ぎたのち、西暦一三〇九年に、法王庁が南仏アヴィニョンへ移されるまでの、東西王朝分立時代四〇〇年であったのである。

(五)法王捕虜および帰還時代二一〇年

この時代を蕩減復帰するために、東西王朝分立時代において、不信仰によりみ旨に反した法王クレメンス五世が、西暦一三〇九年に、ローマから南仏アヴィニョンへ法王庁を移したのち、法王が捕虜と同様な生活をするようになり、その後、再びローマへ帰ったのち、一五一七年宗教改革が起こるまで、約二一〇年間にわたる法王捕虜および帰還時代が生ずるようになった。

(六)メシヤ再降臨準備時代四〇〇年

この時代を蕩減復帰するため、復帰摂理延長時代においても、南仏アヴィニョンに幽閉された法王がローマに帰還したのち、西暦一五一七年、ルターを中心とする宗教改革が起こったときから、四〇〇年を過ぎて、初めて、再臨主を迎えることができるのである。ゆえに、この時代が、すなわち、メシヤ再降臨準備時代なのである。

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