2011年3月7日月曜日

第二章 モーセとイエスを中心とする復帰摂理 第二節(二)⑵(b)

(b) 第二次 幕屋のための基台
「四十日サタン分立基台」を再び立てて、幕屋のための「信仰基台」を復帰しなければ、石板を中心とする幕屋を復帰することは不可能であるため、モーセは、再び、四十日四十夜の間断食したのちに、十戒のみ言を記録した第二次の石板と幕屋理想を復帰するようになったのであった(出エ三四・28)。

モーセが、第二次として石板を中心とする幕屋理想を復帰していた「四十日サタン分立基台」においては、イスラエル民族は、モーセに従順に屈伏しただけでなく、モーセの指示によって、神のみ言のとおりに幕屋を建てたのであるが、そのときは、第二年の正月一日であった(出エ四〇・17)。このようにして、イスラエルの選民たちは「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立て、幕屋のための「実体基台」をつくることによって、「幕屋のための基台」を造成した基台の上に、幕屋を建設するようになったのである。しかし、既に述べたように、彼らが幕屋を建設することだけでは、第二次民族的カナン復帰路程における「実体基台」はつくり得ないのである。彼らはカナンに入って神殿を建て、メシヤを迎えるときまで忠節を変えることなく、この幕屋を自分たちの命よりもなお貴重に思い、それを信奉しなければならなかったのである。
第二年の二月二十日に、イスラエル民族は雲の柱の導きによって、幕屋を中心として、シナイの荒野を出発した(民数一〇・11、12)。ところが、彼らは再び不信仰に陥り、モーセを恨んだので、エホバは怒りを発せられ、火をもって彼らの宿営の端を焼かれたのである(民数一一・1)
イスラエル民族が立てていかなければならなかった「幕屋のための基台」は、再びサタンの侵入を受ける結果となってしまったので、この基台を復帰しようとした摂理は、またも、第三次の延長を余儀なくされたのであった。

(c) 第三次 幕屋のための基台

モーセの変わらない信仰と忠誠とによって、その幕屋は、依然としてモーセを中心とする幕屋のための「信仰基台」の上に立っていたのであり、また、イスラエル民族は、既にレピデムで幕屋の中心である石板の根、すなわち、磐石の水を飲んだ(出エ一七・6)基台の上に立っていたのであった。それゆえに、このような基台の上でイスラエル民族が再び、「四十日サタン分立基台」を立てて、幕屋を中心とするモーセに従順に屈伏したならば、彼らはいま一度、第三次の「幕屋のための基台」を蕩減復帰できるようになっていたのである。このための条件として下さったのが、四十日の偵察期間であった。

偵察から戻ってきた十二名のうち、ヨシュアとカレブとを除いては全部が不信仰な報告をしたのである。

この報告を聞いたイスラエル民族は、モーセに向かってつぶやき、泣き叫びながら、新たに一人のかしらを立てて、エジプトに帰ろうと騒ぎだした。

第三次の「幕屋のための基台」も復帰することができなくなったので、第二次の二十一カ月の荒野路程は、第三次の四十年荒野路程に延長されてしまった。

④ 第二次民族的カナン復帰路程の失敗

イスラエル民族の不信により、「幕屋のための基台」が、三次にわたってサタンの侵入を受けるようになったので、
第二次に立てようとした「実体基台」を造成することができなくなり、第二次民族的カナン復帰路程は、再び失敗に終わってしまい、第三次民族的カナン復帰路程に延長されたのである。

(3) 第三次民族的カナン復帰路程
① 信 仰 基 台

イスラエル民族の不信仰により、第二次民族的カナン復帰路程が失敗に終わったので、モーセがこの路程の「信仰基台」を復帰するために立てたミデヤン荒野の四十年期間は、再び、サタンの侵入を受ける結果となってしまった。それゆえに、イスラエル民族が偵察四十日期間を、信仰と従順をもって立てることができなかったので、日を年に換算して、荒野を経てカデシバルネアに戻るまでの四十年期間は、モーセにおいては、第二次路程の「信仰基台」に侵入したサタンを分立して、第三次路程の「信仰基台」を蕩減復帰するための期間となった。したがって、この荒野の四十年間を、ひたすら信仰と忠誠をもって、幕屋を信奉しながら流浪したあと、カデシバルネアに再び戻ってきたモーセは、第三次民族的カナン復帰路程のための「信仰基台」を立てることができたのであり、それによってこの路程の、民族的な「実体献祭」のためのアベルの立場も確立するようになったのである。

② 実 体 基 台
荒野の四十年流浪期間は、モーセにおいては、第三次路程における「信仰基台」を立てるための期間であったのであり、またイスラエル民族においては、「幕屋のための基台」を立てたのち、第二次路程で彼らがモーセに仕えて幕屋を建設した立場に戻ることによって、第三次路程の「出発のための摂理」をつくるための期間であったのである。

(イ) モーセを中心とする実体基台

イスラエル民族が石板と幕屋と契約の箱とを信奉することにより、三大恩賜と十戒を守るならば、彼らは第二次路程において、三大奇跡と十災禍をもってエジプトを出発したときのその立場に戻るようになるのであった。したがって、イスラエル民族が、信仰と従順とをもってモーセに従い、荒野四十年の蕩減期間を終えてカデシバルネアに戻ったのち、モーセと共に「幕屋のための基台」の上で石板と幕屋と契約の箱を信奉したならば、彼らは、第二次路程で三大奇跡と十災禍をもってエジプトを打つことにより、「出発のための摂理」の目的を完遂した立場に、再び立つようになっていたのであった。

第三次民族的カナン復帰路程は、磐石を中心とした「出発のための摂理」により、カデシバルネアを出発することによって始まる。そして、イスラエル民族が、信仰と忠誠をもって幕屋を信奉し、モーセに従ってカナンに入れば、そのとき第三次民族的カナン復帰路程における「堕落性を脱ぐための蕩減条件」が立てられ、モーセを中心とする「実体基台」がつくられるようになっていたのであった。

それでは、神は磐石を中心とする「出発のための摂理」をいかに完遂しようとされたのであろうか。荒野の四十年期間をみ意にかなうように立てることができず、再び不信に陥っていくイスラエルの民族を(民数二〇・4、5)救うために、神はモーセをしてイスラエルの会衆の前で、杖をもって岩(磐石)を打ち、水を出させて、それを彼らに飲ませられたのであった(民数二〇・8)。

そのときから、モーセを信じて彼に仕え、彼に従ってカナンの地に入ったならば、彼らは「堕落性を脱ぐための民族的な蕩減条件」を立てることになるから、第三次路程のモーセを中心とする「実体基台」を、そのときつくることができたはずであった。

モーセはこのように一度打つべきであった磐石を二度打ったので、磐石を中心とする「出発のための摂理」は、成就することができなくなり、結局は、約束されたカナンの福地を目の前に眺めながら、そこに入ることができなかったのである(民数二〇・24、民数二七・12~14)。

サタンは、将来、命の水を出し得る磐石となるべく成長してきたアダムを、一度打って堕落させることにより、彼を「水を出せない磐石」としてのアダムに変えてしまったので、神はこの水を出せないアダムの表示体である磐石を一度打って水を出すようにし、それによって、「水を出し得る磐石」として、このアダムを蕩減復帰することができる条件を立てようとされたのである。

コリント・一〇章4節に、磐石(岩)はすなわち、キリストであると言われたみ言のとおり、磐石はイエスを象徴すると同時に、石板の根となるので、それは、石板の実体であられるイエスの根、すなわち、神をも象徴するのである。

モーセが磐石を二度打った外的な行動は、サタンの行動になってしまったが、内的な情状においては、その磐石から水を出して、イスラエルの民に飲ませ、彼らを生かしたのであった。それゆえに、エジプトから出てきた外的なイスラエル民族は、ヨシュアとカレブを除いては、みな、神が予定されたカナンの地に復帰することができず、モーセも一二〇歳を一期として望みの地を目前に眺めながら死んでいったのである(申命三四・4、5)。しかし、ヨシュアがモーセの代わりに(民数二七・18~20)、磐石の水を飲み、幕屋を信奉する荒野路程の中で出生した内的なイスラエルを導いてカナンの地に入ったのであった(民数三二・11、12)。

モーセが、磐石を二度打ったのち、神は不信に陥っていくイスラエルに、火の蛇を送られ、彼らをかんで死ぬようにせられた(民数二一・6)。しかし、イスラエルが悔い改めるようになったとき、神は、モーセに青銅の蛇をつくらせ、それをさおの上に掛けるように計らわれ、その青銅の蛇を仰いで見る人だけは救われるようにされたのであった(民数二一・9)。

イスラエルの不信によって、モーセが磐石を二度打ったとき、神は、モーセがカナンの地に入ることはできないだろうと預言された(民数二〇・12)。これに対してモーセは、神にカナンの地に入ることができるようにと哀願の祈りを切実にあげたのであるが(申命三・25)、彼はついに、カナンの地を目の前に見おろしながら息絶えたのであった。このようにして彼が死んだのち、その死体は葬られたが、今日までその墓を知る人は一人もいない(申命三四・6)。

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